翌休日、私は気晴らしに、女官たちを連れて湖に出た。
舟遊びは、私の好きな遊興の1つだ。
美しい宮殿の庭の湖に小舟を浮かせて、自然の息吹を感じながら、フルートを奏でるのは、疲れた心を癒し、感性の泉を潤すのに最適だ。
日中、女王の話し相手や遊興の相手となることが主な仕事であるグレート・レディーズは、よく心得ており、最近巷を賑わしている、女王を中傷する噂のことなどは、口に出そうともしない。
まるで何もないかのように振る舞い、たわいもない話に花を咲かせる彼女たちに合わせ、私も、その日は嫌なことを忘れるつもりでおしゃべりに興じた。
結局盛り上がるのは、宮廷内のイケメン話だったりするのだが。
「ねぇ陛下、フランシス・ウォルシンガム様はどのようなお方なんですの?」
好奇心で聞いてくる年若い女官に、私は目を丸くした。
グレート・レディーズ最年少のイザベラは17歳だ。金の髪に、黒いはっきりした瞳の、快活な美少女である。
「ウォルシンガム?」
爵位も高位の役職も持たない男が、彼女らの目に留まるとは予想外だったが、意外にも彼の名に他の女官も食いついた。
「私も気になります。少しミステリアスで……宮廷の他の殿方たちとはまた違った雰囲気をお持ちですよね」
ミステリアス……確かに、基本何考えてるか分からない。
また違った雰囲気……華やかな宮廷で、あんな喪服みたいな黒づくめで辛気臭い顔して歩いている奴は他にいない。
「サー・ウィリアム・セシルの代理でよく陛下のお傍にいらっしゃいますけど、休日はあまりお顔をお見せにならないんですもの」
休日にウォルシンガムが何をしているかは、私も知らない。
「でも、陛下のお傍にいらっしゃる時も言葉少なで、私は少し怖い感じがします」
「熱心なプロテスタントでいらっしゃるそうだから、とても禁欲的で清廉な方なのじゃないかしら」
4人のグレート・レディーズの間で、否定的な意見と肯定的な意見が交錯する。
ウォルシンガムも、こんなところで高貴な身分の女性たちに値踏みされているとは夢にも思わないだろう。
「ねぇ、どうなんですの陛下」
最初に話題を振ったイザベラが身を乗り出してきた。大きな目が、生き生きと輝いている。
謎のイケメンの正体を暴きたくてうずうずしている顔だ。
「どんな方って……基本的に仕事一辺倒男……だと思うわよ。私も、仕事以外の話ってあんまりしないし」
聞かれて改めて、私はウォルシンガムについて詳しいことは何も知らないことに気付いた。
寝室で話す時も堅苦しい話が多く、趣味や過去の恋バナなどには波及しない。セシルですらするのに。
「でもあれはダメよー。あなた達の結婚相手には推薦できないわ」
大丈夫だとは思うが、一応釘を刺しておいた。
ウォルシンガムと公女では、身分が違い過ぎる。
すると、彼女たちは顔を見合わせ、くすくすと笑いだした。
んん? なんだ、その微妙な反応は……
「勿論、そんなことは思っておりませんわ」
「ウォルシンガム様はいつも陛下ばかり見ていらっしゃって、私どもとは目も合わせようともしませんもの」
「ちょっと、なにそれ」
見られてるって?
