あなたのすぐそばにもある硫化水素の危険
わざわざ嗅いたがために事故につながるこの実験。いっそやめたほうがよいのではと考える方もいるかもしれません。
それも方法の1つですが、化学反応や硫化水素の知識を学ぶ機会を失うほうが、もっと私たちを身の危険にさらすことになるかもしれません。
その理由は2つ。まず、硫化水素はそもそも実験室だけで発生するものではなく、身近なところにもあります。そして硫化水素の事故は、知識がないと危険だとはっきり言える、ある共通点があります。
厚生労働省の統計をみれば、労働災害に限定しても、中毒事故が毎年どこかで発生していることが一目瞭然です。
詳しくみると、私たちの身近には硫化水素が発生する原因が大きく3つ存在します。
1. 火山や温泉からの発生(地質的原因)
火山や温泉街に行くと感じる「硫黄のにおい」の正体は硫化水素です(ちなみに硫黄は無臭です)。硫化水素は火山活動で発生します。活動の盛んな火山の周辺では、硫化水素などの有毒気体の濃度を測定しており、上昇すると入山が規制されます。
しかし、事故が多いのはむしろ温泉です。たとえば2015年には秋田で水道会社の作業員が死亡、2016年には北海道で入浴中の男性が意識不明の重体になるなど、重大な事故がたびたび発生しています。
2. 自殺・殺人・テロでの悪用(人為的原因)
人間が意図的に発生させる場合もあります。理科実験や化学工場での事故も含まれますが、もっと恐ろしいのは自殺や殺人など明確な殺意がある場合です。硫化水素はインターネットで調べれば市販の材料で誰でも容易に発生できてしまいます。10年前の2008年には、硫化水素自殺が多発し社会問題になりました。
しかも殺意を込めて発生させた硫化水素は非常に濃く、広範囲に危険を及ぼします。この性質を悪用し、2017年、オーストラリア飛行機爆破未遂事件の容疑者が自宅で硫化水素を使ったテロを準備していた事例もあるくらいです。
3. 硫化水素を発生させる生物もいる(生物学的原因)
私たち人間にとって有毒な硫化水素を、なんと自ら発生させる生物も存在します。それは硫酸塩還元菌という細菌の仲間です。この細菌は、人間とって必要な酸素の代わりに、硫酸塩と呼ばれる硫黄原子を含んだ物質から生きるために必要なエネルギーを取り出し、硫化水素を吐き出します。
彼らにとっては酸素が有毒なため、外の空気と交わりにくく酸素のないジメジメした環境に好んで住みます。特にし尿や汚泥を含んだタンクや下水道は要注意です。2017年に愛知、2018年に茨城で下水道内にいた作業員が立て続けに中毒で死傷しています。
そのほか、海藻や水草が大量発生した干潟や湖の悪臭、私たちの口臭に至るまで、この細菌の仲間の仕業です。条件が整った場所なら文字通りどこでも硫化水素を発生し、私たちの生活環境に悪影響を及ぼすのです。
これらの事故は、巻き添えに遭いやすいという共通点があります。高濃度の硫化水素はすぐに臭いを感じられなくなります。そのため、発生源近くにいる人が硫化水素の存在に気づかないまま道連れになるケースが後を絶たないのです。
必死な気持ちも分かりますが、自分と周囲の人の命を守るためにこそ、硫化水素の知識を活用する必要があるのです。
偏った学校の対策
硫化水素の危険から身を守る方法は、基本的に(1)窓を開けたり換気扇を回したりして硫化水素を逃がす、(2)化学変化に使う物質の量や濃さを減らして硫化水素の発生量を減らす、の2つです。
特に(1)はすべての発生源に有効です。学校の場合は理科教員の知識・技能の不足が疑われるため、この基本に則った研修が実施されることが多いです。
しかし、安全管理としてはそれだけでは不十分です。たとえば2017年に大阪で起きた事故は、換気等の対策があったにもかかわらず発生しています。この場合、硫化水素ではなく、その場にいた生徒の状況に事故原因があった可能性があります。
生徒は実験の素人ですから、実験の中身だけでなく、当時の体調や実験室の作業環境、周りの生徒の影響を受けて事故につながるケースも見られます。それらは硫化水素の濃さと区別して検証しなければなりませんが、学校では濃度モニタリングといった作業環境管理がほとんど進んでいません。
これでは事故の要因を検証できず、安全管理の見直しもできません。頻発する事故を理科教員の指導力だけでなく、学校組織の安全管理体制を改善する必要があるでしょう。
事故から考える硫化水素との向き合い方
理科実験の事故から見える安全管理の課題は、身近にある他の発生源での事故にも当てはまります。自殺やテロならまだしも、温泉や下水道の事故は硫化水素の濃さを適切にモニタリングしていれば減らせる可能性があります。
硫化水素の事故は決して他人事ではありません。私たち1人ひとりが身近にある有毒な気体とどのように向き合っていくかを考えることができれば、被害者を減らすことができるでしょう。
主な引用・参照文献
- 山口舞子(2004)「「物質の成り立ち」(中学校第2学年)鉄と硫黄の化合」『化学と教育』 第52巻, 第11号, pp.754-755.
- 宮内卓也(2010)「鉄と硫黄の化合」『化学と教育』第58巻, 第7号, pp.314-315.
- 中央労働災害防止協会(2015)『酸素欠乏症等の防止:特別教育用テキスト』中央労働災害防止協会, pp.54-57.
- 厚生労働省労働基準局(2017)「平成28年に発生した酸素欠乏症等の労働災害発生状況について」基安労発0720第1号.
- 井上雄三編(2005)「安定型最終処分場における高濃度硫化水素発生機構の解明ならびにその環境汚染防止対策に関する研究」『国立環境研究所研究報告』第188号.