翌日の午前中は、長旅と歓迎の宴の疲れも考えて、特に仕事の予定は入れずにゆっくりと過ごすことにした。
ケニング・ホール宮での滞在は5日間。勿論、公爵の屋敷に滞在中も、宮廷の機能は動いているのだが、ロンドンに常駐している時に比べれば、謁見希望者や外国大使の目がない分、人に会う類の公務全般は大幅に減る。
後は日常の事務仕事が残るくらいで、会議も何かことが起こらない限りは、頻繁には行わない。
かわりに地元を視察に行ったり、市民の催し物に参加したりはするが、実にのんびりしたものである。
昨夜は夜更かししたので、少し遅めの朝を迎え、いつのものように身だしなみを整える。
……だが、今朝は少し違和感を覚えた。
着替えを手伝う侍女達が、妙にそわそわしているのだ。
「陛下、今日のお召し物は、こちらはいかがですか?」
「それでしたら、こちらのティアラがよくお似合いになると思いますわ」
別に気合いを入れてくれ、と頼んだわけでもないのに、やけに張り切ったコーディネートを薦めてくる。
結局私は、ピンクと白のふわっふわのお姫様ドレスに、いつも公務中はアップにすることが多い髪はハーフアップで巻き巻きにした上、銀のティアラを載せるという、いまだかつてない甘ったるい仕様にされた。
えっ、ちょっとこれ恥ずかしくないっ? 若作りじゃない?
戸惑っている間にちゃっちゃか仕上げられて、私は女王様というよりお姫様になってしまった。
……こういうのは、私よりイザベラとかの方が似合うんじゃないだろうか。
などと冷静に思うが、ちょうど仕上がったそのタイミングで、扉がノックされ、侍女が顔を覗かせた。
「陛下、ノーフォーク公爵がいらっしゃいました」
え?
なんか約束してたっけ?
「さあ陛下!」
「いってらっしゃいませ!」
その報せに浮き足立ち、ウキウキと送り出す侍女達にピンと来た。
この子ら、今日トマスが朝から私を誘いに来るって知ってたな!?
侍女達にすら謀られた私が客室を出ると、トマスが膝を折って迎えてくれた。
「お迎えに上がりました、陛下」
今日もばっちり王子様である。
決まっている彼に感心していると、私を見たトマスが驚いたように目を見開いた。
「可愛いですね……」
ほら! トマスも驚いてる!
「やっぱり若すぎるわよね……?」
今から着替えるのはさすがに無理だから、今日は1日これで我慢するしかないが、恥ずかしい。
「いえっ、そうではなく、あまりにも可愛らしいので、他に言葉が出なかったのです」
顔を赤くして自嘲すると、トマスが慌ててフォローをくれた。
「よくお似合いで……そう、可憐で、なんというか、守りたくなります」
可憐も守りたくなるも、はなはだ私からかけ離れた言葉である。
無理すんなよ、と言いたくなるが、賢明に言葉を探しているトマスを追い詰めるのも可哀想なので、それ以上自虐するのはやめておいた。
「行きましょうか、陛下。下に馬を用意しています」
どこに連れて行かれるのかは知らないが、私をエスコートしようとするトマスについていくと、その後ろ姿をグレート・レディーズに見送られた。
え? ついて来ないの?
拍子抜けして振り返るが、彼女たちはにこやかに笑ったまま、並んで佇んでいる。
ノーフォーク公がいるから大丈夫、って判断なんだろうか……?
わーい。ともあれ、久しぶりに自由の身!
お付きなしで外に遊びに行けるのが嬉しくて、私はスキップしそうな勢いで、階段を降りて廊下を渡った。
すれ違う廷臣達がにこやかに礼をしてくるのに、こちらも機嫌良く礼を返す。
「どこへ行くの?」
「陛下は乗馬がお好きだと聞いていますので、猟苑を走って丘の上まで。ノリッジの街が見下ろせます」
「いいわね。2人で?」
「勿論」
宮殿を出ると、白毛馬と青毛馬が2頭繋がれていた。
「トマス! どっちがいい? 途中で競争しましょう」
「お好きな方を」
「じゃあ白い子!」
聞いておきながら、すでに目をつけていた真っ白な子に駆け寄る。
「よしよし。今日はよろしくね!」
立派な馬だ。毛並みの良い身体を撫でていると、トマスが抱き上げて鞍に乗せてくれた。
自分で乗れるのに……
黒い方の子にトマスが跨がり、猟苑に出ると、抜けるような夏の青空が広がっていた。
「うわぁ……良い天気!」
宮殿を背にしてしまえば、建物が何もないその場所から見上げる夏空は、青いドーム天井のようだ。
どこまでも広がる、雲1つない青空の清々しさに感動していると、トマスがこちらを見て微笑んでいるのが見えた。
「何にやにやしてるのよ?」
「……にやにやしてましたか?」
真面目な顔に戻って口元を押さえるトマス。
「陛下がいつもより嬉しそうでいらっしゃるので、ついこちらも嬉しくなりました」
そんなに嬉しそうだっただろうか。
「だって2人っきりよ。こう、気が晴れるっていうか、身体が軽くなった気分」
「そうして無邪気にされていると、女王というより姫君のようです」
笑って言われ、思わず見返すと、トマスが表情を改めて謝罪した。
「……すみません、失言でした」
「いいのよー、若く見えるってことで。褒め言葉として受け取っておくわ」
よく考えれば、一般人からいきなりすっ飛ばして女王様になってしまったので、お姫様と言われるのは何となく新鮮だ。
この格好の効果だろうか? お姫様って柄じゃないけども。
「よし! じゃあここから丘まで競争! 絶対手ぇ抜くんじゃないわよ!」
言うなり、鞭を打って走り出す。すぐに追いついたトマスとガチのレースを繰り広げた私は、とてもじゃないがお姫様にはなれないだろう。女王様もギリギリ落第な気がする。
「どっち!? 勝った? 負けた? 同着?」
「審判がいないので分かりませんね……ほとんど同着かと」
目的の丘は、それほど遠くはなかった。
競り合いながら頂上に着いたので、どちらが勝者か分からない。
同着か……ちぇっ。
トマスに勝てたら、ロバートが帰ってきた時に自慢できるかと思ったのに。
「正直驚きました。これほどまでのものとは」
額の汗を拭い、上着を脱いだトマスが感心したように言った。
私も暑い。
今になってハーフアップの髪の毛が暑くて疎ましかった。っていうかもうぐちゃぐちゃになってそう。
この格好で馬で競走するなって話ですね、ハイ。
夏用のドレスなので、襟ぐりが広く開いていて袖もなく、生地も薄めで涼しいのだが、それにしたって、この夏日に全力で馬を駆ったら汗も掻く。
「ロバートに鍛えられたからね」
私の遊び相手として付き合ってくれつつも、一切手を抜かなかった(本当は抜いてたのかもしれないけど)ロバートには、結局まだ1度も勝てていない。
答えながら、私はハーフアップの下ろしている部分の髪を上にまとめ上げて、両手で押さえた。背中の方が広く開いてるので、こうすると丘の風が通って涼しい。
ふぅ、気持ちいい!
