「市場の9割の銀貨が悪貨……!?」
枢密院会議でもたらされたその報告に、私は思わず立ち上がりかけた。
浮きかけた腰を椅子に落とし、扇子を額に当てて溜息をつく。
マジか……っ!
前回の会議で、外国の貿易港でイングランド貨幣を拒否されたと言う報告が入り、速攻で調査を命じたのだが――
国内のいくつかの主要な港での無作為抽出で、市場に出回っている9割方が悪銭であったという結果が出た。
つまり、イングランド貨幣の品質が非常に粗悪で、信用に足りないため、一部の外国間取引では拒否されているのだ。
これはどうやら、色ボケ親父……もといヘンリー8世時代、国際戦争に積極的に介入したことで財政難に陥り、戦費の補填のために、『大悪鋳』と呼ばれるまでの貨幣悪鋳を行ったのが原因らしい。
貨幣悪鋳は、貨幣の中に含まれた金や銀の含有量を減らし、実質の価値を下げながら、額面上は良貨と同じ価値で市場に流す政策だ。
貨幣の品質自体に価値があった金本位制の時代には、しばしば見られた悪政である。
日本でも、江戸幕府が財政難の折りに一時しのぎに貨幣悪鋳を行った歴史がある。
確かに直近は額面価値と実質価値の差分で潤うかもしれないが、良貨と悪貨が平行して同じ額面価値で市場に出回った場合、実質価値の高い良貨はさっさと富裕層が退蔵してしまうので、結果的に悪質な貨幣だけが市場に残り、時間差で急激なインフレを引き起こす。
まさに悪貨は良貨を駆逐する、である。
なんだって貨幣悪鋳なんて悪手を、私の治世の前にやってくれるのか……!
しっかりツケがこっちに回って来ている。
画廊に飾ってある巨大なヘンリー8世の肖像画に、枕を投げつけてやりたい気分だ。
悶々と黙って憤っている私に、報告を続ける財務大臣が、歯にものの挟まったような物言いでフォローを入れてくる。
「エドワード6世の治世から、金貨に関しては徐々に良貨に戻す試みを進めてはいるのですが……」
「全貨幣を改鋳して、すぐに」
バシッ、と畳んだ扇子で机の角を叩き、私は有無を言わさぬ語調で命令した。
金貨だけとか、そういう問題ではない。
「国家の信用問題よ!」
国で価値を保証した貨幣が、一部とはいえ外国で取引を停止されるなどという実例は、国家としてまったくもって耐え難い赤っ恥である。
そして体面とは別に、実質的な弊害も勿論甚大だ。
金本位制の時代には、この手の悪鋳が頻繁に起こり、その都度、貨幣の流通に大きな弊害をもたらしてきた。
流通の川上から、良貨が次々と抜き取られ、最後に残った悪貨を手にする人間が損をするという、ババ抜きのようなものだ。
そして、そのババを引くのは、大抵が貧しい市民たちだ。
物価が高騰し、価値の低い貨幣しか手に入らない民は、余計に困窮していく負のスパイラル。
16世紀は、新大陸からの銀の流入があり、ヨーロッパの物価が劇的に上昇した『価格革命』の時代だ。
だが、他国の現状と照らし合わせてみても、イングランドのインフレ率は異常だった。
何でだろう、と頭を捻っていたのだが、これが原因か!
「財政の立て直しが急務ね……」
全貨幣改鋳の厳命を出し、その責任者と具体的なスケジュールを話し合い、その日の会議を終えた後、私は執務室で資料を山と積んで羽ペンの先を弄んでいた。
イングランド王国の国庫は、もはや予断を許さぬほどひからびている。
「でも、今の極端なポンド安で、輸出業が伸びてるのは事実なのよね……」
ここ数十年の輸出入のデータをまとめた資料をめくりながら呟く。今は隣で一緒に考えてくれる人がいないので、独り言だ。
執務室には侍従と近衛兵が控えているが、彼らには到底管轄外の話だろう。
円安ドル高が輸出に有利というのが現在でもよく言われるように、貨幣価値の下落が輸出を促進する面があるのは事実だ。
だが逆に輸入品は高騰するし、インフレは加速するしで、現状では国民の生活に及ぶマイナスの影響の方が深刻だ。
貨幣は可及的速やかに全て良貨化するとしても、それによって、現在ポンド安ゆえに好調な毛織物輸出が鈍る可能性が高い。
貨幣価値の水準が健全な状態に戻ってもなお、国際競争力を保てるよう、品質の向上と、新商品の開発を平行して進めていった方がいいだろう。
「でも、それだけじゃ弱い……それに、国内産業の偏りも気になってるのよね」
イギリス王室は、その歳入のほとんどを羊毛と毛織物の輸出に依存している。
柱が一つしかないこの構造が、イングランドの財政地盤を弱くしているのは間違いない。
実際、過去には最大輸出先であったフランドル地方がイギリス産毛織物の輸入禁止の措置をとり、王室財政が大打撃を受けた例もある。
現時点の柱産業を強化すると同時に、新たな柱となりうる国内産業を育てつつ、新大陸を含め、より貿易の販路を広げていく必要がある。
……まるで、素人が倒産寸前の大企業の再建のために、いきなり経営コンサルを任されたような状況だ。
大学では経営学を専攻していたため、経済学もかじったが、正直、社会に出てから大学の勉強が役に立った気はあまりしない。一番役に立ったのは、留学中に身についた度胸と自己主張、プレゼン能力だろう。
……正直不安しかないが、やるだけやるしかない。
困ったときはセシルと専門家頼みで。
とりあえず、今できうる限りのベストを尽くす。
それは、これまでの私がやってきたことで、これからもやっていくことだ。
経営の基本なんてのは、個人の財布も家庭も会社も同じことで、当たり前だが収入を増やし、支出を減らす。これだけだ。
支出を減らすためには調査と精査が必要だが、収入を増やす方にはアテがある。
大航海時代、イングランドと言えば、東インド会社。これ、高校の時テストで出たなぁ……
これらが設立された正確な年代は覚えていないけど、1559年現在では、ごく一部に王の許可を与えられてカンパニー制をとる商人の組合のようなものがあるだけで、本格的には採用されていないらしい。
ならば、さっさとやるべし!
