ハムナー・フォレスト

  いつのまにか、ハムナーの森の、深い霧のなかに立っている。 ハムナーというのは、南島の、カンタベリーにあるスパリゾートで有名な内陸の町です。 綴りはHanmerだが、発音は、カタカナで書けばハムナーで、日本にいたとき、いちど、日本のガイドブックにはニュージーランドやイギリスが、どんなふうに書いてあるのか好奇心で、立ち読みしていたら、ほんとうはニュージーランドに行かないで書いたのか、英語がまるきり判らない人なのか、 案の定、「ハンマー」と書いてあって、面白かったことがある。 サーマルプールとスパが有名だが、ほんとうは、小さな町の周りに広がる森林を散歩することが、最も楽しい。 あっというまに、白く、濃密になる霧のなかで、現実世界では、いつもモニさんと一緒だが、ここでは、ひとりで、なんだか魂が半分なくなっているような不安定な気持になりながら、森の奥に向かって、歩いていった。 すると、霧の向こうに、30代くらいのカップルが立っていて、ぼくのほうをじっと見ている。 告白すると、最近は、アジア系の人の顔の特徴のつかみかたを忘れているようで、顔のタイプによっては、見分けがつかなくて、まったく異なる人を、同じ人だと考えて、声をかけて、恥ずかしいおもいをしたりする。 でも見知っているような気がする。 ここにいることを誰も知らないはずなのに、と考えていたら、 「ガメさんでは、ありませんか?」 と声を掛けられた。 ば、ばれてしまった、と、よく考えてみると慌てる理由はなにもないのに、狼狽してしまっている。 だいたい図体がおおきいわりに、だいたいいつも消え入りそうにしていることを心がけているせいで、他の人にとっては、モニさんの付録みたいな存在で、最も一般的な反応は、「ああ、あのモニさんの旦那さん」です。 名前までは、本人を目の前にしても思い出せないらしくて、巧妙に避けて通っている。 親切心をだしてJamesです、とでも言おうものなら、 「あ。モニさんの運転手のかたなんですね」と言われそうだが、考えてみると、この冗談は英語を話す人でないと、判らないので日本語で書いても意味がない。 なにしろ40歳に近いほうの30代になってしまったので、ひとの顔を見れば、だいたい、どんな人か想像がつきます。 さっきアジア系の顔が判別できない、と言ったじゃない、とふくれっ面になる人がいそうだが、それとはまた別の認識システムになっているようで、 この目つきでは側に寄らないほうがいいな、とか、こういう「爽やかな微笑」は詐欺師のものだよね、とか、他人の顔を眺めながら、内心では、ろくでもないことを考えている。 よく、こんなデタラメな顔で、マジメな顔をして話が出来るね、と見ていて可笑しくなる人もいる。 閑話休題。 諦めて、ええ、そうですよ、と答えて立ち止まると、 あなたのブログのファンです、と言われた。 さて、おれはブログなんて書いていたっけ、と訝るが、 相手がファンだというのだから、特に逆らう理由もない。 女の人のほうが、 「ガメさん、もう、いいんですよ」と言う。 もう、どうにもならないのが、判りましたから。 ガメさんが言うように、踵を返して、どこかで道を間違えた近代化の道を、80年なのか、150年なのか、逆戻りして歩いて、そこから出直すしかないのかも知れないけど、もう、わたしには気力がないんです。 一生懸命やってきたつもりだったが、たどりついてみると、随分、奇妙なところに来てしまった。 それは判っているのだけど、間違っていると判ってみても、前にしか行けないんです。後戻りは、辛すぎます。 男の人のほうは、女の人のほうを、気遣わしげに見つめていて、 ひょっとすると、この女の人は、なにか死に至るような病気に罹っているのだろうか、と、ふと、思う。 言葉が出ない。 なにを言っても、目の前の、ひたむきな表情で、懸命に語りかけてくる人に、正面から向き合える言葉になりそうにない。 個人なら、そういう言い方をすれば社会が衰微して亡びてゆくことなどは、たいしたことでもなくて、早い話が、例えば、他の国の、異なる社会に引越てしまえばいい。 最近は、日本では、たいへんな数で起きているケースらしいが、親の介護で離れられなければ、なんとか余力をつくって、必要な能力を身に付けて、 日本にいたまま外国の企業や機関で仕事をするという方法もあります。… Read More ›

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  • 十年後

    二十年後なら、英語人ならば誰でもラジオで聴くか、読んだことがありそうな After Twenty Years というO.Henryの超有名な、短編というよりは掌編に近い小説がある。 Ten Years Afterなら、イギリス人が初めに思い浮かべるのは70年代のブリティッシュ・ブルース・ロックのバンドかも知れません。 十年は長い時間で、庭の端まで歩いていって、バジルを摘んでいたら、隣家の裏庭から、「このくそ野郎、たったこれだけかよ。散々、悪い事をして稼いで来たくせに、息子には、端金かよ!」と怒鳴る若い男の声が聞こえてきた。 クルマが走り去る音がして、どうやら、遊ぶ金を無心に、誰かが隣のJのもとを訪ねていたらしい。 誰だろう?と考えて、あっ、とおもう。 Jには可愛くて仕方がなかった息子がいて、あの薔薇色のほっぺたをした、 目があうと、なんだか日本風の御辞儀までして、にっこり笑う表情が可愛かったが、その子供が、小さい人を卒業して、十代の若者になって、父親と折り合いが悪くなっている。 このあいだ日本のテレビドキュメンタリを観ていて、まるで日本語を話す、見知らぬ国がどこかに、もうひとつあるようで、こんなに変わってしまったのか、と息を呑んだが、考えてみれば、最後に日本に滞在してから、12年経っているのだから、当たり前です。 日本語は普段の生活で使う機会はないので、インターネットだけを通じてのつながりだが、今更ながら、自分が見聞きした日本は、もう、ぼんやりした記憶のなかにしかないのだ、と再確認する。 インターネットを通じて言葉を交わすひとたちも、大半の人は、なんとか人生を切り拓いて、事業で成功していたり、特任というのか、数年単位での契約の講師がテニュアの教授になっていたり、なんだか昔、バカ噺に講じていた、話だけではなくて、やっぱり、話してる当人たちもバカなんじゃないの?とむかしの、練習帳ver.5に付いたコメントを読むとおもうが、twitterのDMで話し込むほうは、もっと切実で、奥さんが癌になってしまったり、 親が認知症になって介護にエネルギーをとられたり、 だいたいにおいては、社会のなかで、うまくいって、デザインした未来を着実に実現しているひとばかりだが、それであってさえ、「人間が生きていくのって、たいへんだよなあ」と月並みで、ため息に似た平凡な科白を、洩らしたくなります。 隣家のJにしても、自分が経営する会社が、好景気の波に乗って、たいへんな勢いで、得意の絶頂で、そういう人の常として、話して楽しい人ではなかったが、いつか「子供が宝だというが、ダメな子供に育ってしまったからといって、犬をSPCAの前に捨ててくるように、どっかに捨ててくる、というわけにはいかないからなあ」と唐突に述べて、吹き出してしまったことがあったが、考えてみると、もうその頃には、幼い息子に、嫌な徴候を見いだしていたのかも知れません。 日本を外から望見していて、この十余年で、最も目立つ変化のひとつは、東北大震災が引き起こした「喪失感」について、社会全体が口を開きだしたように見えることです。 初めの数年は、震災を経験しない周囲の人達が、「がんばれ!東北」 「食べて応援」で、妙に明るくて元気な印象を与える掛け声ばかりが大きくて、当の、被災したひとびとは、じっと下を向いて、何事か見えはしないものを見つめているような印象だった。 食べて応援、の舞台裏で、放射能汚染の「風評被害」のせいで、なかなか福島の産物は売れないから、という口実で、半値以下に買いたたいて、表は美談に仕立ててあるのだ、という英語紙の記事を読みながら、ぼんやり、相手を殴りつけながら、これもおまえのためだと述べるような正当化が好きな日本社会の一面を思い起こしていた。 なにしろ最近は、日本語も拾い聞きして、意味がやっと判っている程度で、映画の出来を云々する能力はないが 「護られなかった者たちへ」 という仙台を舞台にした映画を観ていたら、犯人の側も、犯人を追う側も、双方ともに近しい人を震災で亡くしていて、まるで死が共通の友人であるかのように、心を通わせていく。 もうひとつの共通語は生活保護が象徴する貧困で、犯人が殺人を犯す動機も、生活保護を受けさせなかった怨恨だが、死と並んで、貧しさが、 言語にとっては苦手な機能である伝達を可能にしている。 時を経た伽藍が崩れ落ちるように崩壊してゆく社会として、日本が描かれた場合、そのパースペクティブに、日本の姿は、うまく見渡せてしまうように見えるが、この映画もまた、もうどうにもならなくなった日本の姿を、震災という契機を道具にして、可視化している作品のひとつなのかも知れません。 日本の社会から初めに失われたのは言語だった。 正語、と言い直したほうが判りやすい。 ものごとを日本語では現実を言い表そうとする表現に常に齟齬のようなものが感じられるようになった、と思っていたら、あれよ、というまに、日本語と現実のあいだに空隙が生じて、次の瞬間、言語から現実が剥離していった。 言語は言語のつじつまだけで語られるようになって、現実をおいてけぼりにして、すべての発語は、言葉遊びのようなものになっていった。 目もあてられない、というか、プーチンのウクライナ侵攻にしろ、トランスジェンダーにしろ、忍び寄ってくる貧困のような、最も切実な問題ですら、 自分が、この言葉はこうねと、この現実は四捨五入して、こうです、と「設定」して、まるで卓を囲んで麻雀をする昭和の学生たちのように言葉遊びに没頭する。 誰かが不用意なことをひと言いえば、待ってましたとばかり、はい、その失言ロンね!で、教条が好きな観客から点棒をかき集める。 そんなことばかりやっていて、現実の社会は変わるどころか小動もしないので、他の社会が最も基礎的な構造から変わっっていった、人類史に類例のない、この十年間の世界の変貌のなかで、相変わらず20世紀の表情で、百年一日の、体制側には痛くも痒くもない言葉を壁にぶつけて、ひとりで、おれは正義の味方だと言わんばかりに悦に入っている。 取り返しのつかない十年を無効な言語のなかで過ごしてしまったことを、 日本語社会のなかに住むひとたちは、肌で感じているように見えます。 正体は判らなくても、自分の呼吸がだんだん苦しくなってくる、その日本語の大気のなかには、なにかしら、人間性を踏みにじろうとする瘴気が混入していることを、いまは、明瞭に自覚するようになっている。 社会を立て直すのは、もう手遅れだと、見ていて、ぼくは思っています。 くだらない人間が偉そうに正義を振りかざしだしたら、それが日本が亡びるときのサインだ、憶えておきなさい、と吉田茂と宮沢喜一が、別々の機会に、独立に、自分が経験で学んだ日本の変化の徴候の読み取り方を述べている。… Read More ›

