「陛下、お疲れのようですわね」
「うん……なんか、色々しんどいことが続いてて……」
ぐったりしながら寝室のベッドにうつぶせた私を、部屋に控えるキャット・アシュリーが気遣った。
「フランス王の訃報は、あまりに唐突でしたものね。私どもには想像の及ばないほどの難題が、陛下やセシルの頭を悩ませているのでしょう」
「そうねー私も脳みそパンクしそう。考えることが多すぎて……」
枕を抱えて身を起こし、私はベッドの上で三角座りをした。
「出来るだけ俯瞰した視点で物事を見ようとしてるんだけど、そうすると逆に情報が増えすぎて、何が最善か判断するのが難しくなってくるのよね……結局、最後はトップの決断になるんだろうけど」
複雑に絡み合った利害や国家間、勢力間の関係、刻一刻と変移する状況――考慮しなければいけないことが多すぎて、こんがらがる。
幸か不幸か――そんなことを言った枢密院委員もいたが、セシルの言葉通り、見る角度を変えれば、メリットもデメリットも変わってくる。
その中で何が最善かを判断する作業は、裁縫箱の中でぐちゃぐちゃになった糸をほどいていくよりも、神経も集中力も使う。
誰か、私の脳みそに、世界史の教科書を突っ込んでくれないだろうか!
「陛下、お悩みになっている時は、お休みになることも大切ですわ。息を抜くことで、見えてくるものもありますから」
「そうね、その通りだわ」
頭が熱くなってきたので、コロン、と転がり直し、考えることを放棄する。明日考えよう。
「…………」
枕を抱えて広いベッドに転がると、なにやらうずうずしてきた。
ゴ、ゴロゴロしてもいいかなっ?
キャット・アシュリーの目が気になったが、私は若干遠慮がちに……枕を抱えながらコロコロし出した。
うー、やっぱり気持ちいい。
それを見たキャットが目を丸くした。
「陛下、それは?」
「いや、なんというか……リフレッシュ?」
やっぱり突っ込まれてしまい、首をかしげて答えると、キャットが軽やかに笑った。
「随分面白いことをなさること。昔のエリザベス様では考えられませんわ。でもお行儀は悪いので、私の前以外ではなさらないでくださいね」
「はーい」
やったー。許された!
行儀悪いから直しなさい、なんて言われたら駄々をこねなければいけないところだった。
許可が出たので遠慮なく、いつもの3割増しくらいでゴロゴロしていると、どうやらその光景が面白いらしくキャットがけらけら笑った。
……もしかしてウォルシンガムも、私のこの行動によっぽど笑いたかったのだろうか。
いつも仏頂面で呆れて眺めてたけど。
考えてみたが、ウォルシンガムが指を差して笑ってる姿は1ミリも想像出来なかった。
気が済むまでゴロゴロすると、私は枕をおなかに敷いたまま、ベッドの上で90度回転してキャットの方を向いた。
「ねぇキャット、エリザベスって……私って、どんな子供だったの?」
「とても賢い女の子でした」
壁際に置いた椅子に控えていたキャットが、私の話し相手になるために椅子を持って、寝台の近くに移動してくる。
「お勉強が大好きで、いつも本を持ち歩いていました。……きっと、ご自身の置かれた辛い立場を忘れるために、勉強に没頭されたのだと思います」
昔のエリザベスの話をする時、キャットは誇らしげだ。そしてところどころに、母のような慈愛と憐憫が滲む。
「キケロやリウィウスの作品や、アテネ時代の政治家の著を読まれるのもお好きで、その知識量には、家庭教師の学者先生すら、もう教えることがないと唸るほどでしたのよ」
「キケロは……確か、ローマの有名な政治家よね。えーっと、リウィウスは……?」
情けないことだが名前すら記憶にない。
「リウィウスは紀元前ローマの歴史家です。他にも、アテネの雄弁家イソクラテスや、ギリシャの悲劇作家ソフォクレスの作品などもよくお読みでした。古代賢人の教訓に精通しておくことは、ご自身の立場を守るのに必要と考えられていたからです。事実、エリザベス様は謀反に関わった疑いがかけられた時にも、見事な弁論で身の証を立て、危機を乗り越えられました」
なるほど……エリザベスも天性の雄弁の才能だけでなく、意識してそういった努力をしていたのだ。
私もプレゼン能力については、アメリカ留学時代に叩き込まれたので自信はある方だが、歴史に残る数々の名演説をぶったエリザベス女王に敵うとは、到底思わない。
これは少しでも、チート女王のお勉強法を学んで、努力せねばならないだろう。
謙虚さや以心伝心を尊ぶ日本では重要視されにくい傾向があるが、上に立つ者にとって、雄弁は大きな武器になり、また盾にもなる。
敵が多いほど自らを守る弁論が必要になるし、味方が多いほど彼らを説得し、同じ方向に導くだけの論述が必要になるからだ。
黙って背中を見せる『意気』についてくる人望というのも確かにあるが、それは、実際に目に見える範囲にいる人間にしか通用しない。
より大きな規模で人を動かすには、やはり言葉の力が必要だ。
「じゃあ、私もその辺から読んでみるわ。少しは昔のエリザベスに近づけるかもしれないし」
彼女の学んだ足跡を辿るだけでチート女王になれるとは思えないが、これも地道な一歩だ。
「また色々教えてね、キャット」
「ええ、なんなりと」
私の頼みに、キャットは母のような優しさで微笑んだ。
「……そういえば、キャットって、トマス・シーモアの陰謀に関わっちゃって、私の傍から離されたのよね?」
常々聞く機会をうかがっていた私は、ベッドに転がったままおもむろに聞いてみた……が、キャットの表情が変わった。
う。やっぱり唐突だったか?
