私の願いは、クスノキさんが死ぬことだ。
放っておいても、彼はもう長くない。十日前、彼は寿命の大半を売り払ってしまった。ただでさえ常人と比べて短かった彼の寿命は、それによって、いよいよ残り僅かとなった。
三か月。それが、クスノキさんに残された猶予だ。
夏が終わり、蝉(せみ)の鳴き声が途絶え、落ち葉が散り始める頃、彼もまた朽ち果てる。七月中旬に寿命を売った彼は、十月中旬にはこの世を去ることになる。
しかし、十月では遅すぎるのだ。
一刻も早くクスノキさんが死ぬことを、私は願っている。
確かにクスノキさんは、お金に困っていた。しかし彼が余生の九十九パーセントを売り払ったのは、決してお金のためではない。自身の寿命の大部分を手放したとしても、対価として得られるのはたったの三十万円にすぎないという査定結果を、彼はあらかじめ伝えられていた。二十歳の健康な人間が、たかが三十万円のために命を捨てるとは考えにくい。
クスノキさんが自分の命を安売りしたのは、「三十万円を受け取るため」ではなく、むしろ、「自分の寿命の価値が三十万円程度とわかったため」と考える方が適切だろう。
寿命の価値。それは「その人がどれほど満たされた余生を送るはずであったか」という基準に照らしあわせて判断される。幸福な人生が約束されている人ほど、寿命の価値は高くなる。逆もまた然りだ。寿命一年につき、数百万円の価値が付く人もいれば、数万円の価値しか付かない人もいる。
クスノキさんほど命の価値が低い人間を、私はこれまで見たことがなかった。彼の寿命についた値は、最低買取価格と一致していた。これが意味するのは、彼の余生に、何一ついいことはないということだ。誰からも愛されず、誰を愛することもなく、誰かを幸せにすることはなく、誰かに幸せにされることもなく――とにかく、あらゆる意味で満たされない人生が待っている。そういうことになる。
査定結果を聞いた彼は、対価のことなど気にせず、寿命を手放すことそのものを目的として、寿命を売った。いってみれば、消極的な自殺のようなものだ。
割り切りのよい、優れた判断だと私は思う。
いくらこの先いいことは何一つないとわかっていたとしても、命というのはそう簡単に諦められるものではない。そうとわかった上で、逆に寿命を買い求める人すらいるくらいなのだ。
思い切って諦めてしまった方が、ずっと楽になれるのに。
寿命を売って余命僅かとなった者は、ときとして自暴自棄になり、他者に危害を加えることがある。そうした事態を防ぐために、売買によって寿命が一年を切った者には、「監視員」が付けられることになっている。
この制度の導入は一定の成果を上げた。彼らが捨て鉢な行動に出る事例は、大幅に減少した。監視員は、その視線を監視対象者に意識させるため、あえて彼らのすぐ傍で監視を行う。そうやって「視(み)られている」という意識があるだけで、人の行動は大きく変わるものなのだ。
一方で、新たな問題も浮上してきている。それは、監視対象者である彼らが抱えるやり場のない怒りの矛先が、監視員に向くようになったということだ。人は自分の不幸の原因を、もっとも近くにいる他者に帰属させてしまう傾向がある。その対象として、監視員ほど都合のいい相手はいない。
錯乱した監視対象者に殺された監視員は、案外、少なくない。ひょっとすると、監視員の本当の役割は、彼らの怒りを一身に引き受けて、被害をそこで食い止めることにあるのかもしれない。
――あえていうまでもないだろうが、余命三か月となったクスノキさんに付けられた監視員、それが、私だった。彼の寿命の査定を担当した私が、そのまま彼の監視員を務めることになったというわけだ。
