人の口には戸は立てられぬ。
特に女はおしゃべりを教えるよりも、黙らせることの方が難しい。
私とノーフォーク公爵が湖で親しくしていたことは、翌日には宮廷中に広まっていた。
どうよこの優秀すぎる伝播力。
まったくお前たちはどれだけ暇なのかと問いたい。
だが、おしゃべりなグレート・レディーズたちによるこのゴシップネタが、意外な効果をもたらした。
ここ数日、宮廷内は「エイミー・ダドリーの死は、女王とロバートの共謀殺人で、2人はもうすぐ結婚する」「いや、もう秘密結婚しているらしい」などという噂で持ちきりになっていた。
が、私がロバート・ダドリーをすぐに蟄居という形で遠ざけたことと、私とノーフォーク公爵の仲が噂されたことで、そのあたりの信憑性が薄れ、徐々に宮廷に冷静な判断力を取り戻させるのに役立ったのだ。
冷静に考えれば、女王が妻殺しの嫌疑のかかった男と結婚できるわけがない。
なるほど……都合の悪い噂を消すには、それを上塗りするような、より食いつきのいい噂の種を撒けばいいのか。
そう学習し、私はこのタイミングで、夏の行幸の目的地をノーフォーク州の代表都市ノリッジに変更し、宿泊先にノーフォーク公爵の屋敷を希望した。
そのことが、またどこかから漏れて、宮廷内の注目が一気にノーフォーク公爵に集まり、ロバートの影は薄くなった。
ノーフォーク公爵トマス・ハワードは、ロバートに比べて人望があり、また、はなから嫉妬するのも馬鹿らしいような大貴族であるため、大方の宮廷人は好意的に受け入れているようだった。
この調子で、いずれロバートの蟄居を解く時までに、悪い噂が払拭されていることを祈るばかりである。
そうして中傷の嵐も宮廷内では収まり、ロバートが出仕しないということ以外は、日常の生活が戻りつつあった。
その日常の中で、私も気付くことがあった。
いつものように、移動する私の後を、グレート・レディーズがついて歩いているのだが、今日は彼女たちと私の間に、ウォルシンガムが挟まっていた。
確かに……見られてる!
右に行っても左に行っても、視線が追いかけてくる。
彼女らに言われ、意識してみるようになったのだが……確かに、私がウォルシンガムを見ていない時でも、向こうはかなり遠慮なくこっちを見ている。
あまりにも執拗なので、呪いでもかけてるのかと思う。
「何?」
気になりだすと止まらず、私は斜め後ろを影のように付き従う男を振り返った。
「何とは」
相手の方は、私と目が合っても逸らす様子は見せず、例の強い眼差しで見返してくる。
「いや、なんかずっと見てるから、何か言いたいことでもあるのかと思って」
「そういうわけではありませんが」
ウォルシンガムは私を見下ろし、事務的な口調で答えた。
「陛下の御身をお守りするのが我らの使命です。特に陛下ご自身の危機回避能力には信頼がおけませんので、我々が注意深くなるのは当然ことかと」
やっぱり歩く監視カメラかこいつは!
ウォルシンガムに幻想を抱いている女官たちには悪いが、現実はこんなもんである。
「仕事とはいえ、そんなに私ばっかり見てても飽きるでしょ。たまにはもっと周りの若い可愛い子でも見てみなさいよ。あんた結構人気あるわよ」
さすがに恋のかけ橋にはなれないが、ちょっとしたサービスのつもりでそう振ると、ウォルシンガムが後ろをついてくる4人のグレート・レディーズを振り返った。
1番端にいたイザベラが、急に澄ました顔を作るのが可愛らしい。
ウォルシンガムは彼女らを一瞥した後、すぐに視線を戻した。
「あの方たちは生まれながらの公女で、私が口を挟むまでもなく洗練された宮廷作法と常識を身につけておられます。陛下は時折突拍子もない行動を取られるので、目を離す隙も飽きる暇もありません」
そーかいっ。
「悪かったわねぇ、育ちが悪くて作法も常識も未熟で」
顔を近づけ、小声で悪態をつく。
あまり聞かせられない会話なので、ウォルシンガムが同じく小声で囁いてくる。
「ご自覚があるようなら結構。いずれ私が目を離せるほどに磨き上げられた貴婦人に成長されることを心から願っております」
心から願っていると言う割には心のこもらない台詞だな!