「……ええ、本当に愚かなことをしたと思っています。エリザベス様に、とても辛い思いをさせてしまって……」
「でも、どうして? 何か理由があるんでしょう? キャットが、エリザベス……じゃない、私のためにならないことをするとは思えないもの」
そう聞くと、キャットは悲しそうな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。でも、そうですね……あの時の私は、盲目だったのだと思います」
「盲目?」
「ええ、あの男に……海軍卿トマス・シーモアに」
断頭台に送られたという男の名を口にした時の、キャットの表情に、何となくピンと来てしまった。
もしかして、キャットって……
「……好きだった? トマス・シーモアのこと」
「ふふっ」
少女のように笑ってから、キャットは肯定した。
「若かったんですわね。悪い男にひっかかって……」
自虐しながらも、彼女の表情は懐かしそうだ。
今となっては、それも思い出の一部なのだろう。
「利用されているのだと気付いていても、その時は抗えない程の恋の病にとりつかれていたのですわ」
「そうなんだ……どんな人だったの? トマス・シーモアって」
エドワード6世時代の海軍司令官だったとは聞いている。
「それはもう、とびっきりの男前でした」
「ほほぅ」
断言するキャットに、思わず食いついてみる。
「陽気で、男気があって、押しが強くて……大抵の女性が参ってしまう魅力の持ち主でした」
「へぇ~……」
それは……私の好みからは外れているかもしれない。
海軍司令官という肩書きも手伝って、何となく暑苦しい海の男を想像しながら、相槌打つ。
何となくだが、ロバートなどを見てても、押しが強いのはこの時代のモテ男の条件なような気がする。
女性が積極的になることなどほとんどないような時代だから、まぁ当然ちゃー当然なのか。
私はどちらかというと、押されたら跳ね返してしまう方なんだけど……
そんな私を見て、キャットがいたずらっぽく笑った。
「トマス・シーモアは、エリザベス様の初恋の君です」
「ええっ?」
驚く。トマス・シーモアは、エリザベスとの結婚を画策したと聞いたが、もしかしたら両思いだったのか?
「トマス・シーモアと出会った時、エリザベス様は14歳でした。エリザベス様の父君ヘンリー王の6番目の王妃キャサリン様は、王と死別した後、エリザベス様を連れてチェルシー宮殿に引き移りました。トマス・シーモアは、元々はキャサリン様が王と結婚する以前の恋人で、婚約までしていたのですけれど……キャサリン様が王のお目に留まっていると分かった途端、求婚を取り下げたので、キャサリン様は泣く泣くヘンリー8世に嫁がれたのですわ。けれど、焦がれる想いを消すことが出来ず、王が身罷られた直後に、トマス・シーモアと結婚されたのです」
「へぇ……」
なかなか激しい男女関係である。
「ですが、トマス・シーモアには思惑がありました。彼は、兄のエドワード・シーモアの権勢を妬み、自身の出世の足掛かりとして、元王妃のキャサリン様と結婚したのです。本当の狙いは、一つ屋根の下に暮らすエリザベス様に近づくことでした。エドワード6世の摂政として権勢を奮う兄に対抗する為に、王女と結婚することを望んだのです。その上で、エリザベス様を手に入れるには、まず一番近くにいる私を籠絡するのが近道だと思ったのでしょう」
なんじゃそりゃあ!
