6月も半ばに入り、徐々に夏の到来を予感し出した頃――
「夏の行幸?」
セシルが切り出した話に、私は聞き返した。
「これからの季節は、ロンドン市内の衛生状態も悪くなりますし、陛下のご休養と市外の国民との触れ合いも兼ねて、行幸に出られてはいかがかと」
宮廷を離れての地方行脚か。
政治家のドサ周りみたいなものだろうか。そこまで泥臭くもなさそうなので、夏休みの旅行か、地方視察みたいなものかもしれない。
こういった行幸自体は一般的なものだが、王の好みによってやったりやらなかったりするらしい。
「やるやる! そろそろ宮廷でじっとしてるのも飽きてきたし」
セシルの提案に、私は二つ返事で賛成した。
宮廷を離れたら、今より自由度ききそうだし、色んなところ巡って遊び回れる!
「陛下、休暇とはいえ、ただの遊びではありません。帯同できる人数は限られるため、今よりも御身の守護が薄くなりがちです。あまり羽目を外されることのないように、くれぐれも自重して下さい」
私の脳内を読み取ったように釘を刺してくるのは、勿論ウォルシンガムだ。
「分かってますぅー」
分かってないけどそう答えておく。
「…………」
私の心のこもらなさに気付いたのか、ウォルシンガムが渋面で睨んでくる。もうすっかり慣れたので別に怖くない。
いつものやりとりに苦笑し、セシルが話を軌道に戻した。
「エリザベス様は夏の行幸を大変楽しみにしておられました。勿論、最終的には陛下がご決定なされるのが良いかと思いますが、参考にエリザベス様がお立てになっていた計画をお伝えしても?」
「そうしてもらえると助かるわ」
行幸と言われてもピンと来ないし、最初はエリザベスのやり方を踏襲する方が無難だろう。
「行幸の日程は約2ヶ月間。いくつかの主要な地方の町を訪問し、国民との交流を図ります。陛下は国内にいくつもの城や屋敷をお持ちですが、エリザベス様は、宿泊先にはご自身の宮殿よりも、廷臣や地方名士の屋敷に滞在することをご希望でした。理由はいくつかありますが――」
そう言って、セシルはにっこりと微笑んだ。
「1番は費用の節約です」
「なるほど」
自分の屋敷に泊まれば、手間も出費もかさばるが、人の家に泊まれば歓迎されるしお金もかからない。さすがエリザベス、抜け目がない。
「女王陛下を屋敷にお迎えすることは、臣下にとっても大変名誉なことですし、宮廷が移動してくるとなれば、地方商業にも活力が与えられます。経済政策としても有効な手立てかと」
臣下に名誉を与えられ、彼らの治める土地にも経済効果が望める。そして、王室も宮廷経営の費用を富裕層に分担させられる。実に良い案な気がした。
「それでいきましょう!」
「では、まずいくつかのルートをご提案しますので、訪問先をお選びになってから、適した宿泊先をお決めになるのがよいでしょう」
「オッケー。日程と行き先が決まったら、宮内長官と王室家政長官に、移動に必要な人員の試算と、経費の見積もりを出させて。財務府に提出する前に、必ず私に見せるように」
「御意」
「あと、実際の移動の際の道中の安全の確保と馬の調達は……あ。」
言ってから気付き、私はウォルシンガムの隣の席を見つめた。
「守馬頭と女王護衛隊長の仕事です」
ウォルシンガムに言われ、私は頬杖をついて溜息を吐き出した。
あの男に平手を喰らわせたのは、つい1週間ほど前の話だ。
「あいつ、いつまでへこんでるつもりかしら……」
「最悪、護衛隊長に全て任せることも出来ますが、特別な理由なく任務放棄はさせられません。必要な段で襟首とっつかまえて任務につければよろしいかと」
いつも丁寧なセシルの表現が乱暴になっている。
「そうね。守馬頭の仕事が出てくるのは現場の準備の段階になってからだから、とりあえず計画を詰めちゃいましょう。セシル、さっき言ってたルートの提案と、それぞれの候補先の情報をもらえる?」
「御意。すぐに用意します」
などと、少しウキウキしながら、私は夏の行幸の予定を立て始めたのだが――
そんなウキウキ気分は、ある事件をきっかけに、一気に霧散した。
※
ロバートの騒ぎがあった後、私たちは宮廷をハンプトン・コート宮殿からセント・ジェイムズ宮殿に移動した。
