送電線にラジオをのせている 送電線アンテナ および 戦時下の同一周波数放送と有線放送(155KHz) 



送電線にラジオをのせている

浜松市天竜区佐久間町の一部  4月6日(水) 8:00
~4月21日(木)18:00
 (連続休止) 佐久間ラジオ第1 1341kHz 佐久間地区へは、電源開発株式会社の送電線を利用して、
ラジオ第1放送していますが、工事のため聞こえにくくなります。
その場合は、「静岡第1放送882kHz」または「名古屋第1放送729kHz」でお聴き下さい。



NHK佐久間ラジオ中継局  送電線アンテナ「送電線放送」
ラジオ第1 1341kHz 100W
中部電力の送電線工事のため下記時間休止します
浜松市天竜区の一部 11月 27日(水)午前8:00 ~ 12月4日(水)午後5:00 連続休止 浜松市天竜区佐久間町佐久間(電源開発佐久間発電所敷地内)1957年に電源開発佐久間発電所の送電線を用いた「送電線放送」の実験局として開設した開設の目的は超高圧送電線から発生するコロナ放電による受信障害の防止にあったその後、1963年12月に郵政省が送電線放送局の免許方針を決めたため、NHKは送電線放送局への申請を行い、1964年2月1日より本放送の運用を開始したなお、実験局時代は「JO3AB」の呼出符号があったそのため、当該送電線が通る浜松市天竜区の国道152号線・佐久間川沿い及び愛知県北設楽郡東栄町市街・設楽町北部・豊田市の一部(小田木町周辺)もカバーしているまた、当送電線の延長線にある、東京都町田市の電源開発株式会社西東京変電所の近辺でも受信可能 NHK第1放送 電源開発佐久間変電所設置周波数 1341kHz100w送信アンテナ 送電線 平均地上高 20m 送電線亘長 東幹線184km 西幹線 82km


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静岡県佐久間放送局の当送電線の延長線にある、180km離れた東京都町田市の電源開発株式会社西東京変電所の近辺でも受信可能



<変電所近くで遠方のラジオ局の放送が聞こえる?・・送電線放送>

町田市にある電源開発(株)西東京変電所の近くで、関東地方にない1341kHzの放送を聞いたことはありませんか?それは、送電線放送のラジオ電波が遠方から送電線に乗って伝わってきているからなのです。その送電線放送局は、遥か180km以上はなれた佐久間発電所付近に設置された佐久間送電線放送局のNHK第1放送なのですそもそも、送電線放送とはいったい何者なのでしょうか?昭和30年代の高度成長期にあいまって電力需要が高まり、各地の送電線の送電電圧が昇圧されましたこれで送電電力量が大幅に増強されるのです。ところが厄介なことに昇圧することにより「コロナ放電」が電線周辺に発生します。放電が起こると「コロナ雑音」が発生しラジオ放送に雑音障害を与えるのですコロナは雨降りのときに著しく発生し、夜間電線を見るとわずかに光を放っているのが確認できます改善方法は、最近建設の送電線のように電線の導体を複導体(2条がけ)にしたり複々導体(4条がけ)にすればよいのですが、既設の送電線ですと電線の張替えに膨大な経費がかかってしまいますこうした理由で昇圧に伴うコロナ雑音対策として考案されたのが送電線放送で、世界的に見てもわが国独自の放送なのでどういう放送方式なのでしょうか?そのころ、電力会社の通信、特に山間部の発電所等の各施設との通信手段にマイクロ回線や電力線搬送通信が使われていました(現在は、送電線鉄塔の最上部の避雷用の架空地線に光ファイバーを併設し通信に使用するようになったため電力線搬送通信は使用していないようです)この電力線搬送通信には、ラジオ放送の周波数のやや低い450kHz帯の周波数が用いられていました。送電線放送は、高圧の送電線にラジオ電波を送るため、ラジオ送信機とこの送電線との接続が容易ではありません。しかし、幸いなことにこの電力線搬送通信に使用していてこうして全国で5ヶ所の送電線放送局が設置されましたが、現在、運用している放送局は次の3局です。
・ 佐久間送電線放送局
NHK第1放送
電源開発佐久間変電所設置
周波数 1341kHz100w送信アンテナ 送電線 平均地上高
20m 送電線亘長 東幹線184km 西幹線 82km