査定の際、私はクスノキさんの人生の「あらすじ」を読むことを許されていたわけだが、そこに書かれていた人生は、なるほど、最低買取価格にふさわしい悲惨なものだった。「あらすじ」によるとクスノキさんは、今後も冴(さ)えない一人ぼっちの毎日を過ごし、三十代後半に交通事故を起こして右顔と左足と指の七本を失い、それからは毎日自殺を考えるようになるのだが、どうしても最後の一歩が踏み出せず、地獄のような十数年間を送った後、五十歳で病死する――といった人生を送ることになっていた。
可哀想(かわいそう)に。
初めてそれを読んだとき、私は彼に同情した。他人(ひと)ごとではなかった。私だって、今後十数年間孤独な日々を過ごした挙句、酷い事故にあって二目と見られない姿になり、一人惨めに死んでいく――といった可能性は、監視員という仕事の性質上、十分にある。
私は、自分自身の未来については、あまり多くを知らない。だが、一つ、はっきりといえることがある。
これまで出会ってきた監視対象者たちは、クスノキさんを含め、皆、どことなく私に似ていた。そして皆、満たされることなく死んでいった。だから、私も、ろくな死に方はしないだろう。誰にも愛されず、誰にも記憶されることなく、ひっそりと、惨めに死んでいくのだろう。
ときどき、こう思うことがある。いっそのこと、私もクスノキさんのように、数か月だけ残して寿命を売り払った方が利口なのかもしれない、と。
そうできずにいるのは、「それでもいつか、いいことがあるかもしれない」という浅はかな希望を捨てきれずにいるせいだ。そんなことはまずありえないとわかっているはずなのに、どうしても、諦めきることができない。
監視対象者たちの思い切りのよさが、私には少し、羨ましい。
死を前にした者の多くは、現実に過剰な期待を抱いてしまう。少なくとも、私の知る限りでは、全員がそうだった。彼らは心のどこかで、「こんなにも可哀想な自分を見たら、誰だって優しくしてくれるに違いない」と思い込んでしまっているものだ。
そうした期待は、ほぼ必ずといっていいほど、裏切られる。
これからも生き続ける人間にとって、もうすぐ死ぬ人間というのは、率直にいって邪魔なのだ。傍(そば)にいるだけでも、やたらと気を遣わされる上、考えたくもない死について考えさせられてしまう。
クスノキさんも、例外ではなかった。彼もまた、死を前にして、現実に過剰な期待を抱き、裏切られることとなった。
彼の過ちは、かつて自分のことを好いてくれた人物が、今も変わらず自分を好きでいてくれるだろうと過信していたことだ。それを維持する努力もしてこなかったのに、過去の交友関係が、今も有効であると信じて疑わなかった。
信頼していた人々に裏切られた彼は、監視員である私に対して、数度、怒りの矛先を向けてきたことがある。実害を被ったことはなかったが、身の危険を感じたことは幾度もあった。苛立(いらだ)って物や人に当たる彼を、私は軽蔑していた。
しかし――私がクスノキさんに対して必要以上に辛辣な態度をとってしまっており、それが彼の苛立ちの原因となっていたことも、正直否定できない。彼の行いを見ていると、過去の自分自身を見ているような気分になって、それでつい、私は毒を吐いてしまうのだ。
今、クスノキさんは、静かな寝息を立てて眠っている。
私はそれを、部屋の隅に座って監視している。
時刻は午前一時を回ったところだ。数時間前から雨が降り続いている。
真夜中も監視に当たらなければならない身からすると、この手の雨はありがたい。夜は、静かすぎる。何か注意を向けるものがないと、時計の針はゆっくりになって、夜はどんどん膨張する。音楽もラジオも聴くわけにはいかない私には、雨音や虫の声がその代わりになるのだ。
クスノキさんは、珍しく熟睡できているようだった。いつもは寝返りを打ってばかりの彼が、今日はほとんど動かない。丸太のように、ぐっすりと眠っている。田舎(いなか)の片隅に建つ、築五十年以上は経過していそうなこのアパートは、風通しがおそろしく悪く、日中部屋に溜(た)まった熱が日没後も中々抜けずに寝苦しい夜になることが多いのだが、今晩は雨のおかげで過ごしやすかった。
