ケニング・ホール宮殿出発を明日に控え、私は
大抵の町訪問では、最初に市庁舎を訪れて市長や町役人の歓待を受けるのだが、ノリッジは大きな街であるため、主要施設を効率よく回ることを優先して、先に街中を視察することにした。
ロンドンに次ぐ国内第2位の都市というだけあって、街は活気にあふれていたが、それでいてロンドンほどごちゃごちゃしていなく、地方特有のゆったりした空気がそこにはある。
この街には、古くから大聖堂と教会が密集しており、カトリック信仰の名残が色濃い。
そのため、ノリッジ大聖堂を訪れ、ノリッジの主教と面会した際には、より一層国教会の信念の浸透に努めるよう発破をかけた。
聖堂を出ると、外には女王の出待ちをしていた民衆が溢れていた。
広場へと続く大階段の上から手を振ると、ワァァァ! と歓声がどよめいた。
大聖堂前の広場に集う市民の数もこれまでの比ではなく、押し寄せる民衆の中を、護衛隊長や枢密院、近衛隊に囲まれながら馬車の近くまでたどり着く。
馬車を背にした位置で、前面を囲む市民たちと順に触れ合いながら、私は彼らの声に耳を傾けた。
街の人達も誠実そうな人たちばかりで、この人ごみの中でも揉め事が起こるようなこともなく、譲り合いながら女王の訪問を歓迎してくれた。
「人殺し!」
そんな和やかな空気の中、突然飛び込んだ穏やかならぬ声に、民衆がざわめいた。
え――?
「人殺しの女王だ!」
先程よりも、はっきりと聞こえた声に群衆の注目が集まり、振り返った私は、そこで目にした光景に硬直した。
いつの間にそこにいたのか、大聖堂と広場を繋ぐ階段の踊り場に、十人弱の男たちが集まって、布や板きれに書いた文字を掲げていた。
一番大きな布の横断幕には、攻撃的な文字で『愛人の妻を殺した売女』と書かれていた。
「…………っ」
とても笑って受け流せるものでない悪口に息を飲む。
「貴様ら……!」
激昂した護衛隊長が剣を抜く。その様子に、近くにいた市民が悲鳴を上げて逃げ出した。
「王ならば何をしてもいいのか――!?」
「許されざる女の王の行いには天罰が下るであろう――!」
「
腕を振り上げ、次々と声高に叫ぶ男たちに、群衆は戸惑いに揺れた。
今この瞬間、広場に集う市民の耳を奪っているのは、彼らだった。
凍りついて、彼らの主張を凝視していた私の肩を、セシルが引いた。
「陛下、馬車の中に……」
「いいえ」
理不尽な悪意を目の当たりにして、一瞬気持ちが怯んだのは確かだが、私はセシルの言葉を拒否して、その場に踏みとどまった。
ここで見えないところに逃げ込めば、彼らの主張を認めたようなものだ。
絶対に逃げるもんか。
「全員下がって。今、誰も私の前に出ることは許しません」
「し、しかし……」
すでに剣を抜き、デモ隊を睨みつけていた護衛隊長が抵抗するのを目で下がらせ、私はひとり、人垣の中に1歩を踏み出した。
その1歩に、物怖じするように民衆が身を引いた。
「神に誓ってそのような事実はありません」
凛と背筋を伸ばし、顔を向けた先のデモ隊に向かって、決然と告げる。
彼らから視線を逸らさないまま、1歩1歩、大地を踏みしめるように進む私に合わせ、道が出来て行く。
「私は主の導きによって命を救われ、国民の皆さんをお守りする役目を与えられました。主の僕である私が、そのような恐ろしい罪を犯したのなら、主は決して私を許しはしないでしょう」
デモ隊と、臣下達が睨みあう中間、群衆のど真ん中で私は立ち止まった。
身体の前で組んでいた手を解き、腕を広げる。
今の私は、1点の疑いもなく無防備だ。
「私が今ここで、皆さんの前に、何も持たずに立っていられるのは、皆さんの愛も、主の愛も疑っていないからです」
私の潔白は、私自身の誇り高さが何よりもの証――そう、セシルに言われたことを思い出す。
これが人を殺して嘘ついてる顔かどうか、あんたらの目で確かめてみろ!