いきなりアジア進出は無理だから、とりあえず地中海くらいから攻めていくことになるだろうけど。
世界地図を広げ、周辺国の縄張りをなぞっていく。
それでなくても、現時点ではスペイン、ポルトガルに新大陸貿易で後れを取っている。とっとと割り込んでいかなければ、パイがなくなる。
多少勇み足になっても、手遅れになるよりはマシだろう。結果的に、17、8世紀には三角貿易でイギリスが一人勝ちする時代が来るのだ。
私の対応が遅れて、イギリスが覇権握り損ねましたなんてことになったら歴史が変わる。笑えない。
まるで『東大合格』の書き初めを部屋に張る受験生のように、私の脳裏には常に『黄金時代』というプレッシャーが張り付いている。
とにかく、英国を一大強国に押し上げるのだ!
※
「いきなり頑張りすぎるのは身体に毒ですよ、まだ貴女は新女王になられたばかりです」
寝室で早々にベッドに倒れ込み、大きく溜息をついた私に、セシルがそんなことを言ってくる。
ここのところ頻繁に招集する枢密院会議で、私は矢継ぎ早に、財政再建のための政策を打ち出していた。
歴史の知識にヒントを得ながらも、政策を具体化する段階になれば現状を調査して論拠を固めなければならないので、勉強することも考えることも山ほどあった。
そんな私の相談相手は、やはりウィリアム・セシルなため、最近は寝室に彼を呼んで政治トークをすることが多い。
その日も、セシルはいつものようにソファで本を広げながら、穏やかに私の話し相手をしてくれていた。
「分かってるんだけど……出来ることは早めにやっておかないと、気が済まなくて」
少し駆け足になっている気は自分でもするが、こういうのはスタートダッシュが大事だ。
始めにノロノロしてしまうと、私はなかなかエンジンがかからない。
だが、少し不安になって、私は身を起こしてセシルに尋ねた。
「……私、間違ったことしてるかしら?」
「いいえ、今のところそうは思いません」
セシルは静かに……だがはっきりと、首を横に振った。
「今のところ?」
「今後、陛下が何か過つようなご判断があれば、私が申し上げます」
「そうね、そうしてもらえると助かるわ」
私がこれだけ走り出せているのは、隣にセシルがいるという安心感があるからだ。
彼は私より頭が良いし、物事がよく見えているし、何よりこの時代とこの国をよく理解している。
有能な宰相の太鼓判をもらい、ほっとした私は再びベッドに転がった。
枕を抱いたまま端から端までゴロゴロすると、だいたい3回転くらいできる。このゴロゴロで往復するのが私のお気に入りだ。
だが今日は真ん中まで転がったところで、ふとセシルに聞きたいことがあったことを思い出し、私は逆側に寝返りを打った。
横になったまま、もそもそとベッドを這ってセシルがいる方に頭を向け、声を落として訊ねる。
「ねぇセシル、ちょっと聞きたいんだけど……」
すると、セシルの方が気を利かせてソファを立ち、私の方に寄ってきた。
……ゴメン、無精で。
別にその距離で話してもいいつもりだったのだが、わざわざ寄ってこられると、横着をした自分が恥ずかしくなる。
いかん、ちょっと気が緩み過ぎかもしれない……
寝ながら足で物を取ろうとして母に呆れられたことを思い出し、私は身を起こしてセシルと向き合った。
実は、常々気になっていたことがあるのだが、口に出すのは、なかなかに勇気がいった。
「あのさ、もしかして、ロバートと前のエリザベスって、もうとっくに……」
だ、男女の仲だったんですかっ!? ……って聞けばいい?!
