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第5章 スコットランド出兵編
第56話 背中のぬくもり


 冷えた無人の礼拝堂は、ぞっとするほど静かだった。

 僅かな空気の対流だけが聞こえるその空間で、私は祭壇の前の長椅子に座り、両手を組んで目をつぶっていた。


 グレート・レディーズは礼拝堂の外に待たせ、司祭も入れずに1人こもった私は、自分より外側にある世界をシャットダウンするように、思考の海に潜り込んでいた。


 この時代に生きる人間として、毎朝の礼拝は欠かさず行っているが、心の扉の奥ではキリスト教徒でない私が個人として、この場所で何かを祈ることはほとんどなかった。


「――貴女がおひとりでここにいるとは、珍しいですね」


 床を叩く靴音すらも耳に入っていなかったらしく、唐突に後ろからかけられた声に、ビクッと身体を震わせ、我に返る。


 慌てて振り返ると、いつも通り影のような黒衣を纏った男が、静かに佇んでいた。


 なんでこのタイミングで、この男が来るかな……!


「何を祈っていらっしゃるのですか?」


 落ち着いた低い美声が、この場所ではやけに厳かに響いた。


「反省……反省してたの……っ」


 予想外の男の訪問に泡を食った私は、取り繕う余裕もなく答えた。


「反省?」

「……私が、自分の判断では何も出来てなかったんだって、気付いたから」


 正直に答え、もう1度前を向いて、組み合わせた手に額を乗せる。


「何をそれほど悔いていらっしゃるのですか。兵を出したことにですか」

「押し切られて兵を出したことによ」


 明らかに気落ちしている主人に対しても、下手な同情を見せない事務的な口調に、私も王として強い声で答えた。


「自分の考えが定まらないまま、こんな大事な決断をしてしまった。私は王失格です」

「…………」


 熟考に熟考を重ね、こうするのが最善だと――あるいはこうするしかないと腹をくくって決断すれば、失敗しても、仕方がないと受け止められる。


 だが、誰かの意見に流されての失敗は、後悔しか残らない。


 それは、ここにいたのが、会議に参加していないウォルシンガムだったから言えた言葉だった。


 セシルだったら、多分言えない。

 まるで今回の結果を、彼のせいにするように聞こえたら嫌だったから。


 戦争を支持したのは枢密院の面々でも、最終決定を下したのは私だ。


「誤解しないでね。責任は全て私にあります。反省しているのは、負けたことそのものじゃない。負けるかもしれないと、迷いながら、確たる覚悟のないまま決断してしまった自分自身の甘さよ」


