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第5章 スコットランド出兵編
第55話 女君主の憂鬱


 悪い流れというのは重なるものだろうか。


 ロバート率いる軍隊がスコットランドへと向かった11月。彼のいない秘密枢密院会議で、ウォルシンガムの仏頂面がいち早く情報を伝えた。


「ポルトガルの継承戦争が決しました。アントニオ公子が破れ、スペインのフィリペ2世が、ポルトガル王フィリペ1世に即位しました」


 その報告を受けた私とセシルは、ある程度予想していた結末であったにも関わらず、しばし言葉を失った。


「ついに……そうなりましたか……」


 声を絞り出したセシルの表情は深刻だ。

 それだけでも、この結果が、イングランドにとってどれほど望まざる事態であるかが分かる。


 否――おそらくは、スペインを除く欧州全土の国にとって、それは恐るべき時代の幕開けだった。


「……とうとう、スペイン1強の時代が来るってこと……?」


 16世紀のポルトガルと言えば、まさに黄金時代。香料貿易を独占し、ウハウハフィーバーな国である。

 こんな景気の良い国を、ただでさえ国力のあるスペインが手に入れたとなると……まさに鬼に金棒。


「ついにあの国は、大西洋の制海権を握りました。広大なアフリカの領土、西インド諸島、新世界、そして極東――もはやヨーロッパの君主が所有する全ての領土を合わせても、フィリペ王を凌ぐことは出来ません」


 そうそう大げさな言葉を使わないウォルシンガムが告げた事実に、いずれそんなモンスター国家と戦う運命が待っているのかと思うと、気が滅入る。


 それまで、私は正しくこの国を導くことが出来るだろうか。


「陛下、これまではスペイン国王と腹を探り合いながら、国益を天秤にかけて友好を図ってきましたが……今後はあの男の気持ち1つで、この小国が転覆します。より慎重な采配が必要となるかと」

「そうね……今はまだ、出来るだけあの国と対立したくはないから」

「ですが、カトリックの盟主を自認しているあの国と、いつまでもまやかしの友好を続けることは不可能でしょう。度重なる侵略戦争の出費で借金を重ね、動きが鈍くなっていたあの国も、ポルトガルという巨大な金庫を得た今、カトリックの復権のため、積極的に宗教改革に対抗してくる可能性は高い」


 慎重論で同調する私とセシルに、ウォルシンガムが水を差す。


「それでも、今私たちの方からスペインと手を切ることはないでしょ。軍備が脆弱な中で、スコットランドに出兵している件もあるし、今は極力、スペインに敵対するような行動は控えなきゃ」


 スペインはどうやら、今回のスコットランド出兵の件は静観を決め込むらしいが、どこかで漁夫の利が得れそうになれば口出ししてくるだろう。


 向こうに攻め込む口実を与えるようなことは極力控えたい。


「これについては、枢密院会議でもまた話題に上がるでしょう。その他、国内での主だった事件の報告ですが――」


 ウォルシンガムの報告が終わり、次にセシルが、秘書にまとめさせた報告書を手に続いた。


「まず、カトリックの異端者の処分について。大陸の神学校で教育されたイエズス会士が、反乱を扇動するような危険な説教を国内で広めている件で――」

「その件は、以前対策と処分を決定したでしょう。まずは入国させないように万全を期すこと、そして、警戒網をくぐり抜けて入国した者は、処刑ではなく国外退去させること」


 この方針は、私が処刑を好まないという理由が大きいが、もう1つの理由として、信仰によって処刑された者は殉教者として神聖化され、遺された信者の心の拠り所になってしまうという懸念があった。


 ブラッディ・メアリーの時代、次々と火あぶりに処せられたプロテスタントの信仰者たちは、死の間際に数々の美談を遺した。

 その美しい信仰心は、国内のプロテスタントたちに広く語り継がれ、彼らは殉教者として崇められた。

 今はその神性と求心力を、国教会が利用しているのが実態だ。


 純粋な信仰の下に死んでいった彼らの立派な最期は、否が応にも人の心を打つ。

 この国に、彼らのライバルとなるような殉教者はいらない。


 どうしても処刑しなければならないような重罪人は、異端の罪ではなく、反逆罪であったり、実際に冒した罪のもと処断されねばならないと厳しく言い含めてある。


「はい。ですが、以前女王陛下からそのような指示が出ていたにもかかわらず、十分な調査のないまま異端の罪で捕らえた逮捕者に厳しい拷問を課し、重罪となる言質を取って処刑へと持ち込むケースが頻発しています」


 嫌な話だ。

 重大な隠し事を白状させるために用いるならまだしも、結果ありきで都合の良い証言を捏造するために拷問を利用するとは。


「先日も、アランデル伯爵夫人の礼拝堂付き司祭を務めていたイエズス会士、ロバート・サウスウェルが拷問にかけられた後、タイバーンで処刑されました。彼を逮捕したのがリチャード・トップクリフという男なのですが……陛下は覚えていらっしゃいますか?」

