次の学寮への移動の途中、学生達が立ち入れない区域に入ったところで、セシルが足を止めた。
「陛下、お髪に触れてもよろしいですか?」
「え? うん……いいけど」
許可を取ってから、セシルが手を伸ばし、頭に触れてくる。
そして、つまんだ黄色い紙を目の前に見せてきた。
「あの調子者の紙吹雪がまだ残っています」
「……ありがと」
女官はみな、私と同じか私より背が低いくらいなので、頭の上までは見えなかったのだろう。
豪華に結い上げた髪に埋もれてしまっているのか、髪型を崩さないように慎重に紙片を拾い上げてくれるセシルに任せながら、先程の学寮の感想を口にする。
「あの子、おもしろかったわねー」
「あれを面白がれる陛下の寛大さには脱帽します」
セシルが眉根を寄せて息をついた――ちょうどその時、廊下の向こうから、1人の男性が走り寄ってきた。
「エリザベス様!!」
「!?」
そう叫び、両腕を広げて駆け寄る仕草を見せてくるもんだから、反射的に受け入れる姿勢を作ってしまう。
だが、さすがにそのまま突撃してくることはなく、彼はサッと私の足元にひざまづいた。
「失礼。今はもうエリザベス女王陛下でしたな」
その髭面の中年男性は、そんなシャレを見せた割には、重々しい口調で詫びを入れた。
えーっと……誰ですか……?
明らかにエリザベスの旧知の人間のようなので、私は助けを求めて隣のセシルを見上げた。
何でも知ってる便利な精霊さんが小声で教えてくれる。
「ロジャー・アスカムです。エリザベス様の家庭教師でした。少々変わった方ですが、我が国におけるラテン語の権威で、同時に教育法、弓術の権威でもあり、旅行が好きで広く各地の風土に精通しておられ、旅行記も出版しておられる大先生です。その他、賭博や狩猟にも大変情熱を注がれている、多趣味な方です」
ラテン語と弓術と旅行がまったく結びつかない上、一体どういう時間の使い方をしたら、それらを全部を権威と言われるまで高められるのか、ものすごく疑問だったが、なんかそういう凄い人らしい。
……歴史上の人物って、たまーにそういうリアルなチートが登場するんだよな……それを言ったら、セシルも大概だけど。
エリザベスなんて、チート能力を備えた上に王の娘に生まれ、ミラクルが重なって実際女王に君臨してしまうという奇跡の産物だ。
……まぁ、そんなリアルチートの身代わりやってるんですけどねっ!
チート宰相がいなければ、とっくに詰んでいたところを、今のところなんとかギリギリ繋ぎ止めている……と思う。多分。
「立派な貴婦人に成長なされた。もっとも、私がお教えしていた14歳の頃から、貴女はこの国で最高の知性を備えた女性ではありましたが」
そんな身代わりを見て、ロジャー・アスカム大先生は懐かしそうに目を細めた。
ヤバイ、どうしよう……
そんな大先生を見て、私は焦った。
一応、エリザベスの言語能力を引き継いでいるらしく、ラテン語は問題なく話せるが、中身はエリザベスの記憶を持たない一般ピープルだ。
それらしい高尚な話とか出来ないし、昔話とか無理だし、絶対ボロが出る……!