 大事なことは、考えて考えて、考えた上で、その時点で最善だと思う道を選ぶ。

 天童恵梨として生きていた時代の私は、そうやってきたはずだ。


 そうすれば、例え良い結果が得られなくても、最小限の後悔で次に進めるから。


 今回、考えきれないままに決断を下したことに、後悔が吹き上がった。


「しっかりやってきたつもりだったけど……指針になる歴史の知識がないと、何も決断出来ない自分に腹が立ってるの」


 歴史とセシルに頼り過ぎていた自分の甘さが許せず、私は真冬の礼拝堂に1人引きこもり、内省と、これからの選択肢を考えていた。


「くしゅんっ」


 話しかけられて集中力が切れたせいか、一気に寒気が襲い、くしゃみがこぼれた。

 鼻水が出そうになって、慌ててすする。


「ならば、このような冷え込むところでされる必要もないでしょう」

「そうね、戦場の兵士達はもっと凍えているでしょうね」

「陛下……」


 私の甘い決断の上で犠牲になった命を思うと、なぜか無性にここに来たくなった。

 こういう時、人はやはり、何らかの形で祈りを捧げることしかできないのかもしれない。


「そのような薄着ではお身体が冷えます」

「…………」


 答えない私の背後に近づいたウォルシンガムが、着ていたコートを脱いで背中に掛けてくれた。


「陛下」


 その上で促されるが、私は頑なに動かなかった。


「へくしっ……」


 またくしゃみが出そうになって、噛み殺そうとしたが、押さえきれなかった。


「陛下」


 脅かすような強い口調は、逆に私を意固地にさせた。

 男の人はすぐにそうやって、大きい声を出して怯えさせようとする。会議室でも、何度やられたか。


「あなたが温めれば?」


 投げやりな挑発に、ウォルシンガムがためらうことはなかった。


「――では、失礼します」


 売り言葉に買い言葉とでもいうような即答で、後ろからコートで包み込むようにして抱き締められる。


「……っ」


 上げそうになった声を意地で飲み込む。


 ……ほんとにやりやがった……


 こいつらの忠誠心とやらの前には、女王は皮肉の1つも言えないのか?


 かと言って、すぐに振り払って席を立つのも図られているようで、私は祈りの姿勢のまま、その状況をじっと耐え抜いた。


 体勢的に、顔を見られないのが唯一の救いか。


「…………」


 背中にウォルシンガムのぬくもりがある。


 静かな教会で、わずかな息遣いすら聞こえる距離。


 …………


 もはや反省どころじゃねぇぇぇっ!


 いやっ、だがしかしまだだっ。

 まだ立ち上がるには早すぎる。あと30秒は耐えろ私!


 目をつぶってカウントダウンをしながらも、意識は完全に背中の方に集中していた。


 確かにあったかい……けど……


 背中に感じる体温以上に、心臓が早鐘打ちすぎて身体が熱いんですけど?!


 相当早くなってる心臓の音が聞こえてないか心配になるが、ウォルシンガムの音が聞こえてないから大丈夫か?


 3、2、1……よし、30秒たった!


「……もういいわ、行きましょう」


 脳内の大騒ぎを毛ほども見せず、澄まし顔でそう言うと、ウォルシンガムはすぐに腕を離して身を引いた。

 羽織ったコートを返そうとすると、無言でその手を止められる。


 着ておけ、ということか。


 身体が冷えてきていたことは事実なので、その気遣いを有難く受取って、私はウォルシンガムのコートを巻いて礼拝堂を出た。


 真っ黒の厚いコートは、私には重くて、ぬくかった。





「あ……」


 礼拝堂を出た私は、まっすぐ会議室へ向かおうとしたのだが、廊下の窓から見えた光景につい足を止め、窓辺に寄った。


「雪……」


 チラチラと舞い落ちる白い雪に、空を仰ぎ見る。


「初雪ですね。この天気だと積もるかもしれません」


 私の隣で、同じように灰色の曇り空を見上げたウォルシンガムが言った。


 雪に埋もれるロンドンというのも、風情がありそうだ。

 去年の冬は、ちょうど戴冠式の時に粉雪が降ったくらいで、積もるほどの雪を見たことはなかった。


 確か1番天気が崩れた日には、私は風邪で寝込んでいたのだ。


「そっか、もう12月だもんね……」


 あれから、もう1年が経とうとしている。


 あっという間な気もするが、もうずっと前からここにいたような気もする。


 ……この男との付き合いも、1年になるわけだ。


 そう思い、隣に立つウォルシンガムを見上げると、それに気付いた相手が見下ろしてきた。


 まだ感傷に浸るには早い気がして口をつぐむが、つい押さえきれずに笑みがこぼれる。にやにやと笑いかけてくる私に、ウォルシンガムが軽く目を見開いた。


「へ……」

「あ! セシル!」


 そんなウォルシンガムの向こうに、ちょうどよく宰相を見つけ、私は声を上げた。


 ん? 今、ウォルシンガムなんか言おうとした?


