2009年8月 7日 (金)

1.

本年5月末日をもって、当ブログを閉鎖することとなりました。

Re:1Q84、Re:Book3は引き続き下記サイトでご覧いただけます。

いくらか加筆修正いたしましたので、あらためてご高覧いただければ幸いです。

Re:1Q84|shunya|note

 

 

 さっき「物語の舞台設定に疑問を抱きながらも」と書いた。その疑問が私の出発点だ。
 それは1Q84というパラレル・ワールドもどきの世界に対する違和感から始まった。
 私は、物語を読むということは、ひとまず物語を与えられたままに受けとることだと思っている。そしてその際に舞台設定が重要な役割を果たす。
 舞台設定とは物語という料理を盛った皿のようなものだと思ってくれればいい。皿なしには料理を受けとることができないし、それ以前に盛ることもできない。物語を読むということは、まずは料理をその盛り付けられた皿ごと受けとることから始まる。
 受けとったあとでどう食べるかは、人それぞれだ。料理をほじくりかえして素材や製法を言い当てたがる人もいれば、他の料理と混ぜ合わせて自分の好きなように作りなおす人もいる。自分の好きなものだけ食べる人もいれば、食べない人もいる。私は料理をまるのまま食べることを好む。それをどのように消化し吸収しあるいは排泄するかは、胃と小腸と大腸あたりに任せてしまえばいい。
 でも、こと1Q84に関しては、うまく料理皿を受けとることができなかった。
 なぜか?
 受けとる手の感触を頼りに話すなら、おそらくその皿が割れているか、少なくとも大きなひびが入ってグラついているからだ。
 部分Aを持つと部分Bが落ちそうになり、部分Bを持つと部分Aが落ちそうになる。そこで仕方なく、私は右手で部分Aを左手で部分Bを、皿をなんとかひとつに保つように微妙な力加減をしながら持つはめになる。
 しかし、それでもうまくいかない。
 今度はなんらかの力がその皿を突き崩そうするのだ。しかも、どうやらその力は料理の内側から来ているようだ。

 

 具体的に見ていこう。
 問題は1Q84のパラレル・ワールドのような舞台設定にある。
 青豆はその世界をパラレル・ワールドと推測する。
 さきがけのリーダーは、肩を小さく震わせて笑う。
 「ここはパラレル・ワールドなんかじゃない」(2p271)と彼は言う。

 

 青豆がパラレル・ワールドだと考える理由はよくわかる。
 「警官の制服と拳銃」「月面基地」「さきがけとあけぼの」「NHK集金人の事件」
 青豆の知る過去が書き換えられている。とてもパラレル・ワールド的だ。
 でも、それでは説明できない事態もある。二つめの月だ。こうであったかもしれない過去といっても、ものごとには限界がある。月の数が書き換えられたなら、世界は私たちの知る現実からかけ離れた様相を呈することになる。生物は違う進化を遂げることになるだろう。もしかしたらもう少し賢くなれるかもしれない。しかも、この二つめの月は人によって見えたり見えなかったりする。あまりパラレル・ワールド的ではない。
 
 そしてこの青豆の推測は、さきがけのリーダーによって否定される。次はこのリーダーの言葉に耳を傾けてみよう。
 「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ。いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」(2p271)
 「ここではあくまで時間が問題なんだ。言うなれば線路のポイントがそこで切り替えられ、世界は1Q84年に変更された」(2p272)
 線路のポイントがそこで切り替えられた?どこで?
 文脈を素直に読むなら、「そこ」とは1Q84の冒頭、4月はじめのある風の日の午後3時をいくらか過ぎたあたりを指すことになる。
 では、そのポイントを切り替えたリトル・ピープルはどこからやってきたのだろう?
 私の知るところでは、リトル・ピープル(ここで問題になっているリトル・ピープル)は1Q84年の7年前のある夜山羊の口から現れたことになっている。しかし、ポイントが切り替えられる前には1Q84年は存在しない。1Q84年のないところには、その7年前もない。パラレル・ワールドのないところには1Q77年も存在しない。
 つまりリトル・ピープルは出現する機会に恵まれぬまま、いきなり1984年のポイントを切り替えたことになる。ご苦労なことだ。
 そんな脈絡のないことをするくらいなら、おとなしく1977年に山羊の口から現れた時点で、あるいはそのいくらか前の時点でポイントを切り替えればいい。そうすれば、青豆も自分の知る過去とみんなの知る過去が違っていることに戸惑う必要もない。わざわざ図書館に行って新聞を繰る必要もない。
 小説としても、それらいくつかの場面が削られるだけで、特に大きな変更を迫られることなく既存の1Q84のストーリーを展開できる。見える人にだけ月が二つ見えて、リトル・ピープルが暗躍する世界。とても村上春樹的だ。
 天吾の小説の書き方を見るまでもなく、過去の書き換え自体は小説を書く際の常套手段だ。でも一般的な登場人物たちは誰も小説の中からその事実を指摘したりはしない。当たり前だ。彼らはその過去の書き換えられた世界に生まれ、その世界に生きているのだから。
 こう考えると、小説1Q84にとって、パラレル・ワールド的設定は一見不要なものに思えてくる。それは青豆を世界から孤立させる手段としては有効に機能しているけれど、それ以上に全体に与える齟齬が大きい。
 一見不要に思えるにもかかわらず、それはくりかえし描写される。青豆は何度もそこが元の世界ではないことを自覚する。天吾もときどきねじれの感覚に襲われる。
 

 

 不要であるにもかかわらず、くりかえし語られること。
 おそらく私たちはそこから目をそらしてはならないのだろう。不要なことが語られるからこそ、そこには重要な意味がある。
 私も1Q84を読みながら、こんなややこしいことを考えていたわけではない。ただ、読みながら随所に感じていた違和感を詳しく整理していくと、こういうことになる。
 まずはこの違和感を共有してもらいたい。あるいは、このねじれの感覚を。
 1Q84においては、このねじれの感覚からすべてが始まるのだから。

 

 青豆も、天吾も、そして私たちも。

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2.

 問いは正しく立てられなければならない。
 1Q84の舞台設定に対する違和感が、その問いを与えてくれる。
 問「1Q84とは何か?」
 1Q84はパラレル・ワールドではない。では何なのか?
 この問いに答えるにあたって、ヒントとなったのは1Q84の中と外との相似だった。
 1Q84の中では『空気さなぎ』がベストセラーになっている。私たちのこの現実の世界ではその1Q84がベストセラーになっている。この入れ子のような相似関係をおもしろく思ったときに、それに気がついた。
 答「1Q84とは物語だ」
 当たり前のことだ。だからこそ気づきにくい。
 1Q84はけっしてパラレル・ワールドではない。物語なのだ。
 1Q84とは、自ら物語であることを主張するような物語だ。あるいは、物語であることに留まろうとする物語だ。
 だから、読者を強く惹きつける圧倒的な筆致で書かれているにもかかわらず、青豆を始めとする登場人物たちによって、物語の持つリアリティをその内側からが突き崩されているように見えるのだ。
 では、1Q84がそういう物語であることに何の意味があるのか?この問いに直接答えるのは野暮というものだろう。できるなら、私はこの文章のすべてをもって、この問いへの答えとしたい。

 話を戻そう。
 1Q84が物語だと気がつくと、それはいきなり当然のことになる。それらしきことは既にあちこちに書かれていることに気がつく。
 物語が始まる前から書かれている。

 ここは見世物の世界
 何から何までつくりもの
 でも私を信じてくれたなら
 すべてが本物になる

 今ならこの1行目の意味がはっきりとわかる。
 タマルも言う。チェーホフの拳銃の話をしているくだりだ。
 「でもこれは物語じゃない。現実の話よ」と言う青豆にタマルが答える。
 「誰にそんなことがわかる?」(2p33)

 天吾も二つめの月を目にして、その可能性に気づいている。彼はみんなからさんざんわかっていない人呼ばわりされるけれど、そのわりには重要なことによく気がつく。よいレシヴァだ。
 ということは――と天吾は自らに問いかける――ここは小説の世界なのだろうか?おれはひょっとして、何かの加減で現実の世界を離れ、『空気さなぎ』の世界に入り込んでしまったのだろうか。ウサギ穴に落ちたアリスみたいに。それとも現実の世界が『空気さなぎ』という物語にあわせて、そっくり作り替えられてしまったということなのだろうか。もともとあった世界は――ひとつの月しかないお馴染みの世界は――もうどこにも存在しないということなのだろうか。(2p426)

 1Q84が物語だと了解することでいくつかの疑問が解消される。
 まずは、事象が書き換えられる時点と青豆が1Q84へと移動する時点が大きくずれている理由が説明される。いや、説明の必要がなくなる、と言ったほうが正しいかもしれない。
 1Q84自体が物語で、過去の書き換えはその物語の設定に関することだから、そのことと青豆の登場のタイミングとは関係のない話なのだ。そして青豆の登場についてはまったく違う文脈から説明されることになる。
 物語は、物語の始まるところから、始まる。そして青豆は物語の登場人物として、物語の始まりから、物語の中へと入っていく、ということだ。
 
 青豆と一緒に物語の中へと入ってく人が他にもいる(天吾ではない。天吾の話はもう少しややこしくなる)。それは、私やあなた、つまり読者だ。青豆は読者とともに1Q84に入っていく。そして物語の全体にわたって読者的視点を持ち続けることになる。読者的視点を持つ青豆のおかげで私たちはスムーズに1Q84の中へ入っていくことができるわけだが、その一方で青豆が物語の内側に読者的視点を持ちこんで、世界に疑問を持ち続けることによって、1Q84は自らが物語であることを主張しつづけることになるのだ。

 それから、さきがけのリーダーの不可解な発言も理解しやすくなる。
 「ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、わたしたちにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」(2p272)
 「おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、いつもの世界なんだ。『これは本当の世界だ』とわたしがいうのは、そういう意味あいにおいてだよ」(2p273)
 おおかたの人々とは、物語の外とのつながりなど持たない無垢な物語の住人たちのことだ。
 「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」「しかしそれは簡単なことではない」(2p282)
 この発言は、前のパラレル・ワールドを否定するセリフと矛盾しているように聞こえるけど、「世界」を「物語」に置き換えれば矛盾はなくなる。1Q84という物語の中で青豆と天吾が結ばれることはない。歓迎すべき解決方法は二人が手に手を取ってこの物語から出て別の物語の中で幸せに暮らすことだ。しかしそれは簡単なことではない、と言っているのだ。言われるまでもなく、それは簡単なことではない。

 リーダーは超越的な立場からものを言う。青豆が読者的視点を持つのに対比して、リーダーは作者的視点を持っていると言ってもいい。リーダーは1Q84の中にいながら、作者的視点から青豆に1Q84の成り立ちを説明しているが、まさに1Q84の中にいることが彼の発言を限界付ける。
 青豆は、自分と天吾が何らかの形ある意思に導かれ、目的をもってこの1Q84の世界にやってきたことを聞かされて、リーダーにこう問う。
 「それはどんな意思で、どんな目的なの?」
 「それを説明することはわたしの任ではない」「申し訳ないが」
 「どうして説明できないの?」
 「説明ができないということではない。しかし言葉で説明されたとたんに失われてしまう意味がある」(2p279)

 リーダーがときどき1984年の世界に言及するため(たとえば「しかし、1984年の世界にあっては、君はそんな風に考えることすらなかったはずだ」(2p288)など)、ずいぶん話がややこしくなっているが、彼の言う1984年の世界とは、物語の外から見れば1Q84を書くにあたって参照された1984年であり、物語の中から見れば、1Q84年から遡って7年前のリトル・ピープルの出現がなかったらと仮定した場合に想定される1984年のことだ。後者の1984年はあくまで架空の1984年であり、前者の1984年は2009年現在では記憶と記録の中にしかなく、どちらの意味合いにおいても、「1984年はもうどこにも存在しない」(2p272) のだ。

 リーダーの言葉の多くは、1Q84が物語だと気づくことで理解可能なものになるが、それでもいくつかは不明のままに残る。その中でも特に異質なセリフがある。
 まずは青豆の質問から入る。
 「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」
 男は長いあいだその質問について考えていた。「それはおそらく君次第だ」
 「私次第」と青豆は言った。そしてわずかに顔を歪めた。「それはどういうこと?」
 男は静かに首を振った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにも言えない。実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」(2p290)

 青豆はこのあと『空気さなぎ』を通して、自分が天吾の物語の中にいることを知る。「ものごとのあるべき姿」とはそのことだろうか?しかしそれでは「重い試練」の意味がわからなくなる。いや、そうでなくても、「重い試練」が何を指すのか最後まで明らかにならない。
 「実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」
 ここでいう「死」とは誰の死をさすのだろう?リーダーの死か?それとも青豆の死か?どちらにとっても全体の意味するところはわからない。興味深いセリフだ。読者によってはここにbook3の匂いをかぐことになるだろう。
 でも、今の私たちはここにもうひとつの可能性を読み取ることができるはずだ。リーダーの死でもなく、青豆の死でもない、三つめの「死」の意味。物語の視点に立ってはじめて見えてくる意味がある。
 物語の終わり。
 実際に物語が終わるまでは、物語が終わるということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない。
 この三つめの可能性を通して、ようやくひとつの解釈が浮かび上がってくる。物語の終わった後のことを、登場人物に向かって語るはずはない。そんなことには意味がない。では、「君次第だ」とは誰に向かって語られた言葉なのか。
 青豆は読者的視点を持つ。リーダーは作者的視点を持つ。
おそらく「君」とはその文字通り、あなたのことだ。そして私のことだ。

 つまり「重い試練」は、1Q84を読み終わったあとの、この私に、そしてあなたに課せられているのだ。

 長い序論ではあったが、私たちはようやく扉を見つけた。
 まずは歩を進めよう。
 ものごとのあるべき姿を目にするために。

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3.