・ 白鳥(岐阜県)送電線放送局NHK第1放送関西電力大島保線区設置周波数 1161kHz 100w 送信アンテナ
/送電線 平均地上高  20m 送電線亘長 230km

・ 津南(新潟県)送電線放送局電源開発佐久間変電所設置
NHK第1放送周波数 1161kHz 100w
NHK第2放送 周波数 1539kHz 100w送信アンテナ
/送電線 平均地上高 24m 送電線亘長 247km


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無題
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戦時下の同一周波数放送 中波放送電波が敵機を誘導することをおそれ



1.はじめに

 太平洋戦争が始まった1941年12月8日、日本のラジオ放送に大きな変化があった。東京・大阪・名古屋で始まっていた第2放送は中止、翌日の放送開始時からは昼夜ともに860kcの全国同一の周波数で放送が開始されたのである。こうした放送形態は、その後、全国を数群に分割しそれぞれの群で同一周波数放送が行われるなどの変化はあったが、終戦まで維持された。今回は、この同一周波数放送について取り上げたい。なお周波数の単位については、当時の文書がkc(キロサイクル)を使用しているので、文中ではkcで統一することとする。

3.なぜ同一周波数放送の研究がはじまったか
 同一周波数放送の研究が行われるようになった最大の理由は、放送局の数が増え、周波数の分配に支障をきたすようになったからである。
 戦前の放送周波数帯は550~1500kcとなっていたが、実際には陸海軍逓信3省の協定「電波統制協定」(1934(昭和9)年)(「550~1100kcの周波数帯内では、10kcの整数倍の周波数を放送無線電話に割り当てるものとする」)によって、事実上1100kc以上は放送には使われなかった。また、聴取者の受信設備にも高い周波数域まで良好に受信できるラジオが少なかったことから、周波数配分は事実上1000kcまでに収められていた。
 1934(昭和9)年の統計では、その年の4月~12月までの新規加入者268,475人中、鉱石ラジオは1.8%、電池式ラジオは3.7%、交流式ラジオは94.5%であった。その交流式ラジオも3球以下は46.8%、4球は42.9%、5球以上は4.8%である。新規加入者の設備がこれであるから、既加入者約160万人の設備は推して知るべしである。
 こうした事情があったため、放送局の周波数は低い周波数から割当てられていったが、1935(昭和10)年前後には1000kc前後が新局には割り当てられるようになった。1935年段階では1000kc以上の周波数は第1放送では富山(1060)のみであり、第2放送では大阪第2(1085)、名古屋第2(1175)の計3局であった。これが1937(昭和12)年の周波数変更時には1000kc以上の局は、鹿児島(1050)、長野(1040)、京都(1070)、前橋(1000)、福井(1020)、山形(1080)と増加し、一方第2放送は1000kc以下の周波数に変更されている。

 このように同一周波放送は、元々狭い周波数帯内でできるだけ多くの放送を行うために研究開発された。ところが、戦争必至の情勢となった1941(昭和16)年の後半になると、同一周波数放送は、敵機の誘導を防ぐ電波管制の一環としてとりあげられるようになった。放送局の電波は日本本土に来襲する敵機の恰好の目標となる恐れがあったためである。しかし、防空管制の上からは周波数を同じにしただけでは不十分で、複数局の中に格段に大きな電力の局があれば、それが目立ってしまい逆に敵機を誘導することになりかねない。周波数を同一にするだけでなく、送信電力も一定の大きさにバランスをとらなければならなかったのである

