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第4章 夏の行幸編
第49話 結婚してください


 ノリッジからケニング・ホール宮殿に戻った時には、すっかり日が落ちていた。


 食事を済ませ、部屋に戻った私は、お気に入りとなった客室のベッドに突っ伏して、別れを惜しんでいた。


 今日で、この豪華なベッドともお別れか~。さびしいなー。


「陛下、ノーフォーク公爵がいらっしゃいました」

「トマスが?」


 ふかふかのマットに頬ずりしていると、扉の向こうから侍女の声が聞こえ、顔を上げる。


 ここに来て2日目に軽く喧嘩をしてしまったのだが、お互い、それが変に尾を引くということはなかった。


 私も、セシルを侮辱された時は頭にきたが、それも、生まれながらに公爵家の人間である彼の立場と、この時代の制度を考えれば仕方がないのかもしれない、と思い直したのだ。


 私の常識では測れないことが、この世界にはたくさんある。慣れることはできないし、毒される必要はないと思うが、認める努力は必要だ。

 価値観の違いを理由に周囲を否定していたら、周りには誰も残らない。


 けど、私はずっとセシルの味方だし、セシルが身分を理由に追い落とされるようなことがあれば、全力で守る。それだけは、絶対に変えるつもりはなかった。


「今夜は満月です。夜の湖に出ませんか?」


 最後の夜に訪ねてきたトマスのお誘いは、私にとってはなかなかに魅力的なものだった。


 空を見るのは大好きだ。特にこの世界の空は、広くて透き通っていて、いつ見ても感動する。


「いいわね。待って、フルートを持って行くわ」


 すでに髪も下ろしていて、衣装も重くて豪華な訪問着から、動きやすくて涼しいドレスに着替えたのだが、夜だし屋敷の敷地内の湖に足を伸ばすだけだから、別にいいだろう。


 奥に引っ込んでフルートのケースを取って戻ってくると、トマスが寝室付きの侍女たちと、なにやら談笑していた。


 が、私が戻ってきたことに気付き、侍女達がさっとトマスから離れる。


 別に、そんな気を遣わなくても、話してくれて全然構わないんだけど……


「いってらっしゃいませ、陛下」


 当たり前のように皆に見送られ、私はトマスと2人で部屋を出た。


 2人っきりかぁ~……まぁいいけど。


 まるでデートみたい、と思いつつ屋外に出ると、雲影のない空に、大きな満月が浮かんでいた。


「綺麗……」


 見事な月夜に軽い懸念など吹っ飛び、私は上を見上げたまま、トマスを置いて勇み足で湖の畔へと向かった。


「陛下、上ばかり見ていると危ないですよ」

「おっとぉ……っ?」


 追いかけてきたトマスの予言に引っかかるように、ドレスの裾を踏みつけてしまう。


「ホラ……」

「ゴメン……」


 危うく転びかけるが、用意していたように差し出された腕に受け止められ、事なきを得た。


 危ない危ない。フルートを手にしたままこけたら、ヤバかった。繊細な楽器なのだ。


 また、この前みたいに抱きしめられたらどうしよう、という不安が過ぎったが、トマスはすぐに手を離し、私から離れた。


 そのことにほっとして、後をついていくと、船着き場に到着した。満月を映した湖面が揺らぎ、煌々と照り映えている。


 湖の船着き場には、小さなボートが1隻浮かんでいた。

 よくある2人乗りのもので、船首にランプが1つ付いている。


 今日は、トマスが漕いでくれるのだろうか。

 宮廷での船遊びでは、いつも漕ぎ手をつけていたので、これは初めてのパターンだ。


「陛下。暗いので、足下にお気を付け下さい」


 先にボートに移ったトマスに手を取られて乗ると、小さなボート特有の揺れがあった。

 思わず取り落とさないよう、フルートのケースをぎゅっと抱きしめるが、座ってしまえば安定した。


 ランプに灯を入れ、ゆっくりとトマスが漕ぎ出したボートが湖岸を離れる。


 だが、大きな満月と、空にひしめく星々の瞬き、そして、それらを反射した水面の輝きで、ランプなど必要ないほどに、湖の上は明るかった。


「すごーい。本当に真っ暗なところって、こんなに星が明るいのね」


