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第3章 婚約者選定編
第23話 処女王の唇


 5月1日。

 春の訪れを祝う五月祭では、サンザジの白い花がこれでもかというほどに祭場を飾り、子供達が踊るメイポール・ダンスや、男性だけで踊るモリス・ダンスなど、祭りの日でなければ見ることの出来ない催しや、馬上槍試合、仮面劇などが催された。


 夜には、テムズ川に小船を浮かせ、花火を楽しむ水上パーティが始まった。


 広い川面に、貴族や高官、聖職者たちが乗る何隻ものボートが浮かんでいる。それぞれの舟を照らす柔らかな灯籠の光が水面に映り、幻想的な雰囲気を作り出していた。

 澄んだ空には星と月が輝き、野外で演奏者たちが奏でる、ゆったりとしたハープの調べが耳に届く。


「すごい……綺麗……」


 21世紀ではとてもお目にかかれそうにもない、ロマンティックな光景にうっとりとする。


「あまり身を乗り出されると危ないですよ、陛下」

「でも、奥にいたら天蓋が邪魔で外が見えないわ」


 私が舟縁に寄りかかり、夜風に吹かれていると、ロバートが肩を抱いてきた。


 女王のボートは船尾に豪奢な天蓋がついており、三方をダマスク織りのカーテンで囲まれている。


 女王のくつろぐ姿が周囲に見えないようにとの配慮だが、こちらからも外が見えないのが難点だ。


 クッションの敷き詰められた船尾を離れ、私は船の腹辺りで直接座り込んで、外の景色を眺めていた。


 船首には、オールを漕ぐ水夫が2名。それほど人数が乗れる船ではないので、あとは私の護衛兼話し相手として、主馬頭であるロバートと私の4人の乗員だ。


 しばらくロバートをそばに置いたまま、風に乗って届くハーブの演奏に耳を澄ませていたのだが、


「フルートが吹きたい」


 唐突に思い立ち、私はロバートを通り過ぎて船尾の方に戻った。

 ごそごそと横長の木箱を取り出し、蓋を開ける。

 中には、木製の細長い管楽器が収まっていた。


 淑女は楽器も演奏できた方がいいということで、エリザベスが上手だったというリュードも習うようになったのだが、私はギターを購入して3日で飽きたという経歴の持ち主で、弦楽器にはあまり魅力を感じないらしい。聴くのは好きなんだけど。


 やっぱり演奏するなら、フルートが好きだ。


 この時代のフルートは全て木製で、今ほど構造がしっかりしたものではないので、音が安定していなかった。

 そこで、私は楽器職人に頼み、私専用に現代のフルートに近い構造のものを作ってもらったのだ。


 演劇を始めてからは稽古が忙しく、フルートの教室に通うのは止めてしまったのだが、今でもたまに、無性に吹きたくなる時があった。


 きっと、こんな澄んだ夜の川面には、フルートの柔らかく広がる音色がよく似合う。


 そう思って、マイフルートを持ってきたのだ。


 元の位置に戻った私は、横笛を構え歌口に唇をつけた。


 ロバートも心得たように少し離れた舟縁に身を預け、リラックスして聴く体勢を作っている。


 さて、何を吹こうか……


 迷ったのは一瞬で、すぐに心に浮かんだのは、私の一番好きな曲――モーツァルトの『フルートとハープのための協奏曲』だ。


 特徴的なフルートのソロで始まるその一節を吹くと、空気の波紋が見えるように音が広がり、一瞬、辺りが静まり返った気がした。


 曲目の通り、フルートとハープの組み合わせで奏でる二重協奏曲なのだが、この時代、モーツァルトはまだ生まれていない。もちろん、この曲もまだ生まれていない。


 フルートとハープという、見た目も美しいこの2つの楽器を組み合わせたモーツァルトは天才だと思う。……まぁ、私が言うまでもなく、モーツァルトは天才なのだが。


 音色を受けてくれる相手がいないのは寂しいが、耳の奥でハープの音を聞きながら、ソロで奏でる。


 今度、誰かハープ奏者を捕まえて、弾けるようになってもらおうか……そんなことも思いつつ、ひとり静かに演奏していると、引き寄せられるようにいくつもの小舟が近づいてきた。


 澄んだ音色が水面を走る。独奏であるため、本来の間奏部分をアレンジしながら奏でていくと、伸びやかな音色が鮮やかな色を帯びてテムズ川を踊った。


 音楽であれ、演劇であれ、私は、『音の色が見える』と感じる時がある。

 その瞬間が、一番神経が研ぎ澄まされ、感性が広がり、思う通りの表現が出来ているような気がするのだ。


 それは別に、私だけの感覚ではないのかもしれない。


 表現には、実際の目には見えないエネルギーが必ずある。それを五感が関知したとき、色や形、振動――人によって異なる姿で、脳が認識する。


 晴れた山の上で深呼吸するような心地よさが、肺に広がっていく。


 ふぅ、気持ちいい!


