徴用工の未払い賃金も活動資金に(ソウル・龍山駅前の徴用工像)

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 終戦当時、組織も資金もネットワークもなかった「日本共産党」は、その活動の多くを「在日本朝鮮人連盟」に負っていた。だが、両者の力関係はほどなく逆転する。党は、朝連の朝鮮人に入党して日本人とともに活動するよう要請し、事実上、指揮下に置いたのだ。

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【写真4枚】朝鮮人を“利用”した共産党

 在日本朝鮮人連盟(朝連)の創設メンバーだった張錠壽は、こう書いている。

「解放後になってから共産党員になった。そして、いつの間にやら細胞会議に出るようになった。朝連の組織部長になったころだと思う。(中略)このころは、『共産主義者の言うことは正しいと思う』とでも言えば、『それならおまえ党員になれ』と誰でも彼でも受け入れたから、本当の共産主義者でない者まで入党させてしまうという誤謬を犯した。(中略)朝連でもはじめは日本にいる朝鮮人は全部入るということになっていたから、民族反逆者であっても誰でも受け入れた。日本共産党もそういう形で、最初は手も足も何もないから、手足を作るために、何かちょっと“だいだい色”にでも染まってるような者だったら、みんな入れたわけだ」(『在日六〇年・自立と抵抗』社会評論社)

 これまで朝連が日本共産党(日共)と一体化して活動してきたことは、度々指摘してきた。戦時下で弾圧された日共は、組織も活動資金もなかった。このため戦後すぐに政治犯釈放運動を始め、その歓迎式典を開いたのは朝鮮人たちだった。

徴用工の未払い賃金も活動資金に(ソウル・龍山駅前の徴用工像)

朝連と日共の関係

 さらに日共の全国大会にも選挙にも朝連は資金を提供している。

 公安調査庁の坪井豊吉は、1945年12月に開催された日共の党第4回全国大会について、「このときの経費の大半は朝連の献金によったよう」と書き、徳田球一ら5人の共産党員が当選した翌年の総選挙でも「朝連から日共にたいして積極的な資金援助や実力援助がおこなわれた」(法務研究報告書)としている。

 では、その両組織間では、具体的にどのような連携がなされていたのか。

 1946年2月15日、日共と関係の深い朝鮮共産党が中心となって左派勢力が結集、ソウルで朝鮮民主主義民族戦線が結成された。朝連は2月末に開催された第2回臨時全国大会(2全大会)で、それに加盟することを決定する。この戦線への参加が朝連と日共の関係を決定づけていく。

「このころまで、朝連は一応日共の指導をうけている形とはいえ、その実力と行動では、常に党朝鮮人部と朝連が一体となって、日共をリードしてひっぱっているようにみられた」(坪井・同前)

一体となって活動するよう要請

 だが、この2全大会以降、朝連内には共産党のフラクション(分派組織)が置かれ、朝連幹部に日共党員が配置されるようになったのだ。この時、徳田球一らと府中刑務所に収監されていた朝鮮人共産党員・金天海が朝連の顧問に就任する。

 すでに日共では前年12月の第4回全国大会で内部に朝鮮人部を設立し、徳田球一、志賀義雄、袴田里見に次ぐ序列4位の金天海が部長に就任、朝連を革命運動の一翼と位置付けていた。

 張錠壽は当時の様子をこう書いている。

「一九四五年から朝連大阪本部のなかに共産党のフラクションがあったが、支部にはそこまで人員がいなかったから、フラクションはできなかった。支部にいて共産党と連絡がつく者は、本部の細胞に所属して、そこから細胞会議に出てきた。四六年になって、朝連の各支部にまで日本共産党の細胞が置かれるようになって、連絡体制が完全に確立され(中略)この時期わたしは、共産党の細胞会議と朝連の会議と両方に出席していた」(張錠壽・同前)

 日共はこの後、1946年8月の第4次拡大中央委員会で、いわゆる「8月方針」を決定、朝連の共産主義者に対し、日共の日本人党員と一体となって活動するよう要請するのだ。

人民民主主義戦線

 坪井によれば、8月方針は、以下の通りである。

「(一)各地にある朝鮮人だけの細胞やフラクションは、なるべく日共の地域細胞やフラクションに加入し、日本人党員と一体となって活動する。

(二)朝連その他の朝鮮人だけの職場にある党員も、なるべくその居住地で地域細胞や職場細胞などに加入し、日本人党員とともに活動するようにする。

(三)朝連は民族戦線としての役割をはたすよう、その大衆的単一組織を強化し、各級の日本人の連盟組織に加盟する方向をとる。またその中央機構なども、この方向に合致するよう改編し、重要ポストには党員を配置する。