5.太平洋戦争までの同一周波数放送の研究
 戦中の状況を語る前に、それまでの同一周波数放送の研究を跡づけてみよう。
 先に述べた放送技術研究所の実験結果に基づき、1932(昭和7)年2月に函館~福岡放送局間で初めて同一周波数放送が実施された。その後、高知~台南放送局間でも同一周波数放送が実施された。
 1938(昭和13)年1月に静岡~浜松放送局間で近距離・同一番組・同一周波放送を実施したが、両局の中間地帯に干渉による難聴地域が広範に生じたため、半年で中止となった。このことから同方式で実施予定だった長野~松本放送局間の同一周波数放送もとりやめとなった。
 1939(昭和14)年には福井~富山放送局間で有線式の同期方法を実験した。両局の中間にある金沢局で1局を受信し、その出力を有線で他局へ送り同期させるものであった。また、1940(昭和15)年には高知放送局で、東京の電波を受信し、その電波に同期させる親局式自動同期装置の試験を行った。いずれも実用可能であったが、資材や中継線の問題で実施には至らなかった。
 静岡~浜松局間で使用された間欠式同期方式(放送の空き時間に相手局の電波を受信し自局の発振器を手動同期させる方式)は、遠距離の同一周波放送では実用になることがわかったので、高知~函館(1940年7月)や大分~旭川、防府~尾道、松山~帯広、青森~鹿児島(1941年)で実施された。
 放送周波数不足の解決策として研究が行われてきた同一周波数放送であったが、1941年の後半になると、電波管制の一環として同一周波数放送が取り上げられることになる。



6.戦時下の同一周波数放送

(1)戦時同一周波数放送の実施まで

 1941(昭和16)年7月頃、軍部は中波放送電波が敵機を誘導することをおそれ、非常事態の場合は放送電力を減少し,同一周波放送を行うこと、放送局真上の”サイレントポイント”を除去すること、空襲が予想される場合は放送を中止することを日本放送協会に要求してきた。
 これを受け逓信省・情報局と放送協会は、1941(昭和16)年8月から10月にかけて、全国の放送局を数群に分けた群別同一周波数放送の実験を行い、効果を検証することになった。この実験結果を元に10月31日に、陸軍・軍令部・情報局・逓信省・日本放送協会の合同会議が開かれ、①同一周波数放送の実行期日は関係機関の合議の上決定する、②昼間は全国同一周波数放送とし、各中央放送局の電力は10kW、周波数は860kcを使用する、③夜間は全国の放送局を4群に分け群別同一周波数放送とし、電力は全て500W以下とする、が決定された。この時の群別は次の通りである。第1群(860kc)名古屋・仙台など13局、第2群(1000kc)東京・札幌など10局、第3群(600kc)広島など10局、第4群(700kc)大阪・熊本など12局。また、今後15局の臨時放送所を設けることとした。
 この会議では、北九州重工業地帯の防衛上、小倉放送局の電波停止が陸軍から提案されたが、地元の軍司令部が放送停止は人心を動揺させると強く反対し、結局、小倉局の電力を50Wとし、長府・行橋・折尾に50W臨時放送所を新設し、小倉と同一周波数とすることとして、小倉を特定されないような措置がとられた。

(2)戦時同一周波数放送の実施
 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日午後、東京・大阪・名古屋3局で行っていた第2放送が停止された。第1放送は翌日の放送開始から昼夜共に860kcの同一周波数で放送が開始された。12月20日には860kcが1000kcに変更されている。放送周波数は水晶による独立同期方式が採用されたため、周波数偏差が数100サイクルになる局が続出した。放送電力が夜間には各局とも500W 以下と低下したことや夜間遠方の局の電波が強くなることもあり、受信状態ははなはだしく悪化したようである。
 受信状態改善のため、12月20日からは東京・大阪の夜間電力を2kWに増強、25日からは5群に分けた群別同一周波数放送が始まった。群は当時の軍管区で分けられ、第1群(北部軍管区:北海道・樺太)750kc、第2群(東北部軍管区:東北)700kc、第3群(東部軍管区:関東・甲信越)800kc、第4群(中部軍管区:東海・近畿・四国東部)900kc、第5群(西部軍管区:中国・四国西部・九州)1000kcであった。2月10日からは各中央放送局の電力が5kWに増力され、受信状態の改善が図られた。
 以上の状態がおおむね続いたが、1944(昭和19)年3月末から、戦況の悪化を理由に、再び昼夜共に全国同一周波数放送となった。しかし、再び10月には4群(第1群:北部軍管区(北海道):750kc、第2群:東部軍管区(東北・関東・甲信越・北陸):800kc、第3群:中部軍管区(東海・近畿・四国):875kc、西部軍管区(中国・九州):1000kc)に分けた群別同一周波数放送に変更している。以後、群の分け方に変更があったものの、群別同一周波数放送のまま敗戦を迎えている。