内心、冷や汗を垂らしまくりながら、曖昧に微笑み返していると、セシルが助け船を出した。
「先生、お久しぶりです」
「おお、セシルか! なんだ、野暮な眼鏡をしているから分からなかったぞ!!」
大げさに目を丸くし、私の隣に控えていたセシルの肩を叩く。声がデカい。
このエリザベスの先生、黒いひげには白髪が混じっており年齢不詳だが、活きの良さでは学生にも劣らない。全身から圧倒されるようなエネルギッシュなオーラが出ている。
豪快でざっくばらんなオッサンという感じで、とても偉い学者先生には見えない。
「女王と仲がいいようだな。すっかりお気に入りじゃないか。さすが私の生徒だ」
「やめて下さい、先生。不敬です」
主席国務大臣の肩を抱き、俗っぽい笑みを見せるアスカムを、セシルが真面目な顔でたしなめる。
冗談でも臣下と女王の仲をひやかしてくるなんて、なんと豪胆な人だろう。
「お前の噂はかねがね聞いている。ケンブリッジの卒業生として、私の教え子として、実に鼻が高い。いやしかし、たいしたものだ。あんな息苦しい宮廷で、よくやっている」
腕を組み、しみじみと頷くアスカムは感慨深げだ。
「私はエリザベス様の才能に惚れ込んで、エリザベス様のためにお仕えしたいとは思ったが、宮廷はまるで駄目だ。あんな下品で低脳な奴らに、ゴマをすって生きるなんてまっぴらごめんだ」
「で、結局、エリザベス様の宮廷執事と喧嘩して追い出されたんですよね」
セシルが、私にも分かるようにさりげなく説明してくれる。
「追い出されたんじゃない! 私から出ていってやったんだ! ケンブリッジの空気が恋しくなってな!」
「先生には、大学の自由な空気の方が合っているでしょうね」
私は無難に話を合わせた。
一見しただけでも、彼のような大らかで自由奔放な人間が、宮廷の堅苦しく駆け引きだらけの社会を嫌い、大学が懐かしくなったのはよく分かる。
今日1日見学しただけでも、ケンブリッジは明るく自由な校風だ。
のびのびと学び、育ち、ここから英国を支える人材が輩出されるのかと思うと、国の未来が明るく思える。
「…………」
少し間が空いて、私はアスカムにジッと見つめられていることに気付いた。
あれ、なんか私まずいこと言った?
「おう、そうそう! さすがエリザベス様、よく分かっていらっしゃる!」
少し焦ったが、すぐにアスカムが嬉しそうに同意した。
「実はエリザベス様の元を去る時は、少し気まずかったのです。どのように思われているか不安でしたが、私の身勝手な行動をお許し頂けているようで、心の荷がおりました」
ん……? エリザベスとアスカムの確執は知らないが、私はもしかして勝手に2人を仲直りさせてしまったのか……?
まあいいか。
わだかまりがなくなるのならば良いことだ。結果オーライということにしておくと、アスカムが改めて膝を折った。
「皆、新しい陛下による拓かれた治世に期待しております。私もまた微力ではありますが、陛下の目指す平和と共存の未来を形作る助力をさせて下さい――このケンブリッジから」
学者らしい厳格さで、骨ばった指先をキチッと揃え、胸に手を当てて真っ直ぐに見据えてくる。
その生真面目な仕草と強い眼差しは、誰かを思い出した。
「寛大なる女王陛下に、変わらぬ忠誠を」
その姿を、ここにはいない男に重ねていると、アスカムは一転してざっくばらんな調子で、再びセシルに話しかけた。
「そういえば、あいつは元気か? お前が目をかけていた……」
「ウォルシンガムですか?」
「そうだ、フランシス・ウォルシンガムだ。ウィリアム・ウォルシンガムの弟の」
おおっ?
こんなところで、ちょうど思い出していた男の名前が出て、勝手に耳がダンボになる。
……というか、あいつもここの卒業生だったのか。それすら知らなかった。
秘密主義男の昔話、聞きたい聞きたい!
「お前に劣らぬ才子だったが、女の王が気に入らないと言って、メアリー女王の即位が決まった途端、さっさと大陸に逃げて行ってから、その後あまり聞かないんでな」
女の王が気に入らない…?
ウォルシンガムはプロテスタントの弾圧を恐れて、大陸に亡命したのではなかったか。
「連絡くらいは取っているんだろう?」
「今、彼は庶民院議員です」
「なんだ、戻って来ていたのか」
「はい。彼のような人材は貴重です。是非新しい女王の下でその才を発揮して欲しいと、私の強い希望で呼び戻しました。今は主に、私の補佐として、陛下に仕えています」
「ほう! そうか、あいつがね……」
含みを持った相槌の意味が気になったが、さすがに食いつくのは自重した。
気になるけど。とっても気になるけど!
そんな後ろ髪を引かれつつ、アスカムと別れ、訪れた次の学寮でも、やはり同じように熱烈な歓待を受けた。
ところが、学寮内を案内されている途中で、ちょっとしたハプニングが起きた。
どこかで誰かの悲鳴が聞こえたかと思うと、無視できないニュースが耳に飛び込んできたのだ。
「階段で雪崩が起きた!」
事故!?