「ロバート卿……ですか……」
じっとこちらを見つめるトマスの相槌は、どこか上の空だ。
「あ! トマス、あれがノリッジ?」
だが私は気にせず、ちょうど馬上から見下ろした景色に歓声を上げた。
「あ……ええ、そうです。我がノーフォーク州最大の都市、ロンドンに継いで、イングランドで2番目に大きい商業の中心地です」
「本当! すごく立派な街ね。大きな建物もたくさんあるし……大きな河が走ってる」
「ウェンサム川です。古くから水運を利用した交易が盛んで、この肥沃な大地の母です」
丘の上から一望できる街の景色の中には、ノリッジ大聖堂やノリッジ城も見える。
その活気に満ちた大都市を、トマスは誇らしげに紹介してくれた。
ロンドンに急速に人口が集中する中、イングランド全体の活性化のためにも、こういった地方の大都市が、どんどん振興していって欲しいものだ。
「恵まれた土地ね……今から行くのが楽しみ」
「ノリッジの市民は、誠実で実直な気性です」
「トマスみたいに?」
そう言うと、トマスは照れたように微笑んだ。
「そういえば、トマスって私の悪い噂が流れてた時も、普通に声かけてきたわよね。気にならなかったの?」
なんとなく、トマスと仲良くなったきっかけはあのあたりだったような気がする。
「悪い噂? ああ、あれですか」
トマスは不快そうに眉を寄せた。
「愚かな噂です。陛下のお姿が見えない下々の者ならまだしも、宮廷で陛下の傍にお仕えし、人間性に触れておきながら、そのような噂を信じる輩が理解できない。あれは宮廷の恥です」
トマスの批評は手厳しかった。
「ロバート卿にしても、あれは愚かで軽率な男ではありますが、そこまでおぞましい考えを持つような人間でもないでしょう。むしろ、そのような噂を喜んで流す者の方が、そういった考えを抱いているのかと疑いたくなります。陛下のお傍に侍ることも出来ない、その才も資格もない男たちのつまらない妬みでしょう」
フンと鼻を鳴らすトマスは、心底憤慨しているようだ。
彼が、ロバートのキャラをきっちり把握しているのが意外だった。
「あなたは、誰かを妬む必要なんてなさそうね」
多分、この男が手に入れられないものなど、ほとんどないはずだ。
「そうでもありません。俺も実際、ロバート卿には……彼らとは違う種類のものではありますが、妬ましく思うことはあります」
「どういう種類?」
「こういうのも癪ですが、俺にはないものを持っているので」
眉を顰めて鼻を擦った彼の横顔は、少し子供っぽい。悔しいが認めている、といった感じだ。
テニスの試合でも負けていたし、そういえば、ダンスの腕前も少し卑下していたのは、ロバートを意識してのものだろうか。
ああいうセンスや身体能力という点では、確かにロバートは他の追随を許さないものを持っている。
……が、それ以外に山ほど欠点があるのだから、そっちに目を向ければいいのに、相手の得意分野で勝ちたいのは、男のプライドなのかなんなのか。
ライバルってやつ?
それはそれで微笑ましい気がして、つい笑みがこぼれてしまい、トマスに見咎められた。
「あなた、やっぱりいい人ね」
そう言うと、不思議そうに目を瞬かれた。
あの宮廷の空気の中にいて、私とロバートを信じてくれたことが嬉しかった。
この人は、ちゃんと人の善意を信じられる人だ。
「そういうところ好きよ、大事にしてね」
トマスも私も、宮廷の陰謀や策略に晒され続ける限り、疑うことばかり覚えていくのだろう。それでも、人を信じる心というのは、出来たら失って欲しくないし、失いたくない部分だ。
「好き……ですか」
お?
今の、ちょっと誇らしげに笑った顔は、無邪気で可愛かったぞ。
会議室で言い合っているとあまり意識しないが、トマスは私よりも年下だ。
今日は、彼の年相応な表情が見れて、なかなか貴重な日だ。
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