その日の夕方には、既にエイミー・ダドリーの死は宮廷中に広まっていた。
予想通り、その訃報は様々な憶測を呼んだ。
女王が殺した。ロバート・ダドリーが殺した。先日の諍いは、今回の事件の計画について2人の意見が衝突したからだ――などという妄想猛々しい憶測の他、夫人が2人の仲に絶望して自殺したという話も飛び出した。
また、私がロバートに蟄居を命じたことも瞬時に広まり、噂は一気に加速した。
一応、名目上は喪に服すための休暇を与えたというものだが、彼らがそれを言葉通りに受け取ることはないだろう。
検死中の混乱を避けるため、枢密院会議で直ぐさまこれらの中傷を禁止するお触れを出したが、効果はなかった。
噂は噂を呼んで一大スキャンダルとなり、宮廷どころか、ロンドン市内中を席巻することになる。
「……陛下。朝は失礼しました。私は、陛下はもとより、ロバート卿の罪も疑っているわけではありません」
一日中、聴きたくない噂話が飛び交い、疑いの眼差しが向けられる中、公務をこなし、ようやく私室で一息をついた夕方、セシルが神妙な顔で私を訪問した。
「分かってます。セシル、あなたの言葉は間違ってません。私も、真実がどこにあれ、そうする他はないと思いました」
私は、私室の女官と侍女を部屋から下がらせ、セシルを円卓を囲んだ隣の席に誘った。
珍しく心を乱したセシルのフォローもしたかったし、それに、彼には聞きたいこともあった。
席に着き、疲れたような溜息を零したセシルの顔に手を伸ばし、眼鏡を取り上げる。
なんとなく、最近はセシルと2人で私的な話をする時は、こうするのがマイブームだった。
この方が、彼も国務大臣の仮面を取って話をしてくれる気がした。
私が眼鏡を卓に置くと、セシルが心配そうな目で見つめてきた。
「陛下、一部のゴシップ好きが自殺だなどとも騒いでおりますが、まだ何も結果は出ていません。どうか、御心を患わされないよう……」
「ええ……分かってる。セシルも、あまり深刻にならないで。悪い噂が流れるのは、もう止めようもないし……勿論鎮める努力はするけど、ちゃんと無実を信じてくれる人がいるから、私は大丈夫」
「……はい」
私が気遣い返すと、セシルは淡く微笑んで頷いた。
息をつき、私はセシルの他に人がいないのをいいことに、行儀悪く卓の上に突っ伏した。
朝からずっと気が重い中、虚勢を張っていたせいで、体力も精神力もゲージが赤く点滅している。
「ねぇ、セシル……」
「はい」
「セシルは、前の奥さんのこと愛していたの?」
セシルはこの時代には珍しく恋愛結婚だったと、ニコラス・ベーコンから聞いたことがある。
「ええ、とても」
セシルは、柔らかに答えて微笑んでくれた。
その笑顔がとても素敵だったので、そんな旦那さんと巡り逢った奥さんは、きっと幸せだったろうなぁ、などと思う。
「結婚って幸せ?」
「個人の感想でよければ、私は幸せでした。その分、失った哀しみも大きかったですが……それでも、彼女に出会えて良かったと、今でも思っています」
「そっかぁ、そうよね。私も、実らなかったけど出会えて良かったって恋ならあるわ」
彼の言葉にとても共感して、ぽろりと漏らした私に、セシルが意外そうな顔をした。
「陛下も恋をされたことが?」
「実らなかったけどね。まぁ、世の中上手くいかないもんよね。お互い好きでも、それ以外の要素が邪魔することもあるし」
「それはありますね。まぁ、私の場合は……親に反対されながらも結婚を押し切ってしまったパターンですが」
「そうなの?! 意外に情熱的ねセシル!」
「お恥ずかしい話です」
そう言って、本当に恥ずかしそうにセシルは笑った。
そうか……そんな風にちゃんと幸せな恋をした人だから、私に結婚を勧めてくるのか。
その辺は、世継ぎ問題や固定概念だけで結婚を強要する他の廷臣達とは違うところだ。
「陛下、私はこうやって貴女の傍で、貴女の心をお慰めすることは出来ますが、それ以上のことは出来ません」
口調を改めたセシルの静かな声が落ちてくる。
セシルの傍にいる時間が、一番落ち着いた。
「結婚とは――男女の愛とは、あるいはそれ以上の部分で、互いの心を癒し、支え合うものです。特に、女性の身でありながら、王としてこのイングランドを守る貴女には、試練が多すぎる。こうやって貴女が傷つく姿を見る度に、陛下の心の深い部分を抱きしめられる存在を――望んでしまうのですよ」
心から私を思ってのものだと分かる言葉が、胸に染みる。
確かに、どうしようもなく傷つくとき、不安になるとき、誰かが傍にいてくれたら、という気持ちがかすめないわけではない。
でも私は、そうやって心が弱っているときに、誰かに全てを委ねてしまうのが――依存してしまうのが、怖いのだ。
だから、自分の心の弱さは、自分で克服する。そうやって私は心の深い部分を誰にも譲らず、自分の手で守り続けて、強くなってきた。
それが寂しいと感じることも、あることにはある。でも、私はそういう女なのだ。それ以外にはなれない。
何度も試みようとして、結局出来なかったのだから、それ以上自分を否定するのは、ここまで頑張ってきた『私』が可哀想だ。
「……私は、セシル達がいてくれたら、それでいい」
最後の一線は踏み越えず、それでも傍で支えてくれる人達がいたら、私は十分だ。それ以上は求めない。
卓に伏せったまま呟いた私の言葉に、セシルがどんな表情を見せたかは、疲労で重たくなった瞼を閉じていた私には見えなかった。
~その頃、秘密枢密院は……
円卓に上半身を預けたまま、目を閉じてしまった女王に、セシルは声をかけた。
「陛下? お休みになるのでしたら、寝室に戻られた方が……」