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図9 戦時中の同一周波数放送所の一覧図(昭和19年3月)

7.受信状態改善策
(1)同期の改善
 同一周波数放送での周波数の同期は受信状態の改善にきわめて有効であることから、各種方策が講じられた。各局の周波数は、放送休止時に逓信省の標準電波を受信し、これを基準として調整された。しかし、標準電波の発射時間に制限があったり、受信側の感度など問題もあった。さらに高度な同期をとるため、各局に高い安定度の副標準発振器を配備したり、地域ごとに親局を決め、この局に近隣局を同期させるなどが行われた。また、東京・大阪等の局から中継線で標準信号を送り、各局で逓倍して基準とする有線同期方式も実用化に向け試験されたが、戦況の悪化から中継線の保守がままならなくなり実用化には至らなかった。総じて周波数のずれはおよそ1c/s以内となり、状態は著しく改善された。

(2)臨時放送所
 放送電力の低減から受信状態が悪化した地域が増大したため、放送協会は1942(昭和17)年2月の彦根臨時放送所設置を皮切りに、各地に臨時放送所を増設した。設置・変更の状況は表1の通りで、敗戦までに47ヶ所が設置された。建物は公共施設や民家の一部を借用し、アンテナは木柱(30m高、50m長を標準とした)の逆L型、送信機は、初期には協会の持つ予備送信機を使用したが、後には山中電機(株)製造のものや各局が自作したものが用いられた。
表1 臨時放送所の推移

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有線放送試験放送のはじまり   155kc  電灯線または電話線で伝送


(3)有線放送
155kc
 有線放送は1942(昭和17)年12月の東京の一部で実施されたのを皮切りに、全国16都市の一部で実施された。有線放送は電話線や電灯線の有線に155kcの電波を送出し、有線放送用の受信機で受信するものである。電話線が使用されたのは、東京(11分局)、大阪(2)、神戸(1)、名古屋(1)、福岡(1)で、電灯線が使用されたのは呉、津山、室蘭、佐世保、延岡、大泊、真岡で、併用方式は小倉であった。この併用方式というのは、電話線で送られてきた信号を、加入者側で低圧配電線に接続して送出し、付近の聴取者は電灯線に受信機を接続し聴取できるようにしたもので、聴取範囲の拡大を目的としたものである。電話の普及がまだ一般的ではなかったという事情もあったものと思われる。使用された受信機は3球の専用受信機で「有線第1号」~「有線第3号」まで生産された。


電灯線または電話線でラジオ放送を伝送する最初の試みは、1925(大正14)年に、オランダで行われたという。日本では翌1926(大正15)年、群馬県前橋市で放送協会により行われた実験が最初といわれる。これは電灯線を使用したもので、鉱石ラジオで聴取できたという。この時代は、まだラジオが鉱石式か電池式で、電灯線から電源を取ってはいなかった。
したがって、これは強力な電灯線アンテナというようなものであったのだろう。電灯線アンテナについても当時、電気事業法などに触れないかという議論があった。実験はとりあえず成功したようだが、この結果は省みられることはなかった。 

次に時代が下ってエリア拡大のため小電力局の増設が必要とされ、計画が実施に移されている頃、放送局の増加に伴う当初は周波数の不足への対策や僻地でのラジオ普及のため、当時の仙台放送局丸毛技術部長、中郷事業部長は電灯線を利用する有線放送を強く提唱した。その結果、1932(昭和7)年、放送協会は電気試験所の協力の下、水戸市において電灯線を利用する有線放送の試験を実施した。周波数は長波60kcを使うものと、放送波の上限近い1490kcの2種類で試験が行われた。試験結果はおおむね良好であったが、雑音が多いことと、電灯会社との交渉が必要であることなどの難点から、実用化は打ち切られた。

