「エリザベス女王ってあのエリザベス女王? いや、今のエリザベス女王じゃなくて、あのエリザベス女王よね?」
「おっしゃっている意味がよく分かりませんが」
ウォルシンガムが憮然と答える。
そうかもしれないけど、こっちもよく分からないよ!
2013年現在のイギリスの女王もエリザベス女王だけど、16世紀チューダー朝のエリザベス女王と言えば……あの、イギリス史上もっとも有名な君主の1人、スペインの
処女とエリしか合ってねーよ!!??
ここまで英語。以下日本語。
「落ち着け、私。落ち着ける場合じゃないが落ち着け? 私は確かに、会社帰りに車にはねられて死んだんだ。死んだのか? 死んだ気がするけど……はっ、もしかして今病院のベッドで昏睡状態に陥ってて、こんなわけの分からん夢を見てるのか?」
別にエリザベス1世になりたいと思ったことなんてないけど! っていうか何でエリザベス1世!?
「そうか、夢か。夢だな。イッツアドリーム! アッハー」
「夢ではありません」
妙なテンションになってきて最後だけ英語で手を叩いたら、速攻で髭男に否定された。
そういえば、相手は完全にイギリス英語だ。私はアメリカ英語しか話せないから、この時代の人間としては不自然な訛りなんじゃないだろうか。
「あのね、夢じゃないとおかしいのよ。だって私が生きていたのは2013年の日本。交通事故に遭って死にかけてる私は、なんでか知らないけど400年以上前の女王になる夢を見てるの。とりあえず、夢を見てるってことは生きてるってことだから、このまま無事目覚めてくれるのを待つだけだわ」
……と思ったが、出てきた言葉は普通に古めかしいイギリス英語だった。
あれ?
まあ、そんなもんか、夢だし。
「おい、セシル殿。どういうことだ? 女王陛下は何をおっしゃってるんだ?」
眉を顰めたのは、左隣にいたロバートだ。
セシルは顎に手をやり、困ったような顔で私を見下ろしながら答えた。
「生死の境をさまよっていらしたのです。混乱されているのでしょう」
「まさか悪魔憑きでは……」
「滅多なことを言うな、ロバート卿」
ロバートの予想を、ウォルシンガムが厳しい声で否定した。
悪魔憑き!? なんか嫌な単語!
中世末期といえば魔女狩りとかそういう単語が浮かんできて、私は青ざめた。ご、拷問とかやめてね……?
私は割と悪夢を見るタチなのだ。夢だと分かっている夢でもコントロールできず、最悪の方向に向かうことがよくある。……たとえ夢でも、火あぶりは嫌だ。
あんまり逆らわない方が良いか? ここは話を合わせといた方が無難だろうか、と自己防衛本能がうずく。
だが物事を理解しないまま流されるのも危険だしな……
「分かったわ。私も混乱してる。それは認める。けれど、本当に状況がよく分からないの。その、あなたたちが言うエリザベス女王が一体どういう状況にあって、どうやって今、私がここで目覚めたのか、一から話してくれる? ……何か思い出せるかもしれないし」
思い出せることなどあるわけないのだが、最後の一言は譲歩だ。
向こうも、彼らの『女王』が一時的に記憶を失っているだけかもしれないという可能性をちらつかせれば、懇切丁寧に教えてくれるだろうという計算の上だ。
すると、ベッドの隣に立っていたロバートが枕元に縋りつき、私の手を握ってきた。コラ。
……いや、まあ手を握られるくらい別にいいんだけど。
「陛下、俺は貴女の愛するロバート・ダドリーです。まさか、覚えておられないわけはないでしょう」
ごめん、覚えてない。
速攻で突っ込んでやりたかったのをこらえて曖昧に笑う。だが相手は表情から察したのか、失望したように肩を落とした。
「なんてことだ……せっかく、念願の陛下の即位が叶ったというのに、俺たちが育んだ愛も、俺が貴女に尽くし続けた献身も、全て忘れ去られてしまうとは」
俺俺うるせーな、こいつ。これだからイケメンは……
と、軽くいらっとした時。
「貴殿の立場がどうなるかは、この際大きな問題ではない。陛下が、ご自身が女王の資質であられることをお忘れになられていることこそ大問題だ」
そうだそうだ。
……って、ついこの綺麗な髭男爵の正論の肩を持ってしまうが、そもそも私は女王ではない。
それから、ウォルシンガムは私の方に向き直り、ベッドの前に膝をついて視線を合わせた。
こう真正面から見ると、やっぱり男前だ。どちらかというと髭は否定派なのだが、こうまで似合ってしまうとオールオッケー。
思わずしげしげと見つめてしまうが、見返してくる相手の眼差しは冷静そのもので、どこまでも事務的に私の要望に応えた。
「貴女が仰っていることは何一つ理解が出来ませんが、長い昏睡状態の間に夢を見られ、まだその混乱を引きずっているのだと解釈してお答えしましょう。ここは1559年のイングランドです。そして貴女は、昨年の暮れに女王に即位された」