確かに、ウォルシンガムは、こっちがたじろぐほど人を真っ直ぐに見据える癖があるが、誰にでもそうなのだと思って、気にしたことはあまりなかった。
私の反応に、抑えきれないというように、若い女官たちがきゃらきゃらと笑い出した。
「どうやら気付いていらっしゃらないようよ」
「まぁ、おかわいそうに」
かわいそう、という割には同情の色が見えないのだが、困惑する私に、彼女たちは小鳥が歌うように口々に説明してきた。
「ええ、お傍にいる時も、そうでない時も」
「時には陛下のお顔に穴があいてしまうのではないかと思われるほど」
「あの黒く強い眼差しで、じーっと」
目尻を引っ張って、鋭い眼差しを作りながら顔を突き出してくるイザベラの鼻をツンと押すと、「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げ彼女は引っ込んだ。
それは……単に私がへまやらかさないか監視しているだけでは……
などと思ったが、誤解している彼女たちは楽しそうだ。
夢見がちなお年頃にとっては、身分違いの片想いなどは、いかにもロマンティックでおいしい話のネタなのかもしれない。
グレート・レディーズは、大体20歳前後の未婚の貴婦人の中から、特に優秀で高貴な人材が選抜される。彼女たちは無給で女王に仕える代わりに、高い
子女がグレート・レディーズに選ばれるというのは、その家にとってこの上なく名誉で、結婚にも有利に働くことなのだ。
そんな彼女たちは、王族に連なる身分であるため、王の許可なしに結婚は出来ない。
むしろ、王の方から、彼女たちに相応しい夫を選ぶのが望ましいとされている。
当然、結婚するまで清い身体でいなければならないため、恋愛はご法度だ。
そのくせ、宮廷の若い貴族たちは平気で、美しく有望な彼女たちを誘惑してくるのだから、女性ばかりがリスクを負う、不公平な社会だとは正直思う。
万一恋愛関係がバレたりなどしたら、彼女たちは一方的に不名誉を蒙ることになるからだ。
宮廷での女官の恋は、リスクと背中合わせだ。
身近な例で言えば、エリザベスの母アン・ブーリンの姉メアリは器量が良く、フランス宮廷で王妃に仕えていたところを、色好みな当時のフランス王フランソワ1世に目をつけられた。
誘惑に乗ってしまったメアリは彼の子供まで生んだが、王にとっては数ある火遊びの1つでしかなかった。
王に飽きられたメアリは、『イギリスの売女』と罵られながら宮廷を逐われ、子供は引き離され、修道院に押し込められた。
更にイギリス宮廷に戻った後も、ヘンリー8世に弄ばれた上で捨てられた。こうなってしまえば良い縁談など望めず、そこらの貧乏貴族とでも結婚してひっそりと暮らす他はない。
これは本人にとっても、出世街道を歩んできたブーリン家にとっても痛手だった。
アンはそんな尻の軽い姉の悲惨な末路を見ていたため、彼女自身は姉と同じ轍は踏むまいと固く決意していたらしい。
ヘンリー8世は、妻のキャサリン妃に仕えていたアンに惚れ込んだが、彼女は結婚してくれなければ愛を受け入れないと、頑なに操を守った。それが余計に、ヘンリーの恋心をかき立てた。
ついにヘンリーは、キャサリン妃と離婚してアンと結婚するため、ローマ教皇と懐を分かち、国教会を設立して、自らを最高首長に据えた。
これにより、イギリスはプロテスタント国家の道を歩む。
全ては、一介の女官でしかなかったアン・ブーリンを王妃にするためのものだった。
たった1人の女性への執着が、建国以来続いていた国家構造を覆し、国家の運命を大きく変えた。
だが、そこまで王を夢中にさせ、王妃になり上がったアン・ブーリンも、寵を失えば落ちるのは一瞬だった。
王の望み通りに、世継ぎになる男児を産めなかったアンは、不義密通と近親相姦の冤罪をかけられ、処刑台の露と消えた。
この時代の女性とは、そういう立場だ。
私は立場上、彼女たちの保護者のような存在になる。
彼女たちの将来を守るためにも、このご時世に自由恋愛オッケーなどとはさすがに言えないが、誰々がカッコイイ、などという女子トークくらいは好きにさせてやりたいと思っていた。
「おしゃべりもいいけど、風が気持ちよくなってきたから、フルートを吹いていい?」
今日、舟を出した目的の1つを切り出すと、彼女らの表情がぱっと華やいだ。
「勿論! 陛下の奏でる調べを聞いていると、まるで夢の中にいるような心地になりますわ」
「ええ、とても特別な音色。魂が救われる時、人はこんな癒しを感じるのだろうと思えるような……」
うっとりと、歌うような賛辞が捧げられる。
優雅な仕草で聴く体勢を作る彼女らは、まるで1枚の絵のようで、実に目の保養だ。
私がフルートを取り出し、歌口に口をつけて演奏を始めると、グレート・レディーズは目を閉じて聞き入った。