電話線を使ってラジオ放送を送る方式は、1935年、無装荷ケーブルの開発で知られる逓信省工務局の松前重義博士により提唱された。実用化に向けて実験が行われたが、当時は実用化する必然性がなく、実験のみに終わった。中郷氏は、その後も有線放送の普及を強く提唱し続けたが、放送協会は積極的に動かなかった。

戦争が進展するに従って、中波の大電力局が敵機の方向探知の目標にされる問題が重要視され、有線放送の実施が急がれた。1939(昭和14)年頃から日本放送協会放送技術研究所で、電話線や電灯線を用いてラジオ放送を共同聴取する技術の研究が進められていた。この方式は、専用に割り当てられた長波の搬送波で音声を変調して電話線または電灯線に送信し、専用の同調回路を持った受信機で聴取するというものである。周波数は当初130kcで実験されたが、155kcが正式な周波数として割り当てられた。電話線を使う方式で電話機を接続するときは分波器(フィルタ)で高周波を分離していた。電話線を利用する有線放送の試験は逓信省により1940年から東京、横浜、神戸、福岡、小倉の主要都市で行われた。

電灯線を用いる方式は1940年末より静岡県沼津市周辺で基礎実験が行われ、1941年末、神奈川県の三浦半島一円に試験設備が設置された。三浦半島は横須賀の海軍基地に近く、軍事上重要だったからだろう。引き続き1942年3月には地元の要望により京都府舞鶴地区(こちらも軍港である)にも試験設備が設置された。有線放送は、放送協会が計画し、逓信省が施設の建設、保守を分担し、工事竣工後、放送協会から政府に設備負担金を納入することになった。

電話線を利用する有線放送では、電話が都市部でも数%の普及率だったために普及は望めなかった。このため、電話加入者から電灯線に有線放送の信号を分配し、周辺の電話のない家庭で電灯線利用有線放送で聴取する方式が横浜で試験開始された。この場合、電話線の分波器に電灯線への結合器を接続する。横浜での試験後、小倉で1942年9月から本格的に実施された。


有線放送聴取用機器

 有線放送の試験放送に伴い、有放第1号から4号までの4種類の受信機、および従来のラジオ受信機に付加して使用する有線放送同調器が試作された。機器の試作には逓信省工務局と日本放送協会が共同であたった。有線放送同調器は簡単な同調回路と切り替えスイッチを小さな木製の箱に収めたものである試作機器は、試験実施地域の官公署、デパートなどに無償で貸し出された。このうち、試験の結果を反映して改良された有放3号同調器3万個と、有放第3号型受信機1万台が一般聴取者用に準備された。

 有線放送同調器は、接続を変えると「短波コンバータ」になってしまうので、注意事項に、接続を誤って指定以外の電波が入るようになってしまった時の対処方法が記載されている。戦後の「NSBチューナ」は、同じようなものを短波受信用にしたものといえる(スーパー用というところが異なるが・・)。


有線放送試験用第1号受信機

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最初に試作された有線放送受信機で、有線放送専用受信機である。放送局型122号受信機を改造したもので、外観は、後部に端子盤が付く以外、まったく同じである。真空管や基本的な回路は122号に準じ、同調回路のみが異なる。本来、有線放送は単一の周波数のため、通常の受信機のような可変できる同調回路は必要ないが、試験時に正式な周波数が決定していなかったために140-170kcの周波数範囲を持つ。当初は電灯線用の受信機として数百台試作された。無線用の受信機と異なり、再生はシャーシ後部に移され半固定式となり、音量調整が設けられている。

  (掲載誌:無線と実験 1941.10)

有放第2号受信機

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2号受信機は有線、無線兼用の受信機である。有線、無線の切り替えはバリコンを左に回しきると動作する接点で行う方式である。逓信省が松下無線に試作させたもので、同社の国策型受信機のキャビネットを流用して作られている。写真はベースとなったナショナル4球受信機(57-56-12A-12F)のもので、外観は同じである。オリジナルの並四では、正面下側のツマミは電源スイッチ(左)と、再生ツマミ(右)だが、有放2号では、左が有線放送用の音量調整、右が無線受信用の再生ツマミとなっている。