あ、そんな最近の話なんだ。
確かアレだよね? エリザベス1世の前は、あの有名なブラッディ・メアリー。
カトリックの教義に対立する
「貴女の父上、偉大なるヘンリー8世、そして弟君エドワード6世、異母の姉君であり、プロテスタントの敵メアリー……彼らが絶えた今、ついに王者の栄冠は、貴女の上にもたらされた。これは、神の思し召しです」
そう言って十字を切るウォルシンガム。
ちなみに私は、小学校3年生までクリスチャンの学校に通っていたので、祈りと十字を切ることは自然と出来る。
とはいえ、子供の頃のたった3年間の話だし、信仰心とかそういうのは一切根づいていない。一般的な現代日本人らしく、宗教に対しては、おおらかかつ無関心だ。
文化とか、歴史とか、心理学的には興味深いと思うんだけど、どうにも、自分以外の何かに頼って生きるというのが理解出来ない感覚なんだよなー。
そうは思いつつ、彼に合わせて平気で十字を切ってみせる私は、多分この時代のどの宗派からも八つ裂きにされるレベルの不信心者だろう。
そうそう、宗教対立が激しい時代なんだよね確か。
同じキリスト教徒でも、伝統とローマ教皇に追従するカトリックから、教皇の世俗権威を否定し、聖書に立ち返る思想を標榜したプロテスタントが分離して、教義の違いで激しく対立していた。
異端審問やら宗教弾圧やら宗教戦争やらで、国家レベルで血みどろの争いを繰り広げていた時代だ。
宗教に対しては、あまり滅多なことは言わないようにしようと心に留めておく。無難に無難に。初めから地雷と分かるものは避けて歩くべし。
「ですが、昨年11月、メアリーが死に、即位されたエリザベス様は、ロンドンへの凱旋の後、すぐに体調を崩されてしまいました」
「あらま、何で?」
井戸端会議のおばちゃんみたいな聞き方をしてしまった。
すると、ロバートが割って入った。
「貴女は、生まれつきお身体の弱い方だったのです。幼少の頃からよく床に伏せっていらした。それが、つらい投獄生活で消耗なされて……心優しく情に篤い貴女は、仲の良ろしかったエドワード様と、仮にも姉君であらせられたメアリー様の死に、すっかり繊細な心を痛めてしまわれた……」
修飾語が多いな、この人。
必要以上に感情移入してしゃべるロバートの後を継ぎ、セシルが分かりやすく話を進めてくれた。
「最初の頃は病をおして公務にあたられていたのですが、日に日に病状は悪化され……そこからの闘病生活は、市民には伏せております。幸い、即位後の凱旋パレードがつつがなく終わった後のこと、次の戴冠式の日取りは1月15日を予定しておりました故、その間に回復されることを願ったのですが……」
セシルが、眼鏡の奥の瞳を悲しげに曇らせる。
「今日の明け方、容体が急変し、陛下は半日に渡り昏睡状態に陥ってしまわれました。チューダー朝は、ついに終焉を迎えるやの瀬戸際に立たされたのです――9時ちょうど、陛下は一度息を引き取りました」
……おおっと?
「確かに、医師と司祭は貴女の絶命を見届けたのです。心の臓は動きを止め、呼吸はやみ、血の気は引いた。ですが、奇跡が起こった――」
そう言ったのはウォルシンガムだ。彼は、ロバートが相変わらず握りっぱなしの手とは逆の、右手を握り寄せた。
そして、何か感慨深いような溜息をついて、両手で握り込む。
「温かい……」
呟き、今までにない優しい表情を見せたウォルシンガムは、私の手の甲を返し、指に口づけた。
すると、何の対抗意識か、左手を握り込んでいたロバートが、その手の甲を返して同じように口づけた。
……なんだこの状況。
まあ、イケメンに傅かれるのは悪い気分じゃないのだが、それにしたってどんだけ欲求不満な夢だと自分に突っ込みたくなる。ちょっと恥ずかしいぞ。
「今、こうして貴女は息を吹き返し、我々の目の前にいる。これぞ、我らの神が貴女をこの国の女王として遣わしたことの何よりもの証拠。そう――貴女自身が、ハットフィールド宮で、王位継承を告げられた際、口にした『詩篇』118番の聖句そのままです」
そう言ってウォルシンガムは、私を見つめ、ラテン語で訊ねた。
「覚えていらっしゃいますか?」
それがラテン語だと分かり、内容を理解したことにも驚いたが、何よりも驚いたのは、その『詩篇』118番の一節が、完璧なラテン語で私の口からこぼれたことだった。
「――そは神の行われしこと。凡愚の目には奇跡とうつらん」
ウォルシンガムが、満足げに微笑んだ。初めて見る笑顔だったが、すぐにその表情は伏せられ、ウォルシンガムとセシル、そしてロバートは、同時に私の枕元に跪き、
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