07A 2022/06/01版
第07回 砂漠芸術論2
(ネバダ州リノ市の150km北北東にあるブラックロック砂漠で毎年開催されるレイブ・イベント)
■はじめに
前回に続き。「砂漠芸術論」の第二回(後編)をお届けします。
宗教、古代文明、近代ヨーロッパの中東への愛着—オリエンタリズム、さらにシュルレアリズムにおける砂漠幻想などについて前回は論考を行いました。
続く、今回は、砂漠を開墾して作られたアメリカ合衆国において成立した砂漠の芸術—砂漠に特化した画家たちや、ランドアート、最近の現代美術などで砂漠と深い結びつきを持っていると思われるいくつかのトピックスの紹介。
さらに、雨が降らない西海岸の砂漠地帯ハリウッドで成立した20世紀映画と砂漠の関連性として、「西部劇」や、「ニュー・アメリカン・シネマ」、荒廃した荒れ地を背景として描かれる「デス・フューチャー映画」、そして砂漠という、予言者誕生の神話を秘めた砂漠と西部劇の世界観を併せ持つ「スターウォーズ」における砂漠の役割などについて論考します。
そして、砂漠がない日本における砂漠芸術として、枯山水の禅庭
や、黒澤明の映画作品や、「星の王子さま」のさん・ペテグジュリに傾倒する宮崎駿のアニメ作品『風の谷のナウシカ』、植田正治の「砂丘モード」と呼ばれた写真作品。世界的に評価され続けている『砂の女』などの小説で砂と砂漠にこだわり続けた作家安部公房などについて触れます。
その後、21世紀現在のドバイの都市や、多摩美も関係している「深宇宙彫刻 DESPATCH」など、今後のポスト砂漠芸術の可能性について触れます。
この砂漠芸術論に関するまとめは書いていません。簡単にまとめることができませんでした。(ご興味がある方は本章『砂漠芸術論』をご覧下さい。図書館にもあります。)
その代わりとして、最後にエッセー的なテキストですが、「地平線とはなにか」を掲載させていただきました。
12 アメリカ-砂漠の帝国
二〇世紀のアメリカを代表する女性画家の一人ジョージア・オキーフ(一八八七~一九八六年)は写実的なディテールを保ちながら抽象画のように見える独特のスタイルで花や動物の骨や荒野を描いた。彼女は一九二九年に初めてニューメキシコを訪れて、この地に広がる赤土色の砂漠の風景に心を捉われて繰り返し訪れるようになった。のちにサンタフェの北側にあるゴーストランチにアドビ(砂質粘土と藁などの天然建材)の家と、冬と春を過ごすアビキュー村の家を買って定住した。それから九八歳で亡くなるまでの三七年間をこの地で暮らした。
一九世紀のヨーロッパの画家たちは手前と背景という前後関係がきちんと成立する遠近法の構図で砂漠を描こうとしたが、ことごとく絵にできなかったのは前述したとおりである。砂漠には前景となるとっかかりがなく、その澄みきった空気は霞んでいく空気遠近法を成立させない。それゆえヨーロッパ的な空間の認識と描画の常識で砂漠は描けなかった。
オキーフはこのきわめて難しい対象を違う視点で描いた「空を飛んでいるような気分にさせられる景色」という感覚から霊感を得たオキーフは、ニューメキシコの砂漠の原野をまるで空から眺めているような独自の視点と構図で描いてみせた。オキーフの風景画では遠景の山々は突き出ているような図像になって、本来そこに見えていたはずの地平線が消え去る。まるで溶岩が流れながらゆっくり固まっていったようなその山々の形状は長大な時間の経過を感じさせる。前述した辻茂は遠近の図法を「地上の遠近法」と称し、その逆で距離を意識しない旧来の図法を「天使の遠近法」と名づけていたが、オキーフの弁はまさに空から眺めて世界を描くものであった。その風景はまるでベッドで寝ていた人の寝返りによってできたシーツのシワやヒダのようにも見える。砂漠の荒れた山々でありながら同時に有機的なものが放つデリケートさをうかがわせた。「抽象的」でありながら、同時に有機的なパターンを見い出すように対象を描くオキーフのスタイルは、ニューメキシコの砂漠地帯に居住する以前から様々な画題で培われていた。彼女の風景画では山や谷、陰影、光と影、色彩、あるいは輪郭線や、前景と後景といった要素のすべてが、まるで同等なものと見なされているかのようだ。抽象画のようにも見えるその独特の風景画は、地上の荒れ地でありながら、擬人化されているか、あるいは感情をもつ荒れ地のようだ。
《ヒマラヤ杉と黒い丘陸、ニューメキシコ》(一九四一年)は丘と丘のあいだにある谷間を象徴的に描いた絵で、下側にある杉の木がポイントとなって足の先から眺めている女性の体を彷彿させるような構図だ。この絵は風景画でありながら人間の身体や母性を喚起させるデザインが施されているように見える。ふたつの滑らかな丘陵は豊満な乳房のように盛り上がっていて、股間のような谷間が太陽の影で隠れているかのようで、生態的な形状を彷彿させる。このようにオキーフの風景画は抽象と具体の両端に位置する。それらの絵は「生きた荒れ地の風景」といえるような不思議な印象を与える。
砂漠を描く エド・メル
エド・メル(Ed Mall ) https://www.edmellgallery.com
1942年に生まれ、アリゾナ州フェニックスに生まれる。デザインを学びLAとNYで広告の仕事を行う。ホピ族との出会いが機転となって、アリゾナ州ソノラ砂漠に魅せられて移住する。最小限の直線と色面で構成される独特な砂漠の風景画は高大な砂漠と雄大な時間を感じさせる。
砂漠とランドアート 〜戦争+ヒッピー・カルチャー
一九六八年に、ニューヨークのドワン・ギャラリーで「アースワーク展」が開催された。
60年代のミニマル・アートを起点として、自然を素材としたアースワークの表現様式、あるいはランドアートと呼ばれた表現形式は1968年にニューヨークのドゥワン・ギャラリーで開催された “Earthworks展”によって広く認知された。
