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第3章 婚約者選定編
第32話 英国と結婚しました


「キャット・アシュリーにございます。陛下」


 玉座の前に膝をつく、1組の男女。


 アシュリー夫妻のうち、年上の夫は女王を前にどこか委縮した様子を見せていたが、妻の方が堂々とした態度で顔を上げた。


 年は30代の中ば程か。王女の世話役だったというだけあって、所作事が洗練され、優美さと芯のしっかりした印象を備えた美人だった。


「ええ、キャット……ええと、お久しぶりね」

「はい。陛下と離れてからは、それはもう寂しい日々を過ごしておりました。今またこうやってお目にかかれたことを心から嬉しく思いますわ」


 すでにセシルから事情は聞いているはずだが、キャット・アシュリーは如才なく答えた。

 そのことに安堵し、私は2人を笑顔で歓迎した。


「キャット・アシュリー、あなたを女王寝室付き首席女官に任命します。夫、ジョン・アシュリーは宝物管理長に」


 寝室付き首席女官は、女王のプライベートに最も近い寝室付き侍女と私室付き侍女をとりまとめる役割だ。

 地位的にはグレート・レディーズに劣るが、実務の上では彼女が女官筆頭となる。


 謁見の間では無難に会話を交わした後、さっそく彼女の仕事場となる女王の寝室に招くと、キャットは花のように顔をほころばせ、私を抱きしめてきた。


「あぁ、エリザベス様! ご立派におなりになって……!」


 家族のような親密さで感激され、驚きつつも私は彼女の肩を抱き返した。


「ありがとう。キャット・アシュリー。でもね、私……」

「セシルから聞きました。エリザベス様が年の初めに病に倒れ、その後遺症で記憶を失ってしまわれたと……」


 今、部屋には私とキャットしかいないが、彼女は声を落として言った。


 キャット・アシュリーは、セシルと同年代だ。

 彼女は、王女エリザベスが父王の6人目の妃だったキャサリン・パーの屋敷に厄介になっていた時にも、世話役として仕えていた。

 その時、熱心で博学なプロテスタントだったキャサリン・パーに目をかけられて、屋敷内を出入りしていたセシルと面識を持ったらしい。


 キャサリン・パーが執筆した論文にも協力し、セシルが序文を書いて出版したというのだから、現国務大臣が、若い頃からいかに高貴な人物たちに才を買われていたかが分かる。

 まったくもって、主人としては鼻高々な臣下である。


「うん。そうなの……だから、あなたのことも何も覚えてないの。ごめんなさい」

「おかわいそうに」


 私の顔を覗き込んだキャットの顔が、同情に曇る。


「何も知らないまま、この宮廷に女王として座するなど、大層心細く不安であったことでしょう」

「そう……ね。でも、セシルも居てくれたし、秘密を知ってるみんなが支えてくれたから」

「ロバート卿とフランシス・ウォルシンガムでしたか。ロバート卿のことは存じ上げています。陛下が8歳の頃からのご学友でしたから。フランシス・ウォルシンガムのことは……以前セシルから、優秀な後輩がいる、と名前を聞いたことがあります」


 後輩? セシルとウォルシンガムって、そんな昔からの知り合いだったのか。


 てっきりエリザベスの即位後に知り合ったのかと思っていたので、意外だった。


「キャット・アシュリー、セシルからも聞いていると思うけど、くれぐれもこのことは……」

「もちろん、口外致しません。口にするくらいなら、馬にひかれて死んだ方がマシですわ」


 この時代の人たちの比喩表現は、なかなかに激しい。


「ああ、こんなことなら、エリザベス様のご厚意をお断りなどせず、宮廷にてお傍にお仕えしておけばよかった……半年もの間、孤独の中を耐え抜いた陛下に敬服します」


 言って、浮かんだ涙をぬぐうキャットに困惑してしまう。


 我が子のように育ててきた主人が、離れている間に死にかけて記憶を失ったと聞けば、そういう反応にもなるのかもしれない。


 実際は、記憶喪失で右も左も分からないというわけでもなく、前世の記憶と大雑把な歴史の知識はきっちり持ったまま目覚めたので、彼女が想像しているよりは生きやすかったように思う。


