20代の視聴者の方から質問が届きました。
「愛媛はプロ野球の本拠地がないのになぜ『野球王国』と呼ばれているのか」
確かにプロ野球(NPB)はありません。一体なぜ「野球王国」となったのでしょうか。
(NHK松山放送局 奥野良)
「野球王国だと思いますか?」
街の人はどう思っているのか松山市中心部で聞いてみました。
「聞いたこともないです。さっぱり分かりません。」(10代・男性)
「野球に興味がないので、知りません。」(20代・男性)
「もちろん野球王国です。最近はちょっと微妙ですが・・・」(50代・男性)
「心の底から思っていますよ。地元の公立高校で地元の魂で甲子園に行ってもらうことが1番うれしいです。」(70代・男性)
20代など若い世代のほとんどは野球王国だとは思わない一方で、年代が上がっていくにつれて愛媛は野球王国だという自負がありました。
どうやら年代によって大きなギャップがあるようです。
高校野球がイメージを作った
愛媛は野球王国だと答えた人のほぼ全員があげた理由が高校野球でした。
そうです。愛媛代表の甲子園には多くの名勝負がありました。
松山商業 VS 三沢高校(青森)
昭和44年8月18日。夏の甲子園決勝戦。
延長18回までもつれこむも勝敗がつかず引き分けに。
翌日行われた再試合で4対2で松山商業が勝利して優勝を果たした。
松山商業 VS 熊本工業
平成8年8月21日。夏の甲子園決勝戦。
延長10回裏、3対3、1アウト満塁の危機でライトフライを好返球してタッチアップを阻止。松山商業が優勝を果たした。
サヨナラ負けを防いだプレーは「奇跡のバックホーム」として今も語り継がれている。
上甲正典監督
宇和島東高校
昭和63年、名将・上甲正典監督が率いるメンバーが春のセンバツに初出場。
準々決勝・準決勝と苦戦を強いられたが、決勝は愛知・東邦高校を6-0で下す。
初出場で初優勝を果たし、愛媛中が歓喜した。
いつから野球王国?
では、「野球王国」という言葉はいつから使われているのでしょうか。
愛媛県立図書館の協力を得て調べてみました。
見つかった資料で最も古かったのが1955年(昭和30年)に発行された「ノックバットは語る」という本です。
著者は、松山商業野球部の部長や監督として多くの名選手を育てた鞍懸琢磨さんです。
当時の愛媛のジャーナリストが寄せた序文に記述がありました。
「いわゆる野球王国愛媛といわれるようなエポックを作ったのは大正時代に入って松山商業の台頭があったからである」
南海放送の月刊誌
地元のテレビ局、南海放送が昭和34年に発行した月刊誌は、文章のタイトルがそのまま「野球王国えひめ」でした。
この年の甲子園と都市対抗野球で愛媛代表が優勝した活躍をたたえています。
どうやら野球王国という言葉は昭和30年代には地元で定着していたようです。
データでも野球王国か
次に、データからも野球王国と言えるのかを調べました。
人口規模などから考えると好成績を収めていると言えそうです。
夏の甲子園の勝率はどうでしょうか。
「愛媛の野球100年史」(愛媛新聞社 平成6年発行)
地元紙の愛媛新聞社は平成6年にまとめた「愛媛の野球100年史」で分析していました。
その後の第103回(令和3年)までで見てみると
通算の勝率は今も全国2位を保っています。
ところが、10年ごとに区切って見ていくと異なる結果が見えてきました。
時代が新しくなるにつれて勝率が下がっていることがわかりました。
実際に、愛媛県勢は平成16年春のセンバツで済美高校が優勝したのを最後に、優勝からは遠ざかっています。
若い世代が野球王国だという認識がないことも、甲子園の成績が関係しているのかもしれません。
解説委員に聞いてみた
小澤正修解説委員
愛媛が甲子園でかつての勢いを失っていることについて、その背景をスポーツが担当の小澤正修解説委員に聞いてみました。
小澤解説委員も自ら東京代表として昭和63年の春のセンバツに出場した経験があります。あの宇和島東が優勝した大会です。
「当時を振り返って、宇和島東の印象は?」
「突出した選手はいませんでしたが、勝負強く、粘り強い印象でした。初出場・初優勝を果たし、愛媛の野球のレベルの高さを感じました。四国の代表は強いというイメージがあったので、組み合わせ抽選会の時も四国勢は注視していました」
「なぜ、愛媛勢はかつてのような活躍ができなくなったのでしょうか」
「決して、愛媛県の野球のレベルが低下したというわけではなく、生徒の学校の選択の仕方が変わってきたのだと思います」
「どういうことでしょうか」
「『甲子園を目指すなら県内の野球強豪校へ』という意識が変わってきたということです。生徒たちが自分の力をどう高めるかに主眼を置いて、幅広い選択肢の中から学校を選ぶような時代になっています。これは愛媛県に限らず全国的な傾向として言えることです」
松山商業に行ってみた
野球王国のイメージに大いに貢献した松山商業にも話を聞いてみました。
高校の玄関には数々のトロフィーや盾が飾られていて圧倒されます。
甲子園出場は春夏あわせて42回と県内最多。
大正、昭和、平成の全ての時代で優勝したのは全国で松山商業だけです。
忽那 浩校長(県高野連の会長)
「30代を超える方は愛媛は野球王国だという認識をもってもらえると思っています。野球王国といえば何県ですかという全国のアンケート調査でも、プロ野球のない県でベスト10に入っているのは愛媛だけなんです。そういう意味でも愛媛は紛れもない野球王国で、松山商業の存在はやはり大きいと言えると思います」
「ただ、最近はかつてほどの勢いがないように思えます。どうすれば復活できますか」
「戦後、松山商業がとにかく強かった時代は、『打倒、松山商業』ということで県立高校が力をつけ、最近は私立高校も強くなっています。愛媛大会はどこが勝つか分からないということで面白いのですが、全国大会になると力が分散している分、発揮しづらいのではないかなと思っています。松山商業が強かった時代でも誰かスーパースターがいたわけではなくて、全員が自分の仕事をきちんとやって勝ち上がってきたことで評価を頂いたところがあります。愛媛の学校が全国で大活躍するとやはり野球王国は愛媛だと、再び浸透してくると思います」
奥野の感想
『野球王国・愛媛』。愛媛で勤務して3年目の私も取材の中で何度か耳にしたことがありましたが、今回の取材を通じて甲子園での活躍が、愛媛の人たちの記憶に深く刻まれ今も語り継がれていることを知りました。
明治時代に俳人・正岡子規が愛媛に野球を伝えたことや、大正時代に松山で郷土芸能「野球拳おどり」が生まれるなど野球のエピソードには事欠きません。
ことし7月には「坊っちゃんスタジアム」(松山市)で地方の球場では全国最多となる3回目のプロ野球オールスターゲームが開かれます。
高校球児の活躍を応援し、野球王国・愛媛の復活を信じて私も一緒になって愛媛の野球熱を全国に伝えていきます。
「野球王国・愛媛」を感じられる場所が松山市にあります。
坊っちゃんスタジアムに併設されている野球歴史資料館には、愛媛に野球を伝えた正岡子規の時代から平成までの野球にまつわる歴史が年表でまとめられています。ほかにも松山商業の甲子園での延長18回の熱戦が刻まれたスコアブックも展示されていておすすめです。