……今日も疲れた。
朝から大騒動があり、その後は女王マナー講座が延々と続いた1日が終わって、私は疲労感とともに寝台に倒れ込んだ。
「お疲れのようですね、陛下」
ソファの方からかけられた穏やかな声に顔を上げると、セシルが膝の上に分厚い本を広げて座っていた。
そうだった、忘れてた。本日の夜のお供はセシルだ。
油断して寝台の上でだらけかけ、慌てて身を起こす。
「どうぞ、楽になさってください」
だが次に言われた言葉に甘え、その体勢から、ぺそっ……と横倒しにベッドに身を沈める。
オンとオフを切り替えなければ、私は死んでしまうのだ。ええっと、まくら~まくら~。
いっぱい置いてある枕の一つを手探りで引き寄せ、私は一応、セシルに断っておいた。
「外ではちゃんとするから、寝間着姿で足出して、枕掴んで布団でゴロゴロしてても怒らないでね?」
「怒りませんよ」
「……ウォルシンガムは怒る」
「ははは」
思い切ってチクったのに、笑って済ませられてしまった!
主席国務大臣として、療養中の女王の執務のフォローまでしているセシルは目が回るほど忙しいらしく、昼のマナー講座も、ほとんどがウォルシンガムとロバートが担当している。
当然、夜の貴重な時間を私の話し相手というつまらない仕事に使わせるのも申し訳なく、あえて指名はしていなかったのだが。
今夜部屋を訪れたのがウォルシンガムでなくセシルだったのは、昼間の件のせいかと思い、私はもう一度寝台の上で身を起こし、枕を抱えたまま主張した。
「誤解しないでね、セシル。本当に何もないんだから」
「分かっていますよ。ウォルシンガムはそのような男ではありませんから」
鷹揚に頷いたセシルの台詞には、ウォルシンガムに対する絶大な信頼があった。
……どうせなら、私もそんな女じゃないって言って欲しいんだけどな-。まだ無理か。
今までのところ、セシルは一番交流が少ない。だが立場上、私を守るために一番苦労してくれているのは彼だ。
私はすでに、かなりセシルの能力に一目置いているところはあるのだが、私の方が、彼から信頼を勝ち取るのは、まだまだ時間がかかるだろう。
「ですが、彼も今日は体調がすぐれなかったようで、迂闊な言動が多かったですね。代わってお詫び申し上げます、陛下」
そう言って、セシルは本を置き、私の前まで来て膝をついた。
そうされると、私もベッドの上でゴロゴロしているのも悪くて、寝台の端に腰を下ろして向かい合う。
……やっぱり疲れてたんだ。
ウォルシンガムのことをよく知るセシルのフォローで、ようやく気付く。
昼間は、いつも以上にカリカリしていた。
あんな迂闊な売り言葉に買い言葉も、普段の冷静なウォルシンガムなら言わないはずだ。
……私も、寝不足で判断力が低下していた面は否めない。
「うん……確かに、私も悪かったわ。無理に付き合わせたのは私だもの」
ウォルシンガムにも日々の仕事があり、そして秘密枢密院のメンバーの中では一番格下ということで、様々な雑事も彼が担当している。
無理をさせてしまったかもしれない。
本当に無理なら断ってくれてもいいのに、とも思うが、それは21世紀の私の感覚だ。
物事の大小にかかわらず、女王の要望を断るのは、よほどの覚悟がいることなのだろう。
「その辺も気を付けていかないと駄目か~」
「あまり気に病まれることはありません」
価値観が違う世界で相手に気を遣うというのは、かなり難しい。がっくり肩を落とした私を、セシルは穏やかにフォローした。
「我々は女王陛下の忠実な臣下。そういった陛下の日常的なわがままを言いつけられることは、我々にとっては光栄なことでもあるのですから」
「そうなの……?」
「以前のエリザベス様も、我々に気さくな友人のように話しかけてくださいましたが、そのような恩寵に与れる者は稀でした。特にウォルシンガムは、階級もなく、陛下の即位後に帰国した人間ですので、そこまでの寵は与えられてはいませんでした。今ほど陛下に重用されていることを、非常に誇りに思っていると思いますよ」
ほこりにおもっている……?
昼間の仏頂面を思い出し首をかしげる。
ただ、今私と一緒にいる時間が一番長いウォルシンガムが、前の女王の寵は薄かったという話は新鮮だった。
「そっか、ウォルシンガムは前の女王とは付き合いが浅いんだ……その割には、なんかやたら知ったような口を聞いてたけど。いちいちいちいち比較して嫌み言ってくるし」
すると、セシルは苦笑した。
「貴女を心配しているのでしょう。今の陛下は、とても危うい」
心配してるから、比較して焚きつけ奮起を促していると……? なんか、うちの上司みたいなやり方だなぁ。
まぁ、それに乗せられて、5年連続同期トップセールスに君臨する鉄の女が出来上がったわけだけど。
今の私のライバルは、エリザベス1世ということか……?
