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第4章 夏の行幸編
第37話 揺れる大陸


 6月も終わりに差しかかり、夏の行幸に向けて準備が進む中――

 信じられない報せが、セント・ジェイムズ宮殿を揺るがした。



「アンリ2世が! フランス王アンリ2世が死去しました!!」



 謁見の間に飛び込んだ伝令が叫ぶ。

 人でごった返していたその広間が、一瞬にして静まり返り、全員が伝令を注視した。


 傍らに立つセシルと相談をしながら、謁見希望者たちの意見要望に耳を傾けていた私も、思わず玉座から立ち上がっていた。


「――こちらへ。詳しい報告を」


 息を切らす伝令を見つめながら告げると、謁見待ちで詰めかけていた男達がさっと引いた。


 海が割れるようにして出来た道を進み、私の前に膝をついた伝令は、緊張にこわばった面持ちで言葉を紡いだ。


「不慮の事故です。先日、ドン・カルロスとエリザベート・ド・ヴァロワの結婚式が挙行された際のこと――祝賀行事で、馬上槍試合にフランス王自らが参加され、スコットランド護衛隊長ガブリエル・ド・モンゴメリー伯爵と対戦されました。その時、伯爵の放った槍が王の兜に命中し、折れた矢の先が右目近くのこめかみを貫通したとのことです。すぐに王室付き侍医達の手で治療をつくしたものの、甲斐なく、そのまま……」


「……なんて不幸な……」


 あまりにも衝撃的な大国の王の死に、私は呆然と立ち尽くした。


 カトー・カンブレジ条約でスペインとフランスが和解し、その証として結ばれた結婚の席で、そんな悲劇が起こるなど、誰が予想しただろう。


 その時、静まり返った広間に、扉口の方から複数の足音が響いた。

 喪装に身を包んだ数名の男たちが、慌ただしい足取りで入ってきたのだ。


「失礼いたします! 親愛なる女王陛下へのお目通りを願います!」


 声を張り上げたのは、先頭に立つ男――フランス駐英大使だった。

 フランス大使とその側近たちは、すでに道の出来た広間を真っ直ぐに突っ切り、私の前に膝をついた。


「すでにお聞きおよびのこととは存じますが、先日、我らが戴く王が唐突に――あまりにも唐突に神に召され、正統なる後継者、若き新国王フランソワ2世が即位されました」


 アンリ2世の長男、フランソワ皇太子は、まだ16歳だったはずだ。


「戴冠後の新体制を敷くにあたって、我々も新陛下にお目見えし、試練に立ち向かう若き王をお支えする使命がございます。突然のことで大変失礼とは存じますが、何卒、この宮廷を辞することをお許し願いたく……」


 フランス風の遠回しで冗長な暇願いを、耐え忍んで皆まで聞き終え、私は立ったまま閉じた扇子を握りしめて、鷹揚に頷いた。


「分かっています。今回のご不幸は、あまりにも突然のことで、未だに信じらない思いですが……心からお悔やみ申し上げます。フランス王は、信仰厚く大変神に愛される方でした、愛され過ぎたが故のお早いお召しだったのでしょう。新陛下フワンソワ2世は、私の親戚、スコットランド女王の夫。若いながら聡明な王子であるとお聞きしています。若き国王の治世の平和を心より願っている、と新陛下にお伝え下さい」


「敬愛なる女王の情け深いお言葉、確かに頂戴いたしました」


 悔やみの文句を述べた私に、フランス流の一礼をして、喪服の集団が足早に去っていく。

 彼らの背中が見えなくなっても、私は立ったまま扉口を見つめていた。


 この事態を、どう受け止めればいいのか。


「陛下……」

「すぐに会議を開きます。枢密院を召集して下さい」


 動かない私に、セシルが声をかける。それが合図だったように私は口を開き、踵を返して謁見の間を辞した。


 背中越しに、仕切り役が謁見時間の終了を告げる声が聞こえたが、急な中断にも、広間に大きなブーイングが上がることはなかった。


 誰もが分かる、緊急事態だった。







「新国王フランソワ2世は、まだ16歳です。摂政には、やはり母后の外戚のギーズ公がついたとか」


「フランスも今、カルヴァン派のプロテスタントが勢力を広げつつある。ギーズ公と言えば、プロテスタント弾圧の先鋒だ。フランスの宗教戦争は、より過酷なものになるだろう」