「私が寝室付き女官筆頭になったからには、陛下がより快適にお過ごしになれるよう、最大限の計らいをさせていただきます」

「よろしく、頼もしいわ、キャット・アシュリー」


 しっかりした女性のようだし、秘密を知った上で口外しないと誓ってくれているのは安心出来た。


 そういえば……なんでトマス・シーモアの陰謀の片棒担いじゃったのか……


 セシルには本人に聞けと言われたし、気にはなったが、ちょっとまだ聞きづらい内容だ。


 ……また今度の機会にしようかな、うん。







 私とロバート・ダドリーが仲違いをし、ロバートを遠ざけたという噂が宮廷内に出回ったことで、今が好機と見た結婚推進派――つまり、ほとんど議員全員――が動きを見せた。


 女王の私室に、ロバート・ダドリーを除く枢密院委員全員と、貴族院、庶民院議員の大多数が押し掛けてきたのだ。


「陛下、我々臣下一同、進退を賭して陛下にお願い申し上げます」


 口火を切ったのは、結婚推進派の筆頭クリントン海軍司令官だ。


「すぐに――近日中に候補者を選定し、必ず結婚をすると誓約して下さい」


 100人に近い男たちが、憤りもあらわに押し掛けてくる光景は、なかなかに迫力があった。


 枢密院委員は、進行中のフィリペ2世との婚約話がフェイクであることを知っている。

 その上で、フランスとスペインの戦争が終結した今、そのような時間稼ぎはもは無用、より実現性の高い結婚を考えろ、という脅しだ。


「このままでは国が滅びる。陛下のお約束が得られないのであれば、我々一同、辞職も辞さない覚悟です」


 この人数で辞職をほのめかすのは、例え口先だけでも無視できないプレッシャーになる。

 束になっての脅迫を前に、私は怯えることなく彼らを見返した。


 彼らが今日ここに来ることは、すでにウォルシンガムから聞いていた。

 そのウォルシンガムは、今この直訴集団の中には姿を見せていない。


 用意していたスピーチを胸に、私は着席したまま気のない返答をした。


「私はもう結婚しています」

「陛下!」

「一体、何を……!」


 議員たちが一斉に動揺する。


 最初に衝撃を与え、耳を奪うのは、1つの戦法だ。


 私は、左手を挙げて彼らを黙らせ、その薬指に嵌めた指輪をゆっくりと外し、皆の前に掲げて見せた。


「お忘れですか? この指輪……」


 その、黒いエナメル製の指輪は、即位の折に、エリザベスがメアリーから譲り受けた王者の証だ。


 もっとも、譲り受けたとは言っても、メアリーは最後までエリザベスの王位継承を快く思っていなかったので、死亡した後に彼女の指から引き抜かれ、使者の手で、即位の報告と共にエリザベスに渡されたらしいが。


「この指輪が示す通り、私はこの国と結婚したのです」


 そう言って、立ち上がった私を見る議員たちの目には、困惑の色があった。


「私は夫である国家を愛し、国家に尽くし、国家のために仕えています。これ以上に、夫にとって理想的な妻がいるでしょうか?」

「我々は、そのようなことを言ってるのではありません!」


 誰かがそう口を挟んだが、私は構わず続けた。 


「私には子もたくさんいます。この国に住まう全ての国民が、私の子供です。私は子である国民を愛し、国民を守り、国民のために生きています。これ以上に、子にとって理想的な母がいるでしょうか?」


 すでに耳を奪った私に、彼らがそれ以上何かを言ってくることはなかった。

 この女は何を言おうとしているのか――そんな好奇と戸惑いを含んだ視線を受け止め、私は手を差し出し、彼らの顔を見返した。


「私にはよき友人もたくさんいます。皆さん――ここにいる全ての臣下が、私の大切な友人です。あなた方は私を愛し、支え、決して裏切らないでしょう。私もまた、あなた方を愛し、あなた方を信頼し、あなた方と共にこの国の未来を憂い、泣き、笑います。これ以上に、理想的な友人関係があるでしょうか?」


 切実に訴えるつもりで、指輪を握りしめた手を祈りに合わせる。


「私はあなたたちの友であり、君主です。私が王の道理でなく、女の道理で動いているとご心配されているなら、どうぞご安心下さい。私の目は開いています。私は国家の不利となることはしないし、国家の為に全生涯を捧げる覚悟があります。どうか信じて下さい。信じて下されば、必ずや結果が証明してくれるでしょう」