 湖の周辺はひっそりと寝静まっており、船に灯る小さなランプの明かり以外、人工の光はどこにもない。

 暗闇が小さな星屑の輝きまでも引き立て、宇宙に散らばる全ての星が見渡せるようだった。


 感心しきっていると、向かいでオールを漕いでいたトマスが苦笑した。


「貴女はいつも、とても些細なことで感動される」


 21世紀都会育ちの人間としては、いちいち感動せずにはいられないのだが、確かに、彼らからすれば些細なことかもしれない。


「今日で終わりか……」


 ふいに実感し、私は空を見上げながら呟いた。


 明日の朝には、この宮殿を出て、ロンドンへと向かう。


「すごく楽しかったから。ちょっと寂しいわ」


 たくさんの人に出会えて、たくさんのものを見て、たくさんのことを知った。


 守らなければいけない民の顔が見れた。責任の重さと、期待されている実感、彼らが求めるもの――目で見て、耳で聞き、肌で感じなければ、分からなかったものだ。


 この時代に来て以来、宮廷の中に留まっていた私の世界が、急に開けた旅だった。


「トマスはこのまま残るの?」

「はい、しばらくは。こちらでの仕事もあるので」

「そうよね……カードの相手がいなくなるのはさびしいけど、頑張って」

「申し訳ありません」

「いいのよ、そんなに深刻に取らなくても」


 真面目な顔で謝られ、苦笑する。


「公爵領に住む民の平和は、あなたに託しています。よろしくね」

「……はい」


 私の言葉に頷いた彼が、ふと眉をひそめた。


「ノリッジでの話を聞きました。俺が治める土地で、ああいった騒ぎがあったことを、深くお詫びします」

「仕方がないわよ……ノーフォークは、エイミー・ダドリーの地元だったんでしょう? それに、まだこっちの方は、国教会の政策に対する反感も根強いし」


 イングランドは、南部を中心にプロテスタント化が進んでいる。


 布教には、宣教師や説教師の派遣が必須だが、数が足りていない。北部まではなかなか手が回っていないのが実情で、北に行くほどカトリック信仰が強い。


 でも、温かく迎えてくれる人たちもいる。


 そこで会話が途切れ、風が吹いた。

 水面がさざめき、湿気を含んだ夜風が髪を絡め取る。


 後ろに流した髪を手で撫でつけ、ぼんやりと風と水の音を聞いていると、トマスがこちらを見ていることに気付いた。


「……吹いていい?」

「勿論」


 短く了承を取り、私は膝に抱えていた木箱からフルートを取り出した。


 何となく期待されているような気がして、例の曲を吹き出す。


 ふと、演奏しながら水面に目を向けると、白い満月と星々に重なって、フルートを吹く己の影が映っていた。隣には、トマスの影。


 オールを漕ぐ手を止め、じっと聞き入る彼の視線が、ある1点から逸らされることはない。

 水面の影から実物に目を移すと、ばっちりと目が合った。


 向かい合って、見つめ合いながら演奏するというのも気恥ずかしくて、私はすぐに目を伏せた。旋律に集中する。


 最終楽章まで吹き終え、目を開けると、やはりトマスと目が合った。

 すると謎の微笑みを返され、私は首をかしげた。


「何考えてた?」

「貴女の音色を受けるパートナーになれたらいいのに、と夢想していました」

「トマス、あなたハープが弾けるの?」

「ハープ?」


 彼の回答に身を乗り出した私に、今度はトマスの方が首をかしげた。


 あ、そういう意味ではなかったか。


 この曲が本来、ハープとの二重協奏曲だと知っているのはセシルだけだ。


 すると急に、トマスが前に乗り出してきた。

 1人が動いたことで、少し、小舟が揺れる。


「陛下、お手を」

「……?」


 そう言って右手を差し出され、フルートを右手で握っていた私は、よく分からないまま左手を彼の手に載せた。


 その手を引いて、手の甲に口付けるまでは、いつも通りだったのだが――今日は、返した掌に口づけられた。


 手の甲なら敬愛、もしくは忠誠のキス。


 ええっと……掌ってなんだっけ。


「陛下」


 私の手を取ったまま、トマスが口を開いた。掌に、熱い息がかかる。


「俺と結婚して下さい」


 え……?