「何それ、有り得ない」
「ろくでもない男でしょう?」
「うん、とっても」
女を立身出世の踏み台にしか思わない最低な男だ。
憤然とする私に、キャットは苦笑した。
「あの時の私には、とても彼が魅力的に映ってしまったんです。甘い言葉の裏に潜む野心に気付かず、手を貸してしまった。今思えばどうして、あの男がエリザベス様を幸せに出来ると信じられたのか……」
恋は盲目、というやつかもしれないが、キャットもエリザベスも、なかなかに男を見る目がない。
……いや、私もあまり人のことを言えた義理じゃないんだけど。
「エリザベス様は、私よりもよほど理性的でした。トマス・シーモアに恋心は抱いていましたが、キャサリン様が産後の肥立ちが悪くお亡くなりになった後も、彼の求婚を受け入れることはしませんでした。そうこうしているうちに、あの男の反乱の企てが明るみに出て……」
そう言って、キャットは目を伏せた。
彼女たちが愛した男は、過分な欲に足をすくわれて、身を滅ぼした。
「申し訳ありません。記憶のないエリザベス様にこのようなお話をして……私がどれだけ愚かな女かと呆れられたでしょうに。……それでも、このような愚かな女が、当然の罰として御許を引き離されることとなった時にも、あなたは最後まで私を引き留めようとして下さいました。私たちのせいで、反乱の共謀の罪を疑われ、辛い尋問を受け不名誉をこうむったにも関わらずです。あの時のエリザベス様の愛情は、一生忘れませんわ。例えあなたの記憶にはなくとも、このキャット・アシュリーは、永遠に陛下の忠臣です。それだけは、どうか信じて下さいませ」
「うん……信じる」
キャットの誠実な訴えに、私は内心の複雑な思いを押し隠し、頷いた。
ごめんね……今の私は、キャット・アシュリーが知ってるエリザベスじゃない……
こんな風に過去のエリザベスを知って、彼女のために尽くす人に出会うと、ここにいるのが『私』なのが申し訳なくなってくる。
「話してくれてありがとう、キャット」
「なんなりと。私が陛下に偽りを申し上げることはございません」
キャットは、記憶のない私を気遣って、詳しいことは何も聞いてこない。
そのことに甘えて、私も自分のことはあまり話していない。
彼女に自分を偽っている私には、キャットの言葉は少し刺さった。
「陛下には今、意中の殿方はいらっしゃらないのですか?」
「えっ……?」
別のことに気を取られていた私は、一瞬、キャットの話題についていけなかった。
確かに、話の流れとしてはおかしくないが……
「やっぱり、ロバート卿とは……」
「ないないっあいつは絶対にないっ」
「それならよろしいのですけど」
全否定すると、キャットが胸をなで下ろす。ロバートを幼少の頃から知っているというキャットですらこの反応だ。
「でしたら、やはりノーフォーク公がよろしいのでは?」
「トマスねぇ……」
最近はみんなトマス推しだ。
いい奴だとは思うけど……
「キャット、私ね。結婚する気ないの」
「まぁ陛下、今からそのようなことをおっしゃるなんて」
ぶっちゃけて言うと、キャットが口元に手を当て大げさに驚いた。
「本当にないのよ。だって結婚したら王様じゃなくなるもの」
「まあ」
新しく考えた言い訳を使ってみる。
最近は、どうやったら結婚しない理由を周囲に納得させられるか、日々理屈をこねまわしている。
「私はちゃんと、王として政治に携わりたいの。もし私が結婚して、夫が国王になって政権を握れば、誰と結婚しようとも、プロテスタントかカトリックに偏るでしょう。それこそ、セシルくらいバランス感覚のある人じゃないと……」
「セシルはいけません」
「分かってるって。それくらい政治的な感覚が優れていて、私と政策が共有できて、かつ国内からも国外からも文句の出ない身分の人じゃないと嫌なの」
もうこの時点で完全に不可能なことは分かっているのだが、あえて言い切る。
キャットが頬に手を当て、困ったように嘆いた。
「陛下……それは理想が高すぎます」
「でも大事なことよ。そうじゃないなら、夫なんていらない。この国は私が1人で治めます」
ぷいっとそっぽ向くと、はぁ、と溜息をつかれた。
「……いつか、陛下の御心を変えられるような、運命の殿方が現れることを願っています」
「王族だといいわね」
「陛下!」
しれっと言うと、キャットに怒られた。
運命の殿方などというのが現れて、私が結婚したくてたまらなくなったりなどしたら、大変だ。
……そんなコトがあるような気は全くもってしないのだが、コレばっかりは未来のことなので分からない。
どうせ結婚は諦めなければいけないのだから、そんな人が現れない方がよほど面倒がなくていいとも思うが、一生恋愛から遠ざかる干物生活決定かと思うと、それはそれで悲しくもある。
……まぁ、自由恋愛オッケーの21世紀日本で干物してたんだから、どこに行っても一緒か。
悲しいかな、我ながらその結論に納得してしまった。
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