私は彼を起こさないよう慎重に立ちあがり、両手を組んで伸びをする。部屋の隅に座って監視を続けていると、身体(からだ)のあちこちが痛むようになる。ときどきこうやってほぐしてやらないと、終(しま)いには痛みで監視どころではなくなってしまうのだ。
時間をかけて筋肉を伸ばし終えると、私はそっとクスノキさんに歩み寄って、彼の寝顔を覗き込んだ。まだしばらく起きる様子はなさそうだ。私は遠慮なく、彼の枕元にしゃがみ込んで、寝顔をじっと観察する。
彼が単に「嫌な人」で済まされる人間だったら、話は単純でよかったんだけどな、と私は思う。相手が何一つ美点のない屑(くず)のような人間だったら、私はただあらゆる感覚を麻痺(まひ)させて、その人が死ぬのをじっと待っているだけでよかった。
しかし困ったことに、この男、必ずしも悪いところばかりではないのだ。それが私を混乱させている。彼という人間とどのように向きあうべきか、その判断を困難にしている。
近頃、クスノキさんは、私に優しい。
わかりにくい変化ではある。しかし――彼がここ数日ほとんど家を出ずに折り紙で鶴を作り続けていたのも、妙に歩調がゆっくりになったのも、就寝時間が早くなったのも――すべて、私が監視をしやすいように気を遣ってのことなのだと思う。
彼がそうした気遣いを見せるようになったのは、私が監視員をやっている理由を知ってからのことだ。監視員もまた、彼と同じように命を売った者であり、根本的には似た者同士であるということを教えると、途端、彼の態度は和らいだ。同情的になった、といってもいいかもしれない。
そう。監視員も、監視対象者も、命を売らざるを得なかった人間であるという点では、同じようなものなのだ。ただし私たち監視員が売ったのは、「寿命」ではなく、「時間」だ。売却しただけの時間を、監視員として働かされているのだ。
もっとも、労働と引き換えに賃金を得るというだけなら、それは一般的な仕事と何ら変わりがない。現に皆、そうやって生きている。
監視員という仕事の特殊性は、その孤独さにある。
月に二日だけの休日を除き、二十四時間常に監視対象者の傍にいなければならないということで、家族や友人に会えないのはもちろんだが、それ以前に、もっと致命的な問題がある。
それは、監視員が、監視対象者以外の人間の目には映らないということだ。
たとえば今の私であれば、クスノキさん以外の人間には、その姿が知覚されない。見えないというだけではない。私の方から適当な他人に話しかけたり肩を叩(たた)いたりしても、向こうはそれに気付かない。思い切り脛を蹴飛ばそうと、手から鞄(かばん)をひったくろうと、それは同じことだ。監視員は、視覚的にだけでなく、聴覚的にも触覚的にも、あらゆる意味で「透明人間」なのだ。
私が売った時間は、全部で三十年だった。その間、私は透明人間として生き続けなければならない。三十年間、監視対象者以外のあらゆる人間から「いないもの」として扱われ続けなければならない、ということだ。
六日前の朝、クスノキさんは私からこれらの話を聞き出した。
以後、彼は、私に優しくなった。
しかし、そうした変化に、私は正直戸惑っている。
どうせなら、最後まで嫌な人であってほしかったな、と思う。
いい人といると、精神的に疲れるのだ。その人に、嫌われたくなくなってしまうから。
*
最愛の幼馴染(おさななじみ)である〝ヒメノさん〟と運命の再会を果たし、二日後にデートの約束をとりつけて、すっかり上機嫌になったクスノキさんは、その夜、私に一つの頼みごとをしてきた。
準備に付きあってほしい、というのだ。
「準備、というと?」と私は訊(たず)ねた。
クスノキさんは頭をかきながら、ばつが悪そうな顔で答えた。