くそーっ。やっぱりむかつくこいつ!
だが言い返せるほど自分に自信があるわけでもなく、私はむかっ腹を抱えてウォルシンガムを睨み上げた。
今日の仕事終わりは、久しぶりに寝室にヒゲシンガムを呼び出していじりつつ、ぐだぐだして過ごすつもりだったのだが、やっぱやめた。
せっかくだから、あまり面識のないキャットとも引き合わせようと思っていたのだが。
「今日、やっぱ来なくていいから。トマスとカードして遊ぶもん」
「どうぞご随意に」
すっかりへそを曲げた私に、平気で言い返すウォルシンガムは、全くもって可愛げがない。
臣下のくせに、女王の機嫌を取る気が一切ないのは相変わらずである。
誰が、誰に、片思いしてるって!?
※
久しぶりにそんなアホな喧嘩をした私は、その日の公務が終わった夕方、つい引き合いに出してしまったトマスを部屋に招いた。
可哀想に、とばっちりである。
手持ちのカードを扇状に広げ、睨みつけながら昼間のことを思い出していると、
「陛下はご機嫌斜めですか?」
急に女王の私室に呼び出されたトマスが、カードを片手にそんなことを聞いてきた。
「え? そう思う」
「先程から顔に書いてあります」
思わず顔を触ってしまう。そんなに不機嫌面をしていただろうか。
「ご指名を受けた時は舞い上がるほどに嬉しかったのですが、そのような顔をされると、何かお気に召さないことでもあったかと……」
「ち、違うの! トマスが悪いんじゃなくて、単に、ちょっと別の奴にむかついてただけだから!」
深刻な顔をするトマスに、慌ててフォローを入れる。
セシルあたりなら、きっと私の不機嫌の理由なんてすぐに察知するのだが、そのレベルの理解力を求めるのは酷か。
「確かに、呼び出しといて機嫌悪いなんて悪かったわね。ちょっとむしゃくしゃしたから気晴らしがしたかったのよ」
「むしゃくしゃ?」
「まあ、大したことじゃないんだけど」
実際、振り返ってみれば全然大したことじゃない。
何をあんなにムキになったのか。相変わらずウォルシンガムは私を煽るのがうまい。
「なんていうか……頑張って、それなりに成果出してきたつもりのことが、認めてもらいたい相手からしたら全然大したことなかった、ってなったら、結構イラっとこない?」
イラっときた上で、認められる為にさらに邁進する、というのが上司の天童恵梨操縦術だったりもしたのだが。
「認められたい相手……貴女が、誰に認められる必要があるのですか? ローマ教皇ですか?」
「ローマ教皇? そりゃ、認めてくれたら助かるけど、国教を変えない限り無理でしょそれは。そうじゃなくて……」
いつかウォルシンガムをぎゃふんと言わせたいというのはずっとあるのだが、名前を出したところで、たかだか庶民院の議員に何をそこまで固執するのかと思われそうなので、私はごまかした。
「臣下とか、国民よ」
手の内のカードを睨みながらそう答えると、トマスが意外そうな顔をした。
「認めるも何も、陛下はまごうことなきイングランド国王です。まさか、陛下ご自身が継承の正統性を疑っているとでも……」
相変わらず、すぐ深刻な方向に思考が流れる男だ。真面目というか頭が固いというか……
「そういう意味じゃないわよ。単純に王様って看板背負ってるだけで崇められても、私の中では認められてることにはならないの」
口先で忠誠を誓うのは簡単だ。だが、腹の底で軽んじられているのを、「認められてる」とは言わないと思う。
そして、認められるには、結果を出さなければいけないことも知っている。
「上に立つからには、認められないまま舐められたくないでしょ。出来たら、この王様で良かったって思ってもらいたいじゃない」
「……貴女はつくづく俺の常識を覆します」
「そう? でもこれがあなたの王様よ。残念だったわね」
「いえ、光栄です」
そう言って、開いたカードで口元を隠したトマスは、眩しそうに目を細めた。
~その頃、秘密枢密院は……
