十年後
二十年後なら、英語人ならば誰でもラジオで聴くか、読んだことがありそうな After Twenty Years というO.Henryの超有名な、短編というよりは掌編に近い小説がある。 Ten Years Afterなら、イギリス人が初めに思い浮かべるのは70年代のブリティッシュ・ブルース・ロックのバンドかも知れません。 十年は長い時間で、庭の端まで歩いていって、バジルを積んでいたら、隣家の裏庭から、「このくそ野郎、たったこれだけかよ。散々、悪い事をして稼いで来たくせに、息子には、端金かよ!」と怒鳴る若い男の声が聞こえてきた。 クルマが走り去る音がして、どうやら、遊ぶ金を無心に、誰かが隣のJのもとを訪ねていたらしい。 誰だろう?と考えて、あっ、とおもう。 Jには可愛くて仕方がなかった息子がいて、あの薔薇色のほっぺたをした、 目があうと、なんだか日本風の御辞儀までして、にっこり笑う表情が可愛かったが、その子供が、小さい人を卒業して、十代の若者になって、父親と折り合いが悪くなっている。 このあいだ日本のテレビドキュメンタリを観ていて、まるで日本語を話す、見知らぬ国がどこかにあるようで、こんなに変わってしまったのか、と息を呑んだが、考えてみれば、最後に日本に滞在してから、12年経っているのだから、当たり前です。 日本語は普段の生活で使う機会はないので、インターネットだけを通じてのつながりだが、今更ながら、自分が見聞きした日本は、もう、ぼんやりした記憶のなかにしかないのだ、と再確認する。 インターネットを通じて言葉を交わすひとたちも、大半の人は、なんとか人生を切り拓いて、事業で成功していたり、特任というのか、数年単位での契約の講師がテニュアの教授になっていたり、なんだか昔、バカ噺に講じていた、話だけではなくて、やっぱり、話してる当人たちもバカなんじゃないの?とむかしの、練習帳ver.5に付いたコメントを読むとおもうが、twitterのDMで話し込むほうは、もっと切実で、奥さんが癌になってしまったり、 親が認知症になって介護にエネルギーをとられたり、 だいたいにおいては、社会のなかで、うまくいって、デザインした未来を着実に実現しているひとばかりだが、それであってさえ、「人間が生きていくのって、たいへんだよなあ」と月並みで、ため息に似たクリシェを、洩らしたくなります。 隣家のJにしても、自分が経営する会社が、好景気の波に乗って、たいへんな勢いで、得意の絶頂で、そういう人の常として、話して楽しい人ではなかったが、いつか「子供が宝だというが、ダメな子供に育ってしまったからといって、犬をSPCAの前に捨ててくるように、どっかに捨ててくる、というわけにはいかないからなあ」と唐突に述べて、吹き出してしまったことがあったが、考えてみると、もうその頃には、幼い息子に、嫌な徴候を見いだしていたのかも知れません。 日本を外から望見していて、この十余年で、最も目立つ変化のひとつは、東北大震災が引き起こした「喪失感」について、社会全体が口を開きだしたように見えることです。 初めの数年は、震災を経験しない周囲の人達が、「がんばれ!東北」 「食べて応援」で、妙に明るくて元気な印象を与える掛け声ばかりが大きくて、当の、被災したひとびとは、じっと下を向いて、何事か見えはしないものを見つめているような印象だった。 食べて応援、の舞台裏で、放射能汚染の「風評被害」のせいで、なかなか福島の産物は売れないから、という口実で、半値以下に買いたたいて、表は美談に仕立ててあるのだ、という英語紙の記事を読みながら、ぼんやり、相手を殴りつけながら、これもおまえのためだと述べるような正当化が好きな日本社会の一面を思い起こしていた。 なにしろ最近は、日本語も拾い聞きして、意味がやっと判っている程度で、映画の出来を云々する能力はないが 「護られなかった者たちへ」 という仙台を舞台にした映画を観ていたら、犯人の側も、犯人を追う側も、双方ともに近しい人を震災で亡くしていて、まるで死が共通の友人であるかのように、心を通わせていく。 もうひとつの共通語は生活保護が象徴する貧困で、犯人が殺人を犯す動機も、生活保護を受けさせなかった怨恨だが、死と並んで、貧しさが、 言語にとっては苦手な機能である伝達を可能にしている。 時を経た伽藍が崩れ落ちるように崩壊してゆく社会として、日本が描かれた場合、そのパースペクティブに、日本の姿は、うまく見渡せてしまうように見えるが、この映画もまた、もうどうにもならなくなった日本の姿を、震災という契機を道具にして、可視化している作品のひとつなのかも知れません。 日本の社会から初めに失われたのは言語だった。 正語、と言い直したほうが判りやすい。 ものごとを日本語では現実を言い表そうとする表現に常に齟齬のようなものが感じられるようになった、と思っていたら、あれよ、というまに、日本語と現実のあいだに空隙が生じて、次の瞬間、言語から現実が剥離していった。 言語は言語のつじつまだけで語られるようになって、現実をおいてけぼりにして、すべての発語は、言葉遊びのようなものになっていった。 目もあてられない、というか、プーチンのウクライナ侵攻にしろ、トランスジェンダーにしろ、忍び寄ってくる貧困のような、最も切実な問題ですら、 自分が、この言葉はこうねと、この現実は四捨五入して、こうです、と「設定」して、まるで卓を囲んで麻雀をする昭和の学生たちのように言葉遊びに没頭する。 誰かが不用意なことをひと言いえば、待ってましたとばかり、はい、その失言ロンね!で、教条が好きな観客から点棒をかき集める。 そんなことばかりやっていて、現実の社会は変わるどころか小動もしないので、他の社会が最も基礎的な構造から変わっっていった、人類史に類例のない、この十年間の世界の変貌のなかで、相変わらず20世紀の表情で、百年一日の、体制側には痛くも痒くもない言葉を壁にぶつけて、ひとりで、おれは正義の味方だと言わんばかりに悦に入っている。 取り返しのつかない十年を無効な言語のなかで過ごしてしまったことを、 日本語社会のなかに住むひとたちは、肌で感じているように見えます。 正体は判らなくても、自分の呼吸がだんだん苦しくなってくる、その日本語の大気のなかには、なにかしら、人間性を踏みにじろうとする瘴気が混入していることを、いまは、明瞭に自覚するようになっている。 社会を立て直すのは、もう手遅れだと、見ていて、ぼくは思っています。 くだらない人間が偉そうに正義を振りかざしだしたら、それが日本が亡びるときのサインだ、憶えておきなさい、と吉田茂と宮沢喜一が、別々の機会に、独立に、自分が経験で学んだ日本の変化の徴候の読み取り方を述べている。… Read More ›