 最終楽章まで吹き終わり、心が洗われるような爽快感に、私が息をつくと、周囲から拍手が湧き起こった。


 いつの間にやら、すっかり舟の周りを、祭りの参加者のボートで囲まれていた。


 自己満足で吹いただけだが、どうやら皆にもお気に召したらしい。


 水音を立てながら、ちょうど川の流れに任せて一隻の舟が近付いてくる。その船縁から身を乗り出すようにして、イタリアの駐英大使が賛辞を送ってきた。


「素晴らしい。女王陛下は演劇にも音楽にも造詣が深いと聞いておりましたが、まさかこれ程のものとは。こんなにも澄んだ、豊かな横笛の音色は聴いたことがありません。まるでセイレーンの歌声のようだ」

「ならば、どうか惑わぬようお気を付けになって下さい」


 そのイタリア訛りの英語に、神話になぞらえて洒落を返すと、大使が笑った。


 私は立ち上がり、くるりと回って周囲の小舟を一瞥すると、演奏者のようにお辞儀をして見せた。


 一層、拍手が大きくなる。


 なんか、こう言うのは楽しいな!


 こういったイベントごとを自分なりに楽しめるようになってきたのは、私もここでの生活に慣れてきたということだろうか。


 すっかり満足して座り直すと、後ろからロバートが腰を引き寄せて囁いてきた。


「また虜にされました」

「こら、ロバート。離しなさい」


 人目を考えろ! 

 いや、人目がなければやっていいってもんでもないけど!


 私の独演が終わり、周囲のボートは徐々に流れに任せて、広い河に散っていった。


 ちょうどそのタイミングで、横に並んだ先ほどのイタリア駐英大使に、ロバートが馴れ馴れしく声をかけた。


「アルヴァーロ! 君は、確か司教でもあったな!」

「――確かに、私は教皇陛下よりアクィラ司教の任を賜っておりますが」


 それまで機嫌良く私の演奏を褒め讃えていた大使が、急に嫌そうな顔でロバートの問いに答える。だが、ロバートは気にした様子もなく上機嫌だ。


「ならば、今この素晴らしい夜に、俺と陛下を結婚させてくれないか!」


 こらこらこら。

 何を言い出すかなこの子は!


「ロバート、イタリア大使相手になんて冗談を言ってるのよ!」

「それは素晴らしいご提案です。陛下がサー・ウィリアム・セシルを始め、プロテスタントの異端者共を全て追い払って下さったら、喜んで努めを果たしましょう」


 私は小声でロバートをたしなめたが、アルヴァーロからは痛烈な皮肉が返ってきた。


 言うまでもなく、イタリア大使はカトリックの司教だ。宴の席での軽口とはいえ、プロテスタントの女王の結婚式を挙げてくれなんて言ったら、皮肉の一つも返されるだろう。


 大使を乗せた小舟がそのまま通り過ぎていったのをいいことに、私はロバートの胸倉を掴んで天蓋のついた船尾に押し込んだ。


 三方をカーテンに囲まれているため、正面から覗かなければ中の様子は見えない。


「やり過ぎよロバート。誤解されるわ」

「誤解?」


 ロバートの調子に乗った冗談をたしなめると、鳶色の瞳が、心外という風に見開かれた。

 胸倉を掴んでいた手を両手で握り返され、こちらを覗き込んでくる。


「嘘から誠が出る魔法があるなら、俺はそれに頼ってもいい」

「ロバート……」


 反省する気ゼロの男に、溜息がこぼれる。

 このなりふりの構わなさは、どう評価すればいいのか。


 などと思っていると、いつの間にかロバートの顔がすぐ目の前にまで迫っていた。


「ちょっとちょっとロバート!?」


 危うく唇が触れそうな距離に、慌てて相手の顔を押し返す。


 処女王の唇がそうカンタンに奪えると思うな!?