当時のケネディとジョンソンの政権によるアメリカの拡大主義への反発と、体制的であるとされた美術館やギャラリーに展示できないこと、売買が困難であることなど、ランドアートがもっていた既成秩序への反抗と自然への回帰指向は、60~70年代の学生扮装全盛期のフラワー・チルドレン(ヒッピー)に迎え入れられた。
マイケル・ハイザー(Michael Heizer)であった。その作品「ダブル・ネガティブ」(Double Negative,1969年)
ネバダ州のラスベガスの近くの断崖の岩石丘に掘られた巨大な大地の溝で、その大きさは長さ457m、幅39.1m、深さ15.2mに及ぶ。“Earthworks展”以降、数多くのランドアート作品が砂漠に造られた。
音楽家で彫刻家のウォルター・デ・マリア(Walter De Maria)の「ライトニング・フィールド」(The Lightning Field,1977年)
1.6km×1kmのエリア内に実に400本ものステンレス製のポールを格子状に建てた作品で、雷の多発するニューメキシコ州カトロン郡の砂漠に設置された。これにより発生する雷を含めて作品であった。
この作品はペルーの地上絵と同様に大地に描かれた世界最大の人物画作品で、その身長は2.6kmに達する。マリーマンは南オーストラリア州の中央部の町マリーの西60kmの砂漠地帯で1998年に飛行機から偶然発見された作品で、作者はいまだに名乗り出ていない。
同時期に制作が始まったジェームズ・タレル(James Turrell)のライフワークである「ローデン・クレーター」(Roden Craterd,1979年-)アリゾナ州のフラッグスタッフの標高2000mを超える高地砂漠地帯(ペインテッド・デザート)にある40万年前にできた噴火口を利用していて、直径300m、高さ約200mの天然のすりばち状の噴火口を利用して宇宙を眺める巨大な裸眼天文台である。
環境芸術の萌芽 ランド・アート
二〇世紀の芸術の歴史で、もっとも砂漠と深い関連性をもつのは六〇年代に始まる「ランド・アート」ではないだろうか。環境の問題や土地と人間の関係性についての問題意識を明確にもっていた初期のランド・アートはその名のとおり、土地に働きかけて成立する芸術活動であった。それはアメリカの国土に広がっている砂漠地帯なしには成立しなかった。
六〇年代のミニマル・アートから始まり、自然を素材としたランド・アートが六〇年代後半頃からアメリカを中心として始まる。その活動は当時のケネディ(一九一七~一九六三年)とジョンソン政権によるアメリカ拡大主義に対する反発、ベトナム戦争、米ソ冷戦、核戦争の不安といった時代への不審と苛立ちとともに、この頃から一般的になっていった環境問題への意識が多分に繁栄されていた。
売買が困難で美術館やギャラリーに展示できないランド・アートの作品は、既成秩序への反抗的な姿勢と自然への回帰指向を兼ね備えていた。それゆえ学生運動全盛期のフラワーチルドレン(ヒッピー)からも、好意的に迎え入れられた。
一九六八年にニューヨークのドワン・ギャラリーで「アースワーク展」が開催された。ランド・アートの始まりとなったこの展覧会には主催者のロバート・スミッソン(一九三八~一九七三年)をはじめ、マイケル・ハイザー(一九四四年~)など一四人の若い作家が参加した。「アースワーク」という展覧会のタイトルは、大地そのものが作品になっていることを表しながら、ブライアン・W・オールディス(一九二五~二〇一七年)のSF小説のタイトルから借りたものであった。SF小説『アースワーク』(一九六五年)が描く未来世界では、農土として使えるまともな土が貴重な価値をもっていて、国家間で売り買いされている。食糧不足と深刻な環境汚染で人々は生存の危機に晒されているのだ。この小説のタイトルをかざしたアースワーク展は当時のアメリカが抱えていた環境問題について明確な意思を示していた。
初期のランド・アート作品は、アメリカ国内の砂漠などの場所に印をつける、横切る、総計する、境界を引くといった行動や過程の結果を記録したものがほとんどで、作品は写真や地図やテキストとしてギャラリーに展示された。ランド・アート作家たちは徹底的にシンプルさを追求した。それは同時代のミニマリズムと同調する活動でありながら、(アイデアやコンセプトが優先される性質をもつ)コンセプチュアル・アートとも親和性をもっていた。そしてランド・アートは彫刻や建築の延長であった。
作家たちには土地の人類学、民俗学、考古学上の関連性や環境の独自的特徴に対する読み解きに注意を払う者が多くいた。彼らは土地に刻印されている原住民の古代神話を象徴する岩絵やモニュメントといった物的証拠と、現代の時勢を関連させるような手法で作品を作った。
ヴィル・ビオラのジェリド湖
《ジェリド湖(光と熱に浮かぶポートレート)》(1979 年/ビデオ作品/カラー/ステレオ・サウンド/ 28 分)
(Chott el-Djerid (A Portrait in Light and Heat), 1979 Videotape, color, stereo sound; 28 minutes)
THE NIGHT JOURNEY game, available on
PlayStation®4 (in US), PC and Mac. The Night Journey (2007–2018) is a collaboration between Bill Viola and USC Game Innovation Lab, including award winning game designersTracy Fullerton,Todd Furmanski and Kurosh ValaNejad.
