GHQが柔・剣道禁じて創部 石巻中野球部

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続みやぎ野球史再発掘 伊藤正浩

 旧制石巻中(現・石巻高)の野球部創部は、1946年6月。戦後、GHQの指令によって活動を禁じられた柔道部、剣道部の部員たちが始めた。

 監督に就いたのは、毛利理惣治。14(大正3)年に石巻日和倶楽部(現存する東北最古の社会人チーム)を結成。私財を投じて水押球場を建設し、のちに「石巻野球界の父」と言われる人物だ。

 部で唯一の野球経験者は、息子でエースの毛利光雄。石巻中に野球部がなかったため、東京の日大三中(日大三高)に野球留学したが、戦局悪化で44年に帰郷していた。

 できたばかりの野球部は練習に使うボールが足らず、監督の理惣治が、戦前に収集した日米野球のサインボールなどを惜しげも無く提供したという。ユニホームは払い下げられた海軍のセーラー服の襟を切って代用。帽子はツバ無しの赤白の運動帽、靴も軍靴やゴム靴などまちまち。バットは造船所で作ってもらった手製だった。

 物不足のスタートだったが、最初の年の大会から優勝候補の仙台一中(仙台一高)相手に金星を挙げ、翌47年には東北大会に進み、甲子園まであと一歩と迫った。

 48年は学制改革のため、最上級生は卒業することもできた。だが、法政大学からの誘いを振り切った光雄を含め、全員が学校に残って大会に挑み、念願の甲子園出場を決めた。

 甲子園では、開会式で石川喜一郎主将が選手宣誓を引き当て、アクセントに悩みながらも大役を成し遂げた。初戦で関西高に敗退したが、「石巻高」として甲子園の歴史に堂々たる足跡を残した。