「先王アンリ2世の統制力がなくなっては、少なくとも国内は3つに分裂する。北東部のギーズ家、南西部のモンモレンシー家、そして中南部のブルボン・ヴェンドーム家だ。内乱は免れない」



 顔を突き合わせた枢密院委員たちが、今回の急な訃報を受け、フランスの現状と予想される未来を論じ合う。


 フランスは現在、国内の政争と宗教戦争が入り乱れ、深刻な社会不安に陥っていた。

 そこに来ての、強力なリーダーシップを持った国王の崩御と、若過ぎる新国王の即位というイレギュラーは、かの大国に深刻な影を落としていた。


「フランスの混乱に、スペインはほくそ笑んでいるだろうな」

「重要なのは、これが我々にとって僥倖なのか不幸なのかだ」

「僥倖だろう。カトリックの大国が弱体化するんだぞ。フランスでは、今プロテスタントが勢力を伸ばしている。ここで我が国が彼らを支援すれば……」


「――短期的な視野だけで、物事を判断するのは早計です」


 僥倖か、不幸か、そんな単純な二元論で話を進めようとし出した委員たちに、サー・ウィリアム・セシルが静かな声で水を差す。


 その瞬間、休む間もなく口を開いていた男たちが黙り、視線が首席大臣の席に集まる。


「世界は一本の糸で編まれているわけではありません。あらゆる糸を引っ張り、それぞれがどこに繋がるのかを見定める必要があります」


 慎重な口ぶりでそう言ったセシルは、先程事態を僥倖だと断じた委員――プロテスタント派委員の急先鋒ノーサンプトン侯爵に視線を定めた。


「確かに、フランスは我々にとって敵対国ではありますが、今戦いが続いているスペインとポルトガルの継承戦争にフェリペ2世が勝利すれば、フランスの弱体化によってスペインの一強を許しかねない状況です。そうなれば、我々は天敵フランスと手を組んで、スペインに立ち向かわねばならない未来すら考えられる」


「まさか……!」


 セシルが提示した未来像に、ノーサンプトン侯爵は半笑いで反駁するが、後は続かなかった。


 地続きの敵対国であるスコットランドを支援し、スコットランド女王をイングランド王位に推し進めようとしている国との協定など、現時点では考えられない。

 だが、状況が流転すれば、あるいは――


「今こそスコットランドに攻め入る時では……?」


 静かになったその会議室で、やはり静かに響いたその声は、ノーフォーク公爵トマス・ハワードのものだ。


「フランスが国内の分裂でスコットランドの支援に手が回らなくなれば、あの生意気な国を平定する千載一遇のチャンスではありませんか」

「そ、そうだ! スペインもポルトガルとの継承戦争で我々の背後を突く余裕がない今、今ほどスコットランドを落とすにふさわしい時はない!」


 トマスの意見に、ノーサンプトン侯爵が我が意を得たとばかりに声を張り上げて後押しする。

 だが、私は即座に否定した。


「戦争はしません。今の財政状況、そして軍の弱体を冷静に受け止めなさい」

「いつまでも兵が弱いのは、陛下のその消極的な姿勢が遠因にあるのではないのですか!」


 理想に先走ろうとする男たちに現実を突き付けたつもりだが、ノーサンプトン侯爵が不満げに反論した。


「貨幣改鋳、国内産業の促進、合資会社の設立と貿易の拡大――経済政策には積極的に打って出る陛下が、軍隊の弱体化を知りながら、まるで改善に手をつけようとはなさらない」

「…………」


 ノーサンプトン侯爵の指摘に、私は黙して相手を睨みつけた。

 過激派プロテスタントの彼が、カトリックの敵対国に対し、軍事的手段に訴えたがっていることはよく知っている。


 だが、彼の指摘はある意味で正しい。

 正直、棚上げにしていた面はある。


 まあ、一言、天童恵梨として言わせてもらうなら……



 そんないっぺんにできるか!



