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第3章 婚約者選定編
第30話 とりあえず殴らせろ


 翌朝、一番にやることを、私は決めていた。


「ロバートはどこ!?」


 私は女官たちをぶっちぎる勢いで、ハンプトン・コート宮殿内を歩き回り、目的の人物を探した。

 こういうのは、勢いがなければ出来ない。


 いた!


 目立つ背の高い後姿を発見し、私は歩を早めた。

 私の気配に気付き、ロバートが振り返る。


「ロバート!」

「陛下、一体どうされたので……」


 皆まで言わせず、私の右手が彼の頬で鳴った。


「ッ……陛下……?」

「ウォルシンガムを殴ったから、アンタも叩いとかなきゃ不公平だと思って」


 左頬を押さえ、痛みというよりは、驚きの表情を見せたロバートを睨みつける。


「私は臣下に対して全て平等よ。平等に愛し、平等に罰する」


 事態を把握できていない男の肩を叩き、すれ違いざま、付け足してやる。


「奥さんを大事になさいね」


 驚愕に見開かれた目を見ることなく、私はロバートの横を通り過ぎた。


「陛下、お待ちください!」


 その背に、ロバートの悲鳴が追いすがる。


「どうか、俺の話を……!」

「話すことなんてあるかしら、事実が知れたら十分だわ。私とあなたは何もなかったんだから」


 縋りつく相手を振り払い、私室に向かって歩を早める。

 ロバートが騒ぎ出したので、徐々に何事かと人目が集まってきた。


「惜しむらくは、私が一番近い臣下の事を十分に把握していなかったことです。このことは深く反省し、今後に生かします」

「待って下さい、俺は貴女を愛している!」


 突き放す私に、ロバートが声高に告白した。

 さすがに立ち止まり、私は振り返った。


「いい加減にして、大声で……」

「申し開きをする場を頂けないのであれば、この場で貴女への愛を叫び続けます」


 この男は……!


 なりふり構わぬ脅迫に、周囲に目をやると、すでにかなりの人数が集まっていた。

 好奇の視線が集中する中、必死で私を引き留めるロバートの目は本気だった。


「……分かったわ。話は私室で聞きます。ウォルシンガムとセシルを呼んで。あとは立ち入りを許しません」


 この状況から2人きりで話などすれば、後から何を言われるか分かったものではない。


 信用のある宰相とその右腕を立会人に呼んでおけば、まだ体裁は保てる。


 この件を傍観していた野郎2人を問答無用で巻き込んで、私はロバートたっての希望で申し開きを受けることにした。





 私室付きの侍女すら締め出し、4人だけになった女王の私室で、私は腕を組んで仁王立ちしたまま、跪くロバートを見下ろしていた。

 セシルとウォルシンガムは、少し離れたところでその様子を見守っている。


 扉前には聞き耳を立てている廷臣や侍女たちが山ほどいそうなので、出来るだけ部屋の奥に集まり、声を落として話し合う。


「確かに俺には妻がいます」


 頭を垂れ、目を伏せたロバートが、静かに告白する。 


「ですが、政略結婚です。落ちぶれた俺の一族が再び宮廷に戻るには、彼女の家の後押しが必要だった。俺が幼少の頃からお慕い続けていたのは、エリザベス様ただ1人で……」

「そう、ずっと片思いをしていた幼馴染が死んでしまって残念ね」

「陛下!」


 突き放した私に、ロバートが縋るように顔を上げる。情けない顔を見返し、私は褒めるように言った。


「でも凄いじゃない。その奥さんのおかげで宮廷に戻ってきて、今や宮廷第3位の守馬頭(しゅめのかみ)にまで出世したんだから」


 私は女だから、女性に同情する。

 政略結婚だからと妻を顧みず、好きだと言ってくる男に、私は魅力を感じない。


「――で、いつかは離婚して私と結婚する?」

「…………」


 一転して冷たく声を落とした私に、見上げるロバートの顔が絶望に歪んだ。 


「『私』が、あなたが結婚していることを知らないのを分かっていて、黙ったまま誘惑して、落としてからの事後報告?」


『また』このパターンか……!


 男はどうしてこうも、後出しじゃんけんが好きなのだろう!


「エリザベス様はご存じでした。ですが陛下、貴女の気性では、このことを知れば決して俺に心を開いてくれることはないと……」

「当たり前です」


 既婚者だと知っていれば、当然、彼の行動ももっと早い段階で戒めていたし、距離の取り方も変わっていた。


 女王が既婚者の愛人など、冗談ではない。


「ロバート・ダドリー。あなたを臣下として傍に置いておくことはやぶさかではありません。ですが、もし私と結婚して王位につこうなどという野心があるのなら、即刻捨てなさい」


 決めた。もう言ってやる!


