大正・草創期のプロ野球、続々仙台に
続みやぎ野球史再発掘 伊藤正浩
日本最初のプロ野球団といえば、日本運動協会(芝浦協会)だ。1920(大正9)年に、理想的な野球人の育成を目指して設立された。
中心となった河野安通志、押川清、橋戸信(頑鉄)の3人は、いずれも早稲田大学野球部OB。このうち押川清は、東北学院を創設した押川方義の次男で、59(昭和34)年に野球殿堂入りを果たしている。兄は日本初のSF作家と言われる押川春浪だ。
芝浦協会に続いて21年には、奇術師の松旭斎天勝一座の興行の宣伝を目的とした天勝野球団も、誕生している。
先に来県したのは天勝野球団の方で、22年7~8月と10月のこと。当時の仙台球界の中堅どころに連勝したが、仙台鉄道局(現・JR東日本東北)、素人(アマチュア)倶楽部といった最強クラスには敗れている。
23年5月の東北体育協会球場の開場記念試合には、芝浦協会が来仙。早稲田大学、素人倶楽部に勝利し、8月にも素人倶楽部に連勝した。この後、9月に起きた関東大震災の復興拠点として、芝浦協会の本拠地だった芝浦球場(東京)が徴発されたため、行き場を失った同協会は11月の1カ月間、仙台に滞在。仙台鉄道局などと対戦した。
26年9月には、天勝一座の公演に合わせて天勝野球団の「外人チーム」が来仙し、青城倶楽部に勝ったことが地元紙に報じられている。「天勝野球団は関東大震災のため解散した」とされる巷説(こう・せつ)を覆すもので、今後の精査が必要だ。
仙台野球史の掘り起こしは、日本プロ野球草創期の歴史を書き換える可能性を秘めている。