首都圏第4の民放AM局、ラジオ日本。小さな局だが、開局以来、時に大きな議論や波乱を巻き起こし、業界で独特の存在感を示してきた。聴いている人は少なくても、競馬や演歌を売り物に、リスナーをしっかりつかんでいる。そんなラジオ日本の歴史と今を取材した。【取材・構成=秋山惣一郎】

ラジオ日本が、神奈川県の県域局「ラジオ関東」(ラジ関)として開局したのは、1958年(昭33)。開局から64年。その歩みは波乱に満ちている。

【港ヨコハマのおしゃれなラジオ局】 ラジ関が開局した58年は、横浜開港100年。港町らしいハイカラでエキゾチック、おしゃれなラジ関は、先行する他局とは違うカラーを打ち出した。1つは音楽。いち早く最新の海外ポップスを流し、「洋楽のラジ関」と親しまれた。

【島アナが、60年安保闘争を生中継】 60年6月15日、日米安全保障条約改定に反対する学生らが国会突入を図り、警官隊と衝突。プロ野球中継で知られる島碩弥(しま・ひろみ)アナウンサーは現場に入り、自らも警官から暴行を受けながら実況した。東大生、樺美智子さんが死亡した、この日未明の闘争を現場から生中継した。そのジャーナリズム精神が称賛された。

【全国初、プロ野球完全中継開始】 他局に先駆けて完全中継を開始。開局翌年の59年は105試合、60年は127試合を中継。「ラジ関なら試合終了まで聴ける」と人気を博した。「音楽、スポーツ、ニュース」はラジ関の3本柱となり、出力強化の許可も得て、可聴範囲が拡大。60年代半ばには、実質的な本社機能を東京・麻布台へ移した。

【巨人戦独占中継を獲得、他局は猛反発】 77年、「ニュース、報道番組に読売新聞のクレジットをつける」などの条件で、プロ野球・巨人の主催試合のラジオ独占中継権を得た。ドル箱の巨人戦から閉め出された他局は猛反発。地方局を巻き込む騒動に発展した。

【ラジオ日本の略称巡り訴訟に】 81年、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に改称、「第2の開局」をうたった。だが「ラジオ日本」の略称がNHKの国際放送「ラジオ日本」と紛らわしいと注文がついた。ニッポン放送からは「略称が類似しており、営業に混同が生じている」として商号、略称の差し止めを求める訴訟を起こされた。

【反共保守で『社会の木鐸(ぼくたく)』宣言】 82年、日本を滅亡から救う唯一のマスコミ、「社会の木鐸(ぼくたく)」たらんと宣言。反共保守、右派の論客をそろえたオピニオン番組を並べ、全番組の6割に及ぶ大改編を実施した。安保、核、自衛隊から憲法、教育、マスコミまでタブーなく切り込む姿勢で、ラジオ業界にとどまらず、社会に大きな一石を投じた。