「戴冠式は5日後の1月15日。まず、陛下はこの大きなイベントを完璧にこなされなければなりません」
そう言ってウォルシンガムは、どちゃっと私の前に書類を置いた。
いつまでもベッドの周りで話し合うのも何なので、一度男性陣は退出し、私は侍女を入れて着替えを済ませた。
そして、先ほどの4名で、夜更けの議卓を囲んだ。
今のところ、女王陛下の記憶喪失――とウォルシンガムが仮定した――を知るのは、この面子だけだ。
正直、この時代については教科書に載っていた程度の知識しかないのだが、彼らに説明してもらって、だいたいの自分の置かれた現状は把握する。
聞くところによると、エリザベスの出自は、随分と複雑だ。
父ヘンリー8世と彼の2番目の妻アン・ブーリンの間の子だが、このアン・ブーリンが男の世継ぎを産めなかったため王の寵を失い、不義密通の冤罪をかけられて処刑された。その時、エリザベスはたったの2歳と8ヶ月だった。らしい。
そこから、エリザベスの不遇の時代が始まる。
ヘンリー8世の死後、即位した異母弟のエドワード6世が15歳で早世すると、前王の最初の妃の娘メアリー1世が即位した。
エリザベスの母親の立場をあげつらい、王位継承権を剥奪しようとする異母姉メアリーにより、エリザベスは、陰謀に荷担したという冤罪でロンドン塔――あの政治犯を拘束する有名な牢獄だ――に投獄された。
だが熱狂的なカトリック信者であったメアリー1世は、数百人の
そうして、チューダー朝最後の王位継承者とも言われる女王エリザベス1世が、ここに誕生したのだ。
奇跡的に死線をくぐり抜けて王位についたエリザベスの地位は不安定で、いまだに彼女を排して、別の人間を王位に就けようともくろむ人間は後を絶たない。
そんな中で、エリザベスの不利になるスキャンダルを広めるのは得策ではない。ということで、この件は、私を含む4人だけの秘密にされた。
ならば、この3人――セシル、ウォルシンガム、ロバートは信頼に足る人物なのか? という話だが……
サー・ウィリアム・セシルは、エリザベス女王が即位の後すぐに、主席の国務大臣に任命した男だ。
34歳という異例の若さでの抜擢ではあったが、この人事に対して、異を唱える者は誰もいなかった――らしい、これは、ウォルシンガムの弁だ。
元は庶民の出だが、その秀才ぶりから若くして宮廷に取り立てられ、
賢明にて有徳の士。人格、能力共に定評のある新女王の右腕。
フランシス・ウォルシンガムは、26歳の、現在は庶民院の議員。
……年下なことに大いにびびったが、この肉体のエリザベス女王は25歳だそうなので、一応1つ年上になる。
ウォルシンガムはプロテスタントの知識人で、メアリー前女王のプロテスタント弾圧の煽りを受け、国外に亡命していた。同じくプロテスタントのエリザベス女王の即位を機に、祖国に戻ってきたらしい。
そこでセシルに目をかけられ、彼に引き立てられて宮廷内を出入りしている。今は議員としての活動の傍ら、セシルの側で彼の仕事を助けているのだという。
そしてロバート・ダドリー。25歳の青年貴族で、エリザベスとは全くの同い年だ。
新陛下の
何しろ彼の家柄は名門とはいえ、父と祖父は共々反逆者として処刑されており、『反逆者の家系』と言われていた。その上、性格的にも、特に男に嫌われているとのことだ。
出自の方は、親の罪を子に着せるのはどうなのだと思うが、男に嫌われているという話は、さもありなんと感じないでもない。きっと、さぞかし女性には人気があるのだろう。
エリザベスとは幼馴染みで、はっきりと彼女の『お気に入り』であったそうだ。
さてはエリザベス……面食いか!
この3人に共通して言えることは、皆エリザベス女王の寵臣、あるいは彼女の『女王』という地位があってこその立場ということだ。
エリザベスの地位を守ることは、彼らの人生を守ることにも繋がる。そういう意味では、今のところ裏切られる心配はない、と考えて良いのだろう。
……なんか、そういうこと考えなきゃいけないのが、しんどい世界ではある。
渡された紙束をすくい、内容を流し見る。古めかしい英文の羅列は、だがワープロ打ちの英語論文を読むよりも、なぜかスラスラと頭に入った。
戴冠式は1月15日の日曜日だが、催し自体は前後合わせて3日間をかけて行われる。
まずは前日の土曜に、ロンドン市内でパレード、その間に、庶民の有志による、新女王による治世を讃える様々な催し物が出されるらしい。
だが、この場合のメインは、催し物それ自体ではなく、催し物を見物する新陛下の姿こそ、市民が目に焼き付けたいものなのだと、セシルにアドバイスされた。
なるほどね。プロパガンダってヤツだ。新女王陛下として、恥ずかしくない――では済まない、相応しい堂々たる姿を市民に見せつけろということだ。
翌日の戴冠式本番は、ウェストミンスター寺院に入り、聖油を受け、王冠を戴く。続いて新女王を讃える演奏会、ミサ、そしてウェストミンスター=ホールで祝宴。
ここで新女王はお色直し、台座の上のテーブルについて800名の招待客と食事会。
その間に、伝統的な『国王擁護者の儀』が執り行われる。
祝宴の後は、馬上槍試合……云々。
そうこうしているうちに、日付が変わる予定だ。
……頭が重くなってきた。
「何を突っ伏していらっしゃるのです、陛下」
ウォルシンガムが突っ込んでくる。
「いや、なんか気が遠く……っていうか、詰め込みすぎじゃないの、これ」
寝る暇もなしということか!?