 私たちは重い試練をくぐり抜けなくてはならない。そしてそれをくぐり抜けたとき、私たちはものごとのあるべき姿を目にするはずだ。
 1Q84を読み終わった今、私たちはここをあとにする前に、どうやら1Q84を振り返らなくてはならないらしい。
 なぜ振り返る必要があるのか。その理由はさっきのリーダーの言葉だけではない。
 リーダーはこうも言う。
 「原因と結果という論法はここではあまり力を持たない」(2p273)
 天吾も言う。
 「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」
 「どちらが先でどちらが後なのか順番がわからない」(2p455)
 原因と結果が入り乱れている、この混乱した事態を収拾する方法はひとつだ。すべてが終わったあとで全体を俯瞰すればいい。そうしてものごとの因果関係を丁寧にたどるしかない。もちろん現実の世界ではそんなことはできない。ものごとには終わりというものがないし、私たちは俯瞰する視点を持たないからだ。だが、それが物語に留まるというのであれば、話は別になる。

 さあ、1Q84を振り返ろう。少しだけ特別な方法で。ものごとのあるべき姿を目にするために。
 まだ温もりが残っているうちに。

 
 はじまりの場所は、青豆が教えてくれる。
 すべてはこの物語から始まっているのだ。(2p421)
 『空気さなぎ』を読み終わってすぐに、青豆はそう感じる。
 すべてはこの物語から始まる。この仮定から歩き始めよう。
 『空気さなぎ』は、さきがけ内部の生活の描写からはじまり、そこにリトル・ピープルが現れて、ふかえりとともに空気さなぎを作る場面へと進む。空気さなぎの中に自分のドウタを見たふかえりは、そこに正しくないものを感じて、さきがけから逃げ出し、戎野先生のもとに身を寄せる。
 ここまでは他の場面でも多かれ少なかれ語られているエピソードだ。しかし『空気さなぎ』にはもう少し先がある。
 戎野先生のところで、ふかえりに友達ができる。しかしその友達にリトル・ピープルが害をなして、彼は失われてしまう。そして、ふかえりは自らの空気さなぎを作り始める。リトル・ピープルの秘密を解き明かして彼らに対抗するために。物語はふかえりが通路の扉を開けようとするところで、象徴的に終わる。
 『空気さなぎ』に描写されているものごとの大半は、ふかえりが身をもってくぐり抜けてきた紛れもない現実なのだ、と青豆は思う。
 私たちも青豆に賛成する。私たちはそうであることをすでに知っている。しかし、だとすれば、『空気さなぎ』には、私たちが知っていなければならないのに知らないことが書かれている。
 ふかえりが空気さなぎを作っている。
 ふかえりの作った空気さなぎとは何か?
 この問いをたてたときには、答えはすでに私の前にあった。もちろん、あなたの前にもある。それは逃げも隠れもせずに、ずっと1Q84の中心にあったのだ。ふかえりが作った空気さなぎとは何か?ありがたいことに、誰かががわざわざ名前入りのラベルまで貼ってくれている。ただ私たちが気づかなかっただけだ。
 ふかえりの作った空気さなぎとは何か?
 それは、小説『空気さなぎ』のことだ。
 ふかえりは、天吾と最初に会った中村屋で、「空気さなぎ」というタイトルをはじめて耳にする。
 「くうきさなぎ」とふかえりは言った。そして目を細めた。
 「『空気さなぎ』君の書いた小説のタイトルだよ」と天吾は言った。
 ふかえりは何も言わずにただそのまま目を細めていた。(1p93)
 自分の作った空気さなぎに、『空気さなぎ』とタイトルがつけられたことを知って、ふかえりは何らかの感慨をおぼえているように見える。
 リトル・ピープルは日が暮れてから夜が明けるまで、空気さなぎを作る。
 ふかえりはアザミに夜ごと物語り、アザミがそれを文章にして『空気さなぎ』を書いた。ふかえりの『空気さなぎ』は、それ自体が不完全であったため、それを受け入れ完成させるもの(レシヴァ)を要請し、天吾が1Q84の世界に登場することになる。そして、天吾とふかえりはふたりでホンをかく。『空気さなぎ』を完成させる。
 その際、天吾は必要に応じて自分なりのアレンジを施す。
 ひとつは空気さなぎの形状。
 そしてもうひとつは、二つめの月だ。
 月。
 あの教室で青豆に手を握られながら、二人見つめていた月。
 寡黙で一人ぼっちの衛星。二人は並んでその月を見ていた。(2p391)
 それはおそらく純粋な孤独と静謐だ。それは月が人に与え得る最良のものごとだった。(2p392)
 その月の横に、天吾が置いたものを私たちはしっかりと見なければならない。
 まずは青豆の目を通して。
 空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。(1p351)
 次に天吾の目を通して。
 ひとつは昔からずっとあるもともとの月であり、もうひとつはずっと小振りな緑色の月だった。それは本来の月よりかたちがいびつで、明るさも劣っていた。(2p424)
 その新しく加わった月は、まったくのところ、天吾が思いつきで描写したとおりの大きさと形状を持っていた。比喩の文脈までそっくりだ。(2p425)
 二つめの月について私たちに伝わる情報は、それが小さくて、緑色で、明るさは暗めで、そして形はいびつだということだけだ。形はいびつ。なんでこの作者は小松に怒られなかったのだろう?
 「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな?しかし空に月が二つ並んでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまでに目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる」(1p309)
 でも、どういうわけだか1Q84の二つめの月には「なるたけ細かい的確な描写」がなされていない。そこで私たちは天吾の描写に頼ることになる。『空気さなぎ』の二つめの月を見に行こう。私たちは青豆の目を通してそれを読む。
 画家の家に引き取られた翌日、部屋の窓から空を見上げ、月が二個に増えていることを少女は発見する。いつもの月の近くに、より小さな二つめの月が、ひからびかけた豆のように浮かんでいた。(2p424)
 ようやく、ようやく私たちは二つめの月の形を手にした。
 小さくて、緑色で、明るさは暗めで、豆のようなかたちをした二つめの月。
 私たちはそれと同じ色形のものを知っている。そしてその名を冠したひとりの女性を知っている。
 天吾は一人ぼっちの月の横に、彼自身自覚することなしに、彼女を求めていたのだ。
 ――青豆。
 月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。(2p395)
リーダーの言ったとおりだ。
 「きわめて簡単なことだ。それは君と天吾くんが、互いを強く引き寄せ合っていたからだ」(2p280)
 「天吾くんはレシヴァとしての優れた能力を具えていたようだ。君をここに連れてきたのも、言いかえるならその車両に君を乗せたのも、彼のそんな能力かもしれない」 (2p284)

 リトル・ピープルの出現が、結果的にふかえりに『空気さなぎ』を書かせ、その『空気さなぎ』がふかえりの持つ欠落を補うかたちで天吾を物語の中へと呼び寄せる。天吾のレシヴァとしての能力が物語世界に影響を与え、互いに引き合うように青豆を呼び寄せる。その青豆が世界に名前を与える。
 「1Q84」
 そして今、物語が始まる。

 原因と結果が入り乱れている。結果として始まる物語の中に原因が内包されている。天吾と青豆はそれぞれ違う因果で物語へと導かれながら、互いに引き合って、同時に物語の中へと入っていく。ふたりの後を追うように、私たちも一旦物語の冒頭へともどろう。

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4.

 物語の冒頭では、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れている。そして、青豆はなぜかそれがヤナーチェックの『シンフォニエッタ』であることがわかる。この意味するところは、二つめの月の話を持ち出すまでもなく明らかだ。『シンフォニエッタ』のエピソードは、天吾が立ち上げに関わった物語のその入り口を青豆が通っていくしるしであり、その証拠なのだ。青豆の中心にはいつも天吾がいて、『シンフォニエッタ』はその天吾とつながっている。そのため『シンフォニエッタ』はどうしても青豆の心の繊細な部分に触れてしまう。彼女は否応なく大塚環との秘密のエピソードを思い出してしまう。ホテルの一室で男を別の世界へと送った後でも、その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響く。(1p73)

 物語へと入っていく際に、青豆はねじれの感覚を感じている。
 その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。(1p16)
 天吾も似たような感覚を味わう。戎野先生から『あけぼの』の銃撃戦の話を聞いたときだ。
 銃撃戦、と天吾は思った。そんな話を耳にした覚えがある。大きな事件だ。しかしなぜかその詳細を思い出すことができない。ものごとの前後が入り乱れている。無理に思い出そうとすると身体全体を強くねじられるような感覚があった。まるで上半身と下半身がそれぞれ逆の方向に曲げられているみたいだ。 (1p231)
 物語の外側を暗示するものに対してねじれのような感覚を持つという一点において、二人は共通の態度を示す。しかしそれを除けば、天吾の1Q84の世界に対する反応は青豆と大きく違っている。
 天吾の書き換えられた過去に対する反応は、登場人物の誰とも異なっている。青豆のように過去の書き換えを認識することも、リーダーのようにそれを超越的に説明することもない。かと言って、その他の人々のように過去を当然の事実として受容しているわけでもない。
 さきがけ? と天吾は思った。名前には聞き覚えがある。しかしどこでそれを耳にしたのか思い出せない。記憶をたどることができない。それが彼の神経をいつになく苛立たせた。(1p225)
 天吾は顔を上げ、目を細めた。「ちょっと待って下さい」と彼は言った。あけぼの。その名前にもはっきり聞き覚えがある。しかし記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがなかった。彼が手で探りとれるのは、事実らしきもののいくつかのあやふやな断片だけだった。(1p230)
 書き換えられた過去を、天吾は一応は記憶している。知らなかったわけではないし、違う過去を知っているわけでもない。しかし、その記憶はひどく不明瞭だ。その記憶を無理に思い出そうとすると、天吾はねじれの感覚を感じる。それは青豆が物語の中に入ってくるときに感じた感覚に似ている。
 天吾のねじれの感覚にはまだ先がある。
 頭の芯が鈍く疼き、まわりの空気が急速に希薄になっていった。水の中にいる時のように音がくぐもった。今にもあの「発作」が襲ってきそうだ。(1p231)
 そう、ねじれの感覚はあの「発作」へとつながっているのだ。

 彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親でない男に乳首を吸わせている。天吾はその隣で寝息をたてて眠っている。しかし同時に天吾は眠っていない。彼は母親の姿を見ている。(1p173)