この時代、王が定期的に居城を変えることは一般的なことで、城の清掃や改修といった現実的な理由もあれば、場所を変えて気分を一新するという精神的なリフレッシュもある。
そして、宮廷が移動となれば、例え近場といえど引っ越しの準備に全員が追われ、つまらない噂話に興じている暇もなくなる、というような思惑もある。
新居に移転した最初の朝、私はいつものように寝室付きの侍女たちに取り囲まれていた。
「陛下、今日のお召し物はどちらになさいますか?」
「そうね……」
いくつか侍女が見繕ってきたドレスを眺めやる。朝に弱い私が、ぼんやりする頭で服を選んでいた時――
「陛下、少しよろしいでしょうか」
「女王陛下はお召し替えの途中です。私が聞きましょう」
扉の向こうに控えていた侍女が呼びかけるのに、キャット・アシュリーが答える。
するりと戸を僅かに開けた隙間から滑り出たキャットが、再び部屋に戻ってきた時には、少し困惑したような顔をしていた。
「どうしたの? キャット」
「それが……ロバート卿が陛下にお目見えしたいとのことで、部屋の前でお待ちになっているのですが」
「…………」
耳打ちしたキャットに、私はしばし無言になった。
ロバートはここのところ私を避けるような素振りを見せており、秘密枢密院会議にも参加していない。
「待たせておいて。着替え終わったら会います」
「お部屋に入れても?」
「いいわ。ただしキャットはここにいて」
「かしこまりました」
着替えて髪を整えた後、私は待っていたロバートを寝室に招き入れた。
入れ替えに侍女達が部屋を出て、後には筆頭女官のキャット・アシュリーだけが残る。
ロバートはまず部屋の前で一礼し、入室してから扉口に近い位置で膝をつき、身を低くした。
「早朝にお訪ねしてしまい、申し訳ありません。夜にお伺いするよりは、分別があるかと思いましたので……ご無礼をお許し下さい」
ロバートなりに気を遣ってのこの時間らしい。
臣下の見本のような慇懃な態度は、彼がその気になれば幾らでも礼儀正しく振る舞えることを示していた。
「顔を上げて。何か私に言いたいことがあるのでしょう」
許しが出るまで面を上げない相手を促すと、ロバートはようやく顔を上げ、生真面目な口調で答えた。
「陛下のご慈悲を乞いに参りました」
「あなたを罰した覚えはありませんが」
「罰のないことほど重い罰はありません。償うチャンスを下さい」
そう私に乞う眼差しは思い詰めてはいたが、感情を理性で抑えつけるような静けさがあった。
「……ならロバート。今ここで、あなたが適切だと思う私との距離を示しなさい」
感情を悟らせない声で命じると、ロバートは立ち上がり、迷わず数歩、大股に前に進むと、再び膝をついて深く頭を垂れた。
それは、互いが手を伸ばしてようやく届くほどの距離だった。
「この距離の意味は?」
「この身を貴女の前に投げ出せる距離です。悪しき凶刃から、身を挺して貴女を守れるだけの距離です。これ以上の距離を望むことはありませんが、どうかこの距離だけは――この距離にだけは、この身と心を留め置くことをお許し下さい」
両手を組んで唇に当て、祈るように願うロバートを見下ろす。
「陛下の前で己を偽り、陛下の御心を欺いた罪を伏してお詫び申し上げます。だが、全ては愛ゆえの過ちだったのだと、それだけは言わせて下さい。その過ちによって陛下の名誉と御心を傷つけたことを深く悔いると共に、愛以外のなにものも俺の心を惑わすことはなかったと、神と陛下の前で偽りなく告白します」
決して王位への野心があったわけではないと――それだけは一歩も譲らず身を投げ出してくるロバートに、私は小さく息をついた。
何の溜息かは、自分でもよく分からなかった。
「ロバート、あなたの望みは何?」
「……貴女の心から、俺の名が消えないことを――ただそれだけを願い、恐れています」
「ならば願いは叶うでしょう」
今度は、大きく溜息をついた。これは何の溜息かはすぐに分かった。
この堅苦しいやりとりに疲れてしまったのだ。
やっぱり彼とは、もっと気安い方がいい。
「消しようがありません」
そう言うと、ロバートの視線が上がった。
