ボヘミアン・ラプソディ 注・ネタバレ

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 今回は、ただいま大ヒットをしている映画「ボヘミアン・ラプソディ」について話してみたいと思います。
 太平天国系師父にしてフェンシング・マスタルが、陰陽思想とハロハロ文化の観点から映画の感想文をネタバレ全開で書いていくシネマ・ハッスルとなります。
 フレディが亡くなったときのことは覚えています。
 当時まだ十代で、フレディはちょっとクラシックなスーパースターでした。
 洋楽界ではグランジやヒップホップが強くなっていて、クィーンやマイケルのようなスーパースターはちょっと古くなっていたころです。
 クィーンの曲というのはメッツのCMなんかで流れている物で、ビッグだしかっこいいけど自分たちの時代の物じゃない、引き出しとしてはビートルズやストーンズと同じところに入れておく物のように思えっていました。
 そんな中で、フレディがエイズで亡くなったというニュースが入ってきました。
 フレディがゲイだと言うことさえ、当時の私にはよくわかっていなかった。
 エイズというのはゲイがかかる病気だということがまだ思われていた。
 その二つを繋げるのは、当時マガジンでやっていた破壊王ノリタカというマンガにクィーンちゃんというフレディそっくりのオカマが出てくるということだけというくらいだった(でもこれは没後のことかもしれない)。
 それくらい、フレディのことはよくわかってなかった。彼は上の世代の人たちの物だった。
 いま、通称「ボヘミアン・ラプソディ特需」として元すかんちのROLYさんがあちことで識者としてクィーンについて語っているそうだけど、彼くらい、50代とかが直撃の世代だったのだろうと思う。
 十年以上前だろうか、やはり彼がテレビでフレディについて語っていたことを覚えています。
 当時彼は「フレディが出てきたときはあまりにかっこよすぎて上品でこれはひょっとしたら本当に悪いヤツが出てきてしまったんじゃないかと思った」ということを言っていました。
 つまり、マンガやアニメに出てくる悪役の怪人のようだったということのようです。
 最近の語りでは「あまりにも露骨な道化的表現」「笑ってしまうくらいの表現」と言っていたように記憶しています。
 確かに、彼のあの発声練習のコール&レスポンスなどは、ライヴビデオなどを見ると途中から観客もちょっと笑ってしまってるようなところがあります。
 そんな風に、よく知らないけど物心ついたときにはすでにクィーンで、ライヴビデオは勝手にどこかから流れてきたような存在がクィーンでした。
 私自身はマイケルやプリンスが好きな子供で、実は出来てすぐのドームにも行っていました。
 マイケル、タイソン、プリンスの興行を東京で生で見ているというのが私のこの時代との接点です。
 そういう世代の人間が、あくまで何も知らない音楽先行の印象から振り返ってフレディの物語を観たのですが、これが予想外。
 ファン以外には退屈は記録風映画かと思ったら、ものすごく映画として切り取られていました。
 大ヒットする作りになっています。
 そしてその切り口というのは「フレディはホモ」という一点です。
 インドで弾圧されて亡命してきたゾロアスター教徒の一家の長男として、フレディはイギリスに住むことになったのですが、そこでは当然差別はされるし、家の中でも厳格な教徒の父親と馬が合いません。
 そういう、別にマイケルであってもエミネムであっても置き換え可能な分かりやすい「いかれる十代」の映画としてこの作品は始まります。
 まさに後に「ROCK YOU!」を唄うにふさわしい「通りで叫んでいる若者」です。
 このフレディ、孤独な若者の一人として詩や歌の美的世界に居るのを好んでいました。
 そして目を付けたバンドに自分からセルフプロデュースして入ってゆきます。
 たちまちツアーを組み、レコードが出せるまでに成功するのですが、その過程でかれはブティックの店員に一目ぼれします。
 彼女は女性ものの服をステージ衣装として買いに来た彼にメイクを施します。
 ここで示唆されるのが、彼のグラムロック的なのか同性愛者なのかわからない美意識の在り方と、それを導いた彼女の立ち位置です。
 二人は結婚するのですが、これは「彼は彼女になりたかった」という形であることがうかがえます。
 そのために、愛情と交感はあるのですが、ツアー中にもマッチョなトラック運転手がドライブインの公衆便所に入るのを見てフレディはオギオギしたりしてしまいます。
 憧れの対象が居ることと、性的な欲求とはそれぞれ別に働く力です。
 揺れ動くフレディの心に入ってきたファム・ファタール(男)がマネージャーのポールです。
 グレイテスト・ショーマンよろしく、ツアーで長時間過ごしているうちに二人は出来てしまいました。
 このことを妻に打ち明けて「ぼくはバイセクシャルなんだ」と言ったフレディに、奥さんは「いいえ、あなたはゲイよ」と歴然たる事実を明言します。
 二人は離婚。
 ポールは自分の手ごまとして使えるフレディをもっと稼がせるために、CBSとのソロプロジェクトの契約を結んでしまいます。
 バンドのメンバーとは切り離し、友情が続いていた元妻からの連絡を絶って、彼をハード・ゲイのアンダー・グラウンド・ワールドに囲い込んで外の世界から断絶させてしまいます。