水夫がオールを漕ぐ水音と、風の音、葉擦れや小鳥のさえずり――そういったものと一体化し、笛の音が湖の水面を滑る。
高く澄んだ夏の初めの空に、どこまでも響いていきそうだ。
「あら……ねぇ」
女官の1人が気付き、他の娘に話しかけた。
「あちらにいらっしゃるのは、ノーフォーク公じゃなくて?」
「え……?」
その声に、私は笛の音を止め、彼女が差す方向を振り返った。
いつの間にか、湖に1隻のボートが浮かんでいる。
乗っているのは、漕ぎ手と、もう1人、見覚えのある貴公子だけだ。
ゆるゆると二艘の小舟が近付き、声を張らなくても互いの声が聞こえるほどの距離になったところで、ノーフォーク公が膝を折り一礼をした。
「失礼、邪魔をしてしまいましたか」
「ノーフォーク公、御一人で舟に乗る趣味があったの?」
意外な気持ちで聞くと、ノーフォーク公は胸に手を当て、ひざまづいて答えた。
「この世のものとは思えぬ美しい笛の音が聞こえたので、おそらく貴女かと思いまして」
「それで、わざわざ舟を出してきたの? 行動派ね」
私の言葉に軽く頭を下げたノーフォーク公の表情は、会議室で見る時よりは柔らかい。
世を騒がせているスキャンダルを耳にしていないわけはないだろうが、素知らぬ顔で声をかけてくる相手を好ましく感じ、私は彼を舟に招くことにした。
「いらっしゃい」
呼びかけると、漕ぎ手が器用に女王の小舟の横につけ、ノーフォーク公が乗り移ってくる。
グレート・レディーズが公爵の座る場所を開けた。
「特別にあなたのために吹いてあげる。リクエストはある? ……と言っても、あなたが知ってるような曲のレパートリーは少ないけど」
「では、五月祭の水上パーティで演奏されていた曲を」
自分で言っておいてなんだが、すかさずリクエストされて、少し驚く。
「そう、あなたも聞いてたのね」
「ええ、雲の上にいるような心地良さでした」
「大げさ……でも、ありがとう。演奏を褒められるのは、素直に嬉しいわ」
同じお世辞でも、容姿を褒めそやされるよりは、ダンスや演奏、仕事ぶりを褒められる方がずっと嬉しい。それは、自分が努力して手に入れたものだからだ。
微笑みかけると、露骨にノーフォーク公の目が泳いだ。
「どうしたの?」
「ええと……この程度のことで陛下に感謝されるとは、不思議な気分です」
「そう? 絶対君主って臣下に『ありがとう』って言うだけで驚かれるんだから、大変ね」
ウォルシンガムに「破産させるな」と言われたことを思い出す。
だが、神様や偉い人にだけでなく、どんな立場の相手に対しても「ありがとう」と言える気持ちだけは、失いたくないものだ。
私の含みのある台詞に、ノーフォーク公は困惑顔だ。今日は、いつも以上に顔に出やすい。
私は笑ってごまかし、話題を変えた。
グレート・レディーズは、私たちの会話の邪魔にならないよう、船尾のほうに固まり、静かに様子をうかがっている。
「本当はパートナーが必要な曲なの。まあ、この一方通行な感じが、独り身の私には丁度良いか」
「陛下は、いつまで独り身を堪能されるおつもりで?」
つい口を滑らせた私の自虐に、ノーフォーク公が食いついてくる。それを目で黙らし、歌口に口をつけた。
独特のフルートのソロから始まる協奏曲が、場を支配し、耳を奪う。
ここにはいない誰か――その誰かに、具体的な誰かがいるわけではないのだが――に語りかけるように己のパートを演奏していくと、どこからか応えるハープの音色が聞こえてくるような気がした。
最終楽章まで吹き終えると、ノーフォーク公と、グレート・レディーズそして水夫までもが、惜しみない拍手をくれた。
「感想は?」
「そうですね……」
促すと、ノーフォーク公は満足げに頷いた。
「この曲に、陛下の結婚のご意志を受け止めた気がします」
「勝手に受け止めないでよ」
感想を聞いておきながら何だが、あまり言及されたくない話題に、私はむくれた。
「もう、あまり結婚結婚言わないで。あっちこっちから圧力かけられて、もううんざりなんだから。しつこいと舟から追い出すわよ」
「それは困ります。泳ぐのは余り得意ではないので」
「冗談よ」
生真面目に受け止められ、苦笑する。
「あなた、面白いわね……トマス、って呼んでも良いかしら」
「身に余る光栄です」
トマスが身を正し、ドレスの裾をすくって口づけた。
すると、船尾から小さく、歓声のような笑い声が起こった。
まったく……
聞こえるのは仕方がないが、女王と誰かの会話に、彼女たちが反応するのはマナー違反だ。
振り返り、目で叱咤すると、グレート・レディーズはバツが悪そうに視線を逸らした。
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