 天吾自身もこの「発作」の映像に対して考えを巡らせている。
 まずはフェイクの記憶である可能性について。
 子供が自分のまわりにある情景を、ある程度論理性を有したものとして目撃し、認識できるようになるのは少なくとも三歳になってかららしい。(1p30)
 一歳か二歳の幼児にそこまでの細かい見分けがつくものだろうか。そんな光景がありありと細部まで記憶できるものだろうか?それは後日、天吾が自分の身を護るために都合よく作り上げたフェイクの記憶ではないのか。(1p491)
 そして次に、実際の記憶である可能性について。
 拵えものであるにしては記憶はあまりに鮮明であり、深い説得力をもっている。そこにある光や、匂いや、鼓動。それらの実在感は圧倒的で、まがいものとは思えない。(1p31)
 それが本物の、実際の記憶であると考えてみよう。 
赤ん坊である天吾はその情景を目にして、きっと怯えたに違いない。自分に与えられるべき乳房を、誰か別の人間が吸っている。自分より大きく強そうな誰かが。そして母親の脳裏からは自分の存在が、たとえ一時的にせよ消えてしまっているように見える。それはひ弱な彼の生存を根本から脅かす状況である。そのときの根元的な恐怖が、意識の印画紙に激しく焼きつけられてしまったのかもしれない。(1p492)

 そのどちらの可能性も、この事態を十全に説明することはできない。
 だが、今の私たちにならそれができる。私たちには三つめの可能性が見えているのだから。
 その記憶がフェイクの記憶でも実際の記憶でもないような可能性。そしてそこでは、その記憶が実際の記憶でありながら、フェイクの記憶とも呼びうるような可能性。
 この赤ん坊の天吾と母親と、そして父親ではない男の記憶が、物語の外側に属しているという可能性だ。
 この記憶が物語の外側に属している。そう考えてみると、さっきまで五里霧中だったものごとの見通しが少しだけよくなる。
 まず、書き換えられた過去に対するねじれの感覚と、「発作」の感覚がつながっていることの説明がつく。
 それから、「発作」のときに天吾を襲ういくつかの症状、それらの意味するところが見えてくる。
 手足はすっかり痺れている。時間の流れがいったん止まる。まわりの空気が希薄になり、うまく呼吸ができなくなる。まわりの人々や事物が、すべて自分とは無縁のものと化してしまう。その液体の壁は彼の全身を呑み込んでいく。世界が暗く閉ざされていく感覚があるものの、意識が薄れるわけではない。レールのポイントが切り替えられるだけだ。意識は部分的にはむしろ鋭敏になる。恐怖はない。しかし目を開けていることはできない。まぶたは固く閉じられる。まわりの物音は遠のいていく。(1p32)
 描写されている症状のすべては、天吾を物語の文脈から切り離そうとしているように見える。世界を認識するための五感を閉ざされて、天吾の意識はレールのポイントの切り替えられた方向に向いている。つまり物語の外側に向いているのだ。
 では、あの記憶は何のか?もちろん、天吾の出生に関する記憶だ。しかし、物語の文脈に沿った出生ではない。平たく言ってしまうなら、それは天吾というキャラクターの創造過程のある一瞬を焼きつけた記憶か、あるいはその成り立ちのようなものを暗示する記憶なのだ。
 やろうと思えば、あの記憶のひとつひとつに意味づけをしていくこともできる。例えばこういうふうに。一歳半の天吾は、天吾というキャラクターの原型のようなものだ。そして、そこにさらに二つの要素が付与される。ひとつは作者の意識下にある認識可能なファクターとしての母親(その姿、表情が見てとれる)、もうひとつは作者の無意識に属する認識困難なファクターとしての男(「父親ではない」ことしかわからない)だ。意識下のファクターと無意識下のファクターは、乳房を吸い吸われるようなかたちで互いに影響を及ぼしあいながら天吾というキャラクターを形作る。そして、その構造を作者自身が内観している。その内観の記憶を、作者の分身である天吾が自らの記憶として持つ。
 一応の意味づけはできる。でも、この行為自体にはあまり意味がない。
 ここでもっとも重要なことは、天吾が自らのキャラクターとしての成り立ちの記憶を持っている、というそのことに尽きるのだ。どういうことか。
 青豆は物語の登場人物でありながら、そこがつくりものの世界であることを示唆している。
 天吾は物語の登場人物でありながら、無自覚的にではあるけれど、天吾自身がつくりものであることを示唆しているのだ。つくりものの主人公。ピノキオみたいだ。

 ここは見世物の世界
 何から何までつくりもの
 でも私を信じてくれたなら
 すべてが本物になる

 天吾は「発作」の記憶から良いものも受け取っている。
 それが天吾にとっての母親の記念写真だった。(中略)天吾の意識はそのイメージを通して辛うじて母親に通じている。仮設的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし、父親は天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。(1p173)
 そのイメージは天吾に大事な滋養を与えているが、その一方でそこには呪いにも似たメッセージが刻まれている。
 これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。(1p33)
 お前はどこに行こうと、何をしていようと、この水圧から逃げ切ることはできないのだ。この記憶はお前という人間を規定し、人生をかたちづくり、お前をある決められた場所に送り込もうとしている。どのようにあがこうと、お前がこの力から逃れることはできないのだ、と。(1p492)
 「お前はどこまで行ってもつくりものにすぎないのだ」とそれは言っている。
 そして、天吾はその呪いを越え出ていくことになる。

 『空気さなぎ』のリライトを終えたあたりから、天吾は少しずつ変化をとげていく。
 しかしそこにはひとつの変化が見受けられた。よき変化だ。天吾は小説を書きながら、自分の中に新しい源泉のようなものが生まれていることに気がついた。(中略)そのようにして物語は自然に前に進んでいった。(1p354)
 ふかえりの物語を自分の文章で書き直したことによって、自らの内にある物語を自分の作品としてかたちにしたという思いが、天吾の中で強くなった。意欲と呼べそうなものがそこに生まれた。その新たな意欲の中には、青豆を求める気持ちも含まれているようだった。(2p96)
 そして、その頃から天吾は「発作」に襲われることがなくなる。
 最後にあの幻影を目にしたのはいつのことだったろう?よく思い出せないが、たぶん新しい小説を書き始めたあたりだ。なぜかはわからないが、母親の亡霊はどうやらそのあたりを境にして、彼のまわりをうろつくことをやめたようだった。(2p428)
 おそらく、「発作」の記憶は天吾の新しい物語に回収されたのだろう。
 しかしその変化を快く思わないものもいる。牛河を使役する何者かだ。あいだにさきがけが入っているかもしれないが、最終的な黒幕はリトル・ピープルだろう。そして天吾と彼らの攻防が始まる。

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5.

 天吾とリトル・ピープルの攻防に進む前に、少し横道にそれよう。
 「深田夫妻の身に、あるいはまたエリの身に何が起こったのかを知るためには、我々はリトル・ピープルが何であるかをまず知らなくてはならないのかもしれない」(1p422) と戎野先生は言っていた。
 私たちは青豆と天吾の身に何が起こりつつあるのかを知るために、リトル・ピープルが何であるかをまず知らなくてはならない。そして、マザとドウタ、パシヴァとレシヴァ、さらにはアザミが何を意味するかを知らなくてはならない。

 もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。(1p539)

 「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。
 「人が知りえるのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ」(2p240)
 おそらくはリーダーの言うとおりだろう。私たちはリトル・ピープルが何ものかを正確に知ることはできない。
 だが、リトル・ピープルが作り出すものなら知ることができる。彼らが何をすることができて、何をすることができないかなら知ることができる。
 リトル・ピープルが作りだすものは空気さなぎだ。ふかえりの作った空気さなぎとは小説『空気さなぎ』だと前に言った。リトル・ピープルの作る空気さなぎも、やはり物語なのだ。あるいは物語的なものだ。
 1Q84の中には、じつに様々な物語が出てくる。
 たとえば、『平家物語』、ジョージ・オーウェルの『1984』、チェーホフの『サハリン島』、タマルの話す『一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う話』、『猫の町』etc。このあたりは物語らしい物語といっていいだろう。どの物語も示唆に富んでいる。
 個人的な物語も数多く語られる。天吾、青豆、老婦人、タマル、そして、天吾の父親、登場人物たちの人生の物語。
 それから、物語に留まらない物語、物語を越えでる物語もある。宗教(さきがけ、証人会)、政治的主義(あけぼの、タカシマ塾)、いくつかの過去と歴史、そして、青豆と老婦人が共有する狂気の物語。
 リトル・ピープルは物語を作る、といっても、彼らはもちろん小説家ではない。彼らが作るのは物語に留まらない物語だ。そして、そのような「物語」と一体となっている「価値の体系」なのだ。
 何が善で何が悪か、何が幸福で何が不幸か、そういう価値観はなんの前提もなしに存在しているわけではない。
 「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」
 「善悪とは静止されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ」(2p244)
 「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない」(1p385)
 そういう価値観の前提となるもの、価値観を規定するものが「物語」であり、「物語」によって規定される諸価値観の総体が「価値の体系」だ。「物語」と「価値の体系」は一体となっていて、わけて語ることはできない。
 リトル・ピープルの与える価値について、リーダーは「恩寵」と「代償・代価」という言葉で語る。同じ意味ではあるが、私は天吾の読んだ呪術についての本(社会システムの不備や矛盾を埋め、補完することが呪いの役目だった。(1p82))から借用して、「祝い」と「呪い」という使い慣れた言葉で価値について語りなおしたい。
 「しかしすべての恩寵がそうであるように、人は受け取ったギフトの代価をどこかで払わなくてはならない」(2p237)
 「恩寵」「代価」、「祝い」「呪い」はそれぞれ、価値というものの二面性をあらわしている。
 ある事物Aが価値あるものとみなされるということは、事物Aに祝いが与えられ、その他の事物B、C、Dに呪いが与えられるということと同義なのだ。
 「物語」「価値の体系」を、価値の地形にたとえてみてもいいかもしれない。地面は山あり谷ありのでこぼこした地形で、それぞれの地点A、B、C、Dの高低に、事物A、B、C、Dの価値(祝呪)が対応している。事物Aに価値があるということは、地点Aが山であることによって示される。そして地点Aが山であるためには、地点B、C、Dは低地である必要があるのだ。価値とは相対的なものであり、比較によってのみ規定される。あるものが祝いを受けているということは、とりもなおさず他のものが呪いを受けていることを指す。強い祝いは、それだけ深い呪いを伴うのだ。
 「その痛みはわたしから多くのものを奪っていったが、同時に見返りとして、多くのものを与えてくれた。特別な深い痛みが与えてくれるものは、特別な深い恩寵だ」(2p201)
 神は与え、神は奪う。(2p237)
 神は祝い、神は呪う。
 価値の相対性には、もうひとつ意味がある。
「善悪とは静止されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ」(2p244)
 それはつまり、山がいつまでも山であるとは限らないということだ。
 価値の地形は静止されたものではなく、揺れ動きつづける水面のようなものなのだ。地点Aが高まりすぎると、その反動として逆向きの強い力が価値の地形に加わることになる。
 「しかし大事なのは彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のようなものになった。そのようにして均衡が維持された」(2p276)

 1Q84に登場するいくつかの物語らしい物語は、それぞれこの価値の体系について私たちに何かを語ろうとしているように見える。その声に少しばかり耳を傾けてみよう。
 『平家物語』は絶大な権力を誇っていた平家の一族が源氏に打ち滅ぼされる物語で、そこにはひとつの価値の体系が他の価値の体系に取って代わる様子が描かれている。ふかえりが天吾の前で暗唱した「壇ノ浦の合戦」は平家を頂点とする価値の体系がまさに滅ぼうとしている場面だ。
 ジョージ・オーウェルの『1984』の中では、ビッグ・ブラザーという独裁者ただひとりの指示によって歴史という「物語」が書き換えられている。だが1Q84の世界ではリトル・ピープルと呼ばれる不特定多数の存在が「物語」を作っている。戎野先生の言うとおり、なかなか興味深い対比だ。
 『サハリン島』のギリヤーク人について書かれた章は、モスクワで華やかな生活をしていたチェーホフの目を通して、異質な「物語」を持つギリヤーク人の生活が描かれている。ギリヤーク人の価値観がなぜそうであるのかは、違う「物語」に属するチェーホフには理解できない。だが、違うことは理解できる。そこに違う「物語」があり、違う「価値の体系」があることは理解できる。そしてそのようなギリヤーク人の異質な「物語」に触れることを通して、自らも限定された「物語」の中にいるにすぎないことと向き合おうとするチェーホフの姿勢がそこにある。
 タマルの『一匹のネズミが菜食主義者の猫に出会う話』は、彼らがとても長い腕を持っていることを教えてくれる。一般的な猫の「物語」においては、ネズミはエサだ。その「物語」の中ではネズミは生まれながらの被害者だ。だからネズミはその「物語」に組み込まれることを恐れる。しかし、幸運なことに今回の相手は菜食主義者の猫だった。彼は「一般的な猫の物語」の中ではなくて、「菜食主義者の猫の物語」の中にいるのだ。そしてその「物語」の中ではネズミはエサではない。でもネズミは結局捕まってしまう。レタスと交換にエサにされるのだ。ポイントは、「交換」を介して彼らの長い腕はどこまでも伸びてくる、というところにある。「心温まらない話」青豆のかわりに言っておこう。