  • 木枯らしのなかで

    日本のドキュメンタリを、ひととおり見終わったら、なんだか、寂しい気持になってしまった。 ひとつにはインタビューに答える、街角で偶然出会った人たちが、「真実の言葉」で話しているからです。 なかには「ご職業はなんですか?」と訊ねられて、ふざけたつもりなのでしょう、「詐欺師!」と答えたりして、おにーさん、そのセンスじゃ世間を渡れませんで、とおもうような冗談にならない冗談を述べたりする人もいるが、少し目を逸らせて、「まあ、自分は膵臓癌になってしまったので、会社もいまはたいへんなので、病気なら辞めてもらいたい、というようなかたちですね」と微笑う、口元が凍っている。 丁寧のうえにも丁寧で、厚化粧におもえるくらいに丁寧語を重ねて話す内容は、現代日本語で「言い換え」が発達して意味を弱めて言葉を口にする習慣が蔓延した理由は、これか、とおもうくらい、悲惨を極めている。 迂闊なことに、十数年前に、いまのまま日本の社会を運営していくと、こうなるよ、と、日本語の友だちたちに伝えて、日本を去って、戻らなかったが、十年以上も経てば、述べたことが悉く現実になって、現実になれば、 いま画面を通して目の当たりにしている悲惨が訪れていることを忘れていた。 日本は経済ピラミッドの、いちばん下から、色が次第に変わってゆくように、貧しくなった。 ブログなんかで、何度繰り返し書いたって、誰も聴いてないのだから、当たり前だが、何度も何度も書いて仕組みを説明して、出来れば逃げろ、とすら述べたように、アベノミクスは、一種の貧困層から有り金を吸い上げるサイフォン装置で、そのうえに、自分よりも経済階層が下の人間は、なんらかの落ち度があるから下にいるのだ、という、無惨な思考の習慣を持つ日本社会の悪癖が重なって、公園で無料のお弁当を配る長い長い列の後ろで、マイクを向けられて、「まさか、自分が困窮者になるとは思いませんでした」と笑いながら話す、いかにもマジメそうな眼鏡の40代の人を量産している。 びっくりすることは、いろいろあって、ホストクラブが広まって、若い人で勉強嫌いな人にとっては憧れの職業であるらしいこと、若い女の人が性風俗産業で生き延びるのは、普通のことであるらしいこと、 どうもドキュメンタリ全体の様子から見て、そういう人ばかり選んでいる、というわけではなさそうで、ヒントは、インタビューの初めでは、昼間からビールを飲んでいることを照れて、「やあ、たまには、やんちゃしないと」と笑っていた人が、自分が好きなNHK番組の取材班だと判ると、 「ああ、あの番組の!それじゃあ、ほんとうのことを言わなくっちゃ。ほんとうのことを言います。実は肺がんで、あと数ヶ月なので、ここにいる女房と、ふたりで話しあって、もう好きなことをやっていいよねって、話になりましてね。 いちど来てみたかった浅草に北海道から来ました」と、やはり笑顔で話している。 奥さんも手で口元を隠しながら、ごくごく平静に、ええ、そうなんです、と、カメラを見ずに、呟いている。 泣きもせず、表情すら変えずに、淡々としています。 英語人のあいだでは、少なくともUK人やNZ人のあいだでは、日本人は人間性に乏しい、ということになっている。 ロボットみたい、という人もいるし、つくりものの表情に見える、という人もいます。 ほんとうに、自分たちと同じ人間なのだろうか? 失礼だから、口には出さないが、悪意というのでもなく、普通の常識として、「なにを考えているのだか、よく判らない日本人」は定着している。 自然にしている、ということが日本の人は出来ないのではないか。 それがですね。 街角の不意打ちインタビューでは、ぎこちなさはあるものの、自然の反応で、しかも答えている内容は、往々にして、こちらが涙ぐんでしまうような内容でした。 どうして、そんなに耐えることが出来るのだろうと訝しくおもえるほどの重さのある現実に耐えている。 さっき「日本の人の青い目」という記事を書いていて、明治以来、空想上の西洋の視点から世界を見ることが習慣になった日本の人たちの不運について書いていたが、書いているあいだじゅう、職を失い、住居を失って、病んで、それでも生きようとして路上をさすらう日本語人たちの顔がちらついて、書けなくなってしまった。 そんな文明の仕組みから来た矛盾と機能不全を、いくら書いたって、あのひとたちには、たとえ何かの弾みに目に止まっても、言葉は届きはしないからです。 そうして、その、言葉が届かない、悲惨のなかで悪戦苦闘している人達だけが、「ほんとうの日本語」と感じられる言葉を話している。 義理叔父は「フーテンの寅さん」という映画シリーズが大嫌いで、 「あんなものはクソ知識人が頭ででっちあげた『愛すべき愚かな庶民』で、まったく胸くそが悪くなる」と、なにも、そうまで言わなくても、とおもうくらい 、たいへんな嫌いようで、いちどなどは、取引を求めてきた会社の社長に、いったんOKですと述べていながら、専務だか常務だかが、実は、わたしどもの社長は庶民派でして、「フーテンの寅さん」が大好きなんですよ、と述べた途端、クルマを止めて、「オタクとの取引はお断りします。あんな贋物が好きな社長では、取引したって、ろくなことはない」と、その場でおっぽりだして帰ってきてしまった、という伝説まで持っている。 ぼく自身も映画は、なにより、退屈で、最後まで観られなかったが、 渥美清という俳優は好きなので、そこまで嫌いではないが、 なるほどインタビューに答えている人達は、フーテンの寅さんや「おいちゃん」の対極にいるひとびとで、関西ヤンキー風なバカ語を使いながら、考えは、深みの底に届いている。 どうすれば子供を育てていけるか。 どうすれば明日を食べていけるか。 必死に考える習慣があるからでしょう。 言葉に、現実の底から噴き上がってきたような透明度がある。 酔って、目元がぼんやりしてしまって、ちゃんと居酒屋の畳の上に座れなくなって、身を反らせながら、 「こおおおんな夜があるから、わたし、自殺やめることにしたんですううう。なんちゃって」と身をよじらせて笑いころげる、ひどい歯並びの「キャバ嬢」 少し上目遣いにカメラを見上げながら、ええ、もうこんな生活続けてると、食えねえッスから、とジッと、まるで自分自身を睨み付けるような顔になる、浅黒い肌の、痩せた、「建設業」だという、若い男の人 厳寒の秋田で、200円の蕎麦の自動販売機について、子供のときから、寂しくなると、ここに来るんです。人はいないんだけど、なんだか人のぬくもりがある、と話す女の人がいる。 日本にいたときに、話す相手を間違えたな、とおもいます。… Read More ›