デモ隊に真っ直ぐ顔を向け、背筋を伸ばして進み続ける私に、おののいたように人波が割れ、やがて1本の道が出来た。
私を攻撃するプレートを掲げた男たちも、階段の上からその姿を見下ろし、口をつぐんで言葉を聞いている。
今、私は彼らから耳を奪い返した。
「私は、この身に、この心に、何のやましさも負ってはいません。だからこそ、胸を張って皆さんの前に全てをさらけ出せます」
今なら、誰でも私を殺せる。
だが、誰1人私に近づく者も、罵声を浴びせかける者もいなかった。
恐れを見せず、ためらわず、私は彼らに近づき続けた。
いよいよ大聖堂の階段の真下まで来て、彼らの細かい表情すら見えるほどの距離で、私は訴えた。
「私に過ちがあると思うのであれば、どうかその目で確かめて下さい。不確かな噂ではなく、確かな目で、私を見て下さい」
恥じることなど何もなかった。
だって、何も悪いことなどしていないのだから。
「私は神の僕として、国家と国民を守るために遣わされました。私はこの仕事に誇りを持っています。そんな私が、自らの誇りを奪うような行いをすることは決してありません」
眼差しに力を込め、いよいよ階段を上り始めた私に、デモ隊がプレートを下ろして後ずさった。中には、左右に逃れて階段を降りようとする者すらいる。
階段の中央の踊り場に辿り着いたところで、私は彼らから――私を王位簒奪者だと主張する彼らから背を向け、広場に集まる民衆を振り返った。
「親切で正直なノリッジの皆さん、2か月前、この地で、不幸な女性が天に召されました。私の忠実な臣下の妻だった女性です。いわれなき誹謗と恥辱を受けた哀れな女性です」
会ったことはなかったが、エイミー・ダドリーの境遇には、心の底から同情する。死してなお、こんな風に人の悪意に利用され、辱められ続けるなんてあんまりだ。
同じ女性として胸を突くものがあり、込み上げた涙を瞼を閉じて押さえ、私は胸の前で手を組んだ。
「どうか今一度、共に祈って下さい。哀れな魂が、祝福を受けますように」
膝をついてエイミー・ダドリーに祈りを捧げた私に合わせて、階段の下にいた市民たちが、同じように膝を折り、天に祈った。
跪く人の波が、徐々に広がっていく。その波紋はやがて広場全体を覆い――全ての人の祈りが天に捧げられたその時、大聖堂の鐘楼の鐘が鳴った。
厳かに街に響くそれは時を報せる鐘だったが、まるで鎮魂の鐘の音のように、私の心に響いた。
※
「危険な賭です」
無力化したデモ隊をノリッジの市警隊が逮捕し、混乱が収まった後、馬車に乗って市庁舎へと向かう私を、隣に座ったセシルが戒めた。
「ウォルシンガムがいたら説教喰らってたわね」
「分かっていらっしゃるならお控え下さい」
そう言いながらも、セシルの方は、ウォルシンガムのように喧々と説教する気はないらしい。
「あの人達は、彼らのプロパガンダに戸惑っていたでしょう。だから絶対大丈夫だと思ったの」
ノリッジの市民の、誠実さと実直さに賭けた。
危険な賭けであることは確かだったが、無謀な賭けではなかったはずだ。
事実、私は賭けに勝った。
セシルはそれ以上は何も言わず、市庁舎についた私たちは、張り切り過ぎてしゃちほこばった町役人たちに丁重に出迎えられ、庁舎内のホールで歓迎の式典に参加した。
「この度は……っ女王陛下のさいひょ……最初の行幸に我がノリッジをおえ、お選びいただき……っ誠に、誠に光栄に思うとともに……っ我がしへ、市歴に残る、この栄誉を授けて下さいました、女王陛下に、心よりのかむひゃ……感謝と忠誠を捧げ……っ」
市長噛み噛みだ……っ
壇上に立ち、用意していたスピーチを汗だくになりながら話すのは、このノリッジの市長だ。
がんばれっ、がんばれっ!