> MOVIE
ビオラが制作したUNITY のゲーム。 その多くのシーンでも、作者が繰り返し撮影してきた砂漠のシーンが見られる。
『キャデラック・ランチ』(1974年)
テキサス州アマリロ ~砂漠とモータリゼーション、ルート66
キャデラック・ランチとルート66
《キャデラック・ランチ》(一九七四年)はテキサス州の田舎町アマリロの郊外に配置された彫刻作品だ。一〇台の古いキャデラックが地面に突き刺さっているこのユニークな作品はダグ・ミッチェルズ(一九四三~二〇〇三年)、チップ・ロード(一九四四年~)、ハドソン・マルケス(一九四七年~)たちによって作られた。
グーグルマップでキャデラック・ランチを検索すると、すぐ近くにマザー・ロードの名で呼ばれる旧国道ルート66が通っているのがわかる。西に進めばニューメキシコ州で、さらに二〇〇キロ先にはラスベガスとサンタフェがある。最果ては西海岸のカリフォルニアだ。
ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』は、ルート66を辿ってカリフォルニアに向かう離農一家の物語だ。貧困から脱出しようとする離農一家の夢の西海岸側まで運んだこの道は六〇年代にシボレー・コルベットに乗った二人の若者が冒険を求めてアメリカ中を旅するテレビドラマ『ルート66』(一九六〇~一九六四年)によって再び脚光を浴びた。現在でもシボレー・コルベットとルートはアメリカ人の旅情を誘う。
マーファのプラダ
テキサス州の田舎町マーファはジェームズ・ディーン(一九三一~一九五五年)の遺作映画『ジャイアンツ』(一九五六年)のロケ地として知られる。ミニマリズムの巨匠ドナルド・ジャッド(一九二八~一九九四年)が一九七二年頃にここに移住して自身の作品を含む現代アート作品を展示する軍用施設を利用した広大な美術館を作ってから、マーファは年間数万人もの人が訪れる現代アートのコミュニティーとして活気を呈している。
マーファからほんの少しだけルートを進むと、砂漠の道沿いにインガー・ドラグゼット(一九六九年~)とミッシェル・エラムグリーン(一九六一年~)の二人によるアート・プロジェクト《プラダ・マーファ店》(二〇〇五年)がある。そのタイトルのとおりだれも来ない砂漠の真ん中でプラダの店が営業している。店員不在の店舗の中には(プラダから協賛を得て提供された)あの高価な商品が陳列されている。このプラダ・マーファは盗難や破壊やラクガキにもめげず、法律や人間の欲望や商品の価値といった様々な社会的問題を露呈させる作品として展示が続けられている。看板広告を啓示してはならないという州の法律に対抗して現在は店舗ではなく博物館として再登録して存続しているのだという。
ネバダ州リノ市の150km北北東にある ブラックロック砂漠で毎年開催されるイベント(フェス)
「バーニングマン」はネバダ州リノ市から約一五〇キロ北北東に位置するブラック・ロック砂漠の乾湖地帯で、毎年八月の最終月曜日から九月の第一月曜日までの一週間をかけて開催されるイベントだ。八〇年代に数人のトラヴァーたちが集まるアンダーグラウンド・イベントから始まり、三〇年が経過した現在では数万人の参加者が世界各地から集まる一大イベントになっている。
参加者は何もない砂漠に町を作り共同生活を営む。会期が終了すると架設の町はすべて解体されて、もとのなにもない砂漠に戻される。
ブラック・ロック・シティ(BRC)と呼ばれるこの町の総面積は約四・五平方キロメートルで、会期中の一週間だけ五万人以上の参加者がこの町で暮らす。
開催地ブラック・ロック砂漠は標高一キロ以上の山岳地帯にある塩砂漠で、サボテンすら生えない過酷な環境だ。ここではどんな虫も生息できない。イベントが開催される八月から九月上旬の最高気温は摂氏三五度に達するが、夜は摂氏四度程度まで冷え込む。大気が極度に乾燥しているので、水分を補給し続けていないとすぐに脱水症状になってしまう。台風のような砂嵐が町全体を襲うことも多く、粉塵防護のゴーグルがなければ目を開けていられないし呼吸も困難だという。
米アリゾナ州ツーソンの砂漠地帯にあるデイビス・モンサン空軍基地には、二六〇〇エーカーの敷地に四二〇〇機もの軍用航空機が廃棄されている。《ボーンヤード・プロジェクト》(二〇一〇年~)は、芸術家たちを招聘し、この廃材飛行機をキャンバスにしてグラフィティ作品を制作してもらうプロジェクトだ。ペイントされる飛行機は第二次世界大戦で使用されていた軍用機だ。砂漠の環境が戦闘機を錆びないまま保管し続けている。古代エジプトやタクラマカン砂漠のミイラ小河の美女と同じく、飛行機やクルマという現代の機械の遺産も砂漠は保存し続ける。
リチャード・ミズラック——カラー写真のトポグラフィー
一九七〇年代になってカラー写真の実用化が進んだ。写真芸術の世界ではニューヨーク近代美術館(MoMA)で一九七六年に開催されたウィリアム・エグルストン(一九三九年~)の個展を皮切りに、多くの写真家たちがカラー写真に取り組むようになった。それから五年後の一九八一年に開催されたカラー写真の展覧会「ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ」で、カラーによる写真表現の可能性と多様性は広く知られるようになった。
