「女王様は、女王様はどちらですかなぁ」
通過地点にある町の1つを視察している時、町人風体の男が『女王御一行様』の方にふらふらと近づいてきた。
私の周りにはグレート・レディーズが侍り、また枢密院委員の夫人なども視察の一団に帯同していたので、どうやらどれが女王か分からないらしい。
目の前まで来てきょろきょろしている朴訥そうな男を見て、護衛隊長のウィリアム・セント・ローが、気付かれないよう私に耳打ちしてきた。
「陛下、お気を付けて」
「いいです。どう見ても善良な市民です」
警戒心を見せる護衛隊長を下がらせて、私は町民の前に進み出た。
「女王は私ですが」
「ひゃあっ? こちらにおられましたか! 申し訳ありません」
いささか間抜けな悲鳴を上げ、恐縮した男が慌てて両膝をついた。だが顔を上げたまま、大げさに目を丸くして見せる。
「噂にはかねがね聞いておりましたが、なんとまあ本当にお美しい方だ。わしゃあ、あなたほど美しい方を見たことがございません」
「どのような御用ですか?」
こういったお世辞は女王への挨拶代わりのようなものなので、さほど反応はせず、にこやかに先を促す。
「へぇ。わしにゃあマッジという娘がおるんですが、あなた様ほど器量はよくなく、背も低いが、まあ気立てはいいと評判の娘なんでさぁ。で、そんな年頃の娘がおるからわかりますが、その細いお体では、あなたさまの食べる量も知れとるでしょう」
いまいち要領を得ない話しぶりだが、この男が何が言いたいのかとじっと耳を傾けていると、セシルも護衛隊長も、警戒心を解かない表情で、その様子を見守っていた。
「だが、不思議なことに、エリザベス女王はわしらの鳥も、牛も、豚も、みぃーんな食らっちまって、わしらはもう明日食う糧もないんですわ」
「……!」
彼の訴えに驚き、周囲を見渡す。町の壁は綺麗に塗り直され、道には真新しい砂利が引かれている。
だが、こういった大きな町には当然いてもおかしくない物乞いや、家畜や路上の汚物などはどこにもなく、女王の訪問に合わせて見えない場所へ片づけられたのは明らかだった。
この町での滞在はたった1日だが、その間の宮廷の人間への賄いは、宮廷御用達商人が現地の人間から買い上げて手配することになっている。
「セシル。王室家政長官に、すぐに今回の取引を担当した商人を調べさせて」
「御意」
この男の訴えから、貪欲な王室御用達商人の悪質な横領と支払遅滞が発覚した。この商人に関しては速やかな賃払いと賠償の支払いを命じた上で、宮廷出禁の処置になった。
女王の目に入るとなれば、当然表面は取り繕われ、町の実態を目にすることは出来ない。
そこに生活する市民の生の声を聞く重要性を、再認識した1件だった。
ロンドンを発ってから2週間。
ノリッジへの旅路もいよいよ終盤に差し掛かり、私たちは21世紀にも輝かしい名を残す名門、ケンブリッジ大学を訪れた。
すでに300年以上の歴史があるこの最高学府は、私の精霊――ウィリアム・セシルの母校でもある。
ここの学徒から、彼のように未来の英国を支える人材が輩出されないとも限らない。
むしろそれを期待して、その日私は気合いを入れて、黒のビロードのドレスにピンクの飾り帯というコーディネイトで挑んだ。
結い上げた金髪には、同じく黒のビロードのリボンを編み込み、真珠を連ねた金糸のネットで押さえている。その上から、鳥の羽つきの小さな黒の帽子を斜めにつけた。
「陛下、今日は格別にロマンティックでいらっしゃいますね。よくお似合いです」
「ありがとう。セシルの後輩や先生に会うんだから、気合い入れなくちゃね」
褒めてくれるセシルと馬を並べて、目的地へ向かう途中、彼は少しだけ、母校への思いを語ってくれた。