「あなたみたいな強烈な人を忘れられるほど、都合の良い脳みそしてないの。別に、もうそんなに怒ってないわよ。近過ぎなければ、もう少し近づいてもいいし」
私は、大股に1歩、ロバートに近づいた。
「はい、これくらいかしら」
どちらかが手を伸ばせば届く距離だ。
その距離で右手を差し出すと、ロバートはいつも迷いなく取っていたその手を恐る恐る押し戴き、指輪に口づけた。
「陛下、俺は――」
「陛下! 早朝に申し訳ありません。お目通りを願えますか」
ロバートの声を遮り、扉越しに響いたのは、ウォルシンガムの声だった。
すぐに、キャット・アシュリーが扉に駆け寄り、身を滑り込ませて外の様子を伺うと、すぐにこちらに顔を向けた。
「陛下、サー・ウィリアム・セシルとフランシス・ウォルシンガムです」
「……入って」
この時間に、2人が揃って訪れるということに、ただならぬものを感じ、私は不安と緊張感を胸に2人の入室を許可した。
「ロバート卿?」
扉を開き、すぐに入ってきたセシルとウォルシンガムは、ロバートがその場にいることに少し驚いた。
「……ちょうど良かった」
「ちょうど良かった?」
呟いたウォルシンガムに、ロバートが怪訝な顔で立ち上がる。
「貴方にも大いに関わることです。すぐに宮廷中に知れることですが、今はまだ他に情報は出回っていません。アシュリー夫人、申し訳ないが退室願いたい」
手短に願うウォルシンガムの言葉には、思わず従ってしまいそうになる圧力があったが、彼より地位が上で女王の直属の臣下であるキャットは、1度私の顔を伺った。
「出て」
短く告げると、彼女は礼をして退室した。
4人だけになった女王の寝室で、状況が分からない私とロバートを、セシルは青ざめた顔で、ウォルシンガムは人を射殺しそうな眼差しで見つめている。
「エイミー・ダドリーが死にました」
その瞬間、その場の時間が止まったような気がした。
少なくとも、私とロバートの息は止まっていた。
その衝撃を飲み込みきれず、思考が空転する。
エイミー・ダドリー――ロバートの奥さんが、亡くなった。
「まさか……そんな……っ」
「どういうこと!? 死因は!?」
ほぼ同時に金縛りが解けたロバートと私の狼狽を前にしても、ウォルシンガムは沈着な態度で報告した。
「ダドリー夫人は、屋敷の階段から落ちて首の骨を折って死亡しました。正式な調査はこれからになりますが、状況からして事故死と考えられます」
「事故死……?」
階段から落ちての事故死。その唐突な死に、私はよろめき、支えを探して寝台に腰掛けた。
このタイミングでの死に、嫌な予感を覚えずにはいられない。
いや、むしろ、このタイミングでロバートの妻がそんな唐突な死に方をすれば、周囲の目にはどう映るか。
「これは由々しき事態です、陛下。例え事実が事故死であったとしても、今このタイミングでは周囲は疑います。ロバート夫人殺害の嫌疑が、陛下とロバート卿にかけられるのは避けられないでしょう」
「…………」
私と同じ結論を、セシルがいち早く口にする。
音にされたその内容に、私は唇を噛み締めた。
最悪だ。
間違いなく、明日には『女王がロバート卿と結婚するために、彼の妻を殺した』というデマが宮廷中を駆け巡る。
「冗談じゃない! 俺は無実だ! すぐに厳選なる調査を。疑う余地もないほどに公正な陪審を」
叫んだロバートの顔は青ざめるのを通り越して白くなり、声は震えていた。
セシルも強ばった表情で、私に詰め寄った。
「陛下、ご決断を。この件に関しては、早急に対応しなければ、貴女の名誉が疑われます。今、ロバート卿を擁護する姿勢を見せれば、たちまちに噂は真実にすり替わります」
「どういう意味だ、セシル殿、それは……!」
「私は事実を述べているまでです! 何よりも守らなければならないのは陛下の名誉です。そのためには、噂の根拠となる因子を少しでも多く取り除かねばならない」
ロバートの抗議に、セシルが常にない迫力で反論した。
「俺に罪を着せるというのか?!」
「無実であれば、それは公正な陪審が証明するでしょう。だが、どれほど厳密な調査が行われようとも、人の口が悪しき噂を立てることを止めることはできません。これは、貴方の行動が招いたことでもある。真に陛下のことを思う気持ちがあるのなら、状況を見定め、自ら陛下の傍を離れる決断をしなさい!」
