「陛下、そのようなところで何をしていらっしゃるのです」
当たり前だが、入室してきたセシルは、私がソファの下で踞っているのを見て驚いた。
「もしや、ご体調が……?」
「ううんっ。そうじゃないの! 全然大丈夫!」
慌てて取り繕い、私は立ち上がった。顔が真っ赤になっていると思うが、気にする余裕もない。
同時に、傍らに膝をついていたロバートもさっと立ち上がり、私から離れる。
「ロバート卿、まさか陛下のご負担になるようなことはされていないでしょうね」
「まさか。神に誓ってないと言わせてもらおう」
どこか棘のある口調で言ったセシルが、ロバートに視線を移す。
その時、私の背後のソファに山と積まれた薔薇も目に入ったはずだが、セシルは何も言わなかった。
「本日は、陛下は誰も寝室にお呼びになっていないと聞いていますが、ロバート卿、なぜ貴方がこちらに?」
「ならば俺も、貴殿に同じことを問いたいところだ。セシル殿」
「私は、急ぎ陛下にご報告したいことがあり、伺ったまでです。決して私用のみで突然陛下の寝室に立ち入るような無頼な真似は致しません」
ピリピリした空気を漂わせるセシルの物言いに、ロバートは苦笑して肩をすくめた。
「国務大臣殿はご機嫌斜めなようだ。陛下と国政に関わる重大な秘密会議があるというのなら、俺も席を外そう」
「そうしていただけると助かります」
あれ? セシルってこんなにロバートに冷たかったっけ……?
「陛下。それでは、今夜のところは失礼いたします」
違和感を感じたが、如才なく腕を取り手の甲に口づけたロバートに、別のことを思い出した。
そうだ! まだお礼言ってない!
「ロバート!」
出て行こうとするロバートの背中を慌てて引き止める。
「昨日は、守ってくれてありがとう……感謝してる」
あの状況で身を挺してかばってくれたのだから、お礼は言っとかなければならない。
……例えどさくさにまぎれてキスされたとしても!
何か気取った返しでもしてくるのかと思ったが、振り返った彼の瞳は、予想外の言葉を聞いたとでもいうように見開かれ、ついで、それは無邪気な子どものような笑みに変化した。
笑顔を見せただけであっさりと行ってしまったロバートに拍子抜けしていると、その背中を見送ったセシルが、天井を仰いで呟いた。
「……罪深い方ですね」
「へっ?」
「いえ……それよりも、何もされませんでしたか、陛下」
「……?」
セシルの質問の意図が掴めず首をかしげるが、やがて思い至る。
もしかして、ロバートのこと、心配して見に来てくれた……?
「うん、大丈夫。特に何も……プレゼントもらったくらいで」
……と言っていいのだろうか。
い、いいよね。本当に何もなかったし。
私の回答に、彼は胸元に光るペンダントに目をやったが、いつもそつなく装飾品や服装を褒めてくれるセシルが、今回は何もコメントをしなかった。
「ならば良いのですが」
「セシル?」
「昨夜から、ロバート卿が随分と浮き足立っているものですから」
浮き足立っていたのか……朝の会議室で見た時は、全然普通に見えたけど……さすがセシル、見事な観察眼である。
「昨日、ロバート卿と何かありましたか?」
「何も……何もない」
あの襲撃のどさくさでキスされたとか、絶対言えないし。
首を横に振ると、セシルがじっと見つめてくる。
眼鏡越しに、全て見透かされているようで緊張し、私は強引に話題を変えた。
「それよりどうしたの、セシル。こんな時間に」
「そのことですが――昨夜の事件について、真相が分かりましたので、早めにお伝えしておこうかと」
ロバートに仕事の話があると言ったこと自体は嘘ではなかったようで、セシルが切り出した内容に、私はソファに座り直した。
「昨夜の暗殺未遂事件の首謀者ですが……」
セシルも向かいに座り、真剣な面持ちで語り出す。
「犯人らの自白は偽装でした。首謀者である仕立屋の家宅捜査を行ったところ、大陸で発行され禁制とされた反カトリックの小冊子、女王エリザベスと国教会制を批判するパンフレットが多数見つかりました……つまり、カトリック教徒に罪をなすりつけようとした
「
「彼らは、中道政策をとり、プロテスタントを掲げながらカトリック教徒の信仰をも保護しようとする国教会の方針を手ぬるいと感じています」
「そう……女王って嫌われ者ね……」
膝の上で手を握り、うなだれる。少なからず胸を刺す衝撃に、私は静かに傷ついていた。
何をやっても、誰かから非難を受ける。
姑息な手段を使ってまで、私を本気で消そうとしている人間がいる。
命を狙われたこと以上に、命を狙われるほど憎まれていることにやりきれなさを感じる。
気付いていなかっただけかもしれないけど、あまり露骨に人から嫌われたり、悪意をぶつけられたことがなかったので、悪意を通り越して殺意を向けられるというのは、精神的にかなりきた。
覚悟あったようで、なかったかも……
それに、表面上は友好的を装って近づいてくる人間でも、腹の底では何考えてるか分からなくて、いつ誰に裏切られるかも、掌を返されるかも分からない。
もしかしたら、セシルやロバートや、ウォルシンガムも……