シャーシは金属製で、オリジナルのシャーシの厚みを薄くしてトランスレスのため絶縁用の「ゲタ」をはかせている。バリコンを使用している点が異なるが、基本的な部品配置は量産型の3号受信機に近い。回路は12YR1-12ZP1-24ZK2-B49の局型122号受信機に準じている。金属を多く使うことからこの形での量産化はされず、試作のみに終わった。

 (掲載誌:無線と実験1942.2,1942.3) 

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放送局型122号をベースとした回路で、アンテナコイルに有線からの信号を結合している。
  122号と違う点は出力間のプレートからNFBがかけられているところである。
  音質改善のためとは思えないので、有線放送の関係で利得を調整する必要があったと思われる。
  ジャンパーの切り替えで電灯線と電話線両方の方式に対応している。
  また、利得が高いことから有線放送側にのみボリュームコントロールが付いている。

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有放第3号型受信機は、有線放送対応というだけでなく、徹底的な資材節約型の設計がなされていることが特徴である。この受信機が開発されていたのとほぼ同時期の1942年、放送技術研究所では局型122号受信機を、より資材節約型とする研究が行われていた。シャーシを硬化紙製とし、アルミを節約するためにバリコンの代わりにμ同調器を使用するというものである。ベークライトの板を使ったシャーシやμ同調方式、紙フレームのスピーカは、ドイツの小型国民受信機(1938年)で採用された。ドイツで生まれた資材節約の技術はここに来て日本のラジオに生かされたのである。

逓信省はこの研究を有線放送受信機に適用することとし、両者で協力して仕様書を作成し、3回の試作の末、完成された。シャーシはスピーカと同じ硬化紙に防湿絶縁塗装したもの、または同等品としてラフトロイド(大豆粕を原料として糊化し、ホルマリンで処理して樹脂状としたもの)の基板で構成されることになった。実際にはこれが間に合わず、メーカ手持ちのベークライトを使用したという。有線と無線の切り替えは2号受信機と同じ、バリコンを回しきると接点が切り替わる方式である。この受信機は松下無線の他に早川電機工業、山中電機で生産されたことが確認されている。
掲載誌:無線と実験 1942.3、1943.1
(所蔵No.11631)

試験放送から正式な放送開始へ

本放送の開始に先立って法制面での整備が行われた。1942年9月2日第4655号逓信公報にて逓信省令第97、98、99号が公布され、関係法規が改正された。同年9月2日付週報第308号にて一般に周知された。

改正された規則の中で、聴取有線電話用標準受信機および放送有線電話聴取用標準同調器として逓信大臣が指定したもの以外接続できないことが明確になった。指定された機器には逓信省告示第1211号で制定された標章を表示することになった。また、分波器までの工事は電話工事となるので電話官署以外のものはできないこととされた。当時の雑誌記事などには、自作のセットを接続できないことが強調されている。有線放送を聴取する場合、電話線から専用の分波器を通して電話機とラジオに分けて接続される。分波器から受信機までは聴取者側が保守することとなっていた


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逓信大臣指定標章(有放第3号受信機、左側面に表示)、
褪色しているが外側の文字の周囲は青色である。

有線放送の正式な放送は、東京市で1942年9月20日からはじまった(電話線利用の有線放送については12月9日)。これに先立って試験放送が始まった小倉では一般の聴取者の加入募集が始まり、申し込み方法が決定した。このときの暫定的な方法は、一般の受信機の加入申し込みに近い方法で、
 ・ラジオ商組合員のラジオ小売商に申込書(新規は許可願書を提出。
 ・ラジオ商は申込書にもとずき、組合より配給券の給付を受ける。
 ・メーカ代理店は配給券と引き換えに機器を売り渡す。
というものである。機器の価格は、同調器8円30銭、取り付け料1円(暫定)であった。また、従来施設許可を受けている施設については有線放送導入時に新たな許可は不要とされた。

