本門寺(・・に懸け、・・の重宝)の本尊について
堀日亨上人の「第三、漫荼羅脇書等」(富要集8巻177-頁)での大聖人御筆漫荼羅を提示しました。
http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/1068
それを少し分類しますと、
楠板本尊を除いて、弘安2年以前に御図顕された本尊は、15幅
弘安2年以降に御図顕された本尊は、22幅
一閻浮提総与を前提とする本門戒壇の御本尊を建立したのに、その後、これを秘匿して何故、大聖人は精力的に「一機一縁と宗門が称する御本尊」を御図顕されたのか、全く理解できません。
次に「本門寺に懸け」「本門寺の重宝」の本尊を調べると、
「本門寺に懸け」との添字の本尊は、4幅
「本門寺の重宝」との添字の本尊は、8幅
ある事が判りました。 この8幅の本尊の脇書を提示します。
1 弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、 大石寺。
2 弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同加筆御
華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきなり。 東京法道院。
3 弘安四年太歳辛巳三月日、俗日大に之を授与す、(興師加筆)富士顕妙新五郎に之を与へ申す、本門寺に懸け末代の重宝たるべきなり。 讃岐法華寺。
4 弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す) 北山本門寺。
5 建治二年二月五日、(興師加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、(今切去りて無し)、(首題の下に)本門寺に懸け万年の重宝たるなり、(代師か加筆)入道の孫由井五郎入道譲り得る所なり大宅氏女の嫡子犬法師に之を譲り与ふ、 西山本門寺。
6 (弘安二年か)(興師加筆)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与へ申す、(同上)本門寺の重宝たるべきなり、 京都妙覚寺。
7 弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、(同上)大本門寺の重宝なり、 京都本能寺。
8 弘安四年太歳辛巳四月廿五日、比丘尼持円に之を授与す、(興師加筆)甲斐の国大井の庄の庄司入道の女子、同国曽根小五郎後家尼は日興が弟子なり仍て之を与へ申す、(同上)之を相伝す孫大弐公日正(同上)本門寺重宝たるべきなり、 京都本満寺。
つまり、本門戒壇の御本尊が念頭になく、日興上人は幾つかの御本尊を本門寺が建立された時には、これらを懸けるつもりだったのでしょう。
もし、板御本尊ならば、懸けるのではなく、安置する、設置する等の表現が相応しいのではないでしょうか。
また、「日蓮聖人曼荼羅一覧」(正宗所蔵の曼荼羅含まず)に依りますと、
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/mandaraitiran.html
弘安2年以前に御図顕された本尊は、58幅、
弘安2年に御図顕された本尊は、13幅、
弘安2年10月以降に御図顕された本尊は、58幅、明記されています。
この様に、全く不可思議な現象であり、「弘安2年10月12日御図顕とされ本門戒壇の本尊と称する楠板本尊は後世模作である」という証明の一つなのです。
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