「えーっと、確か議員で、宮廷でも役職に就いてたわよね。顔は覚えてるけど」


 さほど関わることが多かったわけではない。日本の議員にもありがちな、悪いことしてそうな顔の中年親父だ。


「トップクリフは熱心なプロテスタントで、何人かの枢密院委員の保護も厚く、自宅で容疑者を取り調べることの出来る特権を得ていました。ですが、あの男のカトリック教徒迫害は、地元では悪名高く……政府の拷問台よりも遙かに酷いというサウスウェルの訴えが残っています。今回、別件での逮捕を受け、家宅捜査を行った彼の自宅からは、相当数の拷問用の責め具が押収されました」


 キモイ。完全に嗜虐趣味に走った変態だ。


「摘発できて良かったわね……それは。その別件っていうのは何なの?」

「それは……」


 嫌悪感を丸出しにしながら、一応聞いてみると、セシルが言葉を濁した。


「どうしたの? セシル」

「いえ……」


 重ねて問うと、セシルは報告書に落としていた目を逸らした。


「お伝えする必要があるのかと……」


 迷うように呟いたセシルから、私は書類を取り上げた。


「全部聞くわよ。勝手に情報を選別しないで……って、何コレ」


 報告書に記された内容に、私は目を疑った。


 トップクリフの逮捕の根拠となったのは、先日のエイミー・ダドリーの事故死以来、取り締まりが強化された女王への不敬罪だった。


 罪状は、女王を侮辱し品格を貶めるようなデマを流布したこと。


 どうやらトップクリフは、かなり珍妙な性癖と虚栄心の持ち主だったらしく、自宅の責め具のコレクションを周囲に自慢するだけでなく、己は女王の特別な寵を得ており、「乳房の谷間に手を差し入れたことがある」だの「白い太ももを拝見したことがある」だの……ないことないこと好き放題放言したという内容が生々しく書かれていた。


 触らせたことも見せたこともねーよ!?


 拷問趣味の変態親父に、そんな妄想を垂れ流されてるのかと思うと鳥肌が立った。


「な……なによこのセクハラ発言っ!? 何が目的なワケ!?」


 あまりの気持ち悪さに思わず立ち上がり、その報告書を放り出す。

 私が投げ出した書面に目を落としたウォルシンガムが、露骨に顔をしかめた。


 くそっ屈辱だっ。

 あんなエロ親父にしたり顔で言いふらされてるのかと思うとぶっとばしてやりたい!


 直接言われるよりも、事実のように見知らぬところで触れ回られてる方がよほど不愉快だった。


 有名税ってやつ……?


 若い女の君主が立つ限り、そういった目に晒されるのも覚悟しなければいけないのかもしれないが……


 うあああむかつく! 何がむかつくって、ないことないこと自慢げに語り広められてるってのがむかつく!


 妄想なら大人しく自己完結しておいてもらいたいものだ。


「このような輩は絞首刑で良いのでは?」


 いや、絞首刑はダメだろう。


 普通に積極的に死刑を薦めてくるウォルシンガムに、内心いきり立っていた私は、逆に冷静になって席に座り直した。


 ともあれ、そこからトップクリフの悪行がばれたわけだ。

 21世紀の日本でも、警察の汚職や犯罪は絶えなかったが、取り締まる側を取り締まるというのはとても難しい。

 ある意味で、宮廷に巣くう害悪をあぶり出せたと前向きに捕らえるべきか。


「さすがにこの程度のことで死刑に処するわけにはいけませんが、しばらくは監獄に繋いでおいて、その間に、彼の発言が事実無根のデマであることを知らしめた方が良いかとは思います」

「そうね、そうしましょう。あと、そんな特権は速攻剥奪しなさい」


 セシルの意見の方を採用し、私は付け足した。

 私へのセクハラ発言は個人的にむかつくだけだが、見えない場所で、罪のない人間を拷問にかけ、強制的に自白させて処刑に持ち込むような横暴は看過できない。


「このような悪しき行為が、枢密院の許可のもと行われていたというのが問題です。次回の会議で、私の方で十分に嫌悪を示し、2度とこのようなことがないように言い含めます。私はもう、過去のような宗教の違いによる迫害を行う気はありません」


 個人の信仰の枠を越えて、政治的、軍事的な反乱に繋がるような行為は看過できないが、『個人が世間に自分の心の扉を開いて見せる必要はない』というのが私の基本スタンスだ。


 信仰の違いを理由にした、力による残酷な迫害は、結局、被害者たちへの同情心を引き起こす。


「カトリックをプロテスタントに改宗させたいなら、拷問や処刑ではなく、慈悲によって彼らを生かしてやるのが1番です」


 もはや避けきれない政治問題となっているから、必要とあらば口出しもするが、本心は、宗教で人が血を流すなど馬鹿馬鹿しい、と今でも思っている。


 そして、多くの場合――それこそ、極端な信仰心の持ち主でない限り、日々を平和に生きたいだけの一般市民たちは、信仰のもと心休まることを求めこそすれ、信仰によって生活を破壊され、大切な人を失うことなど求めていないのだということを……市民と触れ合う中で、私は確信していた。