そんな思いが過ぎり、慌てて掻き消す。彼らだけは、疑いたくなかった。
「陛下……」
「そんな顔しないで、セシル。大丈夫よ、ちゃんと味方もいるもの」
痛ましげに眉を顰めたセシルに、私は空元気で答えた。
これは、受け入れるしかない傷だ。宗教政策に関して、過激な思想を受け入れる気は決してない。どれほど憎まれようとも、今の道を信じて、前に進むしかない。
息を吐き、私は精神的な疲れから、ソファの背にもたれかかった。
薔薇の花が肩に触れ、その存在を思い出した私は、ソファに積み上がった花の上に、そっと身体を横たえた。
濃いローズの芳香に身を包まれ、少し気が紛れる。
……あ、これ、アロマ的なヒーリング効果とかありそう。
バラ風呂とかいいかも……せっかくいっぱいあるし、明日試してみよう。
そんなことを思いつつ、癒しを求めて、私は薔薇の花束の上で大きく息を吸い込んだ。
「……これでも、私なりに頑張ってるつもりなんだけど……」
「ちゃんと見てますよ」
ぽろりと零した呟きに、はっきりとセシルが答えた。
見ると、穏やかな宰相は、やはりいつもと同じように包み込むような優しさで微笑みかけた。
「天童恵梨さん、貴女の頑張りは、私が一番近くで、ずっと見ています」
「……知ってる」
セシルはいつも側にいてくれる、頼もしい参謀だ。
「このような誓いを今更立てるまでもないのですが、私は陛下のお側にいます。例え貴女を守る最後のひとりになろうとも」
そう言ってから、イタズラっぽい笑みで付け足した。
「……勿論、陛下にとって私が必要な人材でなくなれば、その限りではありませんが」
「そんなこと、絶対にない」
聞き捨てならない台詞に、私は身を起こして否定した。
「セシルは、どんな誘惑にも屈しないし、イングランドの為に忠誠を尽くしてくれる。私が間違ってたら、間違ってるってちゃんと言ってくれる。そんなの、ちゃんと知ってるから」
急に身を乗り出した私の剣幕に驚いたのか、セシルが口を開けてこちらを見返している。
「そういう人材は貴重なんでしょう? セシル。絶対に手放さないから、覚悟しといて」
「……全く参りますね、貴女は。たまにエリザベス様と同じことをおっしゃる」
驚きの表情を見せていたセシルは、苦笑してそんなことを言った。
「え、そうなの……?」
今度はこちらが驚いて、拍子抜けする。
なんで同じことを言ってしまったんだろう。最初の1人目じゃないのが非常に残念だ。
でもそれは、セシルが誰に対してもぶれない芯のしっかりした人間だから、きっと私もエリザベスも、同じように評価したのだろう。
「……陛下、実はもう1つ、お聞きしたいことがあったのですが」
「何?」
セシルはおもむろに話を切り出した。
「昨夜の水上パーティで演奏されていた曲ですが……あの曲は、本来はお1人で演奏するものではないのでは?」
その鋭い指摘に驚いていると、セシルは目を伏せて補足した。
「いえ、何か、パートナーを待つような音色であったものですから」
「…………」
「どこか……伴侶を失ったような響きが物悲しかったので、完全な音色が聴きたいように思いまして」
奥さんを失ったセシルが言うと重みがある。
「うん、本当はあれ、二重協奏曲なの。フルートとハープの」
「ハープ? 珍しい組み合わせですね」
「そうでしょう? 今から200年後の天才が作曲したんだけど、当時でも異色の作品だったのよ」
セシルの理解が嬉しくて、私はついつい言を重ねた。
「でも、一番好き。実は、フルートを始めたきっかけがこの曲だったの。こう言っちゃなんだけど、見た目がね……すっごく綺麗で、憧れちゃって」
フルートを始めたきっかけは高尚なものでもなんでもなく、あの曲を演奏する奏者たちの姿があまりにも優雅で、優美で、憧れてしまったからだ。
「もちろん、曲も最高なのよ。何ていうか、2つの楽器がそれぞれ自立しているんだけど……フルートとハープが恋人同士で、洒落た会話をしてるみたいな……だから、やっぱり1人で演奏すると、かけた言葉が返ってこないみたいで、ちょっとさびしいけど」
「ハープパートの譜面は覚えていらっしゃいますか?」
「え……うん、大体は。私は弾けないけど」
「では、私に教えて下さいませんか」
「セシル、ハープ弾けるの?!」
仰天する。セシルは小首をかしげ、遠慮がちにはにかんだ。
「はい、実は。人に聞かせるほどのものではありませんが……」
「すごく聞きたい! っていうか一緒に演奏したい!」
疲れも吹っ飛んで身を乗り出す。
セシルと共演! 超楽しそう!
すでに妄想の方が先走って、わくわくしていた。
「セシル最高ー!」
「わっ、陛下!? せめてテーブルは回ってきてくださいっ」
勢い余って、ローテーブルを踏み越えて抱きつくと、冷静沈着なセシルが珍しく慌てた。
やっぱり、セシルといると落ち着く。
ロバートの時みたいな息苦しさがなくて、呼吸がしやすい。
こういう関係の方が私は好きだ。
本当は、苦しいのも、ドキドキさせられるのも、好きじゃないのだ。
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