「今更あんたに隠しごとをしても無駄だろうから正直にいうが、俺はこの二十年間、一度もまともに女性と交際したことがない。だからこのままヒメノと会っても、彼女を退屈させたり、的外れなことをしたりしてしまうかもしれない。その可能性を少しでも減らすために、明日は、街に出て予行演習したいんだ」
予行演習、と私は頭の中で繰り返した。
それはひょっとすると――デートの練習相手になってほしい、ということなのだろうか。
おそるおそる、確認する。
「私の勘違いでなければ……それは、私に、ヒメノさんの役をやってほしいということですよね?」
「そういうことだ」と彼はうなずいた。「頼めるか?」
「あの、念のため訊(き)いておきますけど……あなた、私のこと、何だと思ってるんですか?」
「監視員だろう? 便利屋だとは思ってないさ」
「そう。それを忘れていないのであれば、いいです」
「で、どうなんだ?」と彼はいった。「ヒメノ役、やってくれるのか?」
「……まあ、私は構いませんけど」
「すごく嫌そうに見えるが」
「もともとそういう顔ですので」と私は否定したが、自分でも顔が引きつっているのがわかった。
こんなことを頼んでくる監視対象者は、初めてだ。
自分がクスノキさんに寄り添って楽しそうに街を歩いている様を想像してみたが、それはあまりにも、非現実的な光景だった。私にせよ彼にせよ、仏頂面のイメージが強すぎるのだ。
あんな簡単に承諾してしまってよかったのだろうか、彼は私などを練習相手に選んで何を期待しているのか、などと考えているうちに、夜が明けた。
朝食を終え、身支度を整えたクスノキさんは、「ミヤギ」と私の名を呼び、一つ咳払(せきばら)いをした。
「最後の確認だ。ここからは、ミヤギのことを、幼馴染みたいに扱わせてもらうが……本当に、構わないんだな?」
「ええ、構いませんよ」
なるべく素っ気なく聞こえるように、私はそういった。
「よし」とクスノキさんは意気込む。「それじゃあ今日は、互いに尊敬しあい、信頼しあっている体で、仲よくやろうじゃないか」
「いつもの正反対というわけですね」
「そうともいえる」と彼はいった。
列車で、街へ向かう。車内にはプール道具を持った小学生が大勢いて、甲高い声をあげて歩き回っていた。私はぼんやりと窓の外を眺めていたが、街に着くまでは、退屈な田園風景と森の繰り返しだった。
駅を出て通りをいく彼の五歩後ろを歩く私は、いつもと変わらないその位置関係に、今更のように疑問を抱いた。
「クスノキさん」
「どうした?」
「確認ですけれど、今日のあなたは、私のことを幼馴染のように扱う……ということでしたよね?」
「一応、そのつもりだ」
「すると、私たち、もうちょっと傍を歩いた方がいいんじゃないですか?」
彼は虚を突かれたような表情で固まった。
「……確かに、ミヤギのいう通りかもしれない。普通は並んで歩くよな」
そういうと、彼は歩調を落として私が追いつくのを待ち、そこからは二人で並んで歩いた。
「あまりに長く一人ぼっちでいると、こういう常識さえ忘れてしまうんですね」
そう私は皮肉を口にしたが、それは彼のみに向けられた言葉ではなかった。
私自身、直前まで、その状況に違和感を抱かなかったのだ。
何気ない顔でヒメノさんの〝代役〟を引き受けた私だが、考えてみれば、十歳で監視員になってからは一度も異性と街へ遊びにいったことなどなかった。クスノキさんに劣らず、私もその手のことに関する「常識」がないのだ。
隣を歩くクスノキさんは、難しそうな顔で私にいった。
「こういうとき、普通、仲のいい男女は何を話すんだろう?」
「私に訊かないでください」
いつもよりずっと近くにある彼の顔から、つい私は目を逸(そ)らした。
「なあミヤギ、指摘される前に自分からいっておくが」とクスノキさんがいう。「俺は今、緊張してるよ」
「しないでください。伝染(うつ)ります」
「伝染れ。ミヤギも緊張しろ」