 ふと気になり、セシルに向けた目を一旦ウォルシンガムに戻すが、彼はいつも通りの顔で口を閉ざしていた。


 ま、いっか。


 結論づけて、私はウォルシンガムの横を通り過ぎてセシルに駆け寄った。


「陛下、私もお話しが……」

「セシル! ちょうど良かった。すぐに枢密院メンバーを招集して。会議を開きます」


 気が逸って相手に先んじて伝えると、セシルが驚いたように目を見開いた。が、すぐに一礼をして、もと来た道を早足に戻っていく。

 その後を、私も追うように歩きかけ、すぐに思い出して足を止めた。


 身体に巻いていたコートを脱ぎ、窓辺に佇んでいたウォルシンガムに小走りに寄って返す。


「ありがとう。行ってくるわね」

「……いってらっしゃいませ」


 これから戦いを挑みに行くような気持ちで、気合いを込めた私を、ウォルシンガムが丁寧に礼をとって見送る。

 その臣下の見本のような姿に、君主としての責任感を後押しされた気がして、彼に背を向けた後、私はもう一度気持ちを入れ直して、背筋を伸ばした。


 私は女王だ。


 暗示のように、心の内でそう唱えると、周囲の空気が変わった気がした。正確には、私自身が発するオーラが。


 直立したまま、両手を腰の辺りでゆっくり広げる。

 その合図に、それまでウォルシンガムに遠慮して遠巻きに歩いていたグレード・レディーズが私を取り囲んだ。


 4人の貴婦人が恭しく取り巻く先頭を、ゆっくりと、だが堂々とした足取りで歩く。

 私の中の『女王』を鼓舞するように。


 一歩を進めるごとに、天童恵梨の殻が崩れ、エリザベス女王が組み上げられていく。


 廊下で出会う人間が、皆足を止め、恭しく膝を折る。


 そうして会議室へと辿り着き、両開きの扉が開け放たれた先には、男達が会議用の長机を囲み、私を待っていた。すでに全員揃っている。


 私は、保留していた議題の決定を伝えた。


「スコットランドに増援を送ります」


 強い決意を込めた声で下した決断に、会議机を取り囲んでいた幾人かが、小さく歓声を上げた。


 散々内省して気持ちの切り替えが出来たのか、引きずっていた後悔の念が晴れ、私はすっきりした気分で彼らの顔を見返した。


 ……ウォルシンガムに抱き締められたのは、悩み事が全部ぶっとんだという意味では利いたのかもしれないが、あえて効果は認めない。


 ともあれ、腹はくくれた。


 もやもやが晴れた思考は冴え、今なら自信をもって彼らと対等に議論を交わせる。


「どう考えても、今ここで兵を引くのは得策じゃないもの」


 兵を引けば、確かにこの戦に関してはこれ以上の犠牲は出ないかもしれないが、スコットランドの反乱軍は敗北し、女王の権威は失墜する。カトリック国家にはプロテスタントを手助けしたという理由で敵視され、プロテスタントからは及び腰になって見捨てたと軽蔑されるだろう。


 もはや、後に引ける状況ではない。


 本当は、戦争はしたくない。

 犠牲だって出したくない。


 だが、引くことに利益がないのなら、わずかな可能性にかけてでも前に進むしかない。


 反省はする。けれど、後悔してても始まらない。

 現状からの打開策を打ち出すことが、今もっとも必要なことだ。


「では、援軍の指揮は誰に?」

「ノーフォーク公爵を指名します。ノーフォーク州ならば、ロンドンから派兵するよりも早く合流できる」


 クリントン海軍司令官の問いに、私はきっぱりと答えた。


「それに、ノーフォーク公爵は北方貴族達に対して影響力が強い。彼らに対する抑止力としては適した人材でしょう」


 国王大権によって任じられた司令官に、諸侯が従わないというのは由々しき事態ではあったが、それ以上に、現時点では実行上の障害を取り除かねばならなかった。

 諸侯の意識改革や処罰はその後だ。


 最初の出兵の時点でも、ノーフォーク公爵トマス・ハワードを司令官に任じるのが適切だろう、という声はあったが、名誉挽回を狙うロバートの強い要望と意気を買った形だ。


 だが、今前線で戦っている彼らの士気を削がないためにも、それが失策だったと本隊に思わせるような命令を出すべきではない。


「合流すれば、速やかに副司令官としてロバート卿の下につくように命令します。諸侯のとりまとめ役、司令官とのパイプ役に徹して、くれぐれもロバート卿の指揮に従うように――と」