「誰に向かって口をきいているんだセシル! お前は、俺の君主じゃないぞ!」
「やめなさい!」
2人の激しい言い合いは、私の一喝でピタリと止んだ。
「落ち着きなさい。今、この場で1番取り乱したいのは私です」
「……その通りです、陛下」
そう同意したのは、セシルの隣に立つウォルシンガムだ。
「……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました、陛下」
すぐに興奮を収め、セシルが膝を折って謝罪する。
ロバートの方は、そんなセシルを忌々しげに見下ろし、顔を背けて私の前に跪いた。
「どうしてこんなことに……」
そのまま、片手で顔を覆ったロバートが呻く。
しばし、絶望的な沈黙が場を支配した。
その沈黙を、それまで自分の意見を語らなかったウォルシンガムの、落ち着いた低音が破る。
「噂が流れることは止められませんが……一刻も早く、陛下の無実を証明することが必要でしょう。事故か、事件か……いずれにせよ証拠と証言を集め、審判を下さねば」
事件か、事故か。
結論が下せない現状で、客観的な意見を述べたウォルシンガムの黒い双眸が、私を見る。
いつも通りの強い眼差しは、こんな時でも揺らぐことがない。
「陛下、僭越ながらこの件に関して意見を申し上げるなら、事件究明に陛下が手心を加えたと疑われないように配慮するのが賢明かと。調査官と陪審員には信用のある第三者を起用し、結果が出るまでは、事件関与を疑われる人物は陛下との接触を断ち、枢密院の監視下に置くことをお勧めします」
「ウォルシンガム、貴殿まで……」
「全ては陛下の無実を証明するために必要なことです」
「…………」
遠回しに、セシルと同じようにロバートを引き離すことを提案してくるウォルシンガムに、ロバートが噛みつきかけるが、冷たく重々しい声に封じられる。
そうだ。私は無実だ。
だが、このタイミングで、こんな不自然な死を、はたして偶然の事故だと言い張れるのだろうか――?
「……本当に事故だったの?」
思わず零れた呟きに、ロバートがハッと目を瞠り私を振り返った。
「俺を疑うのですか……!?」
ロバートの顔が悲痛に歪められる。
そんなつもりはなかったのだが、今このタイミングで他殺や陰謀を疑うとすれば、それはロバートを疑っていると言ってるも同然だ。
彼以上に、エイミー・ダドリーを殺す動機がある人間はいないのだ――私以外には。
「そうね、ごめんなさい。少し疲れてるの」
ベッドに腰掛けたまま頭を抱え、私は大きく息をついた。
「あなたが、私を手に入れるために奥さんを殺すなんて、思い上がりもいいところよね」
「…………ッ」
息を飲み、悲壮に顔を歪めたロバートが急に立ち上がり、座る私の肩を掴んで訴えた。
「本当に……俺は何もしていません! 俺は、貴女の前でこれ以上嘘をつく気はない!」
「分かったわ。信じる。だからもうやめて」
激情に任せて揺さぶってくるロバートを、ウォルシンガムが後ろから羽交い締めにして、私から引き離した。
「だが、俺の心は、もうずっと昔から貴女のものだ! それも真実だ」
「やめて!」
この期に及んで私への思いを主張してくるロバートに、私は叫んだ。
「嫌いなの。そういうの。奥さんの立場はどうなるの? 亡くなった上に、そんな風に裏切りの言葉をかけられて……あなた達は、確かに愛だけで結婚したわけじゃないかもしれない。でも、今は……今くらいは」
彼の動揺は分かる。妻殺しの汚名を着せられるのが確実な状況で、冷静でいられるわけがない。
私だって、本当は無実だと叫び出したいくらいの、屈辱と怒りと混乱で一杯だ。
でもね、ロバート。私は……
自分の潔白を主張する以外にも、少しは妻を悼む姿を見せて欲しかった。
「……喪に服しなさい」
うなだれ、頭を抱えたまま、私はそうロバートに命じた。彼の顔は見なかった。
「屋敷での蟄居を命じます。許しが出るまで、宮廷には出仕しないように」
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