「はっきり言っておきましょう。この国には女の主人が1人、男の主人はいりません」





 私の叱責に、がっくりとうなだれたロバートを下がらせた後、セシルが聞いてきた。


「陛下、ロバート卿の処遇は」

「放っておきなさい」


 セシルの冷静な声に、私も仕事モードで答える。


「特に、事件や不祥事を起こしたわけではないのですから。痴話喧嘩の末、あの男が私の寵を失ったなどと噂されるのも癪です」


 降格や特権の剥奪などは考えていない。守馬頭として、私の身辺警護もこれまで通りやってもらうことになるだろう。


 ただ、踏み込む距離が変わるだけだ。


「セシル、分かれば教えて欲しいんだけど」

「お答えできることであれば」

「エリザベスは、どういうつもりでロバートと接していたのかしら」


 それは、答えられない問いだったかもしれない。迷うような沈黙の後、セシルはためらいがちに口を開いた。


「正直、私にも、エリザベス様のお考えは分かりかねます。ロバート卿とは旧知の仲で、彼の結婚式にも参加していました。エリザベス様がどこまでロバート卿に恋心を抱いていたのか……あるいは恋人ごっこを楽しめる友人、そして寵臣として溺愛していたのか、全てはエリザベス様のお心の中のことです。ただ、あのお方は我々に対しても、分かりやすくロバート卿への好意を隠そうとはしませんでした」

「そう……」


 彼の言葉から、エリザベスの心中を想像する。


 分からない……分からないけど……


 エリザベス1世は、結婚のリスクを嫌って、生涯独身の身に拘った。

 もしこの頃から、すでに結婚はしないと心に決めていたのだとしたら――エリザベスは、ロバートに身も心も捕らわれることを恐れたのかもしれない。


 相手の結婚を認めた上で、公に寵愛するというのは、あくまで臣下として、友人としての愛情だという意思表示ではないか。本気の恋なら、隠したり、嫉妬したりするはずだ。


 一線を引いたその上で、恋をしたい気持ちをママゴトのような関係で補っていたとしたら……それはなんとなく、分からないではない。


 この辺の女心は複雑すぎて、絶対にセシル達には理解出来ないだろう。


「陛下、教えて頂けるようであれば、お聞きしたいのですが」

「いいわよ、答えられることなら」


 先ほどの質疑応答をそっくり逆転させて答える。


「陛下ご自身は、ロバート卿のことは……」


 恐る恐る聞く口調には、踏み込んでいい領域かどうかの迷いがあった。


 だが実際、その質問は、私自身分からなくなっていたものを結論づけるには、ちょうど良かったかもしれない。


「そうね! ちょっと惚れかけてたかも。でも、もう大丈夫」


 わざとさばけた口調で言って、私はセシルとウォルシンガムを振り返り笑顔を見せた。


「もう、惑わされないから」


 この男社会で、女が1人で立ち回れるわけはない。

 私はこれからも、彼らを信頼し続けるだろう。


 臣下としての彼らの優秀さも忠実さも、疑うべきところは何もない。


 だが男としては……もう惑わされない。


「それと、今回は悪かったわね、ウォルシンガム」

「は……?」


 先ほどから、セシルの傍らで黙って様子を見守っていたウォルシンガムに謝ると、彼は怪訝な顔で見返してきた。


「正直、もっと早く言って欲しかったけど、言ってくれて良かった。まあ、そっちが挑発してきたのは確かだから、殴ったことは謝らないけど、なじったことは謝る。あれは八つ当たり」