電話線を利用する東京市の場合は、東京逓信局放送部放送係にはがきで加入許可を申し込む必要があった。有放3号受信機を購入するよりも、手持ちの受信機に同調器を接続する使い方が大半であったようである。

放送内容は、当初第3または第2放送として、従来の放送と違うプログラムを放送する計画であった。深夜勤務の軍需工場の労働者のための深夜放送の案もあったという。しかし、実際には第1放送と同じものが放送された。

有線放送機器の改良、開発はその後も続いた。試験放送を開始して、3球受信機に有放3号同調器を接続した状態では利得が不足することが判明したため、再生を付加した新型の同調器が数種類試作され、試験された。また、1942年に加入者宅での感度を測定するための有放1号レベル計が導入されたが、電池駆動のため保守、増設が困難になり、1943年末には交流電源を使う新型受信レベル計が製作された。再生、音量を固定した有線放送対応の並四球受信機を携帯型ケースに入れた「有放聴取監視器」が製作され、加入者の受信レベルの簡易測定に用いられた。受信機としては有線放送専用の簡略化された受信機が試作された。

小倉での正式放送開始は1943年2月11日にずれ込んだ。同年4月1日には大阪、神戸で放送開始。4月中に福岡、名古屋、室蘭、呉、佐世保、延岡、津山が開始を予定していた。

試合の逼迫により全国各地に有線放送を設置する計画は改められ、重要都市から設置することとし、有線放送施設が東京都内の電話局に順次設置され、1943年には20ヶ所に設置された。最終的には都内全ての電話局に設置される計画であった。空襲警報発令中にラジオ放送が止められても有線放送で重要放送を行う計画であったという。また、都内全域で有線放送が聴取可能となった時には第2放送を有線に移行する計画があった。

1943年1月には、逓信省告示第37号によって有線放送用受信機器が下記の通り指定された。

受第1号:松下無線(株) 有放3号受信機および有放3号同調器
受第2号:山中電機(株) 有放3号受信機およびLR-155型同調器
受第3報:早川電機工業(株) 有放3号同調器
これによると、早川(シャープ)は、同調器のみを生産したようである。

1943年8月頃から、電話から電灯線に再送信する新型有線放送向けの有放第1号結合器の量産が山中電機(株)で開始され、11月頃には第1期製作個数9,700個のうち1,00個が完成した。

1944年に入ってからも有線放送拡充の工事は続けられたが、機材製造のための資材の確保が困難になり、計画は遅れ続けた。この頃になっても昭和17(1942)年度予算の生産計画を実施できないでいるほどであった。資材不足は施設の保守や工事にも困難を来たし、制定したばかりの標準工事方法をすぐに改正しなければならない状態であった。防空上の必要性から拡充されてきた有線放送であったが、戦況の悪化によって当初の計画通りに進まずに終戦を迎えることになった。

有放受信機から国民型受信機へ

1941年頃から、逓信省では放送局型受信機に代わる標準型国民受信機を制定しようとしていた。電話線を使うことからその規格に深くかかわる有線放送受信機は当初から国民受信機のための試作と位置づけられていた。有放4号受信機を紹介する逓信省工務局 篠原 登氏の記事の中に注目すべき記述がある。無線と実験誌1942年7月号から引用する。

国民型受信機制定に当たっては、これが規格制定に各関係権威者により構成される委員会の如きものを作らなければならない。而して斯くの如き委員会にて制定されるべき規格の原案を決定しておく必要上、今回新型受信機の試作を行った。すなわち、有放第4号受信機として決定される国民型受信機への基礎となるべきものである。もちろん、新規制定受信機以外の一般受信機が参考に供される予定である。

このように戦時型の、資材を節約した安価な普及型受信機を「国民型受信機」として規格化しようとしていたのである。ぼかした表現になっているのは、この時点で正式に決まってはいなかったためと思われるが、かなり具体化していたのだろう。また、1943年には受信管の整理案が発表され、6.3Vとトランスレス管を標準とする案が検討されていた。終戦後、きわめて早い時点で国民型受信機規格が発表されているのは奇異な印象を受けるものであったが、これらの戦時中の検討作業が継続していたと考えれば納得できるものである。

