ひょうたんから駒のロッテ進出 ナイター機

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伊藤正浩 続みやぎ野球史再発掘 ひょうたん駒のロッテ仙台進出

 かつて仙台は、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)が準本拠地にしていた。1973年のロッテ進出は、ひょうたんから駒の結果であった。

 72年春、県営宮城球場(現・楽天生命パーク宮城)へのナイター照明設置を働きかけた人物がいた。宇高勲。終戦直後、短命ながら「国民リーグ」というプロ野球リーグを創設した豪腕経営者だ。

 リーグ破綻(はたん)後も培った人脈を生かし、西鉄(現・埼玉西武ライオンズ)やサンケイ(現・東京ヤクルトスワローズ)などのスカウトとして活躍。その宇高が、ナイター設備さえあれば年間30試合ほどを仙台に呼ぶことができ、採算が十分に取れると持ちかけたのだ。

 この話に仙台の財界人が動いた。一力一夫(河北新報)、菅原萬(双葉総合開発)、萱場照雄(萱場産業)らを中心に野球興行会社・東北野球企業が設立され、宇高は専務に就任。当時の地方球場には珍しい夜間照明が6基、さらに電光得点ボードが設置されることになった。

 73年のシーズン前をめざして照明の工事が始まったが、10月下旬に突然、当の宇高が辞任する。大見えを切った試合の誘致が、思うに任せなかったのだ。

 ハシゴを外された形の仙台球界に、思わぬ朗報が舞い込む。本拠地の東京スタジアムが閉場し、行き場を失っていたロッテの仙台誘致が、実現したのだ。決め手は新設のナイター照明であった。

 ロッテの準本拠地となった宮城球場では、73年は公式戦32試合(うちロッテ戦26試合)が行われる。東北初のナイター照明試合は、その年の5月22日だった。