(四)朝連は、なるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その民族的な闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。

(五)したがって朝連は、あくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割をはたすように、つとめることを要する」(坪井・同前)

「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもと」

 これには相当な反発があったようである。だが朝連は、同年10月の第3回大会で8月方針に沿うよう宣言や規約、綱領などを改正。一方、日共は1947年1月、党内に朝連フラクション中央指導部を設置し、朝鮮人部の指揮下に置いた。そして3月に「朝鮮人間における活動方針」を決定する。

 ここで日共は、朝鮮人党員最大の任務を、民族の解放のために反動勢力と闘うこととし、これまでの朝連の活動を評価しつつも、

「朝連のみでは到底日本における朝鮮人の利益を正しく且つ徹底的には保障する事が出来ない」

「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもとで、その支柱たる日本のプロレタリアートとその党たるわが党によって正しく保障され擁護されるだろう」(同前)

 と、記した。さらに、

「とくに来る選挙は、日本の平和革命を遂行する上において最大な意義を有するものである(中略)朝鮮の党員は勿論のこと、朝鮮大衆をもこの選挙に対して積極的に協力、参加せしめるよう、大衆に働きかけなくてはならない」

 それが奏功し、共産党は同年4月の参議院選挙、総選挙で、それぞれ4名ずつ当選を果たしている。

朝鮮民族への特別待遇を求めていた朝連

 こうして力関係は逆転し、朝連は「日共の前衛的実力行動部隊」(同前)となっていったのである。

 もちろん資金提供も続いた。GHQによる中止命令で実現できなかった1947年2月1日のゼネストには、第3回大会で支援のための基金募集を決議し、

「一部幹部の間では、ゼネストから革命に発展し、人民政府の出現も予想していたといわれ、ゼネスト資金六十万円が日共を通して献金されたと伝えられ、また解放新聞その他を通して、強力な扇動がおこなわれた」(同前)

 もっとも朝連が一枚岩であったわけではない。そもそも共産主義を理解していないものも多く、彼らは革命ではなく民族解放を求め、不明確だった日本における朝鮮民族への特別の待遇を求めていた。日共内部でも朝鮮人部長の金天海は8月方針に難色を示し、副部長の金斗鎔は支持していたという。だから日共から離れていった者もいた。

「朝鮮人の帰国、同胞の周旋や朝連の組織強化、民団(在日本朝鮮居留民団)との摩擦などがあって、朝連の仕事が忙しくなって追いまくられるようになり、朝鮮人党員の細胞会議が正常に持てなくなった。こうなるともう日本共産党と同じ運動はできなくなった。朝連の運動と共産党の運動それぞれが担う課題が食い違いをみせはじめたからだ。共産党からは足が遠のき、連絡が途絶えたが、一部の同じ運動をしていた共産党員とは緊密に手を握っていた」(張錠壽・同前)

GHQも手を焼くように

 GHQは当初、朝鮮人に対し深い同情を寄せ、「解放人民」として厚遇した。そして一刻も早い本国引き揚げを推進し、組織的な帰還を行うため朝連の力を頼った。しかし、戦争に負けた日本の法律には従わなくてもいいと考える彼らの乱暴狼藉に手を焼くようになる。

 戦後すぐは怒濤の勢いで朝鮮半島に戻っていった朝鮮人だが、1946年になるとその数は減り始める。早期帰還を目指すGHQは3月18日までに、朝鮮人に引き揚げ希望の有無を登録させ、登録しないものは引き揚げ特権を失うと発表した。

 これに在日朝鮮人64万7006名のうち、51万4060名が登録した。GHQは日本政府に「4月15日から毎日4千名を帰国させ、9月末に完了せよ」と命じ、さらに3月6日には帰還を希望しない朝鮮人に「日本国民と同様に取り扱いをする」と宣告した。

 だが、4月から12月までの帰還者は8万2900名にとどまり、ひとたび帰還したものの、故国に見切りをつけ、再び渡航してくる「旋回渡日」が後を絶たない。GHQは再入国者には許可が必要とし、商業航路の再開まで日本に戻ることを禁じたが、密航者は増え続け、GHQ参謀第2部公安課によれば、九州の港で1日千人近くが検挙される日々が続いたという。