「何を……」

「国民も臣下も、皆それを望んでいます」


 反射的に手を引こうとするが、掴んだ指はびくともしない。


「何よりも、俺が貴女を愛してしまった……」


 そのまま、強い力に手を引き寄せられ、私は前のめりにならざるを得なかった。

 右手に握ったフルートを、どこかにぶつけてしまいやしないかと気が気でなく、力一杯腕を引き抜くこともできない。


 その間にも、トマスのキスは位置を変え、手首に、腕に、唇が滑る。


 待て。待ってこの展開は!


 親善大使を通した結婚交渉は数あれど、まさかいきなり面と向かって結婚を申し込まれるとは思わなかったので、脈拍がうなぎ上りに速くなっている。


 やばい、すごく恥ずかしいどうしよう!


 いやどうしようって、断るしかないんだけども!


 待ってくれ。断るにも心の準備がだな……!


 パニックになる頭の中で、必死にこの状況から逃れる方法を考える。


「待って、離して! フルートが……!」


 フルートを落としてしまいそうで怖かったのも事実なので、切羽詰まった声で訴えると、さすがにトマスも手を離してくれた。


 落ち着け。落ち着け私。


 時間を稼ぐつもりで、ゆっくりとフルートを箱に収めて、船尾の方に置き、私は強引にトマスに背を向けた。


 拒絶の意を示したつもりだったが、急に舟が揺れ、今度は、背中に温もりを感じた。


 後ろから抱きすくめられてしまったのだ。


 この状況、どうしろと!?


「ト、トマス! 気持ちは嬉しいけど、ダメなの。私、結婚する気ないから!」


 とっさに上手い断り文句が思い浮かばず、あまり説得力のない正直な告白をする。


「……そういえば以前、処女として死にたいなどと奇妙なことをおっしゃってましたね」


 それは、エリザベス1世の有名な台詞を真似ただけなのだが、トマスには奇妙の一言で片付けられた。


「貴女は、女の悦びを知るべきだ」


 真後ろから囁かれ、腰に回された腕を強く引き寄せられた。


「男の庇護を受けるのが、女にとって最も幸せなんです。そうすれば、貴女を傷つけ辱める声からも、女の身には重い国政からも解放される……戦争の指示を出さなくてもいい」


 そんなことは……そんなことは望んでない!


「貴女は、ただ俺に身を任せてくれればそれでいい」

「トマス、離して……危ない、こんなところで……っ」


 楽器を安全なところに移した私は、逃れようともがいてみせるが、その度に舟が不安定に揺れた。下手に暴れたら、転覆しそうで怖かった。


「ここなら、貴女も、いつのように逃げることもごまかすことも出来ない」

「何を言って……」


 下ろしていた後ろ髪を左肩に避けられ、空気に晒されたうなじに唇が触れた。


「トマス……?!」


 抗議の声を上げるが、相手は全く意に介した様子もなく、何度も首筋にキスを落とした。

 私は腕を解こうとしたが、両手で後ろからがっちりとホールドされては、ビクともしない。


 かと思うと、急に右耳を食まれた。


「ちょっ……」


 うわぁ! 今ビクっとなったビクッって!


 自分の反応に驚いているうちに、トマスの右手が肩を這い、デコルテが広く開いたドレスの肩をずらされる。そこにも唇が落ちた。


 貴様! 処女の身体になんつーことしてくれてんだ!


「は、離して……!」


 暴れるたびに揺れ動く船体に、本能的に委縮してしまい、思うように身体が動かせない。


 天童恵梨人生最大のピンチ!?


 どーする? どーするこれ!





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