「あの、それではこちらも、指摘される前に自分からいっておきますけどね。私、十歳の頃からずっと透明人間なんです。それが何を意味するか、わかりますか? ……こういった場における作法のようなものは、よくわからないんですよ」
「ミヤギもちょっとは緊張してる、ってことか?」
「ちょっとは」
「そうか。ミヤギでもそういうことはあるんだな」
彼はそういって、無邪気に笑った。
「笑わないでください」
小馬鹿にされたように感じて、私はクスノキさんの肩を軽く叩いたが、直後、彼が意外そうな顔をしたのを見て、はっと我に返った。これではまるで、本当に親しい間柄の男女みたいではないか。
クスノキさんは感心した様子でいう。「ミヤギも人のことを叩いたりするんだな。珍しいものを見た」
「今日は私、〝幼馴染〟役ですからね」と私は言い訳した。
駅前の広場までくると、彼は不意に立ち止まった。
隣を歩いていた私も、立ち止まって彼の顔を見上げた。
「予行演習の前に、まずは、服を買いにいこうと思う」とクスノキさんはいった。
「そうですか」
「明日、こんな格好でヒメノと会うわけにはいかないからな」
私は彼の服装をあらためて見た。よれよれのカレッジTシャツと、色褪(いろあ)せたブルージーンズ。スニーカーはあちこちが黒ずみ、よく見ると何か所も穴が開いている。買い替えるほどの経済的余裕がなかったことは知っているが、それにしても、あまりに酷(ひど)い。
「あんたには、色々アドバイスを求めることになるだろうな。自分の趣味がいいとは思っちゃいないから。……服が終わったら、髪だ。予約まで時間があるから、その前に買い物をすべて済ませておきたい。明日ヒメノを連れていくレストランも下見しなきゃならないんでな」
「用意周到ですね。意外とかわいい一面もあるじゃないですか」と私はいった。
「どうとでもいうがいいさ。とにかく俺は、最善を尽くしたいんだよ。『次』はないかもしれないからな」
目についたセレクトショップに入ると、クスノキさんは店を一回りし、難しそうな顔で、「ミヤギ」と私に助けを求めた。
「見れば見るほどわからなくなる。ミヤギが選んでくれ」
無難そうなポロシャツとチノパンツを指差すと、クスノキさんはそれらをまじまじと見つめた。
「へえ、ミヤギはこういう服が好きなのか?」
「違います。ただ、あなたは別に、凝った服装をする必要はないと思っただけです。清潔感さえあれば、それで十分かと」
「それは、『素材がよい』といわれていると思っていいのかな?」
「どう受け取るかは、あなたの自由です」
「わかった。自由に受け取らせてもらうよ。どうやら俺は褒められているらしい」と彼はすまし顔でいった。
「いちいちいわなくていいです」といって、私は彼を試着室に押し込んだ。
しばらくして、カーテンの向こう側からクスノキさんが私を呼んだ。「ミヤギ」
「何でしょう?」
「いい忘れてた。ありがとう」
「……どういたしまして」
私はもやもやした気分で答えた。
そんなふうに素直に礼をいわれても、困る。
服を買った後は靴屋、美容室と巡ったが、結局、彼の服も靴も髪型も、すべて私が決めることになった。
日が沈み始める頃には、クスノキさんは、昨日までの彼とは別の人物のようになっていた。予想はしていたが、伸びすぎていた髪を切り、無精髭(ぶしようひげ)を剃った彼は、「それなり」だった。
「何だか、昨日までのあなたとは別人みたいですね」と私は控えめな感想を口にした。
「ああ。とても、一年につき一万円程度の価値しかない人間には見えないだろう?」
「そうですね。まるで、幸せな未来が約束されている人みたいです」
「ありがとう。ミヤギも笑っていれば、図書館の妖精みたいに見える」
「……今日のクスノキさんは、よほど上機嫌らしいですね」
「そうらしい」と彼は他人事のようにいった。
「何ですか、その〝図書館の妖精〟って」
「知的で楚々(そそ)とした女性のことだ」
「そういう台詞はヒメノさんにいってあげてくださいね?」
