難波江通泰「『ラニカイ号』雑感」 ~実は米軍は真珠湾より先に帝国海軍を攻撃していた

ラニカイ号』雑感

             難波江 通泰

昭和三十七年(一九六二年)に、米国海軍少将Kemp Tolly(ケンプ・トーリー)氏が米国海軍学会(United States Naval Institute)の紀要(the proceedings)九月号に「ラニカイ号の異様なる任務」(The strange Assignment of USS LANIKAI)と題する論文を発表した時、それを私どもに紹介せられたのが平泉先生[1]であった(同年「日本」十一月号第五頁「明示は遠くなりにけり」(其十九))。平泉先生はそれと同時に、パトナム海軍少佐の日記、及び其のパトナム少佐が部下の艦載機を率ゐて搭乗した空母エンタープライズに与へられた戦闘命令第一号(Battle Order Number One)など、米国政府、軍部の首脳部が計画した一連の日本に対する重大な謀略の事実を挙げて、大東亜戦争の真相を明かにせられた。詳しくは平泉先生の著書「先哲を仰ぐ」「少年日本史」をご覧いただきたい。

ところが、それより、十一年後の昭和四十八年の秋、アナポリスの海軍研究所から一冊の書物が出版された。書名はCruise of the LANIKAI(ラニカイ号の巡洋航海)。副題はIncitement to War(戦争への挑発)。著者は海軍少将Kenp Tolly (ケンプ・トーリー)氏。定価は12ドル50セント。

出版後、間もない十二月七日、“WASHINGTON STAR-NEWS”紙は、同紙の記者デイヴィット・ブラッテン氏のFDR’S War Bait(ルーズヴェルトの戦争への罠)と題する右著書の紹介記事を掲載してその内容を伝へた。

それを毎日新聞社のワシントン支局長石丸和人氏は直ちに東京本社に報告、同社は九日の朝刊第三頁に掲載してこれを全国に報じた。

しからば、このラニカイ号とは何であったのか?

それは全長33フィート(約25メートル)、最高速力は僅か6ノット、故障の多い無電装置を備へた二本マストの木造船(写真参照)。

ラニカイ号の巡洋航海」の表紙


アメリカ海軍は、大東亜戦争勃発直前の昭和十六年(一九四一年)十二月四日、このラニカイ号をチャーターして、直ちに、その時より四十三年前の米西戦争の際の真鍮製の3ポンドカノン砲一門と、二十五年前の第一次世界大戦当時の30口径機関銃二挺を装備し、翌五日にはこれをアメリカ海軍の艦籍に編入した。かつては貿易船として南海諸島を航行し、また或る時は映画「ハリケーン」で女優のドロシー・ラモーアと共演したこのラニカイ号を、今アメリカ海軍は、最低劣悪なる軍艦に偽造したのであった。

何が故に、かかる偽造軍艦がアメリカ海軍に必要であったのか?

驚く勿れ、この最低劣悪なる偽造軍艦ラニカイ号は、実は大統領ルーズヴェルトの最高極秘(TOP SECRET)の命令(写真・原文参照)で以てチャーターされ、大統領ルーズヴェルト直属(on direct instruction from President Franklin D. Roosevelt)の偽造艦として装備されたのであった。

FDルーズヴェルトの命令伝文(写真)

