楠板本尊と日興上人書写本尊の違い
下記に京都要法寺僧侶の柳澤宏道氏の著作「石山本尊の研究」に記載されている資料から、日蓮大聖人直造とされる楠板本尊と日興上人の書写本尊19幅を表にして提示します。
番号 法主名 作成年月日 頁 富要巻頁 経釈の要文 仏滅年紀
1 大聖人? 弘安2年10月12日? 38,39 8-177 無 仏滅後二千二百二十余年
2 日興 弘安10年10月13日 40,41 8-179 有1 仏滅度後二千二百三十余年
3 日興 正応3年10月13日 42,43 8-179 有1 仏滅度後二千二百三十余年
4 日興 正応4年10月13日 44,45 8-179 有2 仏滅度後二千二百三十余年
5 日興 永仁4年4月8日 46,47 8-179 有2 仏滅度後二千二百三十余年
6 日興 正安3年10月 日 48,49 8-204 有2 仏滅度後二千二百三十余年
7 日興 正安3年10月 日 50,51 ― 有2 仏滅度後二千二百三十余年
8 日興 嘉元2年9月8日 52,53 ― 有1 仏滅度後二千二百三十余年
9 日興 嘉元3年5月4日 54,55 8-180 有1 仏滅度後二千二百三十余年
10 日興 乾元4年8月13日 56,57 8-201 有1 仏滅度後二千二百三十余年
11 日興 嘉元3年9月1日 58,59 8-224 有1 仏滅度後二千二百三十余年
12 日興 徳治3年4月8日 60,61 8-217 有1 仏滅度後二千二百三十余年
13 日興 徳治3年8月彼岸 62,63 ― 有1 仏滅度後二千二百三十余年
14 日興 正和3年2月13日 64,65 ― 有1 仏滅度後二千二百三十余年
15 日興 元享22年8月29日 66,67 ― 有2 仏滅度後二千二百三十余年
16 日興 嘉暦4年7月27日 68,69 8-186 有1 仏滅度後二千二百三十余年
17 日興 元徳2年5月1日 70,71 8-186 有2 仏滅度後二千二百三十余年
18 日興 元徳3年2月15日 72,73 ― 有1 仏滅度後二千二百三十余年
19 日興 元徳3年6月27日 74,75 8-225 有1 仏滅度後二千二百三十余年
20 日興 正慶元年6月26日 76,77 ― 有1 仏滅度後二千二百三十余年
データは柳澤宏道 著「石山本尊の研究」により、頁は本書の頁数を示し、富要巻頁は富士宗学要集の巻と頁数を示す。
経釈の要文
有1 若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号
有2 若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号 讃者積福於安明 謗者開罪於無間
次に、大聖人より日興上人に相伝されたと言われる【御本尊七箇相承】には、次の様にあります。
「本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん、上行無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には・苦悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、経中の明文等心に任す可きか。
一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」
(富要集1巻32頁)
現代訳:御本尊の書写の事は、私が顕わさせていただいた様にしなさい。若し日蓮御判と書かなければ天神地神はどうしても用いてくださらないでしょう。上行菩薩・無辺行菩薩と持国天との間、浄行菩薩・安立行菩薩と毘沙門天との間には・苦悩乱者頭破七分および有供養者福過十号との経釈の要文を書きなさい。経中の明文(経釈の要文)等は(書写する人の)心に任せるべきでしょう。
一、仏滅度後と書きなさいと云ふ事はどういう事か。大聖人の云うのには「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なり」と書かれたままに、書写させていただく事こそが御本尊の書写になるのです。之を略される事は大偏見の不相伝の極致に達しているのです。
※此処で述べられていて、本尊書写で重要なのは、
①経釈の要文(例:苦悩乱者頭破七分および有供養者福過十号)を書きなさい。
②「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なり」と書かれたままに、書写しなさい。
という、大聖人からの相伝であり付託なのです。
それ故に、日興上人の書写本尊は、上記の①②の条件を遵守して書かれています。
処が、書写の大本であるべき楠板本尊は、①の経釈の要文は無く、②は「仏滅後二千二百二十余年の間・・・」とあり、日興上人への相伝書や書写本尊とは明らかに異なっているのです。
つまり、「楠板本尊」は、相伝を受けた日興上人とは無関係であり、後世の模作である事が明らかなのです。