ウィリアム・エグルストン、スティーブン・ショア(一九四七年~)、ジョン・ファール(一九三九年~)、レン・ジェンシェル(一九四九年~)といったカラーの写真家たちは、この展覧会によって「ニュー・カラー」と呼ばれるようになった。彼らの写真作品は「ニュー・アメリカン・ルミニズム」という、もうひとつの名称が与えられるほど、効果的な光の印象を結んでいた。
明るい光と澄んだ大気によって鮮明な像を結ぶ砂漠の環境は、早くからカラー写真の恰好の被写体になった。ニュー・カラーの写真家の一人、リチャード・ミズラック(一九四九年~)は砂漠そのものを被写体とした。代表作『デザート・カントス』(一九八七年)は人間の介入によって傷ついた砂漠の姿を記録した写真集である。砂漠は生命を寄せつけない残酷で普遍的な場所だと思われがちだが、実際にはクルマを使ってだれもが踏み入ることができる場所になっている。そこは踏み荒らされ、汚染され、掘り返され、搾取され、破壊される空間なのだ。
人間の介在によって破壊されている砂漠の姿は時間をかけて気をつけて観察しない限り見えてこない。ミズラックの写真は自然讃歌的な眼差しとは異なる視点を砂漠に結んでいた。ランド・アートの作家が大地への介入と同時に自然環境の復元力を提示しようとしたのとも似ているが、そうでありながら自然の自立的な復元能力だけではもはや復活できない砂漠の惨状をミズラックは冷静に表していた。クルマの走行、コンクリートの道路による大地の分断、動物の死体廃棄、火を放たれ、水を流し込まれ、廃棄物の投棄場所にされてしまった砂漠の惨状がこの写真集に綴られている。しかし傷つけられてしまっても砂漠は美しさを保ち続けている。人間の理解や捉え方を超越した砂漠について思考を促すかのように、産業廃棄物の廃棄や、大量の家畜死骸の投棄など、砂漠の事件や人害の結果が大型カメラによって克明に記録されている。その写真を目にするとき、あたかも砂漠に独りで立っている時のように、その光景は砂漠をより身近なものとして見せてくれる
西部劇はアメリカの建国と国土拡大を成し遂げた先人たちを賛美する国策エンターテインメント映画として、さらにアメリカの愛郷心(リージョナリズム)と、愛国心(パトリオティズム)を生成する機能を果たした。
『OK牧場の決斗』がそうであるように、それらの映画は歴史的史実に沿ったフィクション映画である。集団暴力に立ち向かう正義の保安官や、早撃ちのガンマン、そして歴史に名を残すことはなかったが西部を開拓した移民たちと、その開拓の歴史からあぶれてしまった無法者や、先住民といった登場人物たちが、アメリカの国家成立の初期に起きた様々な人間ドラマを再現する。
そのドラマは荒涼とした乾燥地帯が背景で、荒野の真ん中に作られたローカルタウンや、荒れ地を開墾して作られた農家が、西部劇の舞台であった。
『わが谷は緑なりき』(一九四一年)、『静かなる男』(一九五二年)などで知られるジョン・フォード監督はアリゾナ州モニュメント・バレーの砂漠地帯を頻繁にロケ地に用いた。フォードは『駅馬車』以降のほとんどの西部劇作品を、モニュメント・バレーで撮影している。彼が繰り返しカメラを設置した場所は「ジョン・フォード・ポイント」と呼ばれていて、モニュメント・バレーを一望できる観光ポイントになっている。ここから一望する荒野の風景は、だれもが知る西部劇映画の背景そのものだ。「アメリカの歴史を代表する風景」といっていいほど、その広大な砂漠の眺望は映画の中にある故郷——祖先たちが切り開いた大地を表象する風景だ。もちろんすべてのアメリカ人の祖先が西部開拓に従事したわけではないし、実際にこの風景を見たわけではない。そうであったとしても、ジョン・フォード・ポイントから見渡すこの荒涼とした風景は、自分たちの国を代表する風景といってよいだろう。
故郷を後にして新大陸に移り住んだ人々の末裔たちにとって、西部劇の舞台は本来の故郷とすり替えて、懐かしめるような映画の中にある祖国だ。それは思い出ではなく、パトリズム(愛国心)によって代替えされる故郷なのかもしれない。
映画史における最初の西部劇映画は『大列車強盗』(1903年)
ジョン・フォード監督 の『駅馬車』(1939年)などアクション映画としての西部劇が次々と発表された。
サイレント映画である。トーマス・アルバ・エジソン率いるエジソン社が製作した作品で、監督・製作・撮影はエドウィン・S・ポーターが務めた。世界初の西部劇映画と呼ばれ、アメリカ映画では初めてといえる本格的なプロットを持った作品である。一部に着色が施されたバージョンも存在する。
アメリカ独立戦争(1775~1783年)で独立国家となったアメリカは、自国の領土拡大を目的として、一七八三年に旧イギリス領ルイジアナを併合。一八〇三年にフランスからミシシッピより西側に広がるルイジアナを再び買収、さらに一八一九年にス ペイン領フロリダを国土に加えた。
一マイル四方に白人が二人以下しかいない国土「フロンティ ア」の概念が成立。その開拓が推進された。
自ら開墾した土地が自分のものになる。人々は大挙して東海岸から西へと進出していった。
一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見されて、ゴールド・ラッシュの時代を迎え、より多くの人々がアメリカの西 部へと押し寄せていった。
アメリカ史の研究者ウォルター・P・ウェッブは、論文『グレイト・フロンティアー 近代史の底流』(1951年)で、「西部の特質は砂漠である」と明確に述べている。
当時の西部地帯は「大アメリカ砂漠(グレート・アメリカン…ディザート)という名称で呼ばれていた。