「私のいた時代からそうでしたが、ケンブリッジ大学は、幾多の思想の変化の波に晒されてきました。大学には、古代賢人の残した哲学や、聖書の信仰について真剣に向き合い、学び、新たな研究の成果を後世に伝えていく義務があります。そのための自由な議論、広い視野、新たな知識は保護されるべきものですが、多くの場合、その時代ごとの権力者によって、その権利は脅かされてきました」
大学という学び舎が、思想や研究の面で、自由で保護された領域であることは理想だ。
だが、権力にとって都合の悪い思想が生まれる温床という意味で、弾圧と抑制の対象になりやすいのは良く分かる。
「私が学徒であった頃も、トマス・クロムウェルという強権の宰相によって、政治の在り方が根本から覆された時代でした。ヘンリー8世による国教会設立と宗教改革です。強引な改革に学内の意見も大きく割れましたが、クロムウェルが学長に就任し、全ての言論は封じられました」
トマス・クロムウェル。イングランド史上最凶とも言われる恐怖政治を敷いた宰相で、恐ろしく有能で冷徹な政策によって権力を一手に集中させ、イングランドにおける絶対君主制を確固たるものにした男だ。
彼はヘンリー8世の離婚問題を利用して、イングランドをローマ教皇と完全に決別させ、のさばっていた貴族と聖職者たちから権力を奪い、国民に恐怖心と忠誠心を植え付けた。
あらゆる側面から王権を強化し、臣民に王の絶対権力への服従を誓わせたという点で、彼の実績は良くも悪くも、現在の国家体制の基礎を築いた。
……そんな大宰相も、結局は敵を作り過ぎ、王の寵を失った途端に政敵の手によって、自らが作った無慈悲な法の下に処刑されたのだが。
「その後も王権によって左右する信仰に振りまわされ、迫害されてきたこの学び舎が、陛下の治世になって、ようやく自由と権利を取り戻したのです。そういう意味でも、今回、陛下が真っ先にこのケンブリッジに表敬訪問されることは、我が国の今後の学問の発展にとって、大きな意義を持つものです」
彼の言葉通り、ケンブリッジ大学では、新女王の表敬訪問は熱狂的に歓迎された。
たくさんある学寮のいくつかを見学することになっているが、どうやら別の学寮からも人が押し掛けてきているらしく、敷地内は人でごった返していた。
校庭に足を踏み入れる時は、私ひとりが白馬に乗り、その手綱を護衛隊長が握り、逆隣にセシルが並んで歩いた。後ろから随行するグレート・レディーズと枢密院委員、護衛の従者達も全員徒歩だ。
学寮の前では学長や理事、学者先生達が出迎えており、私は馬上で背筋を伸ばしたまま、大学総長の歓迎の祝辞を聴いた。
その間にも、校庭には続々と人が集まり、校舎の窓という窓からは人が身を乗り出していて、今にも零れ落ちそうになっている。
そちらに顔を向けて手を振ると、雄たけびのような歓声が上がり、学生たちが一斉に騒ぎ出した。
あれだな。若者の反応というのは、どの時代もあんまり変わらないな。
だいたい有名人とかが、テレビ収録で学校訪問とかしたらこういう騒ぎになるよね、という感じの反応に、そんなことを思う。
学寮の中は、理事の1人がアテンダントとしてつき、学内を案内してくれた。
白い口髭の先をツンと尖らせた老紳士が、胸を張って私の横を歩きながら紹介を続ける。
「我が伝統あるケンブリッジでは、生徒たちは規律正しい生活と厳格な指導の下、信仰と学問の真の僕として、神の創造せし世界の不変の真理を探求し――」
「痛てっ。オイちょっと、押すなよ!」
「見えねーって。場所代われよ」
「女王様どこー?」
