東北高、戦死したエースから託された白球
続みやぎ野球史再発掘 伊藤正浩
1949年に甲子園に出場した東北高。県勢の進出は3年連続となっていた。
同校も終戦後、ナイナイづくしの中からの再起だった。ジャガイモ畑になっていたグラウンドを整地し、スパイクは海軍の短靴を調達して改造。折れたバットに釘を打ちテープで巻き、ボールは宮城野原の進駐軍グラウンドの外野に潜み、飛んできたものを拝借した。苦心を重ねる中でつかんだ甲子園だった。
県庁前で行われた壮行式で、1個のボールが水沢宏弥主将に手渡された。
30年に甲子園へ初出場した際のエースで、その後戦死した小林孝吉投手が、出征にあたって弟の正に託したものだった。次に甲子園に行くチームの主将に渡し、甲子園でピッチング練習に使ってほしいと。
東北高の一行は、一昼夜をかけて大阪入りした。このときも宿泊施設の不足が続き、宿は甲子園球場内。球場専属料理人による食事が提供されたが、出てきた米は粘り気の無いものだったという。選手が各自5升を持参し、提出した宮城米は、他県米にすり替えられていたらしい。
球場での寝泊まりは、猛暑にも悩まされた。スタンドや外野の芝生に寝転がって涼をとったが、多くの選手が体調を崩したという。思いがけない差し入れもあった。サイダー3ケース。石巻に縁があった阪神の若林忠志投手から、宮城県代表ということで贈られ、選手たちを驚かせた。
こうして臨んだ大会であったが、初戦敗退。
手元に残った米は、神戸で「闇米」として売却。人気の宮城米は、1升300円という高値でさばけたという。