 ちょっと最近、甘い顔をし過ぎたか。祭りの夜のムードも手伝ってか、いつも以上に積極的なロバートに動揺する。


 だが、私に押し返されたロバートが、急に険しい顔を見せた。


「陛下!」

「きゃっ……」


 かと思うと、有無を言わせぬ力でクッションの敷きつめられた船尾に押し倒される。


「ロバート!? いい加減に……」

「ぎゃあああ!」


 抗議の声を上げる前に、船首でオールを漕いでいた水夫の1人が悲鳴を上げた。

 間を置かず派手な水音が聞こえ、悲鳴が途絶える。


 何……!?


「陛下、矢が……っぐぁっ!」


 続いてもう1人の水夫がなにやら警告を発しようするが、悲鳴と共に倒れ込む音がして、船底が大きく揺れた。 


「な、なに!?」

「動かないで!」


 鋭い声でロバートに制され、無理やりクッションの間に沈められる。


 その、私の身体のすぐ左に、ドスッと太く錆びた矢が突き刺さった。引き裂かれたクッションから、羽毛が飛び散る。


「ひっ……」


 目の前に突き刺さった獰猛な凶器に、私は喉が引き攣れるような悲鳴を上げた。


 羽毛が舞う天蓋の中で硬直していると、騒動に気付いたらしい周囲の叫び声が聞こえた。


「奇襲だ! 誰かが女王陛下の舟を狙った!」

「1人落ちたぞ!」

「それよりも射手を捕らえろ!」


 混乱した喧噪が状況を伝えてくる。すっぽりと身体を覆うように被さってくるロバートに、私は懇願した。


「離して、ロバート。これじゃあなたが危ない」

「あまり愚かなことをおっしゃらないでください」


 珍しく厳しい口調で咎めてくるロバートが、私の上から動くことはなかった。


「貴女の盾になる権利が奪われるくらいなら、死んだ方がマシだ」


 死なれた私の方はどうなるのよ!


 そう思うが、怖くて身体が動かない。


 その間にも、さっきとは逆隣に太い矢が突き刺さり、私は悲鳴を上げた。


「落ち着いて、陛下。必ずお守りします」


 この状況で守るというのは、身代わりになるということだ。


 口元が強ばり、何も言葉が出なくなる。緊張で、心臓が早鐘のように打っていた。


 お願い、もう何も来ないで!


 そう祈る間にも、私を守るロバートの背に矢が突き立つ妄想に襲われ、涙が出た。


 身を挺して守られるって、こんなに恐いことなのか。


 自分でも分かるほどに震えていると、目元にロバートの唇が寄せられ、目尻に浮かんだ涙を吸い上げてくる。


「やだ、ロバート死なないで……」


 うわごとのように呟いた私に、顎に触れた親指が、下唇をなぞった。


「……男の決意を鈍らせるこの愚かな唇を、塞いでしまいましょうか」


 言葉通り、落ちてきた唇に口をふさがれて、何も言えなくなる。


 安心させるように頬をくすぐる指先の感触に集中すると、少しだけ冷静な思考が取り戻された。


「捕まえたぞ! この男だ!」


 唐突に外から飛び込んできた声に、私は一気に我に返り、覆いかぶさるロバートを引きはがして船首に飛び出した。


「陛下、危険です。まだ出てはいけません!」

「舟から落ちた人を早く救出して!」


 やや離れたところから、ウォルシンガムの声が飛んでくる。だが、私は取り合わず、近くの舟に指示を出した。


 船上でうずくまる水夫を抱き起こし、怪我の具合を確認する。

 自分で抜いたのだろう、男の傍に血のついた矢が2本落ちていた。腕と脇腹を射抜かれたらしい。


「大丈夫!?」

「女王陛下、お怪我は……」

「ないわよ! それよりもあなたが重傷でしょう!」


 私を守るために天蓋の前に飛び出して、矢を受けたのは分かっている。


 巻いていたスカーフをむしり取り、私は男の腕にきつく巻いて止血した。


 矢を受けてから時間が経っている。皆、水夫1人の負傷よりも、女王を狙った人間の確保に躍起になっていたらしく、彼は放り出されたままだった。

 この時代では、膿んだり、破傷風などにかかって悪化すれば、死に繋がる危険性もある。


「あなた、家族は」

「妹が1人……病気で……どうか、あの子だけは――」

「心配しないで、私が面倒見るから! だから、弱気になっちゃダメよ!」


 弱々しく呻く男の額に手をあて、励ます。よく見ると、まだ年若い青年だった。


 すぐに医者を呼ぶように指示を出し、相手を元気づける。川に落ちたもう1人も心配だった。


 その事件で水上パーティは中止になり、私は近衛隊の厳戒態勢の下、城へと戻った。





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