  • テレビ番組のなかの日本

    日本のテレビで放映されたドキュメンタリーを、まとめて見る機会があった。 案に相違して、面白くて、折角ナンバ歩きも、モダンヴァージョンのサムライ言葉もマスター仕掛けていたのに、サムライ技能を放棄して、中断して、 大小のドキュメンタリに魅入ってしまった。 新しいものばかりです。 80年代や90年代のものは、思い入れたっぷりで、感情でびしょびしょで、日本の人は嬉しいのかもしれないが、なれないので、十分間以上、見ているのはむずかしい。 まさか笑ったりする失礼なことはないが、なんだか、くたびれてしまうもののようでした。 2015年くらいから、ぐっと良くなるので、ここ数年のものばかり観ていた。 貧しくなったなあ、と、むかし栄華を誇った友だちの、一時の不運な窮状に同情するような気持があります。 居酒屋のようなところが舞台のドキュメンタリだと、びっくりするほど「ええ。仕事は風俗です」と悪びれずに述べる女の人が、「今年から頑張って、死ぬ気になって仕事をしないとダメなので、この人とは別れることにしました」と述べている。 「この人」と言われた、向かいに座ってる男の人は、寂しそうにビールのジョッキを傾けている。 どういう具合か、そういう人ばかり選んでいるようにも見えないが、女も男も、出てくる人出てくる人、風俗業で、さもなければ派遣で、残りは介護士という印象で、日本には産業がなくなったのか、と錯覚するほどです。 企業城下町で、工場の町のドキュメンタリがあったとおもうと、テーマは工場の閉鎖で、外国や他の町に移れば仕事を続けるチャンスがあると会社から言われた人たちが、同僚同士、寄り集まって、どうしようと話しあって、 やっぱり馴染んだ町は離れられないと結論して、「職探し」という名の無職の状態になってゆく。 「羊のようにおとなしい」と評される、そのどの人もが、思慮深い人の、静かで美しい表情を称えていて、なにごとかを深く期しているのがスクリーンを通して伝わってきて、こちらも、なにげなく観ていたのに、唇が自然と引き締まって、酷ければ歯をくいしばって、なにごとかを必死で耐えなければ、僅か30分の番組を見続けられなくなる。 我慢ができなくなって、涙が溢れ出して来てしまうことになる。 工場の前に街宣車を止めて、「企業の搾取を許すな!労働者の権利を保証せよ!」と、正しい、当然のことを叫んでいる革新政党のひとびとが、ただの薄っぺらい、教条が好きな、暢気な白痴に見えてきます。 新大久保の290円弁当の店の72時間を取材したNHKの番組があって、基本的な語彙を知らずに聞き返したりしているレポーターに嫌気がさして、他のドキュメンタリーに移ろうとしたら、丁度その瞬間に、290円弁当を買いに来ていた人が、「わたしは道路に寝ているんですけどね」と述べるので、手に取ったエア·マウスを止めて、どういう意味だろう?と考える。 「わたしは、ほら、津波で家が流されちゃって、ないんですよ、家が」 だから仮宿泊所が閉じた後は、東京に出て、路上で寝起きしているんですけどね。 教会が週末の慈善活動で、無料で配っている290円弁当を、自前で、もうひとつ買って、このふたつが今日の食事だという。 あるいは、「いまは仕事をちょっと休んでいる建設関係」の人が食堂で、 「復興事業関連の仕事」を、ずっとやってきたが、いざ支払いの段になったら、 「これはボランティア活動だと明記してあったはずだ」と言われて、払ってもらえなくて、それ以来、不信に陥って仕事をしていないのだと述べていた。 なんだか愚かな感想だが、障害のある息子を抱えて夫に早く死なれてしまった人、子供のときに両親に捨てられて、でも親が恋しくて、いまでも会いたいですよ、会えたら、どんなにいいだろう、と淡々と述べている若い人、映像のなかの日本の人達は、ネット上の日本語人たちよりも遙かに陰翳が深くて、なにごとかを懸命に耐えて、前を向いて生きていて、見識をもたず、能力が低いので世界に知られるに至っている日本の顔の「知識人」からは想像も出来ない文明度の高さです。 軍隊では階級があがるほどバカで、下士官が最も賢いと言われて、 経営においても係長までは優秀だが、そのあとは、段々おろかになって、 いちばんバカな人間が社長になる、と冗談に言われる日本企業や、 市井のひとびとは、まともだが、知識人の程度はびっくりするほど低い、と大学でまで教わる日本の、「さかさま社会」を、テレビのドキュメンタリまでが実証している。 なぜ、そうなるのか。 根本の原因の追究をいったんやめて、直截の原因を考えれば、無論、それは他者についての評価が機能していないからです。 社会の批評軸が枉がって、「なにが価値があるか」という判断が出来なくなっている。 おもしろいことに、日本の歴史を遡ってみると、この奇現象はいまに始まったことではなくて、明治の初めから、ずっとおなじであったもののようです。 勝海舟は、将軍からだったか、「アメリカと申す国と我が国との違いはなにか?」とご下問にあって、「アメリカでは賢者が引き立てられ、日本では愚人が引き立てられる」と答えたそうだが、ドキュメンタリでレポーターの質問に応えている市井のひとびと、それも、どちらかといえばビンボで、社会の底辺で喘いでいるひとびとのほうが、人間としての叡知も、矜恃もあるように見受けられて、観ているこちらは一層、日本という国の不可思議に打たれてしまう。 観ていておもったのは日本語社会にはempathyが欠如しているのではないか、という疑いでした。 Empathyは固より、日本語には粗筋じみた意味は訳せても、それがほんとうに意味する「他者を自分のように感じる」本来の意味は、日本語では説明しきれない語彙のひとつです。 英語では、この感情の共有の状態が基本的感情のひとつなのは、北海文明から来ていて、平たくいってしまえば同族の「仲間意識」で、もちろん、人種差別の温床をなす感情でもある。 しかしemapathyが欠落した社会では、他人の痛みに同情するもしないも、感じられないので、倫理的な行動の意味そのものが変わってしまう。 COVIDの前のオークランドの普通の、普段の光景として、下校途中の高校生たちが、余計に買ったハンバーガーとコーヒーを持って、ホームレスのひとたちを両側から身体をすりつけるようにして、談笑して、夕方のひとときを楽しむ姿が、見慣れた風物になっていた。 それは慈善というようなものではなくて、自分がホームレスになったら、道行く高校生たちが、自分を無視するようにして通行していくのは嫌だろな、という単純な気持に起因している。 励ますような言葉は細心の注意で避けながら、ホームレスのおっちゃんを相手に、こんなことが、今日は学校であったよ、いまは、こんな音楽が流行ってるんだよ、ちゅうような話をしたおぼえは、誰にでもあるはずで、ぼくもまた、ホームレスのおっちゃんと、ハムベーコンサンドイッチを食べながら、月を見上げる楽しさを、いまでもおぼえている。… Read More ›