 始まりはどこからか知らないが、いまや大陸の宗教対立は、激化する異端審問と殉教の嵐によって、もはや収まりようのない程の憎悪と信仰心の高まりを呼び起こしており、互いが善と悪の二元論で異端を糾弾するという悲惨な事態に陥っている。


 せめてイングランドだけは、そんな不毛な争いで国民を不幸にはさせたくない。


 平和な時代に生きた私には確信があるが、平和で生活と自由が保障されている限りは、そうそう人は極端には走らないのだ。


 現状に満足できないから、何かを拠り所に改革を求める。

 ならば、彼らが現状を愛せるような国作りをしていくことが、国家の安定への近道だろう。


 ……その青写真を実現させるには、なかなか前途多難な現実が立ちはだかっていたりするのだが。



 そんな国内外での心労が続く中、翌月には、さらに良くない報せがロンドンに届いた。 


 ロバート率いるイングランド軍は、フランスの守備隊を相手取り、リース城を落とせずに苦戦しているというのだ。


「リース城の攻略に、十分な情報が得られず、手探りでの戦闘が続いています」

「北部貴族達は何をしているんだ。戦地に近い彼らの土地勘こそが攻略の鍵になるというのに!」


 セシルの報告に、クリントン海軍司令官が苛立ちを隠さずに吠えた。


「ロバート卿は、北部諸侯をとりまとめるのに苦労しているようです」


 枢密院会議の席にもたらされたその内容は、以前から懸念していたもので、私は扇子で頭を押さえ、息を吐いた。


 スコットランドへの進軍には、ロンドンから派兵した兵の他、国境地帯に近い北部領主達の抱える私兵をあてにしている。


 女王命令とはいえ、カトリック色の強い彼ら北部貴族の士気が上がらず、大人しく従わない可能性は、十分に考えられた。


『この戦いに手を出せば、イングランドは敗北への道程を一直線に転がり落ちる』


 スペイン大使に言われた言葉が蘇る。



 ――私は今、正しい判断が下せているのか?



 あらゆる時代の流れが、一気にイングランドに逆風となって吹き付けているような気がした。


「撤退か、増援を送るのか……」

「増援だ!」

「だが、すでに1500人の死者が出ているんだぞ。これ以上深入りをすれば取り返しのつかない損失に……」


 撤退か、増援か。

 二択を迫られた会議室で男達が紛糾する。

 旗色の悪さに、撤退を口にする委員も何人かいたが、大半は更なる援軍を派遣し、戦争を続行することを強く主張した。


「陛下、ご決断を!」


 委員達の間で、増援支持派が大勢を決したところで、最終の判断を促され、私は唸った。


「考えさせて……」


 枢密院委員達の間では、大方の意見は出尽くした。

 私はそれらを参考に決断を下す、とだけ答え、その日の会議を強制的に解散した。


 優柔不断と思われようが、これだから女はと内心馬鹿にされようが、その場で雰囲気に飲まれて決断するほど、愚かなことはないと思ったのだ。







~その頃、秘密枢密院は……



 会議の解散後、足早に退室した女王の背中には、ピリピリとした緊張感が張りつめていた。


 その後ろ姿を見送り、残された枢密院委員達は、それぞれに深い溜息をついた。


「なんとも……これだから女の君主というのは扱いづらい……」

「ぐずぐずと悩むのは機会の損失だ。増援を派遣するなら、一刻も早いほうがいいに決まっている」


 女は黙って男に従っておけばいいものを……と露骨な舌打ちが聞こえてきそうな空気の中、黙したまま溜息をついた若き宰相に、ノーサンプトン侯爵が胡散臭い視線を投げた。


「セシル殿、女王の信任も厚い貴殿はどうお考えなのか?」

「陛下が、ここで軍を引いてしまわれるのではないかと心配です。ここで引いてしまっては、我々は何も得ることが出来ない」


 宰相の答えは、女王に日和るものではなく、その場の大勢の意見と同じものだった。


「だが、あの慎重な女性が、更なる被害拡大のリスクを冒してまで、増援を決断できるか……?」


 そう言ったノーサンプトン侯爵が、言外に含ませた意図を、その場にいた全員が感じ取ったはずだ。


 女王に『私の精霊』と言わしめる男ほど、この状況で彼女を説得するに適した人物はおらず、その場にいる全員が、押しつけがましい期待と圧力をセシルにかけていた。


「……陛下がお戻りになったら、もう1度私から話してみます」


 その意志を誰よりも正確に汲み取ったセシルは、溜息を押し殺し、眼鏡のブリッジを押し上げて静かに答えた。





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