 (参考文献:無線と実験 1942.7)

有線放送のその後

樺太の豊原、沖縄の那覇では戦時中に開局したため、有線放送の一種である電力線切替放送でスタートした。これは、放送用送信機(50W)の出力をコンデンサを介して電灯線に接続し、通常のラジオ受信機を電灯線アンテナにつないで使う方式である。豊原局はソ連軍の進駐により1945年8月23日放送停止。那覇局は1945年3月26日、米軍の攻撃により放送を中止した。その後米軍に接収され、空中に電波を出すことはなかったが、沖縄の本土復帰後、このときのコールサインが復活した。

 戦争が終結して防空上の必要がなくなり、1948(昭和23)年までに有線放送は廃止された。しかし、放送用私設無線電話規則第20から27条の放送有線電話に関する規定は1948年2月1日施行の第18号改正(1946.3)でも残された。これとは別に1939年頃から私設電話として始まり、ラジオ共同聴取や放送の機能を持った、音声信号による有線放送は、戦後スピーカー付電話機を使う、農村有線放送電話として発展した。

 1997年に長野県伊那市の農村有線放送を使ってDSLの実験が行われ、その有効性が確認されたことから現在のADSLの普及につながった。また、現在では電灯線を利用して短波によるデータ通信を行うPLCも使われ始めている。戦時下に開発され、終戦とともに終わった有線放送だが、通信機器の認定制度やデータ通信など、その後の有線を高度に利用する技術の基礎となったといえる。

日本ラジオ博物館HPより


(4)微電力放送の試験
 50Wの小電力臨時放送所は、一方では防空効果に問題があり、他方で隣局との中間地域に必ず受信不良の地帯が生じた。そこで、数キロという狭い地域をカバーする多数の微電力放送局を設置し、それらを有線で結ぶというシステムが考えられた。この方式は1938(昭和13)年にドイツで開発されたもので、電波の利用率を高めるために考案されたものである。放送協会は、1942(昭和17)年末に八王子付近で、1943(昭和18)年4月には群馬県太田・足利付近で試験放送を行い、有効であると判断された。たまたま福岡県の田川・直方付近の受信状態が悪かったため、この地域で試験放送を開始した。田川の放送配置図は図2のようで、親局は田川郵便局に置き、子局9局は遠隔自動制御であったアンテナ電力は3~5W、アンテナは15m高の木柱を使用した

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ラジオ放送初期の時報 大正末期





太平洋戦争開戦ラジオ放送





太平洋戦争へ (1940-1941)



昭和16年12月8日 午後5時の臨時ニュース「国民への呼びかけ」





昭和18年「出陣学徒壮行会」ラジオ放送




戦時下の配給制度






日本の空襲警報 ラジオ放送【第二次世界大戦】









燈火管制《前編》昭和15年 内務省製作映画





燈火管制《後編》昭和15年 内務省製作映画





焼夷弾の威力





Superforts Bomb Tokyo (1945)






B-29 AIR RAID BOMBING IN TOKYO FILM NARRATED BY
RONALD REAGAN "TARGET TOKYO" 74382




残された「空襲警報」~録音盤は語る~




敵機空襲(1943年)Air raid from enemy's airoplanes (1943)






戦後の食糧難で呼び掛け 昭和天皇 国民に協力求める





宮内庁:玉音放送の原盤を初公表 音声も公開





【TBSスパークル】1925年3月22日 ラジオ放送始まる(大正14年)





玉音放送原稿 NHK放送博物館





NHKの時報の歴史 NHK放送博物館





2020 02 03 戦前の真空管ラジオ修理 E2





新みんなの受信機制作「昭和3年のラジオを動かす!」「LEGACY・ELECTRONICS」vol 3【後編】





キンゴジ「ラジオ博物館」





地球の街角 ラジオ少年の夢、育んで  東京・秋葉原 19961229 W-VHS





A tour of the Vintage Radio and Communications Museum in Windsor CT









1989年07月31日アピア電話局の様子