  • ちゃん文化

    見ていると、日本の人は「敬意を保って批判する」のが苦手なのだな、と、よく思う。 相手の意見が自分と異なる、いや、それは違う、と感じると、軽蔑の感情や憎しみの感情を、なんとか相手に伝えようとして、職場や家庭、学校、匿名掲示板のコミュニティでシェアされている相手を傷つけるために念入りに工夫された定型表現を、ぶつける。 最近、朝日新聞はオカネを払って講読している。 けちんぼジェイムズとしては、驚くべきことで、感心してしまうが、 もともとは岡田玄というスペイン語に巧みな記者が書く記事の人間味に惹かれたからです。 異動で日本に戻ってしまったのか、素晴らしかった特派員記事を見かけなくなってしまったが、このブログと付き合いが長い人は、みな知っているように、日本のマスメディアの酷さを何年にもわたって批判してきた目から見て、この人はジャーナリスト魂を持っていて、そうか、日本の社会でもマスメディアが機能しはじめたんだな、と思わせるところがあった。 署名記事が増えて、手元には各社の新聞記者の名前と、良かった記事、ダメだった記事のリストがあります。 Appleから「ジャズ」を買って「Excel」に仕立て直したマイクロソフトの人も、よもや、新聞記者のリストに使われるなんて、お釈迦様でも気がつくめえ、予想外で、岡田玄記者と、なんど目撃しても素敵な名前の國枝すみれ記者を足して平均値をだしたりする用途に使う人間がいるなどとは予想しなかったに違いない。 藤原学思記者という人が、「Qを追う」という連載から始まって、2ちゃんねる、4ちゃんねる、「ちゃん文化」と呼ぶのを知らなかったが、西村博之という人が始めた2ちゃんねるを源流とする匿名掲示板が、もたらしてきた弊害が、いまや、英語に伝染して、キャピトルヒルを襲撃する事件を引き起こすまでになっていることを追究している。 日本語人物像の、良い悪いには、あんまり興味がないが、この西村博之という人は、このブログの用語でいう「ゲーマー族」で、世界をゲームと看做して、「勝てばいいのさ」で徹底している人です。 日本の歴史でいえば、日本を、その考えの薄っぺらなケーハクさで戦争に引っ張っていった陸軍省や海軍省の若手課長級に、発言も考え方もそっくりで、このタイプの人は日本では支配的なちからになりやすい。 匿名掲示板文化なんかが、ちからを持つことがあるの? という気がするが、観察していると、どうやら、面白い原因で、 日本社会は世界のIT化に飛び乗り損ねて、こけてしまったので、 まだ20世紀末のころから、社会を現実に動かしている「ネットが判らない」おっちゃんたちがインターネットに対して、おおきなコンプレックスを持っていた。 わかりやすくいうと「ネットを勉強してます」と述べるタイプの人たちですね。 「社会に乗り遅れてないことを見せる」ことが大事だと考えるタイプのひとたちにとっては「ちゃん文化」の隠語「キボンヌ」「通報しますた」 「www」を共有することが嬉しくて仕方がなかったのでしょう。 居心地もいいし、個々の人間の疎外が、極端に進んだ日本社会にあっては、 人間のぬくもりの暖をとる場所が「ちゃん文化」の炬燵だけだった、という人もいるはずです。 試しに藤原学思記者のツイートをひとつ取りだしてみると、このたったひとつのツイートへのリプライにさえ「ちゃん文化」を支えてきたロジックや修辞、日本語のusageまでが総攬されて、面白いが、うんぬん、デンデンしても仕方がなさそうなので、ここでは意見は述べる気がしない。 https://twitter.com/fujiwara_g1/status/1527879642090196998 ひとつ、これはたいへん面白いと考えたのは 「敬意をもって褒める人」と 「敵意をもって相手よりも高所に立って、見下した態度や軽蔑をもって否定する人」 がいるだけで、議論というものに意味があるものならば、中心的存在であるべき「敬意を保って相手を批判する人」が、殆どいないことです。 相手に敬意をもたないので、怒りも見られない。憎悪があるだけです。 あんまり仔細に見ていないので、「殆どいない」と書いたが、一見は、ゼロ、 皆無であるようにおもわれる。 歴史から学ぶ社会は歴史を繰り返さないが、戦後日本社会は、残念なことに歴史を検討するタイミングが、ちょっと遅かった。 外国語人たちで最近の日本を見ている人は「ああ、あのコースを進み始めたな」と思って見ているでしょう。 日本が破滅的な対米戦争に向かって歩いていくことになったのは、社会自体が「誰もおもっていることを言えない」状況を自分たちの手でつくってしまったからでした。 「そんなことを言ったって、アメリカと開戦したら勝てるわけがないじゃないですか」というひと言が、誰にも、どうしても、言えなかった。 めんどくさいので、いつも日本の「赤勝て白勝て」の癖、と投げやりな表現をしているが、陸軍と海軍で「赤勝て白勝て」フェーズに入ってしまって、 ほんとうのことを、そのままポンと言おうものなら、怒号が飛び、冷笑が満ちて、一瞬で言葉によって処刑される。 陸軍は海軍が「勝てません」と言うのを待って、「海軍がそんなにだらしがなくては、陸軍としても対米戦争に踏み切れない」と述べる機会を待ちかねていて、海軍は陸軍が「自信がない」というのを切望して、結局、誰もが最も望まない対米開戦へ押し流されてゆく。 将軍や提督たちの、このだらしなさが、どこから来たかというと、意志決定上の下剋上が風潮になっていた陸軍省海軍省の課長級がとりまとめた「軍の意志」で、意志とは呼んでいるものの、つまりは感情です。 ここで、たいへんにたいへんに興味深いのは、「ちゃん文化」は、非軍人を「地方人」と呼んだ旧日本帝国軍隊内文化に、そっくりであることです。 どこからどこまでも似ていて、古参兵によるいじめや、コミュニティ内だけで使われる隠語と符丁、集団の最大公約数である意見から外れたことを言うと、袋だたきにされるところ、ウソが公然と通用する風土まで、そっくりそのまま、気味が悪いほど似ている。 旧軍でも、例えばアメリカ軍に較べて、最も異なっていたのは、… Read More ›