 戦争をするにはお金が必要だ。

 兵を募るには民の健康と士気が必要だ。


 今の疲弊しきった国情での強引な軍備増強は、困窮にあえぐ国民に更なる負担をかけることになる。


 歴史の通りにいけば、スペイン艦隊の襲来は数十年後。それまでは、のらりくらりとスペインとの全面対決を避け、戦争をせずに国家財政を立て直し、時間をかけて対無敵艦隊(アルマダ)に向けた地力を養っていく。


 私の中には、そういう計画があった。


「陛下の争いを避けたいという女性らしいお優しさは分かりますが、これは政治です」


 トマスの意見に、私はカチンときて反論した。


「戦争をするのが正しい政治ですか? まず大切なのは国内の平和の維持です。この小さな国一つまとめられなくて、何が戦争ですか」

「やはり分かっていらっしゃらない。外国との戦が国家の結束を強め、人心を1つの旗の下に集めるのは事実です」


 かぶせてきたのは、先ほどから血の気の多いノーサンプトン侯爵だ。これだから女は、という本音が表情にありありと出ている。


「…………」


 その主張に、私が不満も露わに黙り込んだのを見て、トマスが身を乗り出す侯爵を片手を挙げて抑え、私を見据えた。

 自分よりはるかに年配で経験豊富な委員を手の仕草だけで黙らせられるのは、やはり公爵という立場が持つ威光だろう。


「我らをおびやかす事情の多くに、スコットランドが関わっています。あの国との外交問題に決着をつけることは、国内の安定にも寄与する。……だが今まで、スコットランドはフランスの後ろ盾によって強気に出て、イングランドに反抗的な態度を取ってきた。我々とて、フランスを敵に回すわけにはいきません。だが、今なら――」


「フランス王妃はスコットランドの女王です。フランス国内の分裂が予想されるからといって、そう簡単にフランスがスコットランドから手を引くと考えるのは、時期尚早でしょう」


「軍の整備と派兵には時間がかかります。今からでも準備にかからないと」


「今から準備にかかって、フランスとスコットランドに警戒させるの? フランス国王が死んだ途端に派兵の準備を始めているなどという噂が流れたら、諸外国にどう受け取られるか……スペインはいつでも鼻をきかせています。付け入る口実を与えるのは自殺行為です。いくら他国と戦争をしていると言っても、片手間にこちらを相手にすることぐらい、あの大国には出来ます」


「…………」


 今度は、トマスの方が黙った。苛立ったように睨みつけてくる眼差しを睨み返す。


 理論武装して押し返すことは出来る。

 だが、そもそも好戦的な人間と、保守的な人間では、根本的に噛み合うわけがなく、納得させることは困難だ。


「現時点で、戦争準備を始めるのはリスクが高いという意見には、私も同意です。だが現在の我が国の軍備では、正当防衛すらもままならないのも事実。装備、人的教育、組織体制の再構築……1度諸々の課題を検討し、軍備の立て直しを図っては」


 火花を散らす私とトマスの間に入り、場をまとめたのはセシルだ。


「そうね……次回には、軍事予算案の修正と組織改善の検討を議題に入れます。ただしスコットランドへの出兵は、現時点では許しません。あくまでも我が国の自衛のための議論であると考え、望みなさい」


 セシルの言葉を受け入れた私の指示に、枢密院委員は諸々の感情を飲み込んだ表情で頷き、その日の会議は終了した。






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