ヘルプ
マイページ
着たきりで汚れたダウンジャケット。左胸には「亘理町応援団」と書いたシールが貼ってある。
亘理中学校で3月11日にあった町の追悼式。町内でボランティアを続ける池田直樹さん(47)が白菊を手向け、祭壇に手を合わせた。「亘理にいる間は毎年来るから」。心の中で言った。
四国・松山市の生まれ。国際交流に理解がある父とボランティアに熱心な母の下、海外ボランティアに関心を持って育った。高校生だった1980年代初頭、世界的に食糧が不足すると言われるようになると、養鶏や畜産の専門家を志して香川大農学部に進んだ。
卒業後の89年、青年海外協力隊の一員としてパプアニューギニアに渡った。3年間、養鶏の技術を地元住民に教えた。帰国して、サラリーマンも経験した。鶏卵の孵化(ふか)場や畜産商社、お茶の販売会社。すべて1次産業に関係ある会社だ。
東日本大震災が起きたのは、次の仕事を探していた時だった。住んでいた東京都中野区が亘理町を支援していると知り、2カ月後にやってきた。知り合った人の紹介で、イチゴ農家の太田豊蔵さん(75)方で住み込みで働き始めた。
ビニールハウスを建て直し、イチゴの収穫を手伝った。でも何かしっくりこない。「みんなの生活が再建できないと」
知り合いが「亘理町応援団」のブログを立ち上げた。ここあてに送られてきた支援物資を町内の被災者に届け始めた。その合間をぬって、いろんな農家の手伝いもするようにした。
住み込みをやめ、9万円で買った中古の軽ワンボックス車で迷い猫と暮らし始めた。1カ月で5万円もかからない生活費は、両親が亘理への義援金のつもりで送ってくれる。
「納屋に住まないか」と言ってくれる知り合いもいる。だが、「亘理のみんなのために働きたい」と、個人の世話にはならない。
太田さんは「頑張ってくれているけど、仕事を見つけてその間に活動してもいいと思うんです。変わり者だね」と苦笑いする。
池田さんは、津波に襲われた土地の草取りをしていて、「ヤギに食べさせたら楽じゃないか」と思い立った。千葉県の牧場から3頭を譲り受けた。更地になった田んぼの一画で育て、12頭にまで増やした。
子ヤギには亘理の復興の願いを込め、げんき、ゆうき、のぞみ、いちごなどと名付けた。「次に生まれた子はステップやジャンプにしようかな」
ヤギたちを仮設住宅や保育所に連れて行き、被災者や子どもたちをなごませている。そしていま、ヤギにもう一つ仕事をしてもらおうと思っている。
「町が計画しているように沿岸部が緑地帯になったら、ヤギの牧場をつくりたい。観光客が来てくれれば復興に役立てるんじゃないか」。夢はまだ町に伝えていないが、知り合った沿岸部の区長さんたちは賛成してくれている。
「ミヤギだけにヤギで復興。どうでしょう」。夢を語った後、照れ隠しのだじゃれを言う。夢が実現するまで、言い続けてやろうと思っている。(鈴木剛志)
個人としての思いと、かつてない規模の震災被害、その両方を同時に伝えます(無料でご覧いただけます)
福島第一原発の破綻を背景に、政府、官僚、東京電力、そして住民それぞれに迫った、記者たちの真実のリポート