  • 鎌倉の休日

    子供のころ、遊びに行きたい、と述べると、鎌倉ばーちゃんは、なんだか枕詞か時候の挨拶ででもあるように 「週末は人で混み合うから、平日に、おいでなさい」と必ず付けくわえたものだった。 二十数年前で、そうなのだから、最近、鎌倉時代を舞台にしたNHKの大河ドラマが流行っているらしいいまは、さぞかし、人でごった返していそうです。 後年、いちど、日曜日に、友だちが住んでいた瑞泉寺から護良親王の墓を通って、鎌倉宮の脇を抜けて、駅まで歩いていったことがあったが、あんなものは初めて見たが、人間が大渋滞を起こしていて、身動きが出来なくて、しかも、片方の観光バスは慣れない運転手だったのでしょう、定期運行のバスと、車道で睨み合いを初めて、人間渋滞で身動きできないまま、頭を雲の上に出し、白髪頭や禿げ頭を見渡した向こうを眺めていると、到頭バスの運転手が降りていって、運転手同士、怒鳴りあいの喧嘩を始めるありさまだった。 だから「鎌倉の休日」と言っても、鎌倉にいたのは、たいてい平日です。 それでも、けっこう人は多かったけどね。 地元のひとびとによれば、人が多いといっても、真実は半数近い人は、白昼もおかまいなく出現する幽霊だそうなので、死人(しびと)も町の賑わい、死せる魂も、鎌倉市の繁栄に寄与しているのかもしれません。 子供わしが鎌倉に行って、なにをしていたかというと、海遊びと山歩きです。 マルボロ·サウンドのQueen Charlotte Track縮小版みたいなもので、天園や祇園山、鎌倉には山歩きの小径が、たくさんある。 町をぐるりと取り巻く低い丘の頂から頂へ、尾根から尾根へ、全部ぐるりと繫がっていて、そうそう軟弱とばかりは言えなくて、特に長い天園のハイキングコースなどは、うんこらしょと、攀じ登らなければあがれないおおきな岩が積み重なったところもあれば、左に折れれば、地元人に「京都から来た新しい嫁さんがいかん」と大層評判が悪かった北鎌倉の明月院、右はたしか横浜の戸塚まで歩いて出られたはずで、距離も十分にあった。 朝夷奈の切り通しを初め、切り通しのある旧道も、大好きな場所で、鎌倉七口、というが、自分では、朝夷奈と化粧坂が好きだった。 最後に鎌倉に行ったときは「東京からのグリーン料金が100円安くなる」と、北条の陰謀を述べる人のように、さも重大な秘密を打ち明ける顔で地元の人が教えてくれる、「通(つう)の鎌倉」で、50km区間の切れ目のぎりぎりの手前の北鎌倉駅で降りて、浄智寺の墓地を通りぬけてしまえば、もう、こっちのもので、なにがこっちのものなのか、さっぱり判らないが、ともかく、空気が森閑として、化粧坂の段々につづら折りの切り通しを抜けて、夕暮れになれば亡霊が現れる、源氏山の日野俊基の墓に出る。 そういう言い方をすれば、鎌倉は丘の上にだけ残っている。 地図を見ても、グーグルアースでも、いくら見つめても判りはしないが、 足を運べば、一瞬でわかる、空気が現代のものでなくなって、鎌倉が寂れに寂れた江戸時代のものなのか、室町時代かは判らないが、 登山帽にヴェストの、「観光制服」を着た日本の人のグループに出会わなければ、木の根が突き出して、崩れやすい足下に気を付けながら歩いていると、そっと、鎌倉時代の霊たちが、寄り添って、手をとって歩いているような気持になります。 町は終電が終わった夜更けが素晴らしい。 おとなになってから、鎌倉を訪問すると、縁側と板硝子の引き戸につられて購入した、あんまり使わなかった家に泊まって、出かけて、いまは自殺して世界におさらばしてしまった絵の蒐集家の友だちと、喧嘩蕎麦屋か魚佐次か、どちらかで午ご飯を一緒に食べて、友だちの家の押し入れから、ちょっとここではあんまり書かないほうがよさそうな、この人の専門分野の絵を引っ張り出して、ああでもない、こうでもない、ガメちゃんね、この絵は、ほんとうはこうなんだよ、と、いつ会っても時間を忘れる楽しさで、終電が近いころになると、駅前に出て、朝まで開いているバーで話の続きに没頭していた。 ケイトという愉快な名前の毛糸屋さんと小町園が並んだ前の道を、ふたりで酔っ払って通って、昼間は、おいしい、あっとうまに売り切れるおにぎりを売っている米屋の角を折れて、妙法寺の墓をめざす。 いま考えてみると、れっきとした不審者だが、異形なので、幽霊だとおもって恐れたのでもあるのか、いちども文句を言われたり通報されたりしたことは、ありませんでした。 鎌倉は幽霊の町だというが、実際に目撃者続出のポイントは限られていて、 腹切りやぐら、まんだら堂、下馬から海に少しおりた、いまでもあるのかな?、消防署があるところで、特にこの消防署のまわりは、むかしは松林があって、「この松林が、やばいんだよ」と地元の人が、嬉々として解説してくれるところで、 「なにがすごかったかって、行けば、必ず出たところがすごい」 という。 お話を聴いていると、だいたい60年代頃の見当であるようなのに、リアカーでなくて大八車だというから、びっくりしてしまったが、大八車を引いて、お使いに行くと、わああああ、という合戦の声がする。 思わず識らず鎧武者の姿が見えてしまうこともあったそうです。 最近、なくなったと聞いているが、この松林があった場所にはマクドナルドがあって、ここでパートのアルバイトをしていた若い女の人は、ある日、ロッカーを開けて制服に着替えていたら、ロッカーのドアの裏についている、例の小さな鏡のなかを、甲冑を着た武士が、すうううっと通って、 「それで、わたし、一日でバイトやめたんだもん」と述べていた。 埋葬された骨を、ろくすっぽ移さないまま、墓地の上に、どおおんとマンションを建ててしまったせいで、亡霊とハウスシェアリングすることになったという噂の山崎の丘や、鎌倉は語源が「屍倉」だというくらいで、死や亡霊と切っても切れない縁がある町だが、それが魅力のひとつでもあるようでした。 義理叔父は、鎌倉の実家にもどると、ときどき幽霊を見ていたようで、 シンゴジラにも出てくる、いわし料理屋を出て、友だちふたりと材木座に向かって歩いていたら、さっき渡ったはずの江ノ電の踏切が、また眼の前にある。 いくら酔っていると言っても、海岸通りの一本道で、いくらなんでもヘンな話だとおもいながら、それでも酔っ払いの暢気で、そのまま歩いていくと、 また江ノ電の踏切があって、あまりのことに、酔いが醒めて、ふと、線路の鎌倉側を見たら、見えるはずのない和田塚の駅が見えて、その向こうの踏切を小柄な馬に乗った武者の行列が横切っていくのが、はっきり見えた、と言います。 なにしろ腹切りやぐらなどは、北条高時以下、何百人という北条一族が、ことごとく切腹して、流れ出した大量の血で、滑川が半日赤く染まったというくらい、血みどろの町で、そのうえ、中世の人にとっても、理不尽な死は理不尽なのに決まっていて、歴史を眺めていると、そりゃ化けて出たくなるよね、とおもう。 カヤックで遊んでばかりいたころは、夏の葉山の明るい海が好きで、空はどこまでもどこまでも青くて、積雲が野性の群れのように、その青空を横切って、もう何度も聞かされて読む方も困るだろうが、鐙摺山の後ろには、雄大な積乱雲が立ち上って、パドルの手を休めて、空を見上げて、バランスを失って、ひっくり返ったりしていた。 陸にあがれば切り通しは、まだまだ中世の欠片で、茂みに覆われて暗い歩いていけば、崖のうえに、潜んでいる甲冑武者たちの姿が現れそうな気がする。 鎌倉市自体は、鎌倉で生まれた人達にとっては、どうやら不満の多い町で、いつか市名を隠してニューズになっていた掲示板で生活保護窓口を隠していた市役所は、鎌倉ばーちゃんのお伴で、いちど一緒に行ったことがあるだけの、ぼくでもひと目で判る鎌倉市役所です。 そのうえ、もともとキャパシティが小さいところに、数度のブームで退職したサラリーマンのひとびとが、そのたびに、どどっと押しかけて住みついたせいで、インフラが間に合っていなくて、まさか名前は書けないが、入ると誰も出てこない、という噂の大病院などは有名で、倒れて、救急車が駆けつけてきて、… Read More ›