カウボーイが発生したのは一八三六年頃。南北戦争以前の一八四〇年代後半ゴールド・ラッシュの頃になると、西部で成功した牧場主やカウボーイたちの話が新聞や小説で取り上げられて、噂を聞きつけた男たちが各地から集まり、富と名声を求めてカウボーイになった。
アメリカの歴史、その建国の父(祖先)とは、荒れ地を開墾して、砂漠と戦った開拓者とカウボーイたちによって表象されてきた。
「その言葉を口ずさむのは、ふるさとを遠く離れた移民者たち、そして、許されざる荒野を西へ進んでいった開拓者たち。YES WE CANY」——初の黒人大統領バラク・オバマ(1961年~)が大統領候補選で口にした言葉。
風土論の和辻哲郎は、砂漠的人間の要素として「戦闘的な性質と同時に砂漠が人間の結束を生む」と指摘した。
砂漠的映画:西部劇は、戦闘的な人間の結束や、戦闘の様相を繰り返し描いた。その姿勢はマーベル・コミックや、DCコミックのヒーロー映画など、多くのアメリカ映画へと受け継がれた。
荒野の時代劇、西部劇やカウボーイの映画は、日本の時代劇と親和性をもつアメリカにしかない映画ジャンルであり、すべてのアクション映画のルーツとなった。
セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演『荒野の用心棒』 (1964年)と追随したのマカロニ・ウエスタン映画を指す。
『ドン・キホーテ』(1605年)はミゲル・デ・セルバンテスのピサロ小説。騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士(アロンソ・キハーノ)が、自らを遍歴の騎士と任じ、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗って冒険の旅に出かける物語。欧州では15世紀まで続いていた騎士物語への反発からドンキホーとなどのピサロ小説が登場して、広く読まれるようになった。聖人君主的な人格を表すアメリカ西部劇の保安官などに代表される正義の英雄(ヒーロー)への反発のようにして、登場したマカロニウエスタンは、まさに騎士物語に対するピサロ小説的な存在だと言える。
そのようなアメリカン・ヒーローの対局で、人間くさく薄汚れた男たちが活躍する「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれるイタリア制作の西部劇映画が六〇年代中盤頃に登場する。(日本ではマカロニだが、西洋諸国ではスパゲティ・ウエスタンの俗称で知られている。)
当時はまだ無名だったクリント・イーストウッドを主役として、黒澤明(一九一〇~一九九八年)の『用心棒』(一九六一年)を無許可でリメイクしたセルジオ・レオーネ(一九二九~一九八九年)の『荒野の用心棒』(一九六四年)がアメリカで大ヒットしてから、マカロニ・ウエスタンは世界的に興行収益を見込まれる映画として成長していった。
マカロニ・ウエスタンには娯楽的なストーリーと殺伐で残忍な演出がこれでもかと盛り込まれていた。既成のアメリカ的ヒーロー像の反対をいくマカロニ・ウエスタンは強烈なアンチ・ヒーローを次々と作り出した。棺桶を引きずりながら砂漠を放浪する賞金稼ぎ、口のきけない主人公、盲目のガンマン、聖職者のガンマン、連れ去られた妻を連れ戻すために復讐に燃えるガンマン⋮⋮。ありとあらゆるダーティ・ヒーローが登場した。暴力的なシーンが多く、激しいガン・ファイトが売り物のマカロニ・ウエスタンは、本家アメリカでは作れない斬新さで世界的に人気を博した。一九六〇年代の中盤から一九七〇年代にかけて五〇〇本以上にのぼる作品が量産されたが、七〇年代に入るとそのような企画も行き詰まってしまい人気は下火になっていった。
マカロニウエスタンは、なんでもありのバイオレンスが売り物であった。
日本のアニメなど様々なエンターテイメントに多大な影響を及ぼした真カロヌウエスタン映画の数々。
サントラ、映画音楽の概念も変えた、かっこよいBGMとリリック。
西部劇映画の勧善懲悪ストーリーは常に矛盾をはらんでいたし、史実とほど遠い物語に対する反発や批判も少なくなかった。一九五〇年代から始まった公民権運動で人権意識が高まると先住民や黒人の描き方も批判されるようになった。さらに六〇年代になってジョン・F・ケネディによって人種差別の撤廃が進められると、それまでの制作コードが通用しなくなっていった。
七〇年代直前になるとベトナム戦争の影響もあって、反体制的な人間の心情を綴ろうとする「アメリカン・ニューシネマ」が台頭する。
西部開拓時代を描いたアメリカン・ニューシネマ作品では、それまでの勧善懲悪、白人至上主義、紋切り型の興行主義とは異なるテーマが扱われた。実在したギャング、ブッチ・キャシディ(一八六六~一九〇八年)とサンダンス・キッド(一八六七~一九〇八年)の友情と恋を描いたジョージ・ロイ・ヒル(一九二二~二〇〇二年)の『明日に向って撃て』(一九六九年)や、先住民に育てられた白人青年を主人公として描く英雄カスター将軍の敗北をダスティン・ホフマン(一九三七年~)主演の『小さな巨人』(一九七〇年)や、被害者である先住民の立場から虐殺事件を描いた『ソルジャー・ブルー』(一九七〇年)といった作品が作られるようになった。
物語はすり替えられた。しかし、これらの新しい西部劇が語られる環境は変わることなく砂漠だった。
