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科学をちゃんと学んだ人は科学を過信しない~トランス・サイエンス

 時に科学と自然が二項対立のように取り扱われることがあります。科学側にいる技術屋の一人としてはこのような対立構造はあまり望ましいと思っておらず、どうにか双方の調和を取れるような社会にしたいと考えています。

 過剰な科学忌避は文明や先人の努力を否定しているものであり、それこそ祖霊といった超自然的なものを否定する自己矛盾を孕む危険があります。

 過剰な自然忌避は自然や環境への尊崇の念を失ったものであり、それは『少なくとも今の時点では全てを説明できる理論体系ではない』科学に対する過信です。

 何もゲーデルの不完全性定理を誤用して「科学では全てを説明できるわけではない」と言いたいわけではありませんし、自然こそが神であり文明は滅びるべきだと述べたいわけでもありません。科学こそが自然を支配するのだと戯けたことだって言いません。

 これらはそれはそれで面白い話題ではありますが、本日は別の観点から見た科学の不完全性、科学信仰と自然信仰の中間地点であり科学と政治の中間、科学に問うことはできるが科学が答えられるとは限らない領域、すなわちトランス・サイエンスについて話していきます。

 

トランス・サイエンスとは

 トランス・サイエンスとはアメリカの核物理学者アルヴィン・ワインバーグが考えた言葉です。この言葉は科学に問うことはできるが科学が答えられるとは限らない領域を意味します。

 これは事例で考えると理解しやすいでしょう。ワインバーグが核物理学者であったことから、例えとしてよく用いられるのは原子力に関してです。

 原子力発電所の一部の設備に対して「この設備はどの程度故障する可能性があるか」と問われれば専門家はそれに答えることができます。しかしそういった様々な設備を無数に組み合わせて巨大なシステムとなった原子力発電所に対して「この発電所はどの程度故障する可能性があるか」と問われると答えは専門家によって変わってくるでしょう。ゼロリスクでないことは間違いないのですが、かといってそれがどの程度かとなると条件が複雑になり過ぎてしまい、科学的な問いであっても科学では一つの答えを出せなくなります。

 まだ故障確率ならば辛うじて科学の範疇で答えを出せるかもしれません。しかし更なる問いとして「低レベルの放射線が漏れた場合、例えばマイクロレムのレベルで漏れた場合に周囲の人間にどの程度の影響があるか」と問われれば、もはや科学では答えようがありません。測定できないほど線量が低く、また科学的に有意な統計を出すために必要な人体実験を行うわけにもいかないからです。

 これは例えば薬品でも同様です。薬の効果は人それぞれ個体差があるものであり、さらに微小な副作用となると科学的に確定的なことは言えなくなります。「この薬品に副作用はありますか?」「分かっている範囲で何らかの症状が発生することは考えにくいです」「今後副作用が出る可能性は絶対にありませんか?」「分かりません」現時点で把握しようがない特異体質などが出る可能性は捨てきれませんので、断定的な回答は不可能です。

 他にも有害物質でも同様のことが言えます。測定できる範囲で大量なものに対しては影響度を科学的に答えることができます。しかし微小な量を将来を含めたあらゆる可能性となると、地球全土に微小な有害物質を散布して500年ほど様子を見る、というような無理な話になります。それは科学的ではありますが、現実に科学では答えることができないものです。

 

完全でないことは不誠実を意味しない

 注意が必要な点として、この「分からない」や「影響は考えにくい」といった回答は科学的に極めて誠実な回答だということです。観測できていない、もしくは現実的にしようがないという意味であって、観測してもいないことをまるで事実のように憶測で答えることのほうが不誠実です。分からないことは分からないのであり、影響があることを隠すために誤魔化したり嘘を付いているのではありません。

 もちろん一部には悪い科学者もいますので嘘を付いていることもあります。ただ多くの誠実な科学者の回答を「分からないはずが無い、隠蔽しているに違いない、科学的に事実を出せ」と詰め寄る人のほうがよっぽど科学万能主義的な思考だと言えます。

 さらに言えば「分からないということは影響が有るかもしれないということで、危険だ」という考えは残念ながら思い込みです。それは影響が無いかもしれないという事実を意図的にせよ無意識にせよ除外してしまっています。現代の科学をちゃんと学んだ人であれば観測していないものを決め付けるということはしません。ラプラスの悪魔はすでに存在しないのです。

 

専門家を無視するでもなく、盲目的に従うでもなく

 ワインバーグはこのトランス・サイエンス問題に対する一つの解決方法として、専門家だけで意思決定をするのではなく社会全体で民主的に意思決定を行うべきだということを述べています。科学者は分かりやすく研究成果を報告し、人々は科学的知見を学び、分かっている範囲の科学的知見から導き出される社会的・経済的・倫理的・道徳的影響をその社会の構成員が許容できるかを双方向で協議する必要があるということです。

 リスクが有るかもしれないが便利なので許容する、又はリスクは無いかも知れないが許容しない、ということを専門家だけで決めないで民主的に決めることが望ましいとされているのが現代の科学です。昨今ではそのための方法としてリスクコミュニケーションやレギュラトリー・サイエンスといった考え方の発展、アウトリーチ活動や科学技術教育の推進といったことが進められています。

 

まとめ

 科学信仰は科学を知らないからこそ陥るものです。適切に科学を理解していれば過大な期待をすることはありません。また科学忌避の一部も同様に、科学を知らないからこそ目を逸らしてしまっています。

 所詮科学というものは道具でしかありません。使う人の技量次第で良いことに使うこともできますし、危険なことも起こり得ます。巧く使いこなすためにはその道具についての知識が不可欠というわけです。

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  • 珈琲好きの忘れん坊 (id:external-storage-area)

    レフティ中尾さん、コメントありがとうございます。

    薬は効果が目に見えにくく分かりにくいものの代表格ですね。だからこそ片方に意見が偏るのはあまりよろしくなく、双方向でのコミュニケーションが理想的です。お医者さんとの相性が合っているのは良いことだと思います。
    また薬も人によって合う合わない効く効かないがありますので、新しいかどうかよりは自身に合っているかで判定するのが良いかと。

  • レフティ中尾 (id:qqaq83ddgalilei18)

    珈琲好き様、こんにちは。コメント失礼します。

    私は長年、双極性障害と闘っています。おクスリが無ければ外出も他人とのコミュニケーションも困難になるレベルです。

    精神科に通院していますが、主治医と上手く付き合うことが大事です。主治医は医師免許を持つプロフェッショナルで、私は医学のど素人なのですが、おクスリの配分については私が主導権を握っています。もちろん、主治医が提供する新薬などの情報には耳を傾けて服用を試したりします。でも結局は私の判断でおクスリを決めることがほとんどです。それができるのは主治医が素晴らしいからです。

    医学を私なりに学んで、医学を必要以上に過信せず、民主的(と言えるのかどうか)に決定する。まさしく珈琲好き様のおっしゃる通りのことを実践しています。そんな私はひと昔前のおクスリを好んでいます。たぶん、双極性障害のおクスリは、ここ数十年でたいして進歩はしていないように思うのです。