  • 日本語の美しさについて 1

    振り返って、結局やらないで終わってしまったもののうち、最も成りたかったものは能楽師であることは、前にも書いた。 身の丈が2mを越える乙女では、能の神様も、ぶっくらこいてしまうが、 このあいだ、サムライドラマを見ながらリファレンスにネットで調べていたら、お市の方と並んで、戦国時代の超絶美人の代表、美濃の深芳野は身長が188cmあったそうなので、20cmくらいなら、能楽の神様にもおまけしてもらえるのではなかろうか。 舞台で最後に観たシテは、名人の呼び名が高い人だったが、でっぷりと太って、まさか現実にはそんなことはないが、面とおなじくらいはみだしてんじゃないの?と、言いたくなるくらい、あごの肉がぶよぶよとはみ出していて、それに較べればマシであるような気がしなくもない。 能の尋常でない幽玄美は、世阿弥が「風姿花伝」を書いた15世紀の、ごく初期から完成されていて、しかも、これは偏見だと言われそうだが、観客ひとりであることを理想としていて、もしかしたら、能を極めれば、演者は、神仏だけを観客として舞いたいと願うものなのかもしれない。 能が永遠に朽ちていかなさそうな美を保っていて、歌舞伎とおおきく異なるのは歌舞伎が「生」に依拠しているのに、能は「死」によって支えられているものだからだろう。 生は移ろって、変わってゆくが、死は、変わりはしない。 死に強く強く引き付けられる日本の人の国民性と相俟って、日本に文明というほどのものが残っている限りは、能もまた、舞われていくのではなかろうか、と思わせます。 美は、倫理によって牽制されない。 それどころか、時によって、そんなに少なくはない頻度で、反倫理的なもので、古代ギリシャの昔から、目に一丁字もないような観客でさえ、母子相姦の悲劇や父親殺し、容赦のない裏切りの殺人に、身を慄かせながら、その反倫理の美しさに、魂を奪われていった。 なんども述べたように、日本人は、幕末にオランダ語を翻訳する必要から、「引力」「重力」「真空」「遠心力」と次次に思考を組み立てる必要に駆られて「新しい日本語」を生みだしていく。 近代化をめざして、強い軍事力をつくることによって世界の仲間入りをすると決めた明治時代になると、ほとんど量産と言いたくなるくらいの勢いで、 つぎつぎに日本語を生産し始める。 権利、社会、常識、恐慌、絶対、理性、義務、個人、自由 切りがないほどです。 ここで注意しなければならないのは、当時は、ごくごく一部の海外生活経験のある日本の人以外は、こういう「近代日本語語彙」は、ラベルだけが貼ってあるカラッポの缶詰のような言葉であったことで、翻訳された文章の文脈から 「こういう機能がある単語なんだな」と勘がいい人が理解できただけで、 現実には、文字通り「空をつかむような」話で、いわば言葉の歴史性が判らないので、血肉とはなりえなかった。 西洋には「自由」というものがあるそうだ。 西洋には「個人」というものがあるそうだ。 西洋には「権利」というものがあるそうだ。 で、観念的に印象していただけです。 Integrityという判りやすい一例を挙げたら、なんだか全部integrityが代表してしまって、ちょっと戸惑うが、倫理に至っては、意図的に、日本語の体系から外してしまった。 政府の意図は、簡単で、富国強兵というものの、中身を検討すると、富国は強兵のために限定されていて、国家予算の半分を軍隊につぎこむありさまで、つまりは強大な軍隊をつくることが近代日本という国家の全身全霊を挙げた目標だったので、 立て杭にしばりつけられた台湾の蕃人や朝鮮半島の市民を、命令一下、引き鉄をひいて、ためらいなく撃ちころせる国民でなければ困るからです。 倫理などもたれてしまって、ナチの親衛隊SSではよくあったことだが、 「わたしには、人間として、命令を実行出来ません」とでも言われた日には、日本は弱国のまま終わってしまう。 倫理などは国家の成長にとっては邪魔なだけで、ついでに言えば、人間性なんてもたれてしまっては、いまの白痴的なネット語をわざと使えば「お花畑」の空疎な実質をもたない言葉でいてもらわなければ、国が軍事費の元を取るために他国へ侵略していけるほど強くならない。 人間性がある社会なんて、軟弱なものをつくってしまえば、日本は亡びるだけだ、というオサムライが作った国らしい、強い思いがあったようです。 慌てて付け足しておくと、軍事で世界に伸してゆこうと考える限り、この国家デザインには現実性があって、戦場の兵士は、実はあんまり真剣に相手を殺そうとしないものなのが、よく知られている。 いまでも「良い戦争」とアメリカ人が呼ぶ、対日戦の太平洋戦争でも、10人のうち真剣に日本兵を狙って射撃する兵卒は、4人もいればいいほうだった、という。 これが、なにしろ最高指揮官の姓がドイツ語名前だった欧州戦線では、2,3人に減る。 興味深いのはアフリカ戦線でのイタリア兵で、自分たちの生命が脅かされる局面になってさえ、人を殺すのが嫌さに、わざとやや上方に向かって射撃する兵隊がほとんどだった、という証言もあるくらいで、人殺しをするくらいだったら逃げる、という気分にあふれた軍隊で、旧式兵器と並んで、これがイタリア軍の弱さの原因だったように見えます。 そこにいくと明治政府以来の薫育が奏功して、敵兵だろうが敵性市民だろうが、命令通りマジメに殺すので、帝国陸軍の兵は、オンボロ兵器が多かった割に、無茶苦茶なくらい強かった。 すでに兵器の用法というシステムの部分で、ロンメルが書いた「歩兵の突撃」、例えばspandau、MG-42は小区域の制圧を目的としているが、日本軍は機関銃による「狙撃」で有名で、恐れられた。 アメリカ軍兵士たちに心から尊敬され、愛された報道写真家アーニー·パイルも、この、軽機関銃による狙撃で日本兵に殺されます。 長々と戦争の話題に触れたのは、そもそも近代日本語の究極の目的が「強い軍隊をつくって戦争に勝つこと」だったからです。 いまから振り返ると、日本の人自身が呆れ返ってしまいそうだが、 日本の国家としての経済構想は、「オカネは全部軍隊にいれあげて、国の富や国民の幸福は他国を侵略して冨を奪ってくればよい」に尽きていた。 むかしは征台の役と呼んで、ちゃんと戦争として扱っていた宮古島島民殺害を口実にした台湾占領に乗り出すのは1871年という早さでした。… Read More ›

  • 太陽の下で

    世界は、どんどん、良くなっている。 えええ? なに言ってるんですか。 プーチンがウクライナに攻め込んでるんですよ。 ハッカーが新疆の警察サーバーから入手したウイグル人強制収容所の酷い現実を読まなかったの? うん。 そうなんだけどね。 強権国家という20世紀の亡霊が世界を歩き回っているのは事実だが、21世紀も着実に芽生えていると思うんです。 COVIDがパンデミックになる直前、ニュージーランドは労働日の週4日制を導入しようとしていた。 もともとは、すんごいビンボ国だったのが、賃金があがって、豊かになったので、もうこのくらいでいいんじゃないか、ということになっていた。 あとは、もっと時間をつくって、みんなで遊ぼう。 日本の人に判りやすくいうと、日本の人の半分もなかった収入が、主にITによって起きた情報革命の恩恵で、日本と同じくらいになった。 今年は、政府人のお話では、日本よりも個人の収入は多くなっているようです。 パンデミックでダメになっちゃって、おまけに貰ってる側から「払いすぎじゃないのか?」と言われるほど休業補償をばら撒いたりしたので、 借金も増えて、経済が不調になったので、元の黙阿弥で、 週5日制にもどっちゃいましたけどね。 ところが、ところーが。 パンデミックで、自宅で働く人が増えたので、会社で働く人たちと経営陣が額を集めて相談して、自宅でもオフィスでも、好きなほうが働けるように、システムを考案して、洗練させていった。 例えば4月28日のAirbnbの広報を眺めていたら、 You can work from home or the office You can move anywhere in the country you work in and your compensation… Read More ›