「では、国家のためにご結婚なさる意思があると――?」


 希望の熱に浮かされたような問いかけに、私は含みを持った微笑を返した。


「――私の若さでは、言葉を尽くしても分かってもらえないかもしれませんが……私が今も自由の身でいることは、誠に正しいことだと思っています。天は正しい者を見ておられます。もし、私が私人である時、どなたかと結婚していれば、私は今この世にはいなかったでしょう。天が私を正しくこの玉座に導いたように、天はまた、この国の未来と私の未来を正しく導くはずです」

「陛下がご結婚しないのが、主のご意思だとでも言うのですか……」


 最前列にいたクリントン海軍司令官が、おののいたように呟くのを、私は静かに首を振って否定した。


「全て主のご意向に従います。何も絶対に結婚しないと言っているわけではありません。主が私をそちらに導くことがあるのならば、勿論従います。ですが、例え主のご意向が、私を独身のままこの世に置いておくことであったとしても、私は喜んでその生涯を受け入れるでしょう」


 ここで言う主は、私の中ではキリスト教の神ではない。

 私をここへ導いた『何か』がいるとすれば、それを私は彼らに伝わる言葉として、『主』であり、『神』であると置き換える。

 別に『運命』でも『時代の流れ』でも、呼び方は何でもいい。


 人には関知できない超越した『何か』が存在して、それが私をエリザベス女王に配役したのなら、私はその役を演じきって見せる。


 今一度強い眼差しで彼らを見返し、私はエリザベス女王のあの言葉を口にした。  


「いずれ私が天に召された時に、女王エリザベス、処女として生き、処女として死んだ――と墓碑に刻まれるならば、それが本望です」


 誰かが、悲痛な声で叫んだ。


「チューダー朝は……チューダー朝はどうなるのです!」

「ふさわしい君主は、ふさわしい時に主がお決めになられるでしょう。私の腹から生まれた子は、愚かで、分別に欠け、あなたがたと国家に害悪をなすかもしれません。主が、より君主たる資質を持つ者を見出すのならば、私はそれに従います。それが、国家と国民にとって最も良い判断だと思うからです」