 こういった過程が発表された楽曲と合わせて語られてゆくのですが、これでわかるのが私の好きな「アナザ・ワン・バイツァ・ダスト」、邦題「地獄に道連れ」の謎めいた歌詞の暗示していた物です。
「スティーヴは用心深げに通りを歩く その音が響き渡れば、機関銃が狙ってる。ねぇ、君もやっちゃうよ。もう一人死ぬ」という歌詞は、まさにホモの世界のアンダー・グラウンドに隠れホモを誑し込んで引きずり込むというポールの手口そのものであった訳です。
 この映画で描かれているハードゲイの人たちは、本当にレザーのポリス服を着たようなシベリア超特急かレイザーラモンかというような人たちなのですが、フレディがあのルックスになったのもまさにこのころ。
 ゲイであることを自覚して、自分からあのまさにゲイそのもののヴィジュアルにしたのです「露骨すぎて笑ってしまう」くらいのルックスに。
 ちなみに当時その姿は「お前ヴィレッジ・ピープルみたいだぞ」と笑われていましたが、それまでの容貌はというと、これがあくまで私の私見なのですが、マイケル。
 マイケル・ジャクソン風なのです。
 もともとインド系で浅黒く、華奢な身体で頼りない表情。これは、エミネムでもプリンスでもあってもいいのですが、もう一人のマイケルの話であった、とも取れるのです。
 内省的な美少年が高い芸術の力と陰陽関係に得た過酷な人生。
 マイケルと違って、フレディの破滅はより因果関係が明確に訪れます。
 連夜続いてハード・ゲイの人たちとのドラッグ乱交パーティによって打ち込まれた機関銃の弾によって、彼はエイズを発症します。
 当時はエイズはゲイの病気だとされていましたが、これは結局ホモの人たちは避妊しないから病気が感染しやすかったことから生まれた憶測だったのでしょうかね。
 この衝撃によって彼は自分の人生を顧みて反省します。分かりやすい。
 ファム・ファタールのポールと縁を切り、昔の仲間とよりを戻します。
 また、ここでは名指してで描かれていないのですが、まさにマイケルとのつながりが隠されています。
 このころ、アメリカではウィー・アー・ザ・ワールドのキャンペーンが開かれていて、フレディの所にもオファーが来ていました。
 これはマイケルの本を読むと「なぜかクィーンからは返事がこなかった」と書かれているのですが、この映画でフレディ視点から描かれていました。
 つまりはポールが連絡をもみつぶしていたのです。
 反省して遺された時間を生きなおそうとしていたフレディは、そのこともひどく悔います。
 父親が口うるさく主張していたゾロアスターの教え「善い思い、善い言葉、善い行い」をしたいと言う気持ちが彼の中にはあったのです。
 ちなみに今回の陰陽ポイントですが、このゾロアスター教というのは、よく武侠小説に出てくる魔教と言われる物のことです。
 本来は明教、あるいはこの明の字を解体して日月教と呼ばれていたのですが、モンゴル人が支配していた元朝(ジンギスカン)に抵抗する活動をしていたため魔教と呼ばれました。
 彼等の抵抗が結果を結んで作られたのが元の次の明朝です。明教からその名が取られています。
 そして映画的に言うなら、この明教の教祖とされているキャラクターが「東方不敗」です。
 香港映画の時代から何度もリメイクされている人気武侠キャラクターですね。
 陰陽の気の流れを変化させるために去勢して達人になったというキャラクターです。
 なので、男色三角関係ラブロマンス武侠映画のヒロイン(?)として描かれます。
 ほら。フレディに繋がった。
 東方不敗となったフレディは信者を率いて、ウィー・アー・ザ・ワールドを受けて行われた英国最大のチャリティ・フェス、ライヴ・エイドに参加します。
 そんな姿勢を見た父親との関係も氷解し、この伝説的なライヴが成功したシーンを持ってこの映画は終わります。
 ロック・ユーのいかれる若者がなぜマイノリティとして世間に挑戦していたのか、なぜ彼がバイシクルに乗って高揚していたのか。すべてはこの映画の中では「ホモだから」の一言に集約されます。
 メンバー各自の将来への不安とか音楽性についての葛藤とか芸術的才能の苦しみは殆ど書かれたり書かれて解決されたりしません。
 抑圧されたホモだから才能が熟成され、センスのある女性と通じ合って才能が開花し、それゆえのホモマネージャーによって道を狂わされ、ホモの病気になって死ぬ間に人類愛に向かう、という非常にわかりやすいホモのロック・スターの映画という切り口になっています。
 つまり、やっぱりものすごく今のアンダー・ザ・トランプ映画なのですよ。
 女性、カラード、貧困層、移民、同性愛者をフィーチャーした今のスクリーンの流れにピッタリ乗った作りになっている。
 実際には、バンドのみんながいて色々あってのお話なのでもっと細かい事情はあったと思うのですが、それらをすべて切り捨ててわかりやすく「ホモだから」としたことが、短く力強く人に伝わる力を得られたポイントであったと思います。
 音楽映画って「オアシス・スーパー・ソニック」みたいにとりとめがないか、「8マイル」みたいな一方的なファン視点からのアイドル映画になることが多いと思うのですが、この作品は上手く社会問題とつなげてエンターテイメントに出来た成功例だと思われます。
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