「あいつのよさは、それとはまた別物だ。俺はミヤギのことをいってるんだよ」
「それはどうも」と私は小さく頭を下げた。「まあ、私にせよあなたにせよ、人間としての価値はゼロに近いんですけどね。査定結果からいえば」
「不思議な話だ」と彼は自嘲的に笑った。
そのとき私たちがいたのは、通りの路地にあるイタリアンレストランだった。前述したように、監視員である私の姿や声は、監視対象者以外の人間には知覚できない。ゆえにこの会話は、周りには、クスノキさんの独り言と思われている。
隣のテーブルの中年夫婦は、ちらちらと彼のことを盗み見ては、何か囁(ささや)きあっていた。
「わかってると思いますけど、今のあなた、立派な不審者ですよ」と私はいった。
「気にしないさ。どうせ、もうすぐ死ぬんだから」と彼は平然といった。
食事を終え、薄暗い店内を出て通りに出ると、街明かりに目が眩(くら)んだ。
ワインのせいか、隣を歩くクスノキさんの頬には、健康的な赤みが差していた。
「さて……ここからは、もう一歩踏み込んだ練習に入りたいと思う」と彼は遠慮がちにいった。
「了解です」と私はいった。
「嫌になったら、いつでも、遠慮せずにいってくれ」
「べつに嫌じゃありませんよ。以前も説明した通り、監視員の仕事には、監視対象者の余生をサポートすることも含まれています。これもその一環と考えれば――」
私がいい終えないうちに、クスノキさんは私の手を握り、その長い指を強引に絡めてきた。
「言質は、とったからな」と彼はしたり顔でいった。「もう文句はいわせない」
「だから、べつに嫌じゃありませんよ」と私は何でもないようにいった。
薄暗い路地を抜け、橋の脇にある階段を下り、川原を散歩した。アルコールが回った様子のクスノキさんは、私の手を握ったまま、前後に勢いよく振りながら歩いていた。すれ違う人々はそれを不思議そうに、ときには不気味そうに眺めていた。
傍目には、奇妙な歩き方をするクスノキさんの姿しか映っていなかっただろう。彼が誰もいない空間に向かって話しかけ、何もない空間を優しく握っているさましか見えなかっただろう。
馬鹿な人だなあ、と私は思う。
いつもは表情がないくせに今日は無邪気に笑っている彼のことを、少しからかってみたくなって私はいう。
「ほら、私をヒメノさんだと思って口説いてみてくださいよ、酔っ払いのクスノキさん」
彼は立ち止まり、私の目を正面から見据え、何のためらいもなく、愛の文句を口にした。
「俺の人生における最良の出来事とは、あんたが俺の目の前に現れたことだった。そして最悪の出来事とは、あんたが俺の目の前から消えたことだったんだ。……そして今から、あんたの返事次第で、最良か最悪のどちらかが入れ替わることになると思う」
ひねくれ者で、恥ずかしがり屋のクスノキさんらしい告白だな、と私は思う。
「よくそんな回りくどい口説き文句がすらすらと出てきますね。感心しますよ」
「それで、ヒメノはどう答えると思う?」とクスノキさんは訊いてきた。
「そうですねえ、ヒメノさんだったら……『突然何をいいだすんだよ』などといって、笑ってごまかそうとするかもしれません」
「そうか。じゃあミヤギだったら?」
「……よく意味がわかりません」
「冗談だよ。気にしないでくれ」
彼は一人でけらけら笑った。
実際、他愛のない冗談なのだろう。
嫌な人だ。
歩くのに疲れると、私たちは適当なバスに乗り込んだ。車内には数人の乗客がいたが、クスノキさんは構わずヒメノさんに関する思い出を私に語って聞かせた。バスを乗り継いで到着した展望台は町でも有数のデートスポットで、十組近い男女が肩を抱きあったりこそこそキスしあったりしていたが、クスノキさんは自分が一人ぼっちに見えていることを承知の上で、構わず私と会話を続けた。
傍らで恋人の肩を抱いている男を見て、クスノキさんはふと思い付いたかのように「なあ、ミヤギ」といった。「あれ、練習してみてもいいか?」