一九三〇年代前半の世界恐慌時代に実在したギャング、ボニー&クライドの半生を描いた『俺たちに明日はない』(一九六七年)では、国道が荒れ地の彼方までまっすぐ延びていて、パトカーに追われてクルマで逃げる銀行強盗の姿が描かれた。
アメリカン・ニューシネマに限らず二〇世紀を描いた砂漠映画では移動装置であるクルマが大きな役割を果たした。二〇世紀中盤以降のアメリカの閉塞感を、砂漠を舞台にして描いたアメリカン・ニューシネマの名作『バニシング・ポイント』(一九七一年)も、クルマなしには成立しない映画だった。
擬人化されたクルマの世界を描いたCGアニメーション映画『カーズ』(二〇〇六年)も、小さな砂漠の町が舞台だ。カリフォルニアで開催されるグランプリ・レースに出場するはずだったエリート・スポーツカーのライトニング・マックィーンが東海岸から大陸を越えてカリフォルニアに向かう途中で、専用トレーラーから落ちて旧道ルート66に迷い込み、砂漠の町に辿り着く。
ルート66は一九三八年にアメリカで最初に全線が舗装された大陸横断道路で、全体的に平坦な地形でトラック輸送に適していた。アメリカの背骨マザーズロードと呼ばれ、アメリカの発展を促進し続けた。しかし、一九八四年に州間高速道路号線が完成すると、その役目を終えて廃道にされてしまう。
小説『怒りの葡萄』では三〇年代の貧しい農民たちがカリフォルニアに向かう道として描かれていた。第二次世界大戦の時代は軍用品を運ぶ幹線道だった。五〇年代はロサンゼルスに押し寄せるバカンス客が通る道として栄えた。一九六〇年から始まったテレビドラマ『ルート66』のタイトルになったこの国道は、アメリカ大陸とモータリゼーションを象徴する特別な道だった。しかし、点在するローカルタウンを経由しないで目的地に到達できる高速道路の波及によって、その輝かしい歴史は終わりを迎えた。
東から西海岸までを開拓したアメリカは、なによりフロンティア・スピリット(開拓者精神)を重要視してきた。
60年代にケネディ大統領が打ち出した、ニューフロンティア構造、時を同じく、アメリカは60年代のうちに人間を月に送り出すという計画を実行。現実の物となった。
F.シナトラが唄った「私を月に連れてって」(原題は「イン・アザー・ワーズ」)はこの時代のムードを代表する曲であり、人類史上最初の、月に持ち込まれたレコードとなった。
「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である。そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が 待ち受けているに違いない。これは人類初の試みとして五年間の調査飛行に飛び立った宇宙船U・S・S・エ ンタープライズ号の驚異に満ちた物語である。」
これは70年代から始まるテレビと映画による『スター・トレック』 シリーズの冒頭ナレーション。アメリカの開拓とフロンティア幻想が色濃く伺える。(『スター・トレック』TOS版、日本語字幕(翻訳版制作:東北新社) の日本語訳)
砂漠の物語では乗り物が重要な役割を果たす。乗り物によって人類は砂漠と結びついてきた。ラクダがいないシルクロードや、馬のいない西部開拓は成立しない。宇宙船がなければ宇宙旅行ができないようにだ。
ラクダの代わりに馬に乗ったさすらいのカウボーイは、オアシスを巡る流浪のベドウィン族であり、馬がロケットや宇宙戦艦になったとしても、搭乗者たちは砂漠を放浪する遊牧民であり、カウボーイたちと変わらない。
人類は乗り物によって未開の荒れ地に踏み入り、その新たなる空間をフロンティアとして、活動圏を拡張した。フロンテイアに向かう冒険物語と乗り物は切り離せられない関係にある。
西部劇の惑星
『スター・ウォーズ』シリーズ(一九七七年~)の舞台は常に砂漠だ。この壮大な宇宙の冒険物語はダース・ベイダーになる宿命を背負った主人公アナキン・スカイウォーカーが惑星「タトゥイーン」に誕生して始まる。物語は世代を超えて進んでいくが、常に砂漠の惑星を起点としている。
アナキン・スカイウォーカーとその息子ルーク・スカイウォーカーの故郷の惑星として、世界中の人々に知られているこの架空の砂漠惑星には、西部劇の要素が散見できる。ガンマン、銃の早撃ち、ギャンブラー、襲われる農民、砂漠の遊牧民、原住民、地下資源に夢を託して集まる入植者たちの話はゴールド・ラッシュそのものだ。『スター・ウォーズエピソード4新たなる希望』(一九七七年)で、ルークとベンがハン・ソロを雇うモス・アイズリー宇宙港にある西部のサルーンのような店はならず者たちの巣窟だった。
ルーカスはサンフランシスコから内陸側に一〇〇キロのカリフォルニア州モデストで生まれ、西海岸の文化の中で育ち、カリフォルニア大学で映画を学んでいる。『スター・ウォーズ』が西海岸の文化的特徴をそのまま宇宙に置き換えたような設定であることと、ルーカスの出自は無関係ではないだろう。
ブレイク イラン、鳥取砂丘、サウジアラビア、京都
ハリウッドのエクソダス ー移民と映画
エジプト王のようなエジソンから逃れてハリウッドで成功した映画会社の多くがロシアのユダヤ系移民の子孫たちの会社だった。
ボクロム(ロシアで行なわれたユダヤ 人排斥と集団的殺害)を逃れて、アメリカに渡ってきた貧しいユダヤ人の末裔たちが、映画の都ハリウッドを作り、その後の世界市場を席巻した。
彼ら移民の末裔たちは、世界中の人々の『乾き』を熟知していた。