 空気さなぎが物語だと気がつくと、そのほかのものごとの意味も見えてくる。
 まずはマザとドウタ。
 その二つが何であるかを知るうえで、1Q84に提示されるヒントはきわめて少ない。『空気さなぎ』に描かれていることがほぼすべてだ。だが、実をいうとそれで十分なのだ。
 『空気さなぎ』では、ふかえりがリトル・ピープルとともに空気さなぎを作る。その中にふかえりのドウタが見出される。
 ここに、私たちの持つヒントを足すことで答えが出る。
 「空気さなぎとは物語である」
 『空気さなぎ』では、ふかえりがリトル・ピープルとともに物語を作る。その物語の中にふかえりのドウタが見出される。
 平たく言えば、マザとは物語の作者であり、ドウタとは物語の中の作者の分身たる登場人物のことだ。しかしドウタとは小説家だけのものではない。1Q84の中でも、多くの登場人物たちが自身の声で自らの過去について、人生について語っている。人が自分の物語を語るとき、その物語る本人がマザであり、物語られる自分がドウタだ。
 それで、リトル・ピープルの言葉も理解できる。
 「ドウタはマザの代理をつとめる」
 「キミは何も二つに分かれるわけじゃないぞ。キミは隅から隅までもとのままのキミだ。心配はいらない。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ」(2p411)
 「マザはドウタの近くにいる」「ドウタの面倒をよく見るように」
 「マザの世話なしにドウタは完全ではない。長く生きることはむずかしくなる」
 「ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」
 「こころのかげをなくしたマザはどうなる」と少女は尋ねる。彼らは互いに顔を見合わせる。誰もその問いには答えない。(2p412)
 マザが世話をしないとドウタが長く生きることができない、というのはわかる。
 語るものなくして、語られるものは存在できない。
 では、マザがドウタを失う、というのはどういうことだろうか?ふかえりの質問にリトル・ピープルは答えない。
 私が、私のままでありながら、語られるべき私を失う。戎野先生の家に来たばかりの頃のふかえりが、その状態にあったはずだ。
 「そのときの彼女は、誰に対しても口をきけない状態になっていた。言葉そのものを失ってしまったようだった。話しかけても、それに対して肯くか首を振るか、その程度のことしかできなかった」(1p257)
 「いや、ショックを受けているとか、何かに怯えているとか、両親と離されて一人ぼっちになって不安だとか、そんな雰囲気はなかった。ただ無感覚なだけだ。それでもエリはうちでの生活に支障なく馴染んでいった。むしろ拍子抜けするくらいすんなりと」(1p261)
 ふかえりの内面についてはうかがい知れないが、ドウタを失ったふかえりは自分のことに限らず、すべてのことについて語ることができなくなっているようだ。語る視点を持たない物語が、物語として成立しないのと同じことなのかもしれない。
 ふかえりはその後、長い時間をかけて少しずつ感情を取り戻していく。毎晩アザミと二人で部屋に閉じこもって何をしていたのかはわからない。でもある段階から、ふかえりがアザミに物語を語るようになる。ふかえりは物語を語ることで語るべき自分を、ドウタを回復していく。もしかしたら、さきがけがつばさのドウタを回収したように、ふかえりも自らのドウタを回収し治療していたのかもしれない。

 そのドウタの役割についてのふかえりの問いに、リトル・ピープルが答えているところで今度はパシヴァの話が出てくる。
 「このドウタはわたしのこころのかげとしてなにをする」と少女が尋ねる。
 「パシヴァの役目をする」と小さな声がこっそりと言う。
 「パシヴァ」と少女が言う。
 「知覚するもの」としゃがれ声が言う。
 「知覚したことをレシヴァに伝える」と甲高い声が言う。(2p411)
 パシヴァとは知覚するもので、レシヴァとはそれを受け入れるものだ。私たちに即して考えるなら、知覚することとその知覚を受け入れることはひとつのことで、わけて理解することは難しい。
 でもじつを言うと、あなたはレシヴァとは何かを、すでに体験している。1Q84を読んでいるあいだ、あなたはずっとレシヴァだったはずだ。そう、レシヴァとは読者のことで、パシヴァとは読者が感情移入する登場人物のことだ。ドウタとパシヴァは、物語の登場人物のふたつの側面を表す言葉なのだ。
 「レシヴァとパシヴァがひとつになる」とは、読者が登場人物に深く感情移入してその人になりきることを指す。そうすることで初めて、物語は生きた物語となる。

 そして、このパシヴァの定義でいくと、マザであるふかえりが同時にパシヴァなのはおかしいということになる。ふかえりは、ほんとうにマザなのか、あるいはドウタなのか?同じ疑問が『空気さなぎ』のラストにも描かれていた。
 それでもときどき彼女はわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。私は本当にマザなのだろうか。私はドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか。考えれば考えるほど彼女には確信が持てなくなる。私が私の実体であることをどのように証明すればいいのだろう?(2p417)
 思い出してみれば、ふかえりには小さな矛盾がつきまとっていた。
 記者会見の練習のときに天吾から、どうしてボーイフレンドがいないのかと聞かれて、「ニンシンしたくないから」(1p370) と答えているけど、オハライの際に天吾と交わったときには「わたしはニンシンしない。わたしにはセイリがないから」(2p308) と言っている。
 リトル・ピープルについて話すときもそうだ。電話で天吾に、山羊を実際に飼ったことがあるのかと聞かれて、「ヤギのはなしはしない」(1p140) と言ったり、電車の中で、『空気さなぎ』の書き方について話しているときに「でもちいさなコエではなさなくてはならない」「あのひとたちにきかれないように」(1p183) と言ったりと、リトル・ピープルに関連する明言を避けているように見えるときもあるが、しかしそれ以外の場面ではわりと平気そうにリトル・ピープルの話をしている。
 それらいくつかの矛盾が、私たちをひとつの結論に導く。
 ふかえりは、マザとドウタの二人いるのだ。そして、その二人めのふかえりという発想がある名前に結びつく。
 マザはmotherだった。ドウタはdaughterだった。パシヴァはperceiverで、レシヴァはreceiverだ。そして、アザミはother me(もう一人の私)なのだ。
 このことに気づいて読み返してみると、ふかえり(マザ)と戎野先生がふかえり(ドウタ)を指示するときにアザミという名前が使われていることがわかる。ふかえり(ドウタ)は、原理的にふかえり(マザ)に言及することはできない。
 リトル・ピープルへの明言を避けているのはふかえり(マザ)で、ふかえり(ドウタ)は堂々と話している。物語の外ではタブーであることも、物語の中でなら語ることができるということだろうか。Book2に登場するのは一貫してふかえり(ドウタ)のようだけど、book1ではマザとドウタが頻繁に入れ替わっている。ふかえりが天吾に宛てたカセットテープがとくにややこしくて、間があいたときに二人が何度か交代しているようだ。
 この事実がわかってようやく、ふかえりの言う「わたしたちはひとつになっている」「ホンをいっしょにかいた」(1p426) の意味が正しく理解できる。この言葉を口にするふかえりは常にふかえり(ドウタ)であり、それはつまり『空気さなぎ』の語り手である十歳の少女だ。天吾はこの十歳の少女とレシヴァとパシヴァとしてひとつになることで『空気さなぎ』をリライトした。別の言い方をすれば、天吾が物語の外側から、ふかえり(ドウタ)が物語の内側から一緒になってホンをかいた、といことだ。
 ふかえりが二人いる、という事実をわかりにくくしているのは戎野先生で、彼はおそらくふかえりにも嘘をつくように指示している。小松も言っている。
 「腹の底が読みきれない人だからな」(1p361)
 「見かけはその変の罪のないじいさんだが、実はまったく得体の知れない人だ」(1p362)
 ふかえりが二人いることがわかっても、戎野先生の発言のどこまでが本当でどこからが嘘なのかは、ようとして知れない。彼に本当に娘がいるのかどうかすらわからない。先に書いた、ふかえりがアザミに物語りながらドウタを回復していく過程も深い謎に包まれてしまう。得体の知れないじいさんだ。

 「物語」の話にもどろう。
 「物語」あるいは価値の体系を考える際に、私たちがもっとも危険視しなければいけないものは、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者、ではない。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちでもなければ、もちろん便秘でもない。それらはすべて三番目だ。
 もっとも危険なのは、空白だ。
 価値の体系のないところでは、私たちは一歩も動けない。私たちは価値の体系なしには生きられない。そして価値の体系の外には善も悪もない。つまり、空白は、そこを何らかの価値の体系で埋めようとする力に対して、何ひとつ抵抗するすべを持たないのだ。たとえそれが、自らを呪うような価値の体系であったとしても。
 あゆみは大きな欠落のようなものを内側に抱えていた。それは地球の果ての砂漠にも似た場所だ。(中略)彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人間をこしらえなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひとつ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。(2p104)
 「誰が彼女を殺したにせよ、ものごとの脆弱な部分がいつも最初に狙われることになる。狼たちが、羊の群れの中の一番弱い一頭を選んで追い立てるように」(2p246)
 リトル・ピープルはおそらくあゆみの無の深淵に空気さなぎを作ったのだ。それも彼女自身を呪うような空気さなぎを。そしてそれが彼女を破滅的な行動に走らせて殺してしまったのだろう。
 年上のガールフレンドに対してもリトル・ピープルが害をなしている。それがどのような害であったかを私たちは知ることができないが、彼女の空白についてなら、ある程度知ることができる。彼女が天吾に話したあの夢の話から。
 彼女は森の中を一人で歩いている。午後で、温かくて気持ちのいい、明るい森だ。おそらく彼女自身の物語の森なのだろう。行く手にフレンドリーな外観の小さな家がある。ところがノックしても声をかけても返事がない。中はシンプルな造りで、テーブルには四人分の料理がきれいに並べられている。お皿からは白い湯気が立っている。でも誰もいない。彼女はみんなが何かの怪物を恐れて逃げ出したように感じる。日は暮れて森は深くなっていく。どれだけ待っても誰も現れない。料理からは相変わらず湯気が立ち続けている。夢は凶兆をはらんだまま終わってしまう。
 年上のガールフレンドは自分がその怪物である可能性を恐れている。そうであるなら、彼女がいるかぎり小屋の住人が戻ってくることは永久にない。
 それに対して天吾が言う。
 「そこは君自身の家で、君は逃げ出した自分自身を待っているのかもしれない」(1p548)
 天吾の解釈に従うと、こういうことになる。
 夢の中で、彼女はマザとして自分の物語の森に入っていく。そしてそこに彼女自身の家を見つける。でも、そこにはいなければならない人がいない。彼女の物語において語られるはずの、彼女のドウタがいないのだ。
 「君の中には語られるべき君がいないのかもしれない」と言っているのだ。天吾は睾丸を二つとも握りつぶされたとしても、文句をいえないと思う。
 そのあと、彼女は天吾のひどい仮説を否定するように、自らの物語を語る。
 私は十八歳で、フリルのついたかわいいワンピースを着て、髪はポニーテイル。すごく真面目な学生で、そのときは処女だった。(1p544)
 彼女のドウタはちゃんとここにいる。
 しかし、それとは別に彼女の物語の森の中には空白の小屋がある。そしてリトル・ピープルがその脆い部分を見逃すことはない。彼らはそこに空気さなぎを作って、彼女を損なってしまう。