思わず振り返ると、教員らしき男が青ざめながら、案内人の理事に駆け寄った。
「大変です……! 女王の姿を一目見ようと押し掛けた学生たちが階段で押し合いになり、雪崩を起こして怪我人が出ています」
耳目をはばかって耳打ちするが、しっかりこちらにも聞こえている。
理事が頭を抱えた。
大学側も、まさかここまで収拾のつかない事態になるとは予想していなかったのだろう。
「申し訳ありません陛下! このような日に、お見苦しい不祥事を……!」
「この大学の若者の情熱と、私への忠誠心は、しっかりと受け止めました」
首を吊りそうな勢いで謝罪してくる理事に同情し、若気の至りの不始末を、私はあえて寛大な言葉で言いくるめた。
「セシル、怪我人や物品の破損があれば全て補償してあげて。女王の行幸です。王室としてふさわしい寛大な処置を」
「御意」
「それと、1度校庭に出ましょう。せっかくなので、皆さんの顔を見てお話がしたくなりました」
元々この後、ホールでの歓迎の式典で演説を打つ予定だったのだが、この分だとホールに入りきらなかった人々が、また騒ぎを起こしそうだ。広い校庭の方が安全だろう。
私は場所を変え、前倒しで彼らの前で言葉を伝えることにした。
女王が校庭に移動するという知らせは、あっという間に広がり、学生や教員、はては庭師や給食係のような雇われ人たちもが大移動を始めた。
そんなに見たいなら見せてやらぁ!
というわけで、校庭に簡易な舞台を作らせた私は、その上に立った。
ほとんど全校生徒、全教員が集合したかと思うような群衆が校庭を埋め尽くす。中には、高い位置から見ようとする者もいて、校舎の窓側や屋上にも人が鈴なりになっている。
「まずは今日この日、皆さんにお会いできたことに、感謝の言葉を述べさせて下さい」
私は、あえてラテン語で、その場で演説を始めた。
そのことに、聴衆がおお……とざわめく。
ラテン語は教養と格式を示す学術語であり、ケンブリッジの学生、教員ともなれば、当然学んでいるはずの言語だ。
「宮殿を出て、こうやって皆さんとお顔を合わせて、はっきりと分かったことがあります。それは、私が素晴らしい皆さんの愛に支えられているということです」
私は、民と臣下に対して、愛されている、愛しているという言葉を、繰り返し語るようにしていた。
女の身で、力もカリスマ性もない私が、彼らの上に立つには、彼ら自身――国の礎となる、国民の好意と支持が必要だ。
「国民の皆さんは、私を限りなく愛してくれています。ご覧のように、私は弱い女の身です。私より力強い王も、聡明な王も、過去には多く玉座につきました。ですが、私以上に、国民の皆さんに愛された王はいないでしょう。このことを、私は何よりも誇りに思い、心から、皆さんに感謝します」
言葉には力がある。
言葉を尽くし、感謝を尽くすことで、いくらかでも気持ちが届けばいい。
『愛して下さい』というより、『愛してくれてありがとう』という方が、人の心に残るような気がした。
そうすることで、彼ら自身、本当に女王を敬愛しているのだと、気が付いたら思っているかもしれない。
そんなことも期待しつつ、私は繰り返し彼らに愛と感謝を語る。
力よりも心で、彼らを導くために。
「皆さんの叡智と忠誠に触れ、この素晴らしい学舎が、我が国最高の学府として名を刻んでいることを、とても誇らしく、また嬉しく思います。過去、現在、そして未来まで、この場所から新たな人材が、新たな才能が生み出され、我が国を支え続けるでしょう」
私は絶対の確信を持って、確かな『予言』を口にした。
21世紀に至るまで、ケンブリッジ大学は世界最高峰の大学だ。イギリスだけでなく、世界に通用する人材が輩出されている。
「あなた方が私を愛して下さるように、私もあなた方を愛しています。皆さん、どうぞより一層勉学に励んで下さい。愛する皆様方の溢れる才能が、私の治世を輝かしく支えてくれることを期待しています――ありがとう、ケンブリッジの皆さん!」
両腕を広げ、叫んだ私に、割れんばかりの拍手と喝采が沸き起こり――
その日、「
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