こういう話を切り出すのが苦手な私は、つい言葉を濁してしまった。
でも、だって、もしそうなら、さすがにロバートとの接し方も変わるっていうか。
「――そのような事実は一切ありません」
うわっ、びっくりした。
あの感じだと、とっくにロバートを受け入れてたりするんだろーか……なんて想像が過ぎった時、先の言葉を予想したらしいセシルが、いつになくピシャリとした口調で言い切った。ちょっと驚く。
「ロバート卿とエリザベス様が愛人関係にあるという噂は以前から流布されていましたが、無論、エリザベス様自身も不実を否定していらっしゃいましたし、当事者のロバート卿すら、エリザベス様の貞淑さを嘆く言動をしているのですから、これは確かです」
私としては、ロバート個人との人間関係をどうするか、という程度の悩みで聞いたことなのだが、セシルの言及はもっと広い範囲に及んだ。
「若い独身の女王というだけで人々の好奇は集まり、陛下ご自身には何の落ち度もなくとも、陛下の私生活について、根も葉もない噂を流す者は後を絶ちません。ですが、陛下ご自身が己の身の潔白を疑うことは、絶対におやめ下さい」
セシルの強硬な態度に、それって、そこまでナイーブな問題なんだ……と、今更ながら女王という立場の特殊性を思い知らされる。
「エリザベス様の母后アン・ブーリンは、不実の罪を着せられ処刑されました。エリザベス様もまた、これまでの人生の中で、幾度となく不実や陰謀の罪をかぶせられ、その度に毅然とした態度で己の身の潔白を証し続け、危機を乗り越えて今日の即位に至っております。今後も、陛下の周りで同じことが起こりえないとも限りません。陛下ご自身の潔白は、陛下ご自身の誇り高さが何よりもの証なのです」
「分かったわ。もう疑わない。それならいいの」
慌てて納得を口にし、セシルを宥める。
すると、今度はセシルの方が伺うような目つきになった。
「陛下は、以前の世界では、恋人は……いえ、失礼しました。お答えいただかなくて結構です」
話の流れで、つい気になって聞いてしまったのだろうが、セシルは慌てて質問を取り下げた。
だが私は、もうこれ以上この手の話を引きずりたくないので、正直に答えた。
「いないわよ。一切。27年間生きてきて1人も」
3日で別れた男は、勿論勘定に入れていない。
「そうですか……」
セシルも、短く相槌を打つに留めたが、どこか安心したような雰囲気があった。
……あれですよね。婚前交渉は姦淫の罪に問われたりする世界ですよね。
正直、その辺のモラル意識がどこまで徹底されてるのかが、いまいちよく分からないんだけど……なんか宮廷って乱れてそうだし。
にしても、なんつーか、こういう話を男の人と真面目にしなきゃいけない環境っていうのが、すっごく違和感。
プライベートはドコへ?!
「これは、また後日お話ししようとは思っていたのですが、陛下もご結婚について、今一度真剣にお考え下さい」
う……来た。
表情を改めて切り出したセシルに、私は心持ち身を引いた。
ここのところ、ちょいちょいプレッシャーはかけられていたのだが、のらりくらりとかわしていたのだ。
「んー……まだいいんじゃないかしら。今はやらなければいけないことが多いし、もう少し落ち着いてからでも」
「今のように陛下の身に危険が多い時だからこそ、夫の庇護が必要であると、私は思います」
誤魔化そうとしたのにはっきりと言われ、言葉につまる。
――私が間違っていると思った時は、はっきりと言う。
さすがセシル、有言実行である。
でもこればっかりは、そう簡単に頷けない。
「……女の私が政治をするのは、やっぱり物足りない?」
「そうではありません。これは、陛下の身の安全の為なのです」
「私の安全より、国家の安定の方が大事だわ」
「国家の安定のためには、陛下の安全が必要なのです。このまま陛下にお子がなければ、チューダー朝は断絶してしまう。そうなれば、また王位継承争いと、それに伴う宗教対立が起こります」
うーん……
話が平行線を辿る。
セシルの意見は、この時点ではどこまでも正論で、妥当だ。
だが先の未来を知っている私には受け入れがたい提案だ。とはいえ、エリザベス女王の生涯独身と、チューダー朝の断絶を前提に話すのは、さすがに現時点ではまずかろう。
「と、とにかく、今はまだあんまり考えられないから。まだこの時代に来て日も浅いし、政略結婚って、やっぱり覚悟が必要じゃない? そりゃ、いずれしなきゃいけないとは思ってるけど……」
やはり曖昧に誤魔化し、私はその日のセシルの結婚話は煙に巻いた。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はパソコン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。