  • 成田空港

    九十九里浜が見えてくるときと、富士山が見えているときがあって、風向きや離着陸の都合があるのでしょう、時によって異なる角度から、ゆっくり旋回しながら高度を下げてゆくと色の深い、暗い緑が見えてきて、 おー、日本に来た、とおもう。 利権がらみで強行して、地元の農家のひとびとが学生たちの支援を得て激しく反対した空港建設の経緯もあるのに違いない、日本の人には初めから評判が悪かった「遠すぎる」空港も、日本では報じられなくても、案外、初訪日の外国人には好評で、Nexに乗ると、ディズニーランドが左に見えてくるあたりまでは、 美しい田園風景が続いて、日本への第一印象を良くしている。 もっともシャトルバスに乗ると、特に成田空港へ入るときには、英語メディアは「成田要塞」と呼んで茶化すのが好きなくらいで、ものものしくて、ちょっと昔の、短機関銃を肩から吊した国軍兵がおおぜい空港内を歩いていたバンコクのドンムアン空港みたいで、その上、なにしろシートが窮屈で、少し背が高いと、もう最前列か最後尾しか物理的に座れなかったりして、 たいていは、Nexで往復することになっていた。 空港は、特に初めて訪問する人間にとっては、その国のおおきな印象になるので、子供のころは、オークランド空港に近付くと、延々と続く農場が見えてきて、馬の群が駆け回っていて、クライストチャーチ空港ならば果樹園に包まれた空港で、それがニュージーランドの印象になっていたし、クライストチャーチ空港などは、暗黙の、お国柄の象徴で、空港のすぐそばに、プラモデル並に、スタンドで飛行姿勢を取っているスピットファイアの実機が野外に展示されていて、なんといえばいいのか、有無を言わせないところがあります。 初めて日本に来たときは、シャトルバスで、夜で、真っ暗な田園を長いあいだ走って、薄暗い、冷たい感じがする街灯の町に入って、いま考えれば箱崎ターミナルの手前くらいから、光の洪水が見えることになる。 その、眩しい、社会の繁栄を、そのまま象徴しているような、色とりどりの、膨大な光の広がりが、まっすぐ日本のイメージになって、いまに続いている。 一方では、冒頭で述べたようにJRの車窓から眺めた田園の印象もあって、 いま書いていて初めて気が付いたが、どうやら頭のなかでは、ふたつの別の国のように印象されているようです。 そのあとの記憶は曖昧で、麹町に行ったのか、それとも鎌倉に行ったのか、確かめて見る気もしないが、鎌倉に向かったとすれば大船までNexで行ったはずで、麹町ならば迎えの人が来ていたはずだが、もうなにもおぼえていなくて、ときどき考えて、ギョッとすることがあるが、光の洪水は二度目の訪日の記憶で、もしかしたら初めは、そもそも空港まで、迎えの人が来ていたのかも知れない。 何れにしても、30年近くも昔のことで、ぼんやりと曖昧だが、おかしなことだけは、おぼえていて、空港で、JALの役員だかなんだかの人が殿様のような、としか言いようがない趣で大股で歩いてきて、もうあと何年かすると、わし記憶のなかでは裃を着ていたことになりそうな、家来然とした社員たちが頭を低くして、お伴つかまつっていて、異様だったことは、はっきりと憶えている。 離日のほうは、いつも明るい記憶で、いくら日本が楽しくても、英語世界に帰るのは、どんなときでも、ほっとすることだった。 遠泳のあとで、陸にあがる心持ちというか、ジタバタしたあとで、やっと自分が何をやっているか判る世界に戻った安心感があります。 おとなになってからは、日本を発つ日は習慣のようになっていて、儀式化していて、前日に定宿のヒルトンにチェックインする。 どうしてヒルトンになったのかは、おぼえていないが、いちどJALホテルに泊まったら、あまりに杓子定規で、共同運行便であるのに「お客様はAirNZの航空券をお持ちなので、JALのサービスは受けられません」と荷物の運搬まで断られて、とーちゃんとかーちゃんが顔には出さないものの、呆れ返っていたことがあるので、折角日本にいるのだから、日本のホテルを使いましょう、と述べていたのが、そのときからJALはすべて忌避するようなったことがあったから、そういう理由だったのかも知れません。 ヒルトンは、アメリカ資本なのに、なぜか朝ご飯が「日本の人が考えたウエスタンブレックファースト」で、おいしくなくて、閉口したが、それ以外は快適で、馴れてしまえば、いまはどうだか判らないが、その頃はユナイテッド航空クルーの定宿になっていて、気安い、気持のいい人びとで、すぐに仲良くなって、打ち解けて、なかには顔をみおぼえて、また会ったね、と友だちのような気持になる人もいた。 無料循環バスで成田のモールに行けるのを教わったのも、ユナイテッドの人達からだった。 ゲウチャイという名前のタイ料理屋があって、出発前の夕食は、そこで摂るのが慣わしになっていた。 いま思い出しても、おいしくて、また食べたくなるクン·オプ·ウンセンという豚の脂をベースにした鍋料理があって、終わりのほうになると、これを食べると、明日から英語世界に戻れるぜ、と自動的に考えるようになっていた。 ただの空港なのに、成田のことになると、次から次へと思い出が出てくるのが不思議な気がする。 ひとつにはチャンギなどは、変化拡大が激しいことと、効率的で、第一、流れ作業でオーチャードロード周辺のホテルへ移動できるので、空港近くに泊まる必要も感じないので、固定した思い出が出来にくい、ということもあるでしょう。 あんなに何度も訪問した空港なのに、はっきり憶えているのはちょうど1月1日に、シンガポールにしては、30℃を下回って、確かにやや気温が低めの涼しい日ではあったけれども、バスの座席にダウンコートを着て、背中を丸めて、ガタガタ震えていて、本人には気の毒でも、おもしろかったことくらいで、印象がない。 でっかいバスターミナルみたいで、いまどきの世の中では珍しいことにファーストクラスとビジネスクラスのラウンジが厳格に区別されていて、これも、いま書いていて思いだしたが、いちどチェックインの前に大停電が起きて、空港が大混乱に陥って、暢気なので、「映画みたい」と考えて、右往左往するひとびとを眺めていたことくらいが、やっと記憶に残っているだけです。 AirNZも羽田に飛ぶようになって、日本の低下を続ける国力から考えて、どうかすると成田空港は閉港になるかもしれない、とおもう。 日本滞在の最後の最後に、シンガポールとの往復に使ったことがあって、その前に、子供のころ日本から台湾に行くときに使ったときに較べて、雲泥の差で、ほんの地方空港然としていたのが、近代化されて、品川からすぐで便利で、 案の定、航空会社は成田をやめて羽田に殺到していると報道されていました。 宿も、高輪プリンスの旧館は、シャワーが胸までしかなくて、ヘンテコリンだが、庭園も、ロビーもゆったりしていて、旅行の前後に泊まるのは適していて、言うことがないといえば言うことがない。 ゲウチャイにあたるレストランも、Devi Cornerというご贔屓だったインド料理屋があって、不自由しなかった。 それでも成田に日本の思い出がいっぱい詰まっていて。羽田などは、成田に較べて、botと人間くらいも印象が異なります。 過去からやってきたような「過激派」のクルマが空港に突入して、閉じ込められて出られなくなった夜や、パスポートを忘れたり、時間を間違えたりして搭乗できなかった日のことや、720だったか、搭乗便のナンバーを搭乗時刻と勘違いして、たしか「グルメサンドイッチ」でのんびりサンドイッチを食べていて気が付いて全力疾走でウイングからウイングへ駈けていったり、 あとで思い出して、不気味に思い出し笑いをする「事件」がたくさんあった。 なんだか、付き合わせてしまって悪いけど、まったく忘れてしまって、記憶がノッペラボーになる前に、書きとめておこうと考えました。