「いちいち許可を求めないでください」と私はいった。「さっきは『言質はとった』とかいって無理矢理手を繋(つな)いできたくせに」
「そうか。じゃあ勝手にやらせてもらう」というと、彼は若干強引に私の肩を抱き寄せた。
ほんのり、煙草(たばこ)の匂いがした。
クスノキさんの匂いだ、と私は反射的に思った。
互いに無言のまま、夜景を眺めた。
そうしていたのは五分間だったかもしれないし、五十分間だったかもしれない。
不意に彼は口を開いた。
「……今からいうことは、あまり変な意味にとらないでほしいんだが」
「何でしょう?」
「ミヤギの匂いって、何となく、落ち着くんだよな」
そういって、私の髪を指で梳(す)いた。
もっと冗談めいた言い方をしてくれればよかったのだが、彼の表情も、口調も、至って真面目(まじめ)だった。
「……勝手にさわらないでください」
私は無抵抗のままいった。本心から出た言葉ではない。他にいうことが見つからなかっただけだ。中傷されたり罵倒されたりすることは慣れているのだが、感謝されたり褒められたりすると、どう対応していいのかわからなくなってしまう。
だから私は、クスノキさんが苦手だ。
彼はそんな私の心境を見抜いているらしい。「さっきといってることが違うんじゃないのか? 許可はいらないんだろう?」とからかうように笑うと、さらに私を抱き寄せた。
「あなた、自分が他の人にどう見えているか、わかってるんですよね?」と私は訊いた。
「さあ。幸せそうに見えるんじゃないか?」と彼はとぼけた。
周りには、空気を抱くクスノキさんだけが見えていたはずだ。夜のデートスポットに一人たたずみ、透明人間に向かって楽しそうに語りかける彼は、カップルたちの笑いものになっていたことだろう。
本当に、馬鹿な人だなあ。
私はうつむき、彼に気付かれないように、こっそり一人で微笑(ほほえ)む。
帰り道、もうすぐアパートに着くというところで、クスノキさんは私に訊いた。
「さっきの愛の告白は、ミヤギからすると、何点くらいだ?」
「四十点です」と私は答えた。
「厳しいな」
「回りくどすぎるんですよ。もっとシンプルな言葉でよいかと」
「なるほど。考えてみよう」
道脇の田圃(たんぼ)からは、蛙(かえる)の鳴き声が絶え間なく響いていた。その反対側の住宅街からは、台所から漏れる魚を焼く匂いや風呂から漏れるシャンプーの香りがする。ほとんど明かりのない道で、時折自動車が正面からくるたび、私たちは眩しくて目を細めた。
錆(さ)びたカーブミラーの前で私はふと立ち止まり、思い切って、こう提案してみた。
「クスノキさん、もう一回練習しましょう。もう一度、私をヒメノさんだと思って、口説いてみてください」
不自然なことをいっているなあ、と自分でも思う。
でも彼は酔っ払っているから、少しくらい変なことをいっても、気付かれないだろう。
クスノキさんは、私の両肩に手を置いた。
「ヒメノ」
目の前にいる私とは別の女性の名前を、彼は呼んだ。
「これからずっと、俺の傍にいてくれ」
私はしばらく、その余韻に浸る。
もし、その言葉が、自分自身に向けられたものだったら。
そんな、自分勝手な空想に耽(ふけ)る。
「おい、何か反応してくれよ」とクスノキさんが私を揺さぶった。「何点だ?」
「六十点です」
「じゃあ、さっきの四十点と足して百点だな」
「そういう計算は成り立ちません。六十点は六十点です」
「残りの四十点を満たすにはどうすればいいんだ?」
「……あなたには、一生わからないと思いますよ。残念ですけどね」
「難しいな、ミヤギは」
彼はそういったが、種を明かせば、とても単純な話なのだ。
残りの四十点。
それがたったの三文字程度の違いであったことに、彼は一生気付かないだろう。
*
クスノキさんは、幸せそうな顔で眠っている。