 リトル・ピープルは、「物語」の、あるいは価値の体系の空白に入りこむ。
 「さきがけ」においても、おそらく同じことが起きたのだと思う。
 資本主義(物質主義)もコミュニズムも否定されている。革命の思想も「あけぼの」の分離とともに離れていく。明確な主義は残されていない。そんな中、特別な意味を持つとされていた山羊が死んでしまい、ふかえりは十日間土蔵に隔離される。隔離は重大な罰則のひとつで、ふかえりの犯した罪に対する罰としてはやけに重い。この罰の重さに、特別な山羊の死が「さきがけ」に与えたショックの大きさを見るべきかもしれない。そのようにして、価値の体系の空白が生まれ、リトル・ピープルが現れたんじゃないだろうか。

 しかし、この価値の体系の話から、リトル・ピープルに対抗する手段も見えてくる。
 自分の中に、価値の体系に組み込むことが不可能であるような自らの「物語」を持っていれば、リトル・ピープルに対抗できるのだ。
 リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。(1p539)
 ふかえりが言っているのは、おそらくそういうことだ。
 このことに関して、天吾が面白いことを言っている。あの雷雨の夜に天吾がふかえりに、リトル・ピープルについての推論を話しているところだ。
 「しかし彼らには限界もある」
 ふかえりは肯いた。
 「なぜなら彼らは森の奥に住んでいる人々であり、森から離れるとその能力をうまく発揮できないからだ。そしてこの世界には彼らの知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなものが存在している。そういうことかな?」(2p267)
 知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなもの?冷静に読むとかなりおかしい発想だ。どういうふうに考えたら、知恵や力といった実際的なものに対抗する手段として、価値観なんてものを思いつくのだろうか?できることなら、あなたにもその辺りを読み直してほしい。それなりに笑えると思う。本当に脈絡がないのだ。でも今なら、それがおおむね正解であることがわかる。天吾はみんなからさんざんわかっていない人呼ばわりされるけど、なぜだか難しいところを言い当てる。いいレシヴァだ。
 そして、天吾は今、そのリトル・ピープルの知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなものを実際に手にしつつある。「物語」に組み込まれることのない天吾自身の物語を作りはじめている。

 長い脱線を終えて、私たちは天吾とリトル・ピープルの攻防にもどる。

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6.

 天吾は『空気さなぎ』のリライトを終えてから、少しずつ変化してきた。つくりものが本物に近づいていくように、自らの物語の源泉を見つけ、意欲を持つようになった。その事態をリーダーはこう表現している。
 「『空気さなぎ』を実質的に書いたのは天吾くんだ。そして今、彼は新しい自分の物語を書いている。彼はそこに、つまり月の二つある世界の中に、自らの物語を発見したんだよ。絵里子という優れたパシヴァが彼の中にその抗体としての物語を立ち上げさせた」(2p284)
 『空気さなぎ』を完成させたことに加えて、天吾が自らの物語を立ち上げつつあることがリトル・ピープルに危機感を募らせているようだ。この天吾の自らの物語こそが、「抗体としての物語」であり、「リトル・ピープルのもたないもの」、つまり価値の体系に組み込むことのできないものであり、「何らかの価値観のようなもの」なのだ。
 リトル・ピープルは牛河を使って、その物語を無理やり価値の体系に組み込んでしまおうとする。まずは助成金三百万円という値段をつけることで、資本主義という価値の体系の中に位置づけてしまおうとする。それを天吾にはねつけられると、今度は年上のガールフレンドに何らかの害をなし、天吾の不安をあおることで、安心を盾にして再び価値の体系に取り込もうとする。
 だが、それも拒絶される。天吾の中にあるものは、何かと交換したりすることのできるようなものではないし、何かと比較したりするべきものでもない。天吾にはそのことがわかっている。だから取引に応じることはできない。魂は誰にもわたせない。
 そして、天吾は千倉の療養所あるいは猫の町へと向かい、そこで父親からいくつかの言葉を聞く。
 猫の町とはどういう場所か。小説「猫の町」の言葉を引こう。
 ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。そこは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。(2p167)
 千倉の療養所は、失われるべき場所だ。そして天吾のために用意された、この物語の世界ではない場所なのだ。では、そこでいったい何が失われたのだろう?
 もちろん、天吾だ。療養所を訪れた天吾に父親は言う。
 「私に息子はおらない」
 「あなたは何ものでもない」(2p174)
 「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」(2p175)
 「あんたを産んだ女はもうどこにもいない」(2p182)
 「あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ」(2p183)
 その言葉の正確な意味はわからない。あの「発作」の映像を説明しているようにも聞こえるし、マザが空気さなぎを介してドウタを生み出すところを説明しているようにも聞こえる。でもどちらにしても、ここは物語の世界ではない場所で、それは物語の外の話だ。ここではすでに、天吾の物語の文脈に沿った出生は失われている。そして天吾はその喪失を受け入れる。
 「世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」(1p525)
 あゆみの言うとおりだ。私たちはここにその果てしない闘いの一応の決着を見る。天吾の持つ二つの出生。今その一方が失われて、一方が残る。
 そして、天吾は生まれ変わる。
 翌朝、八時過ぎに目を覚ましたとき、自分が新しい人間になっていることに天吾は気づいた。(中略)あの映像は意味のない幻覚じゃなかった。どこまでもそれが真実を反映しているのか正確にはわからない。しかしそれはおそらく母親が彼に残していった唯一の情報であり、良くも悪くも彼の人生の基盤となっているものだった。それが明らかになったことで、天吾は背中から荷物を下ろしたような気持ちになれた。いったん下ろしてしまうと、自分がこれまでどれほどの重みを抱えてきたのかが実感できた。(2p206)
 天吾は、天吾を縛りつけていた物語の文脈から解き放たれたのだ。
 ふかえりは天吾の顔をしばらくしげしげと見た。それから言った。「あなたはこれまでとはちがってみえる」(2p213)
 それに応ずるリトル・ピープルの行動もすばやい。彼らは牛河を介して天吾にある情報を与えようとする。
 「ですから、もしあなたがお知りになりたいというのであれば、お母さんの情報をそのままお渡しすることもできます。私の理解するところでは、あなたはたぶん母上のことを何ひとつご存じないまま育ってこられたはずだ。ただしあまり愉快とは言えない種類の情報も、そこには含まれているかもしれません」(2p220)
 彼らは物語の中の母親の情報を天吾に与えることで、再び彼を物語の文脈に引き戻そうとするが、申し出は拒絶される。

 天吾はその出生の過去を失うことで、物語から解放される。しかし、いいことばかりではない。その失われたところには、空白が残る。そして、リトル・ピープルはものごとの脆弱な部分を狙ってくる。
 「ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはない」
 「リトル・ピープルがいりぐちをみつけるかもしれない」(2p270)
と、ふかえりは言う。「オハライをしなくてはいけない」
 具体的なところはわからないけど、天吾の過去の失われたところの空白を入り口として、リトル・ピープルが二人のところまで侵入してきて何らかの害をなす、ということだろうか。
 オハライはその対策のようなものだろう。空白を埋めるのだから、その空白の部分に何か他のものを、他の物語のようなものをあてればいい、と普通は考えるんじゃないだろうか。少なくとも私はそう考えた。でも違っていた。
 ふかえりのオハライはもっとユニークで、かつ決定的なものだ。
 そしてそれは、私たちにとっても重要な意味を持つことになる。
 オハライのために二人は一緒に猫の町に行く。そこでパシヴァとレシヴァとしてひとつになる。ふかえりは天吾と交わりながら何かを知覚しようと探している、あるいは待っている。そして、それは訪れる。
 「テンゴくん」とふかえりは言った。彼女がそんな呼び方をするのは初めてのことだった。(2p304)
 天吾にはその言葉の意味するところがわからない。彼は一度も聞いたことがないからだ。でも私たちにはわかる。私たちは彼をそう呼ぶ人を知っている。青豆だ。
 ふかえりが青豆を知覚して、天吾がそれを受け入れる。
 天吾と青豆はふかえりを介してひとつになる。そして二人は、二人を結ぶあの場所で邂逅する。
 気がつくと彼は十歳で、小学校の教室にいた。それは本物の時間で、本物の場所だった。本物の光で、本物の十歳の彼自身だった。(中略)少女はそこに立ち、右手を伸ばして天吾の左手を握りしめていた。彼女の瞳を天吾の目をじっとのぞき込んでいた。(2p306)
 天吾にはそれが本物であることがわかる。幻覚でもなければ回想でもない。再現ですらない。
 そこは十歳のときの教室で、そこにはいるのは十歳の天吾と青豆だ。でも、十歳の天吾であると同時に現在の天吾だ。十歳の青豆であると同時に現在の青豆だ。青豆自身は、ふかえりに知覚されてここにいるだけだからか、このことを知ることはない。
 ――現在の青豆。青豆は今、ひとり別の場所でリーダーと対峙している。リーダーの口から、1Q84の成り立ちについて、リトル・ピープルについて、青豆と天吾の巻き込まれている事態について聞かされているところだ。
 彼女はいろんなことをすでに知っている、と天吾は思った。彼はまだそれを知らない。その新しいフィールドでは彼女が主導権を持っていた。そこには新しいルールがあり、新しいゴールと新しい力学があった。天吾は何も知らない。彼女は知っている。(2p307)
 青豆はリーダーから心愉しいものではない二つの選択肢を提示され、そのひとつを自ら選ぶ。天吾が生き、おそらく青豆が死ぬであろう選択肢だ。そしてひとつ、些細な、しかし重大な願いを口にする。
 私たちはすでにそれを聞いている。もうずいぶん昔のことのような気がする。私たちがなぜ今ここにいるのかを思い出さなくてはならない。
 「ひとつ教えてほしいことがあります」と青豆は言った。
 「わたしに教えられることなら」と男はうつぶせになったまま言った。
 「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」
 男は長いあいだその質問について考えていた。「それはおそらく君次第だ」
 「私次第」と青豆は言った。そしてわずかに顔を歪めた。「それはどういうこと?」
 男は静かに首を振った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにも言えない。実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」(2p290)

 そして今この教室で、青豆はそれを天吾に手渡しする。

 そして少女も、今ここで理解されることを期待してはいない。彼女が求めているのは、自分の感情を天吾にしっかり送り届けるという、ただそれだけのことだ。それは小さな固い箱に詰められ、清潔な包装紙にくるまれ、細い紐できつく結ばれている。そのようなパッケージを彼女は天吾に手渡していた。
 そのパッケージを今ここで開く必要はない、と少女は無言のうちに語っていた。そのときがくれば開ければいい。あなたは今これをただ受け取るだけでいい。(2p307)
 私たちはようやく、ひとつの目的を終えたのかもしれない。そして確かに、世界のあるべき姿を目にしつつあるようだ。
 天吾がふかえりの中に射精して、オハライは終わる。
 相変わらず、原因と結果が入り乱れている。
 十歳のときの教室。あれから紡がれた二十年間の物語がくるりとまかれて、今がふたたびあのときの教室に重なって、そこに円が作られたのだ。
 そして(ふかえりは)空中に指先でするりと小さな円を描いた。ルネッサンス期のイタリア人画家が教会の壁に描くような、美しい完璧な円だった。始まりもなく、終わりもない円だ。その円はしばらくのあいだ空中に浮かんでいた。「もう終わった」(2p310)
 ものごとはしかるべき段階をたどって循環し、ようやくひとつのサイクルを終えたようだった。空中に完璧な円が描かれたのだ。(2p311)
 円の中心には青豆がいる、そして青豆が託したパッケージがある。完璧な円には始まりも終わりもない。断端も空白もない。断端も空白もないところには、もちろん入り口もない。

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7.