  • よしなしごと

    十何年か前には、夜更けの材木座の砂浜に腰掛けて、フラスコのウイスキーを飲みながら、夜光虫で青く光る波を見ていたのが、なんだか前世の記憶であるような気がする。 日本は、日本語と日本語が生みだした情緒が張りめぐらされた稠密な空間だが、かえってそのせいで、文字通り「埒外」の外国人は、おもいきり自由で、なんの制約もなくて、めんどくさければ日本語が判らないふりをすれば、簡単に情緒の外に、ほっておいてもらえた。 子供のときの「日本」は、要するに東京と鎌倉と葉山で、日本の記憶といっても、たったそれだけなので、誇張みたいなものだが、それにしても、楽しい記憶ばかりで、いまだに日本語で、役にたたない日本語の代表のようなことを述べているのは、つまり、子供のときも、おとなになってから再訪したときも、毎日、楽しくて楽しくて、たまらなかったからでしょう。 良い滞在者ではなくて、普段、付き合うのは外国人ばかりで、寄ると触ると、日本の社会の厄介な点やおかしな点ばかり愚痴を述べあっていて、でかける先も外国人特派員協会のバーや、こっちはあんまり名前を言わないほうが良さそうなクラブで、考えて見ると、少しも日本人社会に溶け込む努力をしないダメガイジンで、長期観光客に終始していた。 どこにいても、日比谷のゴジラ像の脇に立っていても、銀座の三越のデパ地下で店員さんたちと、おいしいですね、これ、と「試食品」でやりとりをしていても、「そこにいない人」で、向こうから見たこちらも、こちらから見た向こうも、風景のようなもので、どうしても中に入れてもらえないことを怒っている外国人は、いくらでもいたが、ぼく自身は、案外、社会の外にいて暮らしていることを、楽しんでいたような気がします。 小さなことが、たくさんあって、ケンタッキーフライドチキンやピザがあまりに高いので、ぶっくらこいてしまったり、いまはもうないのかもしれないが同じKFCに焼きおにぎりがあって、それまではショートライスのお米は敬遠していたのに、あまりにおいしいので中毒したり、こっちは何度も書いたが何度書いても書き足りないのでもういちど書くと、葉山や江ノ島の、スエヒロしゃぶしゃぶ/すき焼き食べ放題で、二枚目の皿からは、ぐっと品質が落ちる牛肉をたくさん食べて、ほんとに気持がいいくらいたくさん食べるのね、遠慮しないで、もっとどんどん食べてくださいね、と店の女のひとたちに笑われたりしていた。 このごろになって、やっと気が付くのは、トンブリッジウエルにいたかも知れない一日を、葉山の海岸で過ごすのは、やはり一生がいちどしかない人間にとっては、おおきなことなのだとおもう。 若いときや子供のときには、よく考えて見ると、ヘンテコリンな生活をしていても、なんともおもわず、馴れてしまうもので、このあいだ古いパスポートを見ていたら、20回を越えて飛行機に乗った年もあって、なんだか気が遠くなってしまったが、例えばクライストチャーチに滞在しているあいだは、 コンピュータを買いに、週末の買い物をする気安さでシンガポールに出かけていたりしていたが、ずっとあとになって、日本への中間点のように意識されていたシンガポールは、実は日本よりも遠いところにあって、なんだそれなら秋葉原にコンピュータを買いに行ったほうがよかったのではないか、と、自分の迂闊さに感心してしまった。 シンガポールは、当時はシングリッシュと呼んで、判りにくい、とこぼす人もいたが、英語が普通に通じて、交通標識や道路のシステムも、イギリスやニュージーランドと同じなので、なんとなく気安かったのだとおもいます。 逆からいえば、なぜ、あれほど日本が楽しかったか、理由も判って、 「なにもかも異なる」からだったでしょう。 もうほんとうに、一から十まで、なにからなにまで、推して開くドアは引いて開けて、リアカーもなぜか人が先に出て引いていて、タクシーに至っては、初めてならば、ぎゃあと言いたくなる自動ドアで、思い出していても、あの社会で、楽しくないわけはない。 大好きだったが、好きになると、どういえばいいのだろう、違和感がだんだん気持のなかで育ってくる。 感情も言葉も噛みあわなくて、いや、そうじゃないんだけど、どうして、そうおもうんですか?ということが多くなって、これは自分がいられるところではないな、と考えるようになってゆく。 くたびれてしまうので、気分が悪いほうへ傾くと、この社会は、なにもかも上辺だけで贋物の社会なのではないかと思い詰めることになる。 日本に最後に滞在した年は、日本語ネットで、日本語社会の最悪の部分である集団と出くわして標的にされたこともあって、あんまり詳しいことを言う気にもなれないが、日本が嫌いになっていた。 あとで考えると、なんのことはないホームシックで、ホームシックなのだから、さっさと帰ればよかっただけだが、なんだか意地になっていて、予定した離日のときまで居続けると決め込んでいた。 あんまり記事には書かないが、実際には、たいへんな数の人が後見人のように、日本にいるあいだじゅう面倒を見てくれていて、日本の社会では地位もあるひとたちだったが、浮かない顔をしていたりするからでしょう、家に招いてくれたり、困っていることはないか、不自由はないか、と年中様子を見にきてくれてもいて、ずいぶん恵まれた滞日だったのに、それでも最後は「ここは自分がいるべきところではない」という気持がぬぐえなくなっていた。 いまの頭の中にある日本は、だから、だいぶ美化された日本であることを判っています。 簡単なことをいえば、記憶のなかでは、御成通に立ってみあげる空には、あの綾取りのように張りめぐらされた電線はないし、写真でみると、狭小で、びっくりするほど狭い由比ヶ浜の海岸は、幅が三倍はあって、広々としている。 周りを歩いている人間からして、記憶のなかでは、現実よりも5センチほども背が高くなっていて、なにもかも、自分の都合にあわせて、形が変わっている。 でも、それでもいいのではないか、と最近はおもっています。 外苑や白金の医科研通りを歩くと、銀杏の葉が、ざあああと音を立てて、黄金の滝のように落ちてくる。 鎌倉の鎧武者がぬっと顔をだしそうな砦跡がある朝比奈の切り通しを歩いていると、関東大震災で動いて突き出したのだという巨石の向こうは、中世であるような気がして、自分は物理的に移動しているのではなくて、時間を遡行しているのではないかと考え出す。 断片をつなぎあわせて、深夜の六本木で「ここには神がいない」と真顔で述べた見知らぬアフリカ人や、わたし、ホステスなんだけど、日本人の男は案外やさしいわよ、と少女のような笑顔で述べた、箱根で出会ったロシア人の女の人を唐突におもいだす。 日本とは、いったいなんだったのだろう、と、よく考えます。 自分にとって、ということだが、自分にとって以外には人間には世界の認識のしようがない。 日本の人の奇妙な点のひとつは、自分たちが、どれほど美しい国土に生まれ合わせたか知らなくて、まるで美しい顔にカミソリを立てて傷をつける女の人のように、国土を壊して、醜くすることに情熱を感じている。 それでもクルマに乗って、軽井沢を出て、富山や新潟、足を伸ばして福島や岩手に行くと、日本の人が切り刻んで、破壊していないところは、途方もない美しさで、だんだんコツが判ると、要するに「名前が付いていない」ところに行けばいいのだと判ってくる。 東尋坊などは反面教師の代表で、とにかくオカネを払わなければ意地でも美しい景色は見せないという固い決意で、モニさんとふたりで福井のプライベート露天風呂に入りにいった帰りに寄ってみたら、嵐のなかで、強風に吹き倒されそうになりながら、こっちこっちと、誰もいない有料の区画に誘導しようとしている人がいて、人が悪いことだが、ふたりで、そのさもしさが可笑しくて吹き出してしまった。 名前が付いているところはダメで、美ヶ原でも、美ヶ原ではない隣の高原のほうが、遙かに美しくて、放ってある自然が贅沢そのもので、なんどもピクニックに行ったものだった。 やっと漕ぎ着けたというか、ああ、日本はよかったなあ、とこの頃は思う。 考えてみれば日本語が判らないほうが、いまの気持にたどりつくのは簡単だったはずで、なんだかバカみたいだが、始めてしまったものは仕方がない、では酷いが、このまま日本語も行けるところまでは行って、 あなたの書くものの熱烈なファンです、とわざわざ述べに来てくれた西郷輝彦さんという日本の俳優の人と、すっかりウマがあって、では現実に会って署名をした本をお届けします、といったんはまた日本に行くことを決めたが、COVIDでのびのびになっているうちに、悔しいことに、亡くなってしまって、一色登希彦さんという、自分では兄のような気がする人に会いに行くのでなければ、どうせ、現実を見るのが怖くて日本には出かけはしないが、記憶のなかの日本は、「ここではないどこか」が具現した輝かしい土地として存在していて、きっと日本語が自分から剥落してしまわない限りは、書きとめて、とどめておこうとするでしょう。 もう、知らないふりをしているわけにはいかないのだから。