「戴冠式のその日は、裁判官代表団、市参議員、ロンドン同業組合の幹部の祝辞が入ります。彼らの心に響く返礼をお考えいただきますよう」
フォローするどころか追い詰めやがった!
「貴女が、ご自身を何者と主張しても、偉大なるヘンリー8世の血を受け継いだそのお身体を持つ以上、チューダー朝最後の後継者であることに変わりはありません。エリザベス女王陛下は、思慮深く稀なる才女であられた。その血統と資質を損なうことのないよう、重々お心にお留め下さい」
うお、チクチクチクチク嫌味言いやがる。
分かってるよ、そんなこと! でも気が重くなるのは仕方がないじゃん! 女王の役なんてやったことないし!
くそぅ。見てろよ。こう見えて高校時代には演劇部、大学時代にモデル、コンパニオンを経験し、卒業後は社会人劇団で主役張ってる私の底力見せてやんよ。
ちなみにプレゼン能力はアメリカ仕込みで、留学先の大学の留学生スピーチコンテストで優勝したこともあるんだからな!
などと口には出さずに対抗心を燃やしていると、
「ウォルシンガム殿、先ほどから不敬ではないか」
急にロバートが立ち上がり意見した。
「今はエリザベス様の記憶と人格が薄れているとは言え、この方はまごう事なき女王陛下だ。この方より上に立つ者は神以外におられないというのに、貴殿の物言いはまるで陛下を侮辱している」
お、侮辱されてたのか? 私。
侮辱と言うほどの衝撃は受けていなかったので、逆に驚く。
今の上司は体育会系だったから、機嫌が悪い時にミスしようもんなら、そりゃあもう頭ごなしに凄い声量で怒鳴ってきたからなぁ……
そういう時には、下手に意見を言おうもんなら火に油を注ぐだけだから、どれだけ理不尽な内容でも耐えるしかない。
あれに比べれば、これくらいでダメージを受けることはない。逆に燃え上がるくらいだ。
とはいえ、確かにウォルシンガムには見下されてる感じはする。
正直、右も左も分からないんで、嫌味を言われながらでも、教えて貰える方が実はありがたいんだが。
あ、でも王様って言う立場上、見下ろされるのはマズいのか? けど、どうせ影じゃ何かしら言われるもんだろうしなぁ。
この辺もなかなか難しい問題だ。なにせ絶対王政、王権神授説の時代だ。王が絶対、王が神の代理人、というプロパガンダによって人心を掌握していた時代に、誰かが王の上に立つような言動をして、それを王が許せば、色んなところに矛盾が生じてくる。
市民の自由と平等への意識が高まり、フランスから市民革命が始まるのは、まだ2世紀も先の話だ。
人に影でひそひそ言われるのも、嫌いなんだけど……とかそんなことを色々考えると鬱々としてくる。
つい考える時の癖で、椅子の後ろ足で立ち、長い羽ペンを指先で回しながら天井を仰いでいると、
「エリザベス陛下は、淑女として完璧な立ち振る舞いをなさる方でした」
ウォルシンガムの冷ややかな指摘が飛んでくる。
ハイ、スミマセン。
私は慌てて椅子を平行にし、姿勢を正して座り直した。
こんなんで、マジで本番大丈夫か、私。
「……1つお聞きしたいのですが、陛下が生きていらっしゃった21世紀は、女性の立場や求められる役割、立ち振る舞いなどは現代と大きく変わっているのでしょうか?」
ウォルシンガムと私のやり取りを見ていたセシルが、そんな疑問を口にした。
あー……これ、どこまで話していいんだろうなぁ。
この時代の国務大臣に、市民に自由とか平等の意識が芽生えてます-。絶対王政は打倒されて市民による統治がなされている国が大部分ですーとか言っちゃっていいんだろうか?
私は少し考えて、出来るだけ具体的なことは言わないように、しかし私自身のフォローは入れるように心がけて答えた。
「大きく変わっている……と言えば変わってるわね。女性の社会進出が珍しくなくなってきてるし」
それも、本当にここ最近のことではあるが。
「男だから、女だからと役割を区別することを止めようとする動きは強まってるわ」
これもまぁ、良くも悪くもというところだ。
「立ち振る舞いは……生活様式が急激に変わっているから、ほとんど跡形も残っていないと言っていいんじゃないかしら? それに、私の生まれはこの国と遠く離れているから、そもそも文化的な接点がほとんどないもの」
「なるほど」
セシルが深く頷いた。
「ならばやはり、現代のイングランド王侯としての立ち振る舞い、マナー、一般常識から学んでいただいた方がよろしいでしょうね。政務的な部分はいくらでもこちらでフォローが出来ますが、女王としての品格は、陛下自身の一挙手一投足にかかってきますので」
要するに行儀が悪いってことですね! ゴメンナサイ!
多分ウォルシンガムと同じことを言っているのだが、こちらの方が嫌味がなく普通にアドバイスに聞こえるのが不思議だ。
「この5日間で、女王の品格を魂に刻み込んでいただきます」
ウォルシンガムのその言葉で、その日から怒涛の「女王マナー講座」が始まった。
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