 オハライによって天吾はとても特殊な存在になった。
 青豆、と天吾は思った。
 青豆に会わなくてはならない、と天吾は思った。彼女を探し出さなくてはならない。(2p309)
 天吾はもはや作り物ではない。自らの意思で、自らの愛で、天吾は動きはじめる。
 もはやただのパシヴァではないし、ただのドウタでもない。彼を規定する物語は、1Q84の文脈の中でもなく、1Q84の外側でもなく、彼自身の内に完璧な円としてある。そしてその本当に意味するところを私たちはあとで知ることになる。もう少し先の話だ。
 「ネコのまちにいけばわかる」とその美しい少女は言った。そして耳を露わにしたまま、白ワインを一口飲んだ。(2p458)
 天吾の最後の変化と時を同じくして、世界も変化を見せる。青豆がリーダーを別の世界に移動させたことで、リトル・ピープルは〈声を聴くもの〉を失う。物語は作者的登場人物を失い、千倉では天吾の父が完全な空白に覆われる。
 そして、いよいよお化けの時間が始まる。物語はまるで幽霊船のように進んでいく。
 天吾と青豆はお互いに求めあいながら、多義的には出会うが(天吾は青豆を探して二つめの月を見つける。そしてその天吾を青豆が見つける)、一義的にはすれ違い、そして青豆は自らの運命を受け入れて、1Q84の世界から出て行くことを選ぶ。
 ものごとのあるべき姿を目にするために、私たちはここでいったん青豆の物語をさかのぼらなければならない。

 場所は柳屋敷。青豆と老婦人がお互いの秘密を交換しあったあとに、老婦人から信じがたい提案がなされた。慈悲をかける余地のない男たちを処理する仕事、それを手伝ってほしいと老婦人は言う。
 老婦人は間違いなくある種の狂気の中に、あるいは正しい偏見の中にいる。それは青豆にもわかっている。
 どれほど長く考えていたのだろう。深く考えに耽っているうちに、時間の感覚がどこかで失われてしまったようだ。心臓だけが硬く一定のリズムを刻んでいた。青豆は自分の中にあるいくつかの小部屋を訪れ、魚が川を遡るように時間を遡った。そこには見慣れた光景があり、長く忘れていた匂いがあった。優しい懐かしさがあり、厳しい痛みがあった。どこかから入ってきた一筋の細い光が、青豆の体を唐突に刺し貫いた。まるで自分が透明になってしまったような不思議な感覚があった。手をその光にかざしてみると、向こう側が透けて見えた。身体が急に軽くなったようだった。そのとき青豆は思った。今ここで狂気なり偏見なりに身を任せ、それで身が破滅したところで、この世界がすっかり消えてなくなったところで、失うべきいったい何が私にあるだろう。
 「わかりました」と青豆は言った。(1p394)
 リトル・ピープルは空白に入り込んで、そこに空気さなぎを作る、という話を前にした。だが空白というものは本来、その人の心の奥深くに隠されていて、そう簡単にたどりつけるものではない。上に長く引用したこの場面は、おそらく青豆自身が長い時間をかけて自分の中の空白に行きつき、そこに老婦人の「狂気の物語」を受け入れる様子を描写している。
 青豆はその「狂気の物語」が持つ価値の体系に身を投じて、その「物語」が規定する善と悪とに従って、慈悲をかける余地のない男たちを処理していき、その結果として、「さきがけ」のリーダーと対峙する。
 そして、「狂気の物語」の善悪に従ってではなく、天吾への愛の「物語」に従ってリーダーを別の世界へと移動させた。
 気がついたときにはもう「狂気の物語」は「物語」としての効力を失っている。天吾への愛はしっかりとそこにある。でもそれとは別のところで「狂気の物語」が終わりを告げ、そしてあとには空白が残される。
 タマルは青豆に、タマル自身の物語を語る。青豆は彼らのファミリーの不可欠な一員であり、その絆が断ち切られることはない、というメッセージを送る。でもその物語もうまく機能しない。
 しかしそのような密接な関係が、暴力というかたちを通してしか結ばれないのだと思うと、青豆はやりきれない気持ちになった。(2p373)
 空白を埋めることはできない。
 青豆の中心には天吾への愛がある。
 その一方で、そこには確かに空白がある。
 そして、からっぽのアパートにただひとつ残してきた鉢植えのゴムの木のイメージが、青豆につきまといはじめる。
 どうしてこんなにあのゴムの木のことが気になるのだろう?(2p434)
 それは私たちにどうしても冒頭のゴムの木を連想させる。
 高速道路の非常階段を下りる途中で目に入った、小さなマンションのベランダにそれはあった。
 うらぶれて色褪せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。(1p57)
 その連想を止めることはできない。
 私たちはここで、青豆の中に二つの「物語」あるいは「価値の体系」を見ることになる。
 「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」と名づけよう。
 「天吾への愛」は青豆に祝いを与える物語だが、常に抽象的でそして非現実的だ。
 「ゴムの木と金魚の物語」は青豆に呪いを与える物語だ。その価値の体系の中では、青豆には価値あるものは何も残されていない。天吾の温もりだけが別のところで唯一抗っている。
 「天吾への愛」は天吾の持つ「自らの物語」と同じように、どこまでも青豆だけのものだ。だからこそそれはリトル・ピープルに対する抗体のような力を発揮した。作者から与えられた物語ですらないから、その内容が1Q84の中でそれとして描写されることはない。私たちは青豆の行動や思いの端々から、または天吾側の回想から、その大きさや色形を想像する。
 「ゴムの木と金魚の物語」は、青豆がリーダーを処理する話が具体的になり始めたあたりから、こっそり青豆の中にしのびこんでいた。柳屋敷で金魚を見た青豆は、無性に金魚が欲しくなって買いにいくが、どうしても買うことができなくて、かわりにゴムの木を買ってしまう。その話は小さな隙間に植えられた不吉な種子のようにそこにあった。そして青豆がリーダーを処理した次の日に、唐突に力を持ちはじめる。
 「彼らはただそこに刺激を与えただけだ。タイマーの設定を変更するように」(2p247) 
 青豆は「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」のあいだで、ふたつに引き裂かれそうになっている。
 「天吾への愛」は『空気さなぎ』を通して滋養を得る。
 青豆は『空気さなぎ』を読んで、自分が天吾の立ち上げた物語の中にいることに気がつく。
 私は今、天吾くんの中にいる。彼の体温に包まれ、彼の鼓動に導かれている。彼の論理と彼の鼓動に導かれている。そしておそらくは彼の文体に。なんと素晴らしいことだろう。彼の中にこうして含まれているということは。
 青豆は床に座ったまま目を閉じる。本のページに鼻をつけ、そこにある匂いを吸い込む。紙の匂い、インクの匂い。そこにある流れに静かに身を委ねる。天吾の心臓の鼓動に耳を澄ませる。
 これが王国なのだ、と彼女は思う。
 私には死ぬ用意ができている。いつでも。 (2p422)
 しかし、その一方で「ゴムの木と金魚の物語」が、青豆を強く揺さぶる。
 それからひとしきり青豆は泣いた。いったいどうしたのだろう、と青豆は小さく首を振りながら思う、このところ私は泣きすぎている。彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこぼれ出る涙を抑えることはできなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。みすぼらしいゴムの木ひとつ残されていない。少しでも価値あるものは次々に消えていった。何もかもが私のもとから去っていった。天吾の記憶の温もりのほかには。(2p436)
 そこには二つの「物語」の綱引きがある。青豆は二つの感情のあいだで、二つの自己像のあいだで揺れ動いている。そして私たち自身もその「物語」の綱引きに否応なく巻き込まれてしまう。青豆は、死ぬ用意ができていると言う。いつ死んでもかまわないと言う。でも私たちにはそれが青豆の本心なのかどうかがわからない。それが善い意思から来ているものなのかどうかがわからない。天吾との運命の邂逅を望んでいたではないか、と思う。「でも、本当のことをいえば、私は生きて天吾くんとひとつになりたかった」(2p290)と言っていたではないか、と思う。どうしても「ゴムの木」のイメージがつきまとう。
 青豆の天吾への愛は確かにゆるぎないものだ。でも寄り添う現実があまりに儚い。青豆に与えられるのは抽象的なイメージや失われた可能性だけだ。
 一方、「ゴムの木」が青豆に、そして私たちに与える負のイメージは具体的でそれゆえ根強い。青豆は涙を抑えることができないし、その涙は私たちの胸を引き裂く。
 「ゴムの木と金魚の物語」は私たちにリトル・ピープルを思い出させる。彼らは、あゆみに対してしたことを、今、青豆にしようとしているのではないだろうか?「天吾への愛」の抗体の力はどうしたのだろう?抗体を持っていても、そこに空白があれば侵入を許してしまうのだろうか?
 「それでもいつか彼らは君を追い詰め、厳しく罰するだろう。そういう緊密で暴力的で、後戻りのできないシステムをわたしたちは作り上げたのだ」(2p286) 
 本当のところはわからない。わかったところで仕方がないかもしれない。それはもうそこにあるのだ。

 そして、その二つの「物語」の綱引きを、天吾との巡り合いが激しくかき回してしまう。
 その夜、青豆は現実の天吾を児童公園の滑り台の上に見つける。それは青豆に「今すぐここで彼の太い腕に抱かれたい」という強い思いをいだかせる。でも結局は間に合わない。
 結果的にはそれでよかったのだ、と青豆は自分に言い聞かせる。おそらくはそれがいちばん正しいことだった。少なくとも私は天吾に巡り合えた。通りを一本隔てて彼の姿を目にし、彼の腕に抱かれるという可能性に身体を震わせることができた。たとえ数分間であっても、私はその激しい喜びと期待を全身で味わうことができた。彼女は目を閉じ、滑り台の手すりを握りしめ、唇を噛みしめる。(2p443)
 しかしその短い時間のあいだに、彼は私の中の多くのものごとを変成させていった。文字通りスプーンでココアをかき混ぜるみたいに、私の心と身体を大きくかき回していったのだ。内臓や子宮の奥まで。(2p460)

 そして青豆は、かき回された綱引きを抱えたままに高速道路を訪れる。出口が塞がれていることを確認して覚悟を決める。私たちは、気持ちを見定められないままにそのときを迎える。

 「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。(2p474)

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8.

 終章へと進む今、あなたに話しておきたいことがある。
 二つめの月について、それから、あなたについて。

 『空気さなぎ』の中に天吾が描いた二つめの月が、青豆だという話はすでにした。
 では、そもそも月が二つになることの意味は何なのか?ヒントはいつも青豆がくれる。あゆみを家に泊めて二つめの月を発見した、その次の夜だ。月は相変わらず二つのままだが、青豆はもともとある大きいほうの月についてこう考える。
 月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくはこの地上で起こった現象や、行われた行為のすべてを目にしてきたはずだ。(1p381)
 同じことが二つめの月に対しても言えるはずだが、二つめの月にはその性質上いくつかの条件がつく。
 「二つめの月はドウタが目を覚ましてから、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくは、その二つめの月が見えるひとのいる場所で起こった現象や、行われた行為のすべてを目にしてきたはずだ」
 ドウタが目を覚ますのは、物語が始まるときだ。物語の始まりから、物語の世界で起こった現象や、行われた行為を目にしているもの、それが二つめの月が意味するものだ。
 つまり、二つめの月とは読者を、あるいは読者の視点をあらわしているのだ。
 そしてそれが、あなたについて話さなければならない理由になる。
 前にあなたはレシヴァだと書いた。では誰のレシヴァなのか?パシヴァは誰か?問われるまでもなく、あなたにはもうわかっているはずだ。あなたが誰の思いに心を動かされてここまで来たのか。あなたが誰の涙に胸を痛めてきたか。あなたが誰のために手を差し伸べられることを願ったのか。
 そして二つめの月。
 あなたははじめから1Q84に含まれていた。あなたの姿はそのパシヴァの名を模して、ずっと1Q84の空に描かれていたのだ。

 あなたは青豆のレシヴァだ。そして、いびつなかたちをした緑色の月だ。

 「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」(2p290)
 そんなに驚くことではないはずだ。もともとあなたは青豆に向けられたこの言葉を自分のものとして受け入れたからこそ、ここまで来たんじゃないか。
 青豆が知覚する。あなたが受け入れる。
 そして、あなたは青豆のレシヴァとして終章へと進む。

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9.終章

 最初に言っておこう。
 私たちはここから少し先で道をわかつことになる。
 同じ道を歩くことができないと言っているのではない。私は、歩く道は同じだと確信している。言いたいのは、これから起きることはどこまでも個人的な体験にとどまる、ということだ。読書とはもともと個人的な体験じゃないかと言われれば、その通りだと認めるしかない。でも私が言いたいことはもう少しややこしい。
 1Q84は物語であることを主張するような物語だ。天吾はつくりものであることを示唆するような登場人物だった。それらと同じ意味あいにおいて、ここから先はどこまでも個人的な体験にとどまるのだ。
 私は案内役として私の歩いた道をあなたに示す。私にできることはそこまでだ。あとはあなたが、青豆のレシヴァとして、あなたの足で歩かなければならない。