 王の勅令によって派遣された司令官が侮られ、結局大貴族の威光によって事を収めたなどとなれば、余計に北方貴族を調子に乗らせることになる。


「国王大権の前では、公爵すらひれ伏さねばならないだと、彼らにはっきりと示すいい機会です」


 ピシャリと言い切った私に、海軍卿は会議机に身を乗り出していた姿勢を改め、背もたれに背をつけて私を見据えた。


 トマスは不満だろうが、それこそ、私への忠誠が試される機会だ。

 あんな別れ方をして気まずい思いがないわけではないのだが、それとこれとは話が別だ。


 まだ若い彼が、私情を捨てて恭順に撤せるか。

 これは、ノーフォーク公という大きな駒を、これからどう扱っていくかの試金石となる。


 ただ有能であるだけでは、本当の意味での重用はできない。


 決して裏切らないこと。

 それが、私の寵臣である1番の条件だ。


 それに、ここでロバートの指揮権をトマスに移したら、ロバートが名誉を挽回するチャンスを完璧に潰してしまうことになる。


 彼の意気を買って登用したからには、そんな形で面目を潰すような真似はしたくなかった。


 実力主義だった営業時代も、私は上司にそうやって育てられたし、後輩達をそうやって育ててきた。


 合理性だけでは、人は動かせない。

 気持ちを買ったからには、最後まで信じ抜く勇気が必要だ。


 今回の私の決断に、異を唱える者は誰もいなかった。

 すぐにトマスに決定を伝えるため、ノーフォーク州に伝令が飛ぶ。


 今から兵を準備し、エディンバラへ向かうとなると、到着は早くても来月になるだろう。

 持ちこたえてくれればよいのだが。


「……セシル、少しカール大公との婚約交渉を進めましょう。隙を伺っている他国への牽制にはなるでしょう」

「では、ラベンスタイン男爵にお会いになりますか?」

「ええ、船遊びという季節でもないので、乗馬にでもお誘いしましょう」

「すぐにお伝えします」


 皇帝特使のラベンスタイン男爵カスパー・ブルンナーは、6月の終わり頃からロンドン入りし、皇帝に代わって結婚を申し込んできている。


 今のところ誰とも結婚する気はない。神の思し召しがあれば結婚する。肖像画は信用しない。直接会ってお話しをして、心を通わせてからではないと結婚できない――とこんな調子で翻弄している最中ではあるのだが、王侯貴族の結婚に見合いの慣習はなく、顔見せのためだけに王子を海を隔てたプロテスタント国家に送り込むのは、現実的ではなかった。ブルンナーとしては、意気消沈しているところだろう。


 だが、今の情勢では、カトリック国家であるフランスとスペインを敵に回しかねない状況であり、ハプスブルク家という味方がいることを、対外的にちらつかせておく必要がある。


 このイングランドの追い詰められた状況は、皇帝特使の方も十分察知しているはずだ。

 今のタイミングでブルンナーと交流を深めることは、頓挫しかけていた結婚話に希望を持たせ、彼をイングランドに引き止めるのに役立つだろう。今帰られたら困る。


 激動する国際情勢の中で、小舟のような国家の舵を必死で取る。



 ――ロンドンが雪に埋もれた12月。


 純白の下に様々な思惑を隠しながら、1559年が終わろうとしていた。




H25.8.8活動報告に、【おまけ小話】クマさんの頭の中をお見せします。2 を掲載しました。

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