明日、幼馴染のヒメノさんと会うことを、彼は心の底から楽しみにしている。
しかし、彼の人生の〝あらすじ〟を読んだ私は、知っている。
次にヒメノさんと会うとき、クスノキさんは、深く深く傷つく羽目になるということを。
これまでの数日間で経験したものとは比較にならないほど、大きな失望を味わうということを。
恥ずかしい話だが、そのことを、私は密かに喜んでいる。
彼がもっと、傷付けばいいのに。
彼がもっと、失望すればいいのに。
そうして、他に頼ることのできる人のいない彼が、やむを得ず、私に泣き付いたりすればいいのに。
……くだらないことを考えてるな、と私は頭を振る。
そっと立ち上がり、クスノキさんの枕元にしゃがむ。月明かりに照らされた、彼の寝顔を覗き込む。彼がこうやって寝ている間だけは、少しだけ、後ろめたい考えごともできるようになる。
数時間前まで彼の右手と繋がっていた左手を、私はそっと頬に当てる。
握ってもらえた手の温かさが、まだ残っている気がした。
手など握られたのは、十年ぶりだった。無論、彼にとっては、何でもないことだったのだろう。ただ手を握った、それだけのことだ。あくまでそれはヒメノさんの代わりであって、女の人でありさえすれば、相手は誰でもよかったはずだ。
けれども私にとっては、一大事だった。
それは私が、心のどこかで、ずうっと、ずうっと、待ちわびていたものだったのだ。
明日という日がこなければいいのに、と私は願う。
そうすれば、いつまでも、私がヒメノさんの代わりをしていられるかもしれないのに。
けれども律儀に朝はきて、クスノキさんは目を覚ます。
私はいう。
「おはようございます、クスノキさん。いよいよ、今日ですね」
「ああ」彼はぼうっとした顔で窓の外の曇り空を眺め、それから私に視線を移す。「昨日は、付きあってくれてありがとう」
「たいしたことじゃありませんよ」
「たいしたことさ。ミヤギのおかげで、今日は何とかなりそうだ」
「ええ。上手(うま)くいくといいですね」
しかし、絶対に上手くいくことはないと、私は知っている。
今晩、クスノキさんが致命的に傷付くことになることを、私は知っている。
「こんな言い方は嫌いかもしれませんが……幸運を祈ってますよ」
心にもないことをいい、さりげなく右手を差し出してみると、クスノキさんは「ありがとう」といってそれを強く握ってくれる。
「痛いです」と私は嘘(うそ)をつく。全然、痛くない。
「悪かった」とクスノキさんは笑い、手を放し、台所にいって口笛を吹きながら冷蔵庫を漁り始める。
――あの人も、今の彼が吹いている曲、『小さな願い』を、よく口ずさんでいたな。
私は、ふと思い出す。
その昔、たった一人だけ、私に優しくしてくれた監視対象者がいた。
悲しげな眉が印象的な、女の人だった。
彼女もまた、今のクスノキさんがそうしてくれているように、監視員の私を「普通の女の子」として扱ってくれた。私の境遇に同情し、寿命が尽きるその瞬間まで、私心配してくれていた。
『最期まで、見守っていてくれてありがとう。今度は私が、空の上からあなたを見守ってあげるね』
そういい残して、彼女は死んだ。
そのとき、私は決めたのだ。
もう、いなくなる人のことを好きになるのはやめよう、と。
よけいに、寂しくなるだけだから。
しかし――どうやら私は今、再び、その過ちを犯そうとしているらしかった。
どう足掻(あが)いても、この胸の高鳴りは、ごまかせなさそうだ。
テーブルの上に、彼が千羽鶴を折る際に使った折り紙が、まだ余っていた。
一枚を手に取り、鶴を折りながら、私は願う。
好きになってしまったものは、もう取り返しがつかない。その事実を、私は受け入れよう。
しかし、ならば、せめて。
私の気持ちが膨らみ過ぎて手遅れになってしまう前に、どうか。
私の心がどうしようもなくこの人から離れられなくなってしまう前に、どうか。
一刻も早く、クスノキさんが死にますように。