「陛下に謝罪されるようなことは何もありません。私を破産させないで下さい」


 むっつりと答えるウォルシンガムは、人がせっかく謝ってやったというのに不機嫌そうだ。


「分かったわよ。じゃあ貢がなくていいから、ちょっと散歩に付き合いなさいよ」


 皮肉に噛みついてやる気分でもなかったので、私は適当に聞き流して、ウォルシンガムを外に借り出した。


 広い庭園のそこここに近衛隊の姿が見える中を、私はウォルシンガムと2人、目的もなく歩いていた。

 周辺警備を増員させる代わりに、付添いの女性たちは外した。


 こと結婚問題に関しては、ウォルシンガムはセシルのように口うるさくは言ってこない。

 真意の程は分からないが、今は分からない方が、気持ち的に救われる。


「……あ。そうだ、忘れてた」


 前に聞こうと思って、そのまますっかり忘れていたことを思い出した。


「何ですか」

「ウォルシンガム、あなた結婚はしてるの?」


 問うと、相手は意外そうな顔で見下ろしてきた。


「していませんが。私が既婚者に見えますか?」

「いや、見えないけど……それ言ったら、ロバートも見えないし」

「…………」

「あ、同類にしたわけじゃないから、機嫌直して」


 あからさまにむっつりと黙り込んだ男にフォローを入れる。


「するつもりは?」

「特にありません」

「へぇ、何で?」


 この時代の人間にしては少数派な気がして、興味本位で聞くと、端的な答えが返ってきた。


「必要性を感じないので」

「そう、私も全く同じ! 必要性を感じないの」


 ものすごく共感できてしまって、思わず乗っかると、ウォルシンガムが苦い顔をした。


「貴女は、必要に迫られていることを自覚して頂きたいのですが」

「いや、まぁ女王としてはね。……そうじゃなくて、天童恵梨として生きていた頃。あの時も、年が年だったから色々プレッシャーもかけられたんだけど、考えれば考えるほど必要性を感じなくて」


 自分で働いて、自分で稼いで、社会的評価も得ていれば、子供が欲しいわけじゃない限り、女性が結婚するメリットをあまり感じられなかった。


「そりゃ、結婚したいほど好きな人がいれば、したらいいと思うけど、そうじゃないなら、無理に結婚相手を探すのも面倒臭いっていうか……それこそ、後継ぎを生まなきゃいけないとか、国や家の存続のためとか、そういう社会的な必要性に迫られなければ、別に結婚なんてしなくてもいいんじゃないの? って思っちゃうのよね~。まあ、子供が欲しいなら別だけど」

「……それが貴女の言う、女性が自立できる時代の理屈だとすれば理解は出来ますが、我々の知る常識を覆す意見です」


 だとすると、やはりエリザベス1世は、この時代の女性の常識を覆した、破天荒な人物だったのだろう。


「そりゃそうでしょうね。私の生きた時代でも少数派だわ。少子化に拍車をかける問題児ね」


 結婚して制約が増える窮屈さとか、女性側にかかる負担とか、共同生活のストレスとか、そういうデメリットにばかり目がいってしまう私は、典型的な『結婚できない女』なのだろう。


「でも、必要性の有無でしか結婚を考えられない女が、幸せな結婚をするのは無理じゃないかしら」

「愛のない結婚は、男女ともに不幸なものです」


 さばさばとした感想は、実に共感できたが、私にさっさと結婚して欲しい臣下の立場からすると、矛盾があるような気がした。


「私に不幸になれって?」

「……愛せる伴侶を見つければよいでしょう。幸い、貴女にはいくらでも候補者がいる」


 そう出来たら理想だが、一番気の合う男友達すら、彼氏に出来なかった私には、決まった相手の中から選べと言われてもかなりハードルが高い。


「難しい問題ね」


 それは今回のロバートの件にも繋がることで、私はぼやいた。

 ロバートの行動は許し難いが、彼の置かれた状況にも、同情の余地はある。 


「政略結婚で、生涯愛を誓えだなんて、理不尽な話だと思わない?」

「誓いは守らねばいけないと?」

「そりゃ、そうでしょう。本当は。でも、守れないからみんな破るんでしょう。だったら、そんな誓いなんて初めから立てなければいいのに」


 双方の合意があった上での離婚ならまだしも、不倫や浮気という話を聞く度にぞっとする。どこかで、誰かの気持ちが裏切られているのだ。 


「あなたは現実主義者だが、結婚に関しては理想主義でいらっしゃるらしい」

「……そうかも」


 それは認める。潔癖というのとはまた違う。私は、建前や常識というものに縛られるタイプだ。


「建前が立派すぎるのよ。最初のハードルが高いでしょう。でも、1度誓いを立てたからには、守らないといけないと思うし」


 だが、守る気のない誓いを簡単に立てる者が多いのも事実だ。

 それが結婚の現実だというのなら、はじめから誓いなど立てなければいいのにと思う。


 結局、約束を守る誠実な人間が馬鹿を見るのだ。


「神様も随分難度の高い要求してくるわよね」


 息をつき、私は隣を並び歩くウォルシンガムを見上げた。


「永遠の愛なんて存在すると思う?」

「さぁ……私自身は、経験したことはありませんが……永遠の忠誠が存在するなら、永遠の愛が存在しても良いような気はします」

「なるほどね」


 理屈としてはそうなのだろう。だが忠誠心という概念が理解しがたい私には、永遠の忠誠というものが存在するのか分からない。


 はたして、この男が私を裏切る日が来るのだろうか。

 ないような気もするが、それでも、永遠と言われたら難しいような気がする。


「なら、あなたが証明して見せて、ウォルシンガム――その、永遠の忠誠とやらを」

「……御意」


 そんな好奇心からの言葉に答えた彼の覚悟を――その時、私はまだ、ちゃんと理解していなかった。





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