PRESIDENT DIRECTS THAT THE FOLLOWING BE DONE AS SOON AS POSSIBLE AND WITHIN TWO DAYS IF POSSIBLE AFTER RECEIPT THIS DESPATCH. CHARTER THREE SMALL VESSELS TO FORM A QUOTE DEFENSIVE INFORMATION PATROL UNQUOTE. MINIMUM REQUIREMENTS TO ESTABLISH IDENTITY AS UNITED STATES MEN-OF-WAR ARE COMMAND BY A NAVAL OFFICER AND TO MOUNT A SMALL GUN AND ONE MACHINE GUN WOULD SUFFICE. FILIPINO CREWS MAY BE EMPLOYED WITH MINIMUM NAVAL RATINGS TO ACCOMPLISH PURPOSE WHICH IS TO OBSERVE AND REPORT BY RADIO JAPANESE MOVEMENTS IN THE WEST CHINA SEA AND GULF OF SIAM. ONE VESSEL TO BE STATIONED BETWEEN HAINAN AND HUE ONE VESSEL OFF THE INDO-CHINA COAST BETWEEN CAMRANH BAY AND CAPE ST. JACQUES AND ONE VESSEL OFF POINTE DE CAMAU. USE OF Isabel AUTHORIZED BY PRESIDENT AS ONE OF THREE VESSELS BUT NOT OTHER NAVAL VESSELS. REPORT MEASURES TAKEN TO CARRY OUT PRESIDENTS VIEWS. AT SAME TIME INFORM ME AS TO WHAT RECONNAISSANCE MEASURES ARE BEING REGULARLY PERFORMED AT SEA BY BOTH ARMY AND NAVY WHETHER BY AIR SURFACE VESSELS OR SUBMARINES AND YOUR OPINION AS TO THE EFFECTIVENESS OF THESE LATTER MEASURES. TOP SECRET

           命令の原文


而して大統領ルーズヴェルトは、直属のこの偽造軍艦ラニカイ号の艦長に当時海軍大尉であったケンプ・トーリー氏を任命し、加ふるに、世にも異様、不可思議なる自殺命令を与へた。大統領は彼女(偽造軍艦ラニカイ号)に「日本艦隊に接近して、その情報収集のための偵察を行へ」といふ命令を与へたのである。当然それは自殺自滅を要求した、特攻偵察命令以外の何ものでもなかった。トーリー艦長は、戦時中でもないこの平常の時期に、何が故に特攻命令を受けなければならないのであるか、不可解極まる自殺命令、特攻命令のままに、ラニカイ号をマニラより南支那海を経てマレー半島へと向はしむべく行動を開始した。

昭和十六年十二月七日の夜半、それは、ハワイ(すなはち、真珠湾)では七日の未明であるが、この時間、マニラを出港したラニカイ号は、コレヒドール沖に投錨し、夜明けを待って機雷敷設海域を横切り、マレー半島沖で日本起動艦隊に接近すべく、蒸気機関をフルに作動させ、満帆の風を孕んで死出の船路を急がうとしてゐた。

その時、無線係が「真珠湾が攻撃されてゐる」といふ無電を受信し、これをトーリー艦長に報告した。その途端「帰港せよ」といふ命令が届いた。

ラニカイ号に与へられた命令、真の目的は何であったのか?

大統領の極秘命令で急遽チャーターした木造帆船に、老朽銃砲で最低の急装備を施して、直ちにアメリカ海軍の艦籍に編入して軍艦と偽り、しかもこれを大統領直属のものとして取扱ひ、戦争が起ってもゐないのに下された命令が、死を意味する「偵察命令」であり、その命令に従って行動をとらうとした時に入った無電が「日本海軍航空隊が真珠湾を攻撃中」であり、それと同時に、不思議や、何故か、偵察特攻命令は解除されて「帰港せよ」といふことになったのである。

狐に摘まれた思ひのトーリー大尉は、翌、昭和十七年、少佐に昇進した。当時、ソ連はドイツ軍の猛攻撃を受けて敗退し、首府をクイブイシエフに移してゐたが、トーリー少佐は駐在武官としてクイブイシエフのアメリカ大使館に勤務することになった。ところが、幸か、不幸か、その時の大使ウィリアム・H・スタンドレイ提督は、つい最近まで「ロパーツ『真珠湾事件』調査委員会[2]」の一員として、その調査に当って来たばかりの人であった。そのスタンドレイから「真珠湾の真相、すなはち大東亜戦争の真相」を聞かされて行くうちに、トーリー少佐は、あの『ラニカイ号』の謎について思ひ当る節々を感ぜざるを得なくなって来た。爾来三十年、トーリー氏は、「ラニカイ号の真相」の究明に心血を注いだ。その間に多くの隠された事実が次々と明らかにされて行ったのであるが、驚くべし、ラニカイ号には、すでに、彼女と同じ運命を辿るべく用意された先輩のゐたことも判明した。その名はISABEL号、彼女はラニカイ号より四日前の十二月三日にインドシナ(今のヴェトナム)沖で、幸運にも日本海軍に発見されたが、不幸にも、日本海軍は彼女を攻撃しなかった。その為に目的を達することが出来ずイサベル号はマニラに帰港した。そこでその二番手としてラニカイ号が自殺航海を命ぜられたが、その時、別の地点でその目的が充足(真珠湾が攻撃)されたことにより、彼女は行動半ばにしてその使命を消滅した。しかも彼女には、彼女と同じ目的の下に用意された、彼女の知らないもう一隻の後輩[3]がすでに準備されてゐたのであった。

