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続・みやぎ野球史再発掘
甲子園に持参の米、羨望の的
終戦から2年、1947年の夏。学制改革のため旧制中学最後となった甲子園大会に、仙台二中(現・仙台二高)が出場した。
関西までの移動は大変だった。朝9時に仙台を出発して東京まで8時間。その後、夜行列車で大阪へ向かい、翌朝に到着した。指定席はなく、複数の車両に分乗。選手の分の席は確保したが、付き添いの関係者は通路に座った。
戦後の混乱が続き、人々は食糧難にあえいでいた。ただ、仙台二中は米どころの代表だけに、十分な食糧を持たせることができた。選手たちは野球道具に加え、米5升(約7・5キロ)を各自背負っての長旅となった。
当時は旅館も足りず、宿舎は甲子園球場の中。そこに持参した食材を調理してくれる食堂があった。球場の内部は風通りが悪く、猛暑に耐えかねて、スタンドで寝たという。
見かねた在阪のOBが手配し、二階堂正、佐藤千春のバッテリーは繊維会社・鐘紡の重役宅に泊まることができた。内野手は、終戦直後に石巻日和倶楽部でも投げていた阪神・若林忠志投手の厚意で、球団の合宿所を使わせてもらえた。
こうした協力のかいもあって、二中は初戦で前年優勝の浪華商、準々決勝で強豪の下関商を延長戦で破り、県勢初のベスト4進出を遂げた。左腕のエース二階堂は、小柄ながら大きなカーブと、勝負どころでの外角への直球がさえた。
米は食べ放題、さらに差し入れの牛肉も食べている仙台二中ナインは、他チームの羨望(せんぼう)の的。「仙台二中の準決勝進出は、食糧が十分であったのが最大要因」と、やっかまれたという。
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