「――この激動の時代にあっても、最高学府の誇りを忘れず、学生の自主性と創造性を重んじ、自由な討論と思想の保護を――」
「すげぇ。本物だ」
「美人だなぁ」
「誰か声かける猛者はいないのか!?」
「バカ、捕まるぞ」
「――近い将来、サー・ウィリアム・セシルのように陛下の輝かしい治世をお支えする優秀な人材が――」
白髪の理事も一生懸命しゃべってくれているのだが、内容があまり面白くない上、学生たちの声にかき消されてほとんど聞こえない。
「失礼」
こめかみをピクピク引き攣らせた理事が、一旦口上を中断して離れると、私の移動に合わせてぞろぞろとついてくる後方の学生たちを一喝した。
「お前たち! 少しは静かにしろ! 女王陛下の御前だぞ!!」
若者の集団は怖いもの知らずだ。
ほとんどが10代の男子生徒で、この興奮状態で規律を求めるというのは、どだい無理な話だった。
理事の叱責の甲斐もなく、見物人は次から次へと集まり、周囲の騒がしさが増していく。
すると、理事が私の傍を離れているうちに、
「女王陛下万歳!」
ずしゃぁぁっ、と私の足元に滑り込み、廊下に転がった状態で一輪の薔薇の花を差し出してくる男子生徒がいた。
まだ十代前半といった感じだが、なんとまあ見事なドヤ顔である。
周囲では、彼のお仲間らしい学生たちが、なにやら囃し立てている。
いるいる、こういう馬鹿!!
「おお妖精の女王、グロリアーナ! わが愛を受け取りたまえ!!」
「…………」
死体のように転がったまま、右手を胸に当て、芝居がかった大げさな表情で突き出してくる薔薇を無言で受け取り、私はすぐに隣のセシルに渡した。
その間に、理事が顔を青くして駆け戻ってくる。
「陛下! 申し訳ありません! おおおおおまえは何をしているんだ! このおろかもの! どこの学寮だ! 名前は!?」
「エドマンド・スペンサーです! このケンブリッジのペンブルック・カレッジにて、現在は文法学、修辞学を学んでいます!!」
完全に理事ではなく私に自己紹介をし、騎士もどきの跪き方をしたかと思うと、いきなり懐から布袋を取りだし、掴みだした色のついた紙吹雪をぶちまけた。
「麗しき我らの女王に栄光あれ!」
器用にお尻で床をくるくる回りつつ、派手に散らしてくる紙吹雪がドレスにも髪にもかかり、慌てて付添いの女官たちが払ってくる。
ヒューヒューとはやし立てる周囲の若者たちに、ガッツポーズで応えるエドマンド君。
完全に男子中学生のノリである。
だが理事は怒り心頭といった様子で、もはや赤くなるのを通り越して白くなっており、結構なお歳なのでぶっ倒れるんじゃないかと心配になる。
「素敵な歓迎ね。実に独創的だわ」
ため息をつき、私は前髪についた紙吹雪を払い落して、床に座り込んだ少年の手を引き、起こしてやった。
「独創性は才能よ。それを体系化するのが努力。あなた、才能はあるから努力すれば大物になれるわ」
その手を握り返し、甲に口づけて跪いた相手の前髪を掴んで顔を上げさせる。
まだ幼さを残す顔を近い距離で見据え、私は彼の頬をピタピタと叩いた。
「しっかり勉強なさい、坊や」
至近距離で見開かれた目が私を見つめ、それまでふざけていた彼の顔が急に真顔になる。
それだけ言って、私が横を通り過ぎようとした時、スペンサー少年は両腕を振り上げ、大声で叫んだ。
「女王陛下万歳!」
その声に呼応し、周囲の学生達が大声で唱和する。
「女王陛下万歳! 女王陛下万歳!」
もはやお祭り騒ぎのような万歳斉唱が校舎中に響き渡る。
若さと活力に溢れる彼らの声を背に聞きながら、私たちはその学寮を後にした。
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