 千倉の療養所で、天吾は長い時間をかけて、意識のない父親に自分の物語を語る。
 夕方に父親は検査のために運び出されていく。そして日の暮れた病室のベッドのうえ、父親の身体が残したくぼみに、天吾は空気さなぎを見つける。
 天吾はそれが自分自身の空気さなぎだと直感的に判断するが、なぜそれがそこにあるのかがわからない。でも私たちにはわかる。私たちはその空気さなぎが長い時間をかけて作られていくさまをじっと見ていたのだから。
 空気さなぎとは物語だ。空白に紡がれる物語だ。天吾は空白に覆われた父親に向かって、自らの物語を語ることによって、そこに空気さなぎを作り出していたのだ。「あなたはかわった」とふかえりは言った。でもどう変わったのか、天吾にはわからなかった。今ならそれがわかる。彼は自らの物語を、空気さなぎを作ることができるのだ。
 天吾が父親に語った物語は、あの雷鳴轟く夜に、ふかえりのオハライによって作られた完璧な円の物語だ。円の中心には青豆がいるはずだ。青豆の託したパッケージがあるはずだ。
 
 でも天吾は怯える。それが自分の空気さなぎであることを直感的に理解しているにもかかわらず、いや、理解しているからこそ怯える。自らの空気さなぎと向きあうことに恐怖を感じる。
 「物語」あるいは価値の体系の話で、もっとも危険なのは空白だと言った。そして三番目に危険なものは偏狭な精神を持った宗教的原理主義者と、家庭内暴力をふるう卑劣な男たちと、便秘だと言った。そこに「折りじわのよった服を着ること」を加えてもいいかもしれない。
 では二番目に危険なものは何か。
 この「怯え」である。私を含み、私を護っているこの「物語」、この価値の体系そのものと向きあう、そのことに対する「怯え」だ。その怯え自体は正当なものだと思う。何が善くて何が悪いか、何が幸福で何が不幸か、何が価値あることで何がそうでないか、すべてはこの「物語」によって与えられている。じつはこの付与こそが、彼らが私たちに与えてくれる最大の恩寵なのだ。そしてこの「怯え」がその代償となる。自分の属する「物語」と直接に向きあった先に、何が起こるかは誰にもわからない。もし私が依拠している「物語」を私自身が否定するようなことになれば、私はすべてを、まさにすべてを失うことになるだろう。その「物語」が大切なものであればあるほど、それと向きあうことは恐怖となる。
 「君は怯えている。かつてヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ。正確に言えば、カトリック教会はいまだに公的には地動説を受け入れていない」(2p282)
 だが、その「怯え」を抱えているかぎり、私たちは偏狭な「物語」の中にいつまでも閉じこもることになる。外なる「物語」を認められないところにとどまることになる。なによりも自分にとって大切な「物語」と向きあえないことになる。
 天吾は自らの物語と向き合うために、その「怯え」を越えていく。その空気さなぎに手をかける。
 
 天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。
 青豆、と天吾は口に出した。(中略)天吾の口にした言葉は少女の鼓膜をわずかに震わせることができた。それは彼女の名前だった。(2p498)
 そして、空気さなぎを介して、天吾の物語と青豆の物語がここで交わる。天吾の空気さなぎが、ほんの一瞬だけ天吾の物語の中に青豆の物語を引き入れる。
 

 青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。(2p499)
 

 青豆はあの高速道路にいる。場所は遠く離れている。時間はまだ午前中だ。でもそんなことはかまわない。空気さなぎをあいだに挟んでいるのだ。原因と結果は入り乱れている。
 
 「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。(2p474)

 青豆の中には、かき回されたままの「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」がある。
 私たちは青豆のレシヴァとして、二つの「物語」の綱引きにすでに巻き込まれている。
 その綱引きの結果に対する、私の、あるいはあなたの判定がここで静かに問われている。
 青豆の物語はわずか三文だ。
 青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。(2p499)
 青豆ははじめて天吾にその名前を呼ばれる。それが天吾の声であることが青豆にはわかる。そして青豆も天吾の名を呼ぶ。これ以上のことはなにも描かれていない。
 忘れてはならないのは、ここが新しいフィールドだということだ。ここには新しいルールがあり、新しいゴールと新しい力学がある。私たちはこの新しいフィールドを支配する新しいルールを、ほんの一部かもしれないが、知っている。
 ひとつは、空気さなぎが原因と結果の関係を超えて、世界に影響を与えうるということ。
 もうひとつは、私、あるいはあなたは、二つめの月として、青豆のレシヴァとして1Q84に含まれている、ということだ。
 そして、ここで私とあなたの道がわかれる。
 綱引きの結果は、私の心が決める。私の目が何を見ているか、私の心が何を感じているか、あとはそれら次第だ。レシヴァが受け入れていること、それはパシヴァが知覚しているものだから。
 青豆は、天吾が自分の名前を呼んでいることを知る。天吾が自分を探していることを知る。そして、青豆の心に、天吾の愛があふれる。綱引きはひとつの結末を迎える。
 そして、この新しいルールと綱引きの結末に基づいた視点が、私にあることに気づかせる。たったひとつの言葉だ。この視点がなければ、それは物語の文脈に埋もれてしまっていただろう。実際、book2の終わりを読んでいるときは気にも留めていなかった。でも、今ならそれに気づくことができる。今私たちがいる場所はbook2の終わりではないからだ。私たちは物語が一度終わったところから出発している。テキストは同じだが、私たちはbook2の終わりのその遥か先にいる。
 それは、そこにはっきりと書かれている。いや、「はっきりと」と書かれている。
 青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。(2p499)
 その言葉はずっとそこで、ひとつの可能性を内包しながら、自分が発見されるのをじっと待っていた。
 青豆は「天吾くん」とはっきりと口に出している。いったい誰が銃を口にくわえながら、はっきり「天吾くん」なんて言えるというんだ。そこにヘックラー&コッホはないのだ。それはもう青豆の口からはずされている。
 空気さなぎが物語を書き換える。
 私の目は勝手に、その先を見てしまう。
 おそらくヘックラー&コッホは彼女の手から滑り落ちている。青豆は泣いているんじゃないかと私は思う。そしてメルセデス・ベンツ・クーペから降りた身なりのいい中年の女性が青豆に歩み寄っているんじゃないかと私は思う。泣く青豆の手に温かく触れるものがある。

 それから思い切って手を伸ばし、空気さなぎの中に横たわっている少女の手に触れた。そこに自分の大きな大人の手をそっと重ねた。その小さな手がかつて、十歳の天吾の手を堅く握りしめたのだ。その手が彼をまっすぐに求め、彼に励ましを与えた。淡い光の内側で眠っている少女の手には、紛れもない生命の温もりがあった。青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。天吾はそう思った。それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡ししてくれたパッケージの意味だった。彼はようやくその包みを開き、中身を目にすることができたのだ。
 青豆、と天吾は言った。僕は必ず君をみつける。(2p499)

 

 山の迫った海岸線に沿って、特急列車が大きなカーブを描いたとき、空に並んで浮かんだ二個の月が見えた。静かな海の上に、それらはくっきりと浮かんでいた。大きな黄色い月と、小ぶりな緑色の月。輪郭はあくまで鮮やかだが、距離感がつかめない。その光を受けて海面の小波が、割れて散ったガラスのように神秘的に光った。二つの月はそれから、カーブにあわせて窓の外をゆっくりと移動して、その細かな破片を無言の示唆として残し、やがて視野から消えていった。(2p500)

 私と天吾は、そこで最後に顔をあわせて、言葉を交わすことなく別れる。
 私は、月に与えられた特権として、そのあと少しのあいだ天吾の様子を見つめて、そして、長い物語が終わりを告げる。

 リーダーには申し訳ないが、実際に物語が終わってみても、物語が終わるということがどういうことなのか、私にはよくわからない。
 その先にはどのような世界があるのか、あるいは、ないのか。
 でも、天吾の心は決まっている。僕は必ず君を見つける。(2p499)
 その心が青豆を満たす。
 私はただそれを受け入れる。

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10.

 最初に「空気さなぎという名前の本当の意味を知ることなる」と書いた。
 その約束を今、果たしたい。
 空気さなぎは、その形状はまゆなのに、名前にはさなぎとついている。
 「だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています」(1p35)
 天吾も指摘している通りだ。辞典を引くとこう書いてある。
 さなぎ【蛹】完全変態を行う昆虫類の幼虫が、成虫に移る途中で食物の摂取を止め、脱皮して、静止しているもの。繭の中に入っているもの(ガ・ハチなど)と裸のもの(チョウ・甲虫など)とがある。
 まゆ【繭】昆虫の蛹を保護する包被。
 つまり、まゆが外殻、形状で、さなぎがその中身、内容だということだ。

 空気さなぎが、空気の中から取り出した白い糸をくっつけて作られていくのと同じように、物語は、何もなさそうに見えるところから、言葉を見つけて文章を紡ぎ、それらをひとつにつなぎあわせることで作られる。そして、物語においては、その形である文字の並びがそのまま物語の内容であり、その形と内容を切り離すことはできない。
 つまり物語とは、まゆのように作られるものなのだが、そうやって作られたものそれ自体がそれの意味内容、中身であるという点で、さなぎ的なのだ。
 空気さなぎが物語であるからこそ、それはまゆのような製法および形状とさなぎの名をあわせ持つ。

 ではなぜ、まゆであり、さなぎなのか?
 まゆである理由は1Q84を読めばわかる。その中で私たちは何度か空気さなぎがまゆのように割れて、その中身が出てくるところを目にした。それが割れて中身が出てくるからこそ、それはまゆなのだ。
 同じアナロジーに従うなら、それがさなぎである理由は、それ自体が中身として羽化するから、つまり空気さなぎが羽化するから、であるはずだ。しかし、1Q84の中には羽化については何も書かれていない。1Q84の中の空気さなぎはどれもまゆのように割れてしまう。だが、羽化する空気さなぎは存在する。1Q84という物語がそれだ。
 空気さなぎの羽化は、1Q84の中に描写されるものではない。それは1Q84によって示されるべきものなのだ。

 もう一度、小松のあの言葉を引こう。
 「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな?しかし空に月が二つ並んでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまでに目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる」(1p309)
 確かにその通りだ。
 でも、それが「誰もこれまでに目にしたことのないものごと」だと、話は変わってくる。
 誰も目にしたことのないものごとを、細かく的確に描写することなど私たちにはできない。それを伝えるための言葉を、私たちは持っていないのだ。
 あるいは、今持っている言葉で伝えることができないからこそ、これまで誰も目にしたことがないと言えるのかもしれない。
 
 だから、あなた自身にここまで来てもらうしかなかった。
 ここに実際に立って、あなたの目で見てもらうしかなかった。

 あなたは一度1Q84を読み終えて、それから私の誘いにのって1Q84を振り返ってくれた。
 今、もう一度だけ後ろを振り返ってほしい。
 見えますか?この風景が。
 一度読み終えたときは物語にすぎなかったものが、ただの空気さなぎにすぎなかったものが、呼び名を持たない何かに姿を変えて、1Q84があったはずの場所で静かに動き出しているあの姿が。
 見えますか?
 空気さなぎの白い糸の一本一本はそのまま変わることなく、でも互いの束縛を超えて組みかわり、あるいは右の翅の細かな鱗毛となって淡い色彩を現し、あるいは左の翅脈となって全体に澄んだ液体を送り届けている、あの姿が。
 それはその場所で静かにうずくまりながら、その時が来るのをじっと待っている。目を凝らせば体幹の薄い表皮ごしに、できたてほやほやの心臓が儚く、でも確かに生の力強さを秘めて拍動している様子が見てとれる。心臓の送り出す液体は、淡い青の混じった光を宿しながら翅脈を登り、今はまだしわのよって弱々しい両翅を、ゆっくりと押し広げている。
 
 最後に、私はあなたに問いたい。もしかしたら、このために私はあなたにここまで来てもらったのかもしれない。誰かに問いかけたくてしかたがなかったのかもしれない。

 あれはいったい何ですか?

