07B 2022/06/01版
第07回 砂漠芸術論2 補足ページ
雑記——土地を想う
・原爆と高度成長期の宅地開発
広島に原子爆弾が落とされて街と人が焼かれた。一瞬ですべてが瓦礫の荒野と化したのは私が生まれるずっと前のことだった。
高度成長期の真っ只中で私は育った。人口の増加と、経済の発展で、周りの環境が、ことごとく変っていった。
当時の開発の様子は、テレビの中にもたくさん反映されていた。『ウルトラマン』(一九六六年)では、荒ぶる自然の化身である怪獣が、文明の象徴である都市の模型セットを破壊していた。科学を表す銀色にジャパニーズ・レッドのラインが入ったヒーローが災害をもたらす怪獣を駆逐した。そしてブルドーザーで掘り起こされたばかりの荒れ地では『仮面ライダー』(一九七一年)が、改造手術で創り出された人工アニミズムを体現しているような蜘蛛男やコウモリ男といったショッカーの怪人たちを次々と葬りさっていた。そのロケ地は山林を切り開いて掘り起こしたばかりの開発中の造成地であった。むき出しの黒々とした湿った土である。そのような場所が日本中にあった。この空き地——ボイド空間は子供たちの恰好の遊び場になっていた。この時代にどろんこになって遊ぶとは野原を駆け回るのではなく、土地開発で掘り起こされた泥や土にまみれて遊ぶことだったのかもしれない。私もそんな幼少期を過ごしていた。
・足元に隠されていた荒野——東日本大震災
それから半世紀が経過した二〇一一年三月一一日に東日本大震災が日本を襲った。高度成長期の頃から埋め立てられて、築き上げられていた我々の人口の環境は、地震と津波でいとも簡単に破壊された。
色川武大は、東京での戦争体験と、桜島の近くで生活する人々の環境の認識と、人工化された東京の違いについて、次のように書いている。
それというのも、あの桜島なんだ。あの大火山が、煙を吐いて、にょきッと眼の前にあるんだ。毎日、ドカーンビリビリ、と爆発音をたてる。市民はもう慣れっこになってる。
けれどもね。そういう自然が、いつも身近にあるんだよ。
東京なんか、舗装されて、ビルが林立して、人工の街だからね。いわゆる自然の地肌がみえないんだな。俺なんかの世代では、あの戦争のとき、焼け野原になって、ああ、地面ってえものは泥なんだな、ということを目のあたりに見てしまったけれど、それ以後、また人工の街になっちゃった。
色川武大『うらおもて人生録』(新潮文庫、一九六二年)、三二三頁「桜島を眺めて——の章」
東日本大震災で私たちが目にしたのは、色川が戦争で焼け野原となった街の下から顔をだしたと書いたこの泥であり土なのだ。私たちが信じていた人工化の世界は大地に貼り付けられた薄皮のようなものでしかなかった。その薄い人工の膜は地震で簡単に壊れてしまいはぎ取られてしまった。
砂漠や荒れ地は遠いところにあると考えていた。しかし、意外にも都市の膜を一枚めくるだけで荒れ地が現れた。私たちの足下にも荒れ地があるという当たり前のことを我々はまた忘れていたのである。
震災によって現れたこの泥と土と砂は、私が子供の頃ブルドーザーで掘り返されたあの山林の泥や土や砂でもあった。高度成長期に造成されたあの造成地であり、ヒーローが戦っていたあの荒れ地であった。人工の皮膜の下に覆い隠されていたこの荒れ地は、もともと緑の野山であったが、我々人間によって人間の大地へと開墾されてしまった。そうであるならこの泥や土は人によって作り出された荒れ地だといえるかもしれない。
写真は2011年の6月に福島第一原発から60キロ南側のいわき市周辺での撮影したもの。防波堤がいとも簡単に津波のエネルギーで破壊されている。水のパワーで簡単に破壊されているこれらの防波堤は、水位が増しても溢れないだけの効力をもった構造に思える。中身が空洞の張りぼての防波堤は簡単に崩壊してしまった。四枚目は津波にのみ込まれた海沿い集落から集めた残骸を放置された国道沿いに植林された松。この松は先人たちが築いた防風林だろうか。この松並木から海側が本来の海岸だったのだろう。松林は海と人間の世界との境界を知らせている。僕が見る限り松林の向こう側に津波の痕跡は無かった。もともと海岸だった場所を開墾して宅地にした無責任な行政や、先に書いた役に立たない防波堤の建設が尊い命を奪った。未来を見据えるだけでなく、過去の過失や失敗について、もっと、きちんと考えるべきではないだろうか。 亡くなった人々と失われたものの全てに黙祷を捧げます。(2014/03/11)
「自然は与えるが、同じように奪いかえす。」
それは火山の地熱と温暖なモンスーンの気候に恵まれたこの国の宿命である。それゆえ日本の神々は豊穣の神でありながら荒ぶる神として恐れられてきた。我々の祖先が、崇め祀ってきた自然——コンクリートの下に隠れていた荒野を、人々はまたしても忘れていた。
戦争の傷痕、その後の国土開発、その果てに訪れた震災の崩壊を経た現代、先人たちが思考していた我々と大地の関係はいまだに取り戻せないまま、いや、より不確かなものになってしまったようである。
福島第一原子力発電所事故(二〇一一年)の、一連の放射性物質の放出で、引き起こされた環境汚染の被害によって、近隣の双葉町、浪江町、富岡町などの帰還困難区域は、市街地や山林地帯が廃墟となったまま現在も放置されたままとなっている。
ハフィントンポストJK版(二〇一五年一〇月一二日)「福島の避難区域、外国人カメラマンが捉えた原発事故から4年半の姿」(Paul Vale & Tahira MirzaThe Huffington Post UK)は、学校の教室や、町の商店が、地震の被害状況のまま残されていて、埃やクモの巣に覆われている様子とともに、人が介在しなくなった原発周囲の大地が、緑の植物に覆われて、取り囲まれてしまい、置き去りにされた車や、住居といった、人工物を覆っている様子を伝えていた。
この生い茂る緑は、我々が知る潤いの自然ではない。放射能に汚染されて、人が近づけなくなって現れた原野である。除染が終わらない限り、人の生存を拒む荒野である。そこはチェルノブイリと同様でありながら、砂漠化してしまったモンゴルの草原と同じで、人を近づけない新たな荒れ地である。科学によって作られた、日本の中にある「人工の荒野」である。あるいは目には見えない汚染によって作り出された「見えない荒野」と言えるのかもしれない。
我々人間と大地の関係が、より不確かなものになっていると先に書いた。この放射能によってケガされた場所——惨劇も、そのような事態のひとつだと、残念ながら、言わざるを得ない。
「見えない荒野」はここだけでなく、世界中に存在する。現在懸念されている現実的な化視化可能な砂漠化現象だけではなく、人類は「人工の荒野」という、新たな環境と風土の問題について、神勅に捉え、生存と共生について、考えなければならない局面を迎えようとしている。
この新しい荒野とどう向き合うべきか。その問題解決のためには、科学や、政治だけでなく、宗教学や、哲学、さらに環境を表し、環境によって成立してきた芸術という、人類の知を総動員させていかなければならないであろう。
二〇一八年 佐々木成明