それなんて無理ゲー。
「――ウォルシンガムを手放してはいけません」
私の目の前に跪いたまま、セシルはそんなことを言ってきた。
顔を見ると、眼鏡の奥の真摯な眼差しとかち合う。
「貴女の周囲には、これから貴女の耳当たりの良いことばかりを言う人間が溢れかえるでしょう。ですが、彼らの言葉に惑わされ、道理を見失えば、それはご自身の破滅をも招きかねない」
優しげな宰相から告げられた内容はシビアだった。無意識に居住まいを正し、私は相手の目を見つめた。
彼が、どういうつもりでこれを言っているのかを、見定めるためだ。
「ウォルシンガムは貴女にとって心地の良いことは言わないかもしれません。ですが、彼の言葉は、真にイングランドと女王の為にしか発せられない――無論、彼自身が過つこともあるでしょうが、それは決して、陛下を陥れるためのものではない。……そういった人間は希少です。それは、陛下の治世が成功すればするほどに減っていき、私欲のために貴女に取り入ろうとする者ばかりが増える」
セシルの言いたいことは、よく分かる。利権あるところに人が群がるのは、いつの時代も変わらない。その上、その権力が、若い女なんていう弱い立場の人間に集中している状況は、とても危険だ。
利用してやろうという人間が出てこない方がおかしいのだ。
「このようなことを陛下に進言するのは、本来差しでがましいこととは重々承知しておりますが、陛下ご自身が、王の娘として生まれた記憶を持たず、そういった陰謀策略とは無縁の世界で生きてきた無辜の女性であるというのであれば、お伝えしなければならないことと考えたまでの発言でございます。どうぞ寛大な心でお受け止め下さい」
ものすごくへりくだった言い方で頭を下げられ、私は慌ててセシルの頭を上げさせた。
「いいのよ。そういうことは、言ってもらった方が助かるから。うやむやのまま、おためごかしを聞かされるよりはよっぽどいいもの。今の私は確かに何も分からないから、教えてもらわないことには成長しないし」
私は常に、知ることに貪欲であろうと思っている。自分の成長のために色んなものを学んで、経験してきたつもりだ。それが、今の私の自信にもなっている。
これからは、またゼロから学んでいく立場だ。混乱することは多かったが、今を生きている以上、現状を受け入れ、与えられた役割をこなそうと、前向きになれつつあった。
「セシル、あなたはウォルシンガムを手放してはいけない希少な人材だと言ったけど……あなたもよね?」
イングランドと女王の為だけを思い、粉骨する有徳の士――それは、セシルに対するウォルシンガムの評価でもある。
セシルがこれだけ評価するウォルシンガムが、セシルのことを尊敬しているのだから、間違いはないはずだ。
「ええ、勿論です」
はっきりとそう答え、セシルは私の左手を取り、その甲に口づけた。
「私は、イングランド女王の忠実なる僕、陛下の輝かしい治世のため、どこまでも骨を砕きお仕えする所存です」
輝かしい治世――そう、歴史を踏襲するなら、これから私が作り上げていかなければいけないのは、文字通りの黄金時代だ。良き女王エリザベスによる、平和で栄えた時代。
親から継いだ会社を大きくしてやろう、という野心はあったが、まさかこんな大きなものを継承することになるとは思いもよらなかった。
だが、やるしかない。幸い、ひとりではないのだ。
「セシル、少しいいかしら……?」
「何なりと」
近くにある顔を見下ろし、私は常々気にかかっていたことを行動に移した。
両手を伸ばし、眼鏡のアームに指をかける。
……この人、「眼鏡はずしたら絶対美形」と私のイケメンセンサーが反応している!!
黒縁の眼鏡を取り上げ、ワクワクしながら相手の素顔をのぞき込んだ私は硬直した。
こ、これは……!
何となく予想はしていたが、イケメンと言うよりは、美形。少し中性的で、やや童顔か? 眼鏡を取ると実年齢よりぐっと若く見える。おっとりした雰囲気と、知的な印象はそのままだ。
……どうしよう。実は一番好みかもしれない。
だいたい、チャラいイケメンとか、こわもてのイケメンとかは、男経験のない私はついつい引いてしまうところがあるのだ。
黙ってても女が寄ってくるタイプの男は、女を舐めてかかる節があるので、それが私の癪に触るという部分もある。
育ちのよさそうなお坊ちゃんタイプや、あまり自分の魅力に気付いてなさそうな、真面目でちょっと垢抜けないタイプの方が安心感がある。
さらに、やぼったい眼鏡とかかけてたらなお良し!
だが過去の恋愛対象は、なぜかそれらの好みから大きく外れたタイプばかりだったので、ここで言う私の好みが、リアルな恋愛対象ではなく、ミーハー的な萌え対象である可能性は否定できない。
そして、同じく安心感という面で、一緒にいて楽なのは年上の方だ。
「ええと、セシルって……結婚してるの?」
この年齢でしてないことはないだろう、と思い聞いてみると、セシルは少しさびしげな顔で微笑んだ。
「一度したのですが、妻に他界されまして……今は独り身です」
男やもめというやつか。
「セシル、目は相当悪いの? 眼鏡ないと見えないくらい?」
「いえ、そこまでではありませんが……書を読む時などは、この方が見やすいので」
「ふーん……眼鏡ない方が、イケメン度が倍増するような気がするけど」
独り言のように呟くと、セシルが小さく吹き出した。珍しいことに私が目を丸くしていると、彼が弁解してくる。
「失礼しました。いえ、エリザベス様……以前の女王陛下も、そのようなことをおっしゃっていらしたので」
おおっ。本物のエリザベス1世も、そんな俗な感想を抱くことがあるとは……!
ちょっと親近感がわいた。
「陛下がお望みであれば、可能な限りかけないようにしますが」
「え、いいわよそんなの、悪いし。それに、その方が国務大臣っぽさは出てるわよ」
そう指摘すると、セシルが少し驚いたように目を見開いた。
主席国務大臣が童顔で女顔では、下の人間に舐められると言う気持ちもあるのだろう、と勝手に思ったのだが、どうやら当たりだったらしい。
「うーん……そうね、じゃあ逆に、私の前以外では絶対はずさないこと。これ、女王命令だから」
冗談めかして言った私に、セシルが笑って頷いた。
「御意」
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