白髪白髭の小さいおじいちゃんが、テンパりながら必死にしゃべってる姿は思わず応援したくなるものがあり、私は身を乗り出して拳を握りながら、その聞き取りにくいスピーチを真剣に聞いていた。
「お聞き苦しいスピーチをお聞かせしました……」
スピーチの後、挨拶に来た市長がしょんぼりして謝ってきた。
「いいえ、とても真心のこもったスピーチでした」
一生懸命さはとても伝わった。
「今しがた、広場で不届き者が騒ぎを起こしたと聞きました。せっかく遠いところをお越しいただいた女王陛下に、不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません」
「いいえ、気にしないでください。ノリッジの皆さんの誠実さに救われましたから」
深く謝罪する市長の顔を上げさせる。
遠目に見てもインパクトのあるキャラだったが、顔の半分が白いもふもふの髭で覆われていて、眉毛も白くて長い。しょぼしょぼの目は皺に埋もれていたが、全身から人の良さがにじみ出ていた。
「たまたま、その場に居合わせた者から話を聞きましたが……素晴らしい奇跡を目の当たりにしたと、感動しておりました。あのような不心得者を陛下のお目に止めてしまったのは大変遺憾ではありますが、陛下の気高い行動に胸を打たれ、改めて我々は素晴らしい女王を戴くことができたのだと、神に感謝しております」
自分の言葉でしゃべる方が、よほどすんなり話せている。
「奇跡を見せてもらったのは私の方です。ノリッジの皆さんには、人の心が起こす奇跡を見せてもらいました。私の最初の行幸が、この町で良かった」
言って、私の肩くらいまでしかない、ちっちゃいじいちゃんを見下ろす。
すると、市長の小さな目にじわーっと涙があふれ、きらきらした目で見つめられた。
なんだよぅ……私も泣きそうになるじゃないかよぅっ。
もらい泣きは得意技だ。
お互いうるうるしながら見つめ合っていると、市長の後ろで秘書らしき男性が咳払いをした。
「市長、そろそろ」
「あ、ああ……そうですな」
こしょこしょと耳打ちをされ、市長が襟を正して、後ろの男性から何かを受け取る。
「心ばかりのものではありますが、女王陛下にこちらの品を」
差し出されたのは、蓋付きの黄金の杯だ。
受け取ると、ずっしりと重い。
「ノリッジの市民からの贈り物です。女王の栄光の治世を讃えた純金製の杯です」
純金!? 結構大きいけど!
まだ即位して間もないのに、こんなに期待をかけられて恐縮だ。
いくらノリッジが大都市だと言っても、これだけのプレゼントを用意するのには、相当奮発したのではないだろうか。
それでなくとも、女王の行幸のために街中が綺麗にされていて、歓迎の催しなどにもかなり気合が入っていた。
「とても大きな杯……素晴らしいプレゼントです」
「ありがとうございます。けれど陛下、その中にはもっと大きなものが入っています」
「この杯の中に?」
市長の言葉に、杯を覗き込む。
蓋を開けたかったが、重たくて両手で持っていたので開けられない。
「それは何?」
聞くと、市長は誇らしげに胸を張った。
「陛下を愛する、我々臣民の真心です」
「市長……」
引っ込んだはずの涙が、市長の言葉に刺激されて、また込み上げる。
「ありがとう。それは確かに、何よりも大きなものです」
大きな真心と杯を大事に抱きしめて、私は市長を見下ろして微笑んだ。
その日、全ての予定されたスケジュールを消化した私たちは、空が赤く染まる頃にノリッジの市門を出た。
見送りに来た市長と最後の別れの挨拶を交わした私は、自分の馬に跨り、送り出すために詰めかけた民衆に手を振った。
大きな歓声が応えてくる。
それがやけに心に染みて、また目が潤む。
今日は、ただでさえ弱い涙腺が緩みっぱなしだ。
「皆さん、私は今日ここで、ノリッジの皆さんの深い愛情を頂きました。皆さんの愛こそが、私の何よりもの財産です。私は、決してノリッジを忘れないでしょう!」
出来るだけ大勢に聞こえるよう、私は声を張り上げた。
「さようならノリッジ!」
手を振ると、どこかから「
それは瞬く間に伝播し、取り囲む群衆の斉唱となる。
それらは風に乗って、馬を進める私の耳にいつまでも届いた。
+注意+
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