 その言葉は、彼らにとっては衝撃でしかなかったらしい。動揺が波紋のように広がるのを見て、私は彼らが騒ぎ出す前に、ピシャリと言い切った。


「もう1度言います。私は、英国と結婚しました。これより最良の夫は、他にいません」







「なんということだ……女王が独身を貫くなど……!」

「落ち着け、陛下はまだ若い。今はそのようにおっしゃっているだけだ。いずれ変わるさ」

「そうだ、いずれ時は来る。女王は結婚されないと断言されたわけではない。今は耐えるのだ」

「女王陛下には、何か奥深いお考えがあるはず……」

「まさか、次の君主が己の子でなくても良いなどと仰るとは……理解に苦しむ」

「この国はどうなってしまうのか……!」


 少なからぬ動揺に打ちひしがれながら退室した議員達の嘆きが、扉の向こうから聞くともなしに聞こえてくる。


 だが、国の為に結婚しようとしない女王は悪である、という意気を折られた議員たちは、確かにトーンダウンしていた。


 これでいい。私が結婚しない正統性を、彼らに納得させることは不可能だ。

 だが、彼らは私が個人的なロバートへの想いから結婚しないのだと決めつけ、国家を損ねる行為だと憤慨して責めてきた。その誤解だけは、解かねばならない。


 私が感情ではなく意図を持って独身にこだわっているのだと気付かせ、彼らの態度を軟化させることが出来れば上出来だった。


 引き潮のように議員達が去った女王の私室に、セシルだけが残った。


「陛下……」


 あんなことを言って怒られるかと思ったが、セシルは悲しそうだった。


「本気ですか?」

「冗談であんなこと言わないわよ」


 女官達も外に閉め出したままなので、2人きりの部屋で、私はセシルに近づき眼鏡を外した。

 取り上げた眼鏡を折りたたみ、彼の胸飾りのチェーンに引っかける。 


 硝子を取り除いて見た瞳は憂いを帯びていたが、とても澄んでいて、彼が魂の清い人なのだと思い知らされる。


「ごめんね、いつも気苦労ばっかりかけて……」


 悲しげな表情のまま、私を見つめるセシルに、私は彼にしか――彼らにしか言えない本音を伝えた。


「セシル、私は歴史に従います。それが……エリザベスが通ったその道が、正しいと思うから」


 私の知るエリザベス1世は結婚しない。

 その意図を明確に汲み取ったセシルが、表情を変えた。


「貴女は、そのためにご自身の生涯を決めるとおっしゃるのですか」

「それがこの国の為です。私の知る歴史が、そう教えてくれているのに、それに従わないわけにはいきません」

「陛下、恐れながら、そのような理由であれば、やはり私は同意できません」


 意志を固めた眼差しで、セシルは左手を胸に当て、私を見据えた。


「陛下、重ねてお願い申し上げます。どうか、今一度結婚をお考えください」

「セシル……」


 強情なセシルに、こちらが困ってしまう。私としては、これ以上の答はなかったのだが。

 だが、セシルの訴えは切実だった。


「貴女には、貴女を支える伴侶が必要です」

「でも……結婚っていったって、政略結婚でしょう」


 国同士の利害のために結婚した相手が、精神的な支えになるとも思えなかった。


「それに、一体だれを選べばいいっていうのよ。外国の王室と結婚したら、今のポルトガルみたいなことになるんじゃないの」


 ポルトガルは今、スペインのものになるかどうかの瀬戸際に立たされている。


「フィリペ王の求婚を受け入れて、スペインの属国になる? ローマ教皇に迎合してカトリックに改宗する? 国内は……夫がカトリックでもプロテスタントでも、また宗教対立が激化するわよね」


 21世紀の歴史がそう決めている、と16世紀の人間が納得できないならば、現実的な話で説得する他ない。


「それとも、あなたと結婚すればいいの? セシル」


 頑ななセシルに苛立ち、私はつい不必要な一言を付け足した。

 言った後で目を逸らしてしまったのは、当然彼の目に灯るであろう、権力欲の火を見るのが嫌だったからだ。


「……例えば、私が陛下に添うにふさわしい出自の男であったなら、そう望んだかもしれません」


 セシルの回答は、否定とも肯定ともつかないものだった。


「そうすれば、影に、日向に、貴女を守ることが出来る……ですが、現実の私の身分では、決して望むべくもないことです。だからこそ、私は陛下の忠実な臣下として、この身に持ち得る限りの力で、生涯陛下をお支えするでしょう」

「…………」


 真摯な言葉が、心に染み通る。


 この人……やっぱり最高だ……


「でも……私は……」


 胸に響いた言葉に涙線が刺激されるのを、目を閉じて堪えた私の手を、セシルが恭しく取った。


「歴史がなんと叫んでいようとも、陛下が、ご自身が女性であることをお忘れになる必要はありません」


 セシルは、私が歴史に従うために結婚を諦めると言ったことを、悲観的に受け取ったらしい。


「陛下のことは、我々が全身全霊をかけてお守りします。ですが、私は、今泣きそうな貴女を、抱きしめて愛の言葉を囁くことは出来ないのです」


 言ってから、恥じ入るように目を伏せたセシルが、手を握る力を強めた。


「……つまり、私が申し上げたいのは、我々の手が届かない面で陛下をお守りできる然るべき方を、夫として……」


 結局、そこに帰結するのか。


「嫌よ」


 強制されたらやりたくなくなる。これ天の邪鬼の原理。


「陛下……」

「分かった。私は女だから、守られてあげる。でも、私のナイトは、秘密枢密院のみんなで十分」


 ナイト、と言ってからその少女趣味な響きに気恥ずかしくなったが、事実彼らは私の騎士だった。


「全方位、前も見えないくらい守りを固められるなんてご免。後ろや隣はあなたたちに任せるけど、自分の前くらい自分で守れるわ」


 セシルの手を握り返し、私も強い目で訴えた。


「私も女として闘います。私の周りを固めてくれるあなたたちが居るから出来るって信じてる」


 私がここまで強気に出れるのは、エリザベス1世という前例があってこそのものだ。


 私も結構常識にとらわれる方なので、何の知識もないままこの世界に放り込まれたら、いやいやながらも世の常識に従い、結婚していたかもしれない。


 けど、エリザベス1世は、そうしなくても女がこの世界を生き抜いていく道があることを教えてくれた。


 何事も、最初に道を切り開く人間が偉大なのだ。


 それに――


 おそらくエリザベスにとってもそうだったのだろうと、今なら確信できるが……結婚は、私にとって最後の切り札だ。


 もし本当に、歴史に逆らってでも結婚しなければならない時がくるならば、その時、私は国家のためにこのカードを切ると決めている。

 最後の切り札は、最後まで取っておくものだ。


 だが今は、自分の信じた道を進む。


 私がエリザベス1世になった理由は、なんとなくそこにあるような気がしていた。






第3章 完

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