星の王子様
「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものだのだ。」
という書き出しで始まるサン=テグジュペリ『人間の土地』は、
「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、 初めて人間は作られる。」 という一文でこの書を結んでいる。
(掘口大學訳、新潮文庫、一九五五年)
「西部劇映画」から『スター・ウォーズ』を含めて、砂漠の映画は、 時代の違いなど関係なく、サン=テグジュペリ同様に、環境を通して人間と命の尊厳について考えさせる。
きわめて明瞭な主題がそれらの映画に通底している。渇きで知る苦しみが、人間と命の尊厳についての答えそのものなのだ。 人の力がとうてい及ばない自然の脅威の中に置かれた時、いかにして人間としての尊厳 を保てるのか。とサン=テグジュペリも問っている。
15 日本と砂漠 +シルクロード
日本を含むモンスーンとは、もともとアラビア語で季節を意味する「マウスィム」に由来する言葉である。日本の風土は四季折々に印象を変えていく。日本人はそこから情緒的な感性を育み、日本的あるいはアジア的な百花繚乱の狂おしい植物や、秋の日だまりに燃える紅葉といった風情を芸術に取り込んできた。
和辻哲郎は著書『風土』で、青々とした日本の山々と比べて殺風景な砂漠の大地を「山の骨」と称していた。表皮としての草木や樹木がない砂漠は日本の風土の規準からすると皮や肉がそぎ落とされた骨だけの存在のようだと和辻は書いている。
日本は砂漠を知らない。豊かな自然に恵まれたこの国は中国から伝えられた文献から砂漠を知るのみであった。サハラはアラビア語で「砂漠」と「荒野」を意味する。ゴビもモンゴル語で「砂漠」や「乾燥した土地」や「礫が広がる草原」を意味する。「サハラ砂漠」「ゴビ砂漠」と慣用的に同じ意味の語を重ねて呼ぶほど日本は砂漠と縁遠かった。
砂漠がない日本だが、大陸からもたらされた砂漠的文化や思想が古くから根づいている。そして砂漠と深い関係性をもつ芸術や、砂漠と深く結びついた芸術家が数多くいる。
和辻哲郎が牧場と呼んだヨーロッパも日本と同じく砂漠がなかった。しかし、その文化の根底には、砂漠地帯で誕生したキリスト教の神話や思想を抱え込んでいたし、古代エジプトや、オスマントルコ、イスラームなど、中東の文化から、多大な影響を受けていた。
モンスーンの風土の日本も同様で、遠いガンダーラから大陸シルクロードのオアシス・ルートを東進した仏教だけでなく、黄土高原を抱える中国や、インド始発のヒンドゥー教の文化、さらに近代ヨーロッパとアメリカの文化からも多分に影響を受けている。そして日本独自の感性で奇想的な砂漠を宗教や芸術に取り入れてきたのだ。
砂漠の幻想の砂漠 神道
荒れ地への怖れ
砂利と塩 ケガレ
モンスーンの風土は豊かな湿度は、同時に腐敗を生成する。
神社や寺院ー聖なる場所は、砂利石がひかれ、外界から分断される。
神事における塩はお祓いであり、腐敗を防止するものとして用いられる。
黒澤明の映画は砂漠(荒野)と切り離させられない。
°フトエフスキー作品に共通する「神に見放された人々」が、黒澤映画に共通するテーマである。
神に見放されて、辺境の場所で生きる人々の背景は常に荒野である。
奇想の砂漠 『風の谷のナウシカ』ースタジオ・ジブリ(熱風)
奇想の砂漠 植田正治と砂丘モード
植田正治(1913~2000年)鳥取砂丘を背景として“砂丘モード”と称されたシュールレアリズム的写真を制作。
16 テクノロジーとポスト風土の時代
〜21世紀の砂漠について
テクノロジーとポスト風土の時代
和辻哲郎が『風土』で、三つの異なる風土を論じてから八〇年以上が経過した。風土と環境が劇的に変化するには短い時間だが、この一〇〇年の間にオゾン層の減少や、地球温暖化、砂漠化、公害、環境の悪化といった様々な環境問題が発生した。人類がこれまで経験したことがない環境の変化が二〇世紀以降に起きた。砂漠化を含む環境の変化はすべての人類の未来を脅かす深刻な問題である。
人間の住環境も二〇世紀初頭から大きく変化した。先進国に限らず多くの国々で人々が都市に住居するようになった。都市と田舎という住環境の二極化はあるが、田舎に住んでいようとエアーコンディショニングが整備され、通信環境と交通システムが施された住環境に多くの人間が暮らしている。この居住環境の変化、そして情報化と、物流システムの整備によって、人類が暮らす世界は二〇世紀から激変している。風土と人間の関係も同様に変わっていった。現代の風土に対する態度や捉え方は和辻の時代と同じではない。風土という言葉よりも、環境という言葉の方がよりふさわしいかもしれないが、都市という新しい環境、あるいは都市という人工の風土の中で多くの人間が生活している。
アラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国のドバイは、二〇世紀に入って急速な発展を遂げた砂漠の一大都市で、超高層ビル、巨大モール、人工島などの建設で知られる。
新市街地の中心部にそびえ立つ、世界でもっとも高い建造物ブルジュ・ハリーファの周りを歩くと、驚くほど人がいない。この地区の人々は巨大なガラスチューブの歩道を歩いている。歩道橋のように続くガラスのチューブがそれぞれの商業ビルやアトラクション施設に直接連結していて、外界と分離されているのだ。