何が故に、大統領ルーズヴェルトは、かかるお粗末な偽造軍艦を三隻も必要としたのであったらうか?

彼は「日本海軍の攻撃は十二月一日である」と想定して、すでにその前月の十一月二十七日に「日本攻撃命令」を発してゐた。しかるに、待望の十二月一日に日本陸海軍はアメリカを攻撃しなかった。慌てたルーズヴェルトは、即日直ちに「極秘裡に三隻の小型船(three small vessels)をチャーターして最低の武装を施し、一隻を海南島とユエの間に、他の一隻はカムラン湾沖に、また別の一隻はカマウ岬に配置せよ」との最高秘密命令(写真前掲)を発した。それは何を意味するものであったか? 賢明なる読者にその説明は不必要であらう。

しかも、すでに「日本攻撃命令」を受けてゐたアメリカ海軍(駆逐艦ウォード号)は、日本の真珠湾攻撃一時間半前に、公海に於いて日本潜水艦を攻撃してこれを撃沈し、海軍司令部に「日本の潜水艦を撃沈せり」との暗号電報を発してゐた[4]

皮肉にもアメリカ海軍自身が、大統領ルーズヴェルトの苦心にもかかはらず、日本に対する先制奇襲攻撃を行なってしまったのであった。(燈照隅による強調)

この大東亜戦争こそは、日本の好むと好まざるとにかかはらず、執拗なるアメリカの政府及び軍部首脳部の手によって挑発せられ、それが勃発せざるを得ない運命に日本は置かれてゐたのであり、それは、日本にとっては、所詮、避けられない戦争であったのである。しかもその日本とは如何なる国であり、如何なる民族であったか。それは、欧米列強が過去数百年、世界を侵略し尽して、その最後に残ったところの、地球上で唯一つの民族、唯一つの国家ではなかったか。さればこそ、彼等(アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、オランダ)更に彼等に隷従してゐた支那国民政府、及び中共がこれに加はって、唯一国「日本」に対して集中攻撃を浴せかけて来たではなかったか。明治以後、百年間の日本の歴史は、常に国際間の陰謀と謀略の下に、欧米列強の侵略の脅威に曝され続けた百年であったと言って過言ではない。

もしそれ、戦前の日本を軍国主義といひ、侵略主義といふのであるならば、先づ、前記の欧米諸国こそが、数百年に亘ってアフリカ全土とアジアの大半を侵略して、残虐行為を恣にした鬼畜に等しい破廉恥も甚だしき侵略主義諸国であり、露骨極まる超弩級軍国主義諸国家であった事実を先に述べるべきであらう。すなはち、インドを亡し、ビルマを亡し、ラオスカンボジアインドシナ、マレー、スマトラ、ジャヴァ、ボルネオ、セレベス、ニューギニア、オーストラリアなどを次々に掠奪、領土化して行った国はどこの国であったのか。また、シベリア大陸を席捲してこれを領有し、バルト三国(リトワニア、ラトビアエストニア)を亡し、ポーランドフィンランドルーマニアを攻撃してその領土を略奪し、満洲帝国を亡し、樺太、千島を強奪した不法悪逆の国はどこの国であったのか。或はまた、メキシコを脅迫攻撃してテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアの広大な地域を領土化し、ハワイを亡し、パナマ運河を奪ひ、グァム島、フィリピン、キューバを強奪した国はどこの国であったのか。すべて、これらの国名とその行為を先に明示すべきであらう。