「うん……変な時間だけど、軽く寝たいかも」
すでに幾分か眠そうな声が返ってくる。
「精神的にお疲れになったのでしょう。今日はもうゆっくりなさっては」
どのみち、姿を見せれば好奇と悪意に晒される。今、彼女が落ち着ける場所は、人払いのされた私室か寝室しかなかった。
「そうする……」
同意する声が聞こえるが、動くのが億劫なのか、顔を上げる気配はなかった。平時であれば寝室でしか見せない、その素を出した行動に、彼女の精神がどれだけ消耗しているかが分かる。
「…………」
薄い背中が、規則的な呼吸で上下する様を、セシルは少しの間、眺めていた。
黄金の髪を綺麗に結い上げた頭が、目の前に無防備に横たわっている。
華奢な肩も、白いうなじも、間違いなくか弱い女性のもので、力なく卓に伏せる彼女は、そこにのし掛かる重圧に押し潰されているようにも見えた。
手を伸ばせば届く場所にある、その髪に触れかけ――触れる直前で、指先を握り込む。
「……陛下、女官を呼んで参りますね」
「うん、ありがと。セシル……」
席を立ち、卓の上に置かれた眼鏡を取ると、セシルは外で待機していた女官と入れ替わりに、女王の私室を後にした。
※
「陛下のご様子はいかがでしたか」
女王の私室を出た宰相を、待ち構えるように黒衣の男が現れる。
「心配していたよりは、落ち着いていらっしゃいました。とてもお疲れのようでしたが」
ウォルシンガムと並び歩き、報告したセシルは苦笑を滲ませた。
「逆に、私の方が気遣われてしまったような気がします。本当に強いお方だ……その強さが、逆に心配でもありますが」
「いずれにせよ陪審の結果は、事故死で決着がつくでしょう。ですが、黒い噂は地元でも広がっているようです。国外にも波及するのは、時間の問題かと」
セシルの心配をよそに、ウォルシンガムは新たな情報を伝えてくる。彼にとって大事なのは、情緒よりも現実だ。
以前から、ロバートが田舎に押し込めている妻を毒殺しようとしている、という噂は、女王の耳には入らないよう、密やかに流されていた。
これについては、ロバートの出世を快く思わない人間による作り話の域を出なかったのだが――ここにきての夫人の突然の死は、嘘から出た誠とばかりに、上昇気流に乗るロバートを叩く格好の口実になる。
宮廷には、この事態に、裏で手を叩いている者も大勢いるだろう。
だがこれをロバートのスキャンダルではなく、女王のスキャンダルと取れば、自体は宮廷の権力争いを飛び越え、深刻さを増す。
「打ち消すことは困難でしょうね。今回の噂を利用し、陛下を誹謗中傷し、民衆を煽り、現体制の転覆を狙う輩は必ず現れる。取り締まりを厳しくし、言論の統制と罰則の制定が急務です」
セシルは冷静に、予想と対策を口にした。女王の情緒を気遣った時とは一転した、冷めた眼差しだった。
「一体、何人投獄すればいいのやら……今から頭が痛い」
言葉通りこめかみを押さえ、セシルが溜息をついた。
だがその落ち着いた語り口には、これからやるべきことが、彼の脳裏にはすでに幾百と浮かんでいることを示している。
「これは我々にとって、最初の試練になるでしょう。たった1人の女の死ではありますが、この傷は深い。だが不幸は起こってしまった。ならば、ここからどう持ちこたえ、事態を好転させていくかを考えねばなりません」
そう言ってから、セシルは伺うように隣を歩くウォルシンガムを見上げた。
「――あるいは、これは神の手によってなされた事件ではないかとすら、私は思っているのですよ」
「神の?」
意外な言葉に、ウォルシンガムが眉を開いた。
「エイミー・ダドリーの死によって、陛下とロバート卿の結婚というリスクは、完全になくなった――このタイミングでの、この事故は、国家のために彼らを引き離すことを望んだ、神の手によるもののように思えて、仕方がないのです」
「……と、申しますと?」
妻帯者であったロバートが妻をなくしたことで、法上は女王はいつでもロバートを夫に迎えることが出来る。
多くの者は、障害がなくなったことで、2人の結婚が現実的になると考えるだろう。
「噂が下火にはなっても、ロバート卿には一生妻殺しの疑惑がつきまとう」
聞き返したウォルシンガムに、セシルは穏やかに微笑んだ。
「あの方は理性の女性です。愛人と結婚するために、相手の妻を殺した――などという汚名を着せられるのは、耐えられないことでしょう。この疑惑を否定する方法はたった1つ。障害がなくなっても、決してロバート卿の求婚を受け入れないことです。例え今の陛下のお心の中に、ロバート卿への恋心が、わずかにでも残っていたとしても……あるいは、今後芽吹く可能性があったとしても、この一件がきっかけで、あの方はその芽を理性で踏みつぶす。そういうお方だと、私は信じています」
いっそ晴々とした物言いに、ウォルシンガムは立ち止まり、セシルを見つめた。
「セシル殿……貴方は……」
「どうしました? ウォルシンガム、そんな顔をして」
振り返ったセシルは、やはりいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
「いえ……」
ウォルシンガムは顔を伏せ、胸に手を当てて小さく一礼をした。それは自然と起こった、畏敬の念からだった。
この事件を、彼自身が画策したとまでは思わない。
だが、この男の底知れぬ思慮の深さと、鋼鉄の理性を目の当たりにした気持ちで、ウォルシンガムはわずかにおののいた。
そして、羨望した。
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