 そして朝連は、在留者、旋回渡日者の数が増えるにつれ、「在留朝鮮人の生活の安定と民族教育の強化」を運動方針として力を注ぐようになる。

GHQの対処に朝鮮人は強く反発

 当時、朝連は1945年11月に組織した青年部を拡充し、東京を始め各地で自治隊(保安隊)を結成していた。彼らは制服に腕章を巻いてあたかも警察のように振る舞い、時には傍若無人な暴力行為を振るって、日本人を恐れさせていた。これに対し、GHQは1946年4月、「朝鮮人の不法行為に関する覚書」を出し、自治隊の解散を命じた。

 これに朝鮮人は強く反発した。1946年11月、朝連は「朝鮮人生活権擁護委員会全国代表者会議」を発足させ、在留朝鮮人の生活権についての闘争方針を定め、在日朝鮮人に「準連合国民」の法的地位を与えるようGHQに強く求めたのだ。そして12月に全国大会が開かれた後、いわゆる「12月事件」が起きる。

「この中央人民大会は、いやがうえにも気勢があがった。そして、皇居前をうずめた約一万の大群衆は、やがてデモ隊となって首相官邸におしかけ、正門を破かいして乱入し、警備警察官と一大乱闘を演じ、二四名に重軽傷を負わせた。この事件では、一四名が逮捕され軍裁に廻付されたが、かれらはいずれも民族の英雄としてたたえられた」(坪井・同前)

占領軍に暴行

 GHQが朝連の規制に乗り出した背景には、国際情勢の変化もあった。1946年3月、イギリスのチャーチル首相が「鉄のカーテン」演説を行って東西冷戦が顕在化、翌年3月にはアメリカのトルーマン大統領が共産主義封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」を発表する。

 その流れの中で、日本は「共産化の防波堤」と位置付けられていく。GHQも反共産主義的な政策が中心となり、その主導権もリベラルな民政局から参謀第2部に移る。そして「2・1ゼネスト」への中止命令を出すのだ。この後、GHQは、260万人の全官公労働者から団体交渉権とストライキ権を剥奪、共産党による組合支配を排除、やがてはレッドパージへと発展するのである。

 一方、朝鮮半島では、1948年8月に李承晩を大統領とする大韓民国が、9月には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が誕生した。朝連は、ソ連の影響下にあった北朝鮮を支持し、「共和国公民」として、日本において北朝鮮国旗を掲げるようになっていく。

「朝鮮の南北に、それぞれ単独政府が成立された直後に、この五全大会(朝連第五回全国大会)はもたれた。そしてその会場では、北鮮国旗をかかげていたので、その撤去をめぐって一時不穏な空気がみなぎったが、築地警察署長は断乎としてこれを撤去させ、開会された」

 と、坪井は記す。

 他にも宮城県や山口県でも同様の事件があり、逮捕しようとした占領軍に暴行を加えていた。これがGHQを強く刺激したのだ。

なぜ党史にないのか

 1949年9月8日、GHQの意を受けた日本の法務府(のち法務省)は、朝連や在日本朝鮮民主青年同盟など4団体に解散を命じた。

「(朝連は)全国各地にわたってしばしば占領軍に対する反抗反対あるいは暴力主義的事犯をひき起しポツダム宣言を忠実に実践して平和なる民主的国家を再建しつつあるわが国民生活の安全に対し重大なる脅威をつくり出してきた」(「朝日新聞」1949年9月9日)

 その具体的な事例として、宮城県や山口県の国旗掲揚事件や12月事件、京都での警察官暴行事件、福島県の平警察署襲撃占拠事件、千葉県の国鉄車掌室占拠事件などが挙げられている。

 これにより朝連は4年の活動に終止符を打った。その財産は没収され、中央総本部議長の尹槿や韓徳銖、そして金天海を含む19名が公職追放となるのである。

 この時、朝連には莫大な財産が残っていた。

 没収財産をめぐってその後に裁判が起きている。訴訟記録によれば、日本政府が、朝連および朝鮮民主青年同盟解散時に組織から没収した財産は数千億円にのぼったという。ちなみに朝連側の弁護団は、金英敦、上村進、神道寛次、青柳盛雄、上田誠吉、小沢茂、岡林辰雄、梨木作次郎など、多くが日共の弁護士だった。

 さて、日共はこうした朝連との関係について、党史に一行も触れていない。朝鮮近代史専門家の姜在彦は、

「当然日本共産党は在日朝鮮人運動にたいするその指導と、共に闘ってきた歴史にたいして総括する立場にあったと思います。ところがそれがないばかりか、その歴史叙述の中で朝鮮人とかかわる部分を無視し、記録さえもしないのはどんなに考えてよいのか、たいへん理解に苦しむ」(朴慶植・張錠壽・梁永厚・姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター)