しかしながら戦後の日本人の大半は、アメリカの占領政策と左翼の策謀に毒せられて「支那事変や満洲事変は日本の侵略戦争だ」と反発をし、すぐに過去の日本を過ちを犯した国だと罪悪視せねばならない錯覚に陥されてゐる。それを『アメ・アカ痴(いか)れ』と呼んだ人があった。

支那事変の陰謀を企てて日本を無理に戦争へと引き入れたのは、実は、ソ連中共であった。また、満洲事変に関しては、当時のロンドンタイムス、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ザ・サンフランシスコ・エグザミナーなど外国の報道は、事の真相、真実を公正に伝へてゐた。

しかるに、戦後の日本は、学会も、教育界も、報道界も、すべてが占領政策と左翼の策謀に盲従して、ただひたすら事実を隠蔽し、更には事実を歪曲してやまないのである。

更に言ふならば、日本にはファシズムとか軍閥などといふものも無かった。それを愚かにも軍国主義だといひ、侵略戦争だといひ、軍閥だ、ファシズムだ、過去の日本は過ちを犯した、無謀な戦争をしたのだと言って、いまだに『アメ・アカ痴(いか)れ』の後遺症の悪夢の中をさ迷ってゐる者が多い。しかし事実は違ふのだ。

責任を負ふべき真の戦争責任者。果してそれは何者であったか。我々は事実の照してこれを明確にせねばならない。而して、それ(真の戦争責任者)に該当するものは日本人には一人も居なく、ましてそれが、わが天皇陛下ではあらせられないこと、これまた極めて明白であると言はねばならない。

                                                      (昭和五十年九月十日静夜)

 

[1]平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)~1984年(昭和59年))は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。福井県大野郡平泉寺村(現在の福井県勝山市)生まれ。東京帝国大学元教授。公職追放される。平泉寺白山神社第4代宮司、名誉宮司。玄成院第二十四世。皇學館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。

[2] Roberts Commission(ロバーツ委員会)は真珠湾攻撃の責任問題を調査する大統領による調査委員会で、1941年と1943年の二回行われ、キンメル提督とショート中将の勤務怠慢を結論付けた。しかし、当初から一部に政府内に攻撃を知っていた者がいると言う陰謀の噂が流れていた。

現在では、米政府が攻撃を知っていたことは通説となっており、またこの二人の将校の名誉は回復している。

[3] Molly Moore号(モーリー・ムーア号)のことである。この船はLanikai号の半分程度の小舟でLanikai号と同時にチャーターされたが、既に真珠湾攻撃で目的を果たしていたため、影が薄くなった。

[4] 特殊潜航艇「甲標的甲型

1941年12月6日(日本時間12/7)、オアフ島南側に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。これは,完全な戦争開始である。米国海軍駆逐艦「ウォード」による発砲は12月7日06時45分,大東亜戦争の戦死第一号は,甲標的の搭乗員2名(詳細不明 下記の十名の中の英霊二命)だった。駆逐艦「ウォード」は、きっかり3年後の1944年12月7日,フィリピン方面で特攻機により撃沈。 初めて日本軍の「特別攻撃」を防いだ軍艦が,3年後の開戦記念日に日本機の特攻により沈められた。

特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成 
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉  片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 (捕虜になった)酒巻和男少尉 稲垣清二曹)  合掌

2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された。米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦を発見し,4インチ砲で攻撃し,司令塔に命中させ撃沈していたことが、61年ぶりに確認された。ただし、この駆逐艦「ウォード」の通報は,ハワイの海軍司令部に無視された*ために,みすみす日本海軍艦載機のハワイ空襲を許すことになった。(詳細は以下のHPをご覧ください)

torikai.starfree.jp


*無視されたのは、最初の一撃が真珠湾奇襲であることを強調したいFDRにとって不都合であったからではないか、いやそうに違いない(燈照隅註)