建造物とガラスチューブの通路にはエアーコンディショニングが施されていて、人間の世界は砂漠の風土と完全に隔絶されているといった印象を受ける。新市街地の中心部周辺は、車が走っているだけで、驚くほど閑散としている。時々観光バスが止まり、観光客が写真を撮って、再びバスに乗って去っていく。
ドバイの人々は、そのような人工的な空間に住み始めている。ガラス張りのメトロが往来し、冷えた水がコンビニで売られている。ドバイは世界でもっとも人工的な快適さを提供する。まるでSFの未来都市のようである。
『CityofLife』(二〇一〇年)は、そんなドバイの街を舞台としたアリ・エフ・モスタファ監督(一九八一年~)によるアクション・ミステリー映画である。登場人物たちがアラブの伝統的装束カンドーラを身に纏い、頭にゴドラを被っていなければ、この映画の舞台がニューヨークやロンドンだといわれても、疑わないかもしれない。ドバイを舞台にしたこの映画も、未来の砂漠の生活を描いているかのようであった。
人工的な都市生活を批判しているのではない。もともとアラブ世界は、荒々しく、なにも与えてくれない砂漠と共存するのではなく、どのようにして生存可能な人工の世界を建造するかという科学進歩の歴史であった。
砂漠の人類が今後どのような発展を遂げていくのか、その答えが現在のドバイの街に散見できる。
地平線とはなにか
地平線を成立させるのは、砂漠の広大さだけでなく平坦さだ。
地平線は二重の空間性をはらんでいる。遠方の世界に人は惹かれ、地平の先へと進もうとするが到達できない。
先に進むだけ地平線もそれだけ後方へと退いていく。人は地平線に接近することができない。
砂漠を進む人は、どれだけ先に進んでいっても、同一の地平線の中に閉じ込められている。
広大な牢獄といってもいい。 地平線は越えられない広大な牢獄であり、諦めて進まなければならないという、絶対的な世界感を人に強いる。
しかし、地平線は人間に限界を与えるだけでなく、世界の果てへと進んでいける可能性も示してくれる。
地平線は絶望的な世界感を我々に強いるが、一方で地平線がなければ、世界はいっそう貧弱なものになるだろう。
地平線は人間が認識しているこの世界を、曖昧なだけではなく、不思議で魅惑的なものとしてくれる。
生命に限りがある人間は、未明なる世界という、地平線を受容しなければ、この世界の大きさを受け入れられない。
そのように言えるくらい、地平線は人間の側に帰属している。
地平線とは、単に目の前に見えているだけのもの、現実の世界にあるだけでなく、むしろ「非現実的」なもの、観念的な存在として、我々の前に浮かび上がっている。
砂漠的世界の骨幹をなす地平線は、人の美意識や、時空の理解を形成する重要な要素である。地平線に代表される砂漠の空間は、距離感や、遠近法という科学だけでは認識できない。
それと同じように、砂漠もまた、思念と想像力によって認識されるべき場所なのだ。
・・・砂漠を歩いていて、そんなことを考えた。
旅を終えて
アフリカ大陸から始まり、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸、オーストラリアへと移動していった人類は、乾燥地帯に古代の文明を起こした。農耕もメソポタミアと古代エジプトの肥沃な三日月地帯から世界中へ広まっていったが、宗教もこれと同じく砂漠から広がっていった。
のちにスペイン人が南アメリカ大陸に辿り着き、移民たちが北アメリカの砂漠地帯を開拓して西海岸側まで進み、乾燥した気候のロサンゼルスにハリウッドができて世界中に映画が供給された。
述べてきた通り、人類の歴史は砂漠を越えていく歴史であり、人間は砂漠で多くの創造を行なってきた。
砂漠の風土が人格神の宗教を成立させた。ヨーロッパのキリスト教美術において砂漠は重要なテーマであり続けた。イスラームの芸術では文様の装飾が高度に発達した。抽象表象に所産である植物文様は唐草文様となって、世界中の美術と生活のデザインに浸透していった。仏教はシルクロードの砂漠地帯を東進する過程で砂漠的思考が加えられてから日本に伝播した。宗教だけでなく、日本の芸術と文化にも砂漠は多くの影響を与えている。
砂漠は人の生命の意識の位相を変容させる。普段は立ち上がってこない人間の精神の奥底にある感性を、起動させる機能を砂漠は太古からずっと果たしてきたのだ。
メメント・モリ——死を忘れるなではなく、砂漠では死は常に命の隣にあった。砂漠に関連するすべての芸術作品や、映画に通底するのが、この「死」に関する思考から絞り出された創造性であった。
二〇世紀になって、砂漠化を含む環境の死が懸念されるようになり、さらに今後の戦争が及ぼす人類滅亡の不安を、いち早く扱いアートの文脈で提示したのがランド・アートであった。彼らもまた砂漠で死と生を無自覚に思考していたのかもしれない。
マジックリアリズム!
今回取り上げなかった砂漠の芸術のひとつとして
南米(ラテン・アメリカ)のアジール文化として成立した「マジック・リアリズム」があります。
ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品『百年の孤独』や、その界隈の文学作品。
そしてフリーダ・カーロに代表されるメキシコの芸術も砂漠と深い関連性をもっています。
参考文献
・最終レポートの提出に関して(重要)
こちらのリンクから最終レポート提出についての、詳細を確認してください。