「おや、ウォルシンガム。今日は、陛下の羽伸ばしに付き合う予定だったのでは?」
執務室に赴くと、サー・ウィリアム・セシルは手を止めてウォルシンガムを迎えた。
「ご不興を蒙りまして、私の前で伸ばす羽はないとのことです」
「おやおや」
それだけで大体の察しはついたのか、国務大臣は愉快そうに笑った。
「何のあてつけか、ノーフォーク公爵を指名して今は私室でカードゲームに興じていらっしゃる最中かと」
「ほう」
出てきた名前に、セシルが眉目を開く。
ウォルシンガムは報告を続けた。
「ロバート卿を退けられてから、最近は、ノーフォーク公が遊び相手になりつつあるようです。年も近く、身分も高いため気安いのでは」
「ノーフォーク公には、ロバート卿ほどの手管はなさそうですが」
セシルの感想は、だいたい的を射ている。
女性の扱いに長け、女王の寵を得るためにはなりふり構わなかったロバートに比べれば、ノーフォーク公は若いながら謹厳実直で、思い切りには欠ける。
「だが、あの方には身分がある。ノーフォーク公ならば、年齢的にも、家柄、お人柄共に陛下に相応しいのではないか――と、外国人との結婚を嫌がる宮廷人からは、すでに声が上がっています」
宮廷内にも網を張るウォルシンガムの耳には、貴族達の愚痴から、女官達の噂話まで、あらゆる情報がいち早く届く。
実際、ノーフォーク公の周囲では、早く求婚するように囃し立てる声が、彼を後押ししているようだった。
あの女王の性格では、先走れば良い結果は得られないのは目に見えているが、それを進言する理由も親切心も、ウォルシンガムにはなかった。
女王の夫――すなわちイングランド国王という地位は、ノーフォーク公はもとより、彼にぶら下がる人間たちにとっても、逃がし難い魅力がある。
仮にノーフォーク公が女王の心を射止めようと画策するならば、彼がどこまで女王の性格を見極め、忍耐強く時を見計らえるかが肝になるだろう。それには、若さと、周囲の声が邪魔になるかもしれない。
そのことを、サー・ウィリアム・セシルはどこまで見通しているのか。
あるいはこの男は、全てを見通したうえで、あらゆる可能性の先にある最善を模索しているのかもしれない。
「もし陛下がノーフォーク公をお選びになるのなら、それに反対する理由はありません」
穏やかな宰相は静かに目を伏せ、そう表現するにとどめた。
「それが最良の選択かはともかく、選択肢の1つとしては、大いにあり得るものです」
やはり彼は、外国に干渉されないことを単純に喜ぶ多くの廷臣たちとは違い、その結婚の孕むリスクを十分に理解しているようだった。
ノーフォーク公爵を夫に選んだ場合、確かに国内的には丸く収まるかもしれない。
だが、数多の国外の王族が求婚を申し入れている中で、国内の公爵を選んだとなれば、英国は国際的に孤立を深めることになる。
カトリック国家に囲まれながらプロテスタントを標榜している、この四面楚歌の現状で、外国の後ろ盾を得られない道を取るのは、将来的に大いに不安が残り、薄氷を踏むようなリスクを抱えた選択でもある。
だが、女王の身が1つしかない以上、どちらかを選ばねばならないのも事実だ。
結局のところ、決定権が女王にある以上、最終的には当人の気持ち1つという面はある。
女王はまだ若く、誰もが彼女に後継者を生むことを望んでいるし、結婚生活の破綻は、国情を揺るがす大問題に発展する。
当事者同士の相性というものも、個人の恋愛という範疇を超えて大きな意味を持つ。
「この女が選ぶ夫に、全てがかかっている」
女王の戴冠の折、ある外国大使がそう呟いた。
まさしく、その通りなのだ。
はたして、何が最良なのか。
当代最高と謳われる英国宰相をもってしても、恐らくは明確な結論が出せないこの難問の解答を、未来から来た女王は、既に知っているような気がした。
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