 と、疑問を投げかける。

党史に記載がない理由

 その理由を、共産党の参議院議員を3期務めた吉岡吉典が韓国メディアにこう答えたことがあった。

「――日本共産党史から朝鮮人党員たちの活動記録が抜け落ちている。特に“血のメーデー事件”や“吹田事件”等、1952年の歴史的な反戦闘争は共産党の指導の下に行われたが、これに対する言及がない理由は何か。

 そうだ。共産党の歴史書には彼らの活動を取り扱っていない。支部の次元で記録したものがあるのかもしれないが……。私は1980年代に『日本共産党60年史』を著した。その時、執筆委員たちが朝鮮人党員の活動に対して書くのか否かを討論した。しかし、結論は書かないこととなった。

 ――それはなぜか。

 北朝鮮でまず記録しなければならない問題であり、われわれが先んじて一方的に記録することは適切ではないと判断した。故意に除外したというよりは、書けなかったという方が適切だ。朝鮮人の党活動を否定するのではなく、われわれが整理すれば他の国への干渉という行為になりかねないからだ。在日朝鮮人の多数を占める“朝鮮籍”は外国人である。日本で法的には、政党が外国人から金銭の授受があるだけでも不法である。『外国人(朝鮮人)の内政干渉禁止』は当然の原則だが、1950年代そのような原則はなかったというのがもどかしい限りだ。

 ――朝鮮人という理由で、故意に省いたのではないか。

 そういう誤解もあり得るが、それは違う。

 ――いまからでも、共産党として整理する気はないのか。

 個人的に歴史書を書くのであれば可能かもしれない。在日朝鮮人は日本共産党の恩人である。この事実を知る共産党1世たちはすでに世を去った。若い共産主義者たちは、日本共産党の歴史において朝鮮人がいかに大きな役割を果たしたのかを知らない。しかし、公式党史を書くにあたり、北朝鮮との関係等のさまざまな問題を無視できない」(韓国の時事週刊誌「ハンギョレ21」2005年9月8日号)

 吉岡は2009年に訪問先のソウルで客死しているが、韓国で徴用工問題が提訴され日韓関係の懸案となっているいまこそ、日共は朝連との関係を調査し、徴用工の未払金問題を含め、その実態を明らかにすべきではないのか。それが結党100年を迎える日共の責務ではないのか。

日共の指揮の下、数々の暴力事件が

 解散後の朝連関係者たちに少し触れておく。その一部は日本国内に祖国防衛隊を組織し、そこへ大韓民国居留民団系青年組織も一部参加して「在日朝鮮民主戦線」(民戦)が結成され、北朝鮮革命勢力による民族統一を支援した。1950年に勃発した朝鮮戦争では、米軍の兵站基地となった日本で、基地からの物資輸送を阻止するため、日共の指揮の下、数々の暴力事件を起こした。

 日共は1950年、ソ連を中心とするコミンフォルムからの批判をきっかけに平和革命から暴力革命路線に舵を切っていた。1951年2月の第4回全国協議会で「軍事方針」を決定し、10月の第5回全国協議会では「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と、日朝の暴力革命を目指した。

日本共産党との関係を清算

 その後、1953年に朝鮮戦争が休戦となると、翌年に北朝鮮の南日外相が、在日朝鮮人を「共和国の在外公民」とする声明を発表する。これにより朝鮮人共産主義者たちは、日本の内政に介入することができなくなり、日本共産党との関係を清算せざるを得なくなった。ここで朝連の後継組織だった民戦は解散することになり、1955年、共和国の在外公民団体として「在日本朝鮮人総聯合会」(総聯)が誕生する。その初代議長には、朝連の中核にいた韓徳銖が就いた。

 この時、朝連と日共を掛け持ちして運動を繰り広げた金天海や金斗鎔は北朝鮮に渡っていた。金斗鎔は1947年6月、金天海は1951年に渡北した。その動向はGHQが監視していた。米陸軍情報部は、6月24日、品川駅を出た金斗鎔が佐世保の南風崎駅に向かい、118名の同志と共に北朝鮮行きの船に乗ったことを記録している。北朝鮮の共産党とコミンフォルムのリエゾンをつくるためとされる。ただ、その後の彼らの行方は明らかでない。再び彼らが歴史に名前を刻むことはなかったのである。(敬称略。了)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年5月19日号 掲載