 答えを急ぐ必要はない。おそらく私たちはこの問いに答えるための言葉をまだ持っていない。
 それでも、問わずにはいられなかった。
 ここに示すことができたのは1Q84の基本的な構造にすぎない。その射程はあまり高く、あまりに広い。私たちはあの翅がどのようにはばたくのかをまだ知らない。そして、おそらくはこれから永い時間をかけてそれを目にすることになる。

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2009年10月17日 (土)

空想された手紙、二通

1.届くあてのない手紙
 
 風のたよりに、きみが結婚するという話を聞いてから、ずいぶん経つ。
 今ようやく伝えるべき言葉が見つかったような気がして、筆をとります。
 おめでとうは言いません。
 ひとつには、青豆ほど珍しくはないにしても、きみのチャーミングな苗字が変わってしまうのが、とても残念だから。
 もうひとつには、深い祝いには深い呪いが伴うから。
 おめでとうを言えない代わりに、遠いこの地からきみの幸せを祈っています。きみときみの大切なひとが幸せであることを。
 向ける先もないままに手をあわせて。
 青豆のように届くあてのない言葉を口にして。
 天吾のようにかたちのない祈りを宙に紡ぎ出して(2p499)
 祈る神を持たぬ者の祈りはあまりに弱く、その弱さゆえに「物語」を越えて届くでしょう。
 
 どこまでも降り続ける霧雨のように。
 それはほんのわずかに大地を潤す。
 


2.返ってくることのない返信(抜粋)
 
 ありがとう。
 (中略)
 あなたの祈りは弱く、でも確かにわたしのところに届いていて、その弱さゆえにとても豊かです。
 あなたは、わたしとわたしの大切なひとたちのために祈ると書いてくれました。わたしの大切なひとのなかには、もちろんあなたも含まれています。
 わたしも祈りたいと思います。あなたとあなたの大切なひとのために。
 そして、そこにわたしが含まれているのなら、とてもうれしいです。
 
 あなたの言うように、あてのない祈りは「物語」を持たないゆえに弱く、しかしそれゆえに「物語」を越え出ていきます。
 それは霧雨のようにほんのわずかに大地を湿らすだけでしょう。
 でも、それがほんとうにほんのわずかなのかは誰にもわからない。

 「テンコウというのはあくまでうけとりかたのもんだいだから」(2p263)

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2010年5月10日 (月)

Re:Book3を書くにあたり

再びRe:1Q84を書くにあたって、前回分をRe:Book1,2、今回の文章をRe:Book3と呼ぶことにする。

Book3の内容によってはRe:1Q84自体が不要となる可能性もあった。
実際、青豆が生きていたのであれば、Book2の結末の揺らぎは消えてしまい、Re:Book1,2のように振り返ることは不可能になるはずだ。

だけどBook3を読み終わった今、私はRe:Book1,2は可能だと考えている。

関心は日々移動する(3牛河p29)
いつのまにか重力は変化し、ポイントは移動を終えていた(3天吾p59)

Book1,2とBook3は、同じ1Q84世界で同じ青豆と天吾を主人公とする連続したストーリーではあるが、別々の物語だ。関心は移動し、いつのまにか重力も変化し、ポイントは移動を終えている。
音楽でいうなら、テーマが変わっている。

ただ、Book3が出版された今、Re:Book1,2はその立ち位置を少しだけ変えることになった。
正確には、Re:Book1,2の立ち位置が少しだけ多義的になった。
わかりやすいところでは、Re:Book1,2は〈Book2 終わり〉とBook3の始まりのわずかな間隙をつなぐ梯子のような役割を果たすことになるだろう。間隙はあるかないかの小さなもので、その梯子もぐるりと遠回りをする――それも、もはや無駄と思われるような遠回りをする――梯子なので、万人におすすめはできないけど、たまには普段と違う道を歩いてみたいと思うひとには是非この梯子をのぼってほしい。無駄と思われるものにもそれなりに意味があるのが世の常ではあるし、なにより、Re:Book1,2を読まずにRe:Book3を了解することはむずかしいだろう。

と同時に、Re:Book1,2はもうひとつ違う意味合いも持つことになるのだが、それについては後でどこかに書くことになると思う。

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2010年5月12日 (水)

Re:Book3-1

1Q84 Book3はつまらない。
Re:Book3はこの一文からはじめたいと思う。
これは比喩でもなければ象徴でもなく、私が読み終わった直後に思った素直な感想だ。
多少表現の違いはあるかもしれないが、多くの読者がこれに似た感想を抱いたのではないだろうか。
なにか期待外れだったな、と。

あなたがBook3をどのように読んだか聞いてみたい。
じつは、久しぶりのムラカミワールドにゆっくり浸ろうと思っていたのに、気がついたら読み終わってしまっていたのではないだろうか?
読書中はずっと、何かに追われているような焦りと今にも何かが起こりそうな期待を感じていて、その焦燥感と予感とに急き立てられるように読み進んでいくんだけど、いつまでたっても何も起こらず、気がついたら木型から押し出されるトコロテンみたいにつるりと読み終えていたのではないだろうか?

私はそのようにしてBook3を読み終わった。
終盤で牛河がひどい死に方をする。
それはたしかに私に強い衝撃を与えはしたが、それだけだ。
肝心の青豆と天吾には本当になにも起こらない。二人は何事もなく出会い、階段を上り、別の世界に脱出する。なんの引っかかりもなく、それこそ公園の滑り台を滑り降りるようにとてもスムーズに月の二つある世界を出て行く。
正体不明の焦燥感はいつのまにか消えうせ、クライマックスへの予感は満たされることなく物語は終わる。

がっかりした。Book3なんて書かなければよかったのに、とさえ思った。

「おかしい」とか「納得できない」とか「気持ち悪い」とかならまだいい。実際、Book1,2に対して私は「設定がおかしい」という印象を持ち、それをきっかけにRe:Book1,2を書いた。
しかし「つまらない」は致命的だ。
それは興味や思考の対象から外されることを意味する。以前Re:Book1,2を書いた手前、Book3についても何か書こうかと思っていたがその気も一度は失せた。

でも、何かが私の意識の遠い縁を蹴っていた。そして何かが自分の意識の遠い縁を蹴っているとき、私は常にその何かが何であるかを探り当てることにしていた。

なんかおかしくないか?

今まで村上春樹が書いた物語がつまらなかったことがあっただろうか?

いや、ない。

Book1,2はつまらない話へと続くような出来だっただろうか?

いや、違った。それは私をふるわせる物語だった。
そのBook1,2の続きとして村上春樹が書いたものを、私が読んでつまらないと感じるはずがない。
だが、実際につまらないと感じている。

この事態を説明しうる可能性について考えてみよう。

1.村上春樹の作家としての力量に問題がある。

2.私の読み方に問題がある。
3.つまらないことに意味がある。
4.つまらないことには理由がある。

1番は私の経験則が否定している。
2番は私が今検討すべき選択肢ではない。それは私以外の誰かが、あるいは未来の私(そんなものがいればの話だが)が検討すればいい。

3番からは問が生まれる。

問.では、つまらないことの意味とはなんですか?

答えは返ってこない。間違った質問。安達クミならそういうかもしれない。

4番。これはどうだろう?
4番からも問が生まれる。

問.では、つまらなくなった理由はなんですか?

「どんな人間にも思考や行動の定型は必ずあるし、定型があればそこに弱点が生まれる」
「定型がなければ人は生きていけない。音楽にとってのテーマと同じだ。しかしそれは同時に人の思考や行動にたがをはめ、自由を制約する。優先順位を組み替え、ある場合には論理性を歪める」(3青豆p334)

とタマルはいう。

定型あるいはテーマは優先順位を組み替え、ある場合には論理性を歪め、そこに弱点を生むことになる。
4番。これだ。
Book3がつまらないのは、優先順位が組み替えられ、論理性が歪められているからだ。そこに譲れぬ定型があり、弱点が生まれているからだ。
では、どのようなときに人は定型をかかえ、優先順位を組み替えることになるのか?

そこに、願いがあるときに。

先のタマルのセリフは、マンションの一室から動かないことを決めた青豆の態度に言及したものだ。
青豆が天吾を求めたように、青豆が小さなものを守りたいと思ったように、ここにも何かの願いがある。
そのためなら、たとえBook3がつまらなくなってもかまわないと思えるほどの強い願いが。
いや、そのためなら必然的にBook3はつまらなくなるが、それでもかまわないという強い願いが、ここにある。

小説にとってつまらないという弱点は致命的だ。その弱点を受け入れてまで優先される願いとはなんだ?

いったい、だれがなにを願ったのだろう?

私の直感はすでにある答えを示している。それは、あなたが素直に思い浮かべる答えと同じものだと思う。でもそれを言葉にする前に、少しだけ回り道をしよう。

三ヶ所ほどの道草にお付き合い願いたい。
もしかしたら、いくらかはソリッドな証拠も集められるかもしれない。

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Re:Book3-2

まずは1Q84 Book1,2。
Re:Book1,2にも書いたように、1Q84とはマザ(作者)とドウタ(作者の分身にあたる登場人物)とパシヴァ(知覚する者、読者が感情移入する登場人物)とレシヴァ(受け入れる者、読者)と空気さなぎ(物語)が同一平面上に描かれるという、とてもややこしい世界だった。
青豆と天吾のいる「1Q84年の世界」は小説「1Q84」と同義で、青豆はその世界の中からそこが物語であることを示唆していたし、天吾は自身が物語の登場人物であることを示唆していた。
そこでは、ひとりの人間(例えば天吾)がドウタ(=レシヴァ)でありながらマザであったり、それと同時に別のレシヴァにとってのパシヴァにもなったりしていて、おかげでありとあらゆるものが多義的な意味合いを帯びている。

ざっくり言ってしまうとBook1,2とは、天吾(レシヴァ)とふかえり(パシヴァ)が一緒になって小説「空気さなぎ」を書きなおし、青豆(パシヴァ)と私たち読者(レシヴァ)が一緒になってBook2のラストを書きなおす物語だ。
Book1,2では重要なキーワードであるレシヴァとパシヴァだけど、Book3ではほとんど出てこない。そのかわりに何度も繰り返し使われる言葉がある。
マザとドウタ。
大きい月と小さい月、青豆と小さなもの、天吾と彼の物語(その中に描かれているはずの誰か)、安達クミのマザとドウタの話。それは場所をかえ、姿をかえて繰り返し語られている。

マザとドウタ。

次の道草先は、物語の終盤、牛河の死体の口からリトル・ピープルが現れて、空気さなぎを作るところだ。

彼らはごく当たり前の顔をしている。サイズを別にすれば、あなたや私とだいたい同じ顔をしている。(3牛河p566)
その五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を、最初のリトル・ピープルが慣れた手でひとつに紡いだ。(3牛河p567)

「あなた」や「私」とだいたい同じ顔をしたリトル・ピープルが、空中の糸と牛河の頭髪を紡いで作る空気さなぎ……。
この奇妙な空気さなぎになにかデジャブのようなものを感じないだろうか?
どこかで見たことがある、あるいは読んだことがある、というのではない。
空中から取り出された白に近いクリーム色で半透明の糸と、牛河の陰毛のような縮れ毛。
相反する、といいたくなるほどに不釣合いな組み合わせ。
この、滑稽さをともなう強い違和感。
私はここを読んだときに、同じようなショックをごく最近どこかで感じたような気がした。
いつだったろう?
ああ、あのときだ。
書店でBook3を手に取り、軽い気持ちで表紙をめくって目次を見てしまったあのときだ。
牛河、青豆、天吾、牛河、青豆、天吾、牛河、……牛河!?
滑稽さをともなう強い違和感。
そして、そこからひとつの仮定が生まれる。
Re:1Q84では、ふかえりの作った空気さなぎとは小説「空気さなぎ」のことだと言った。
それと同じように、この奇妙な空気さなぎは、Book3そのものを指しているのではないだろうか?
1Q84の空中から取り出された糸と牛河の縮れ毛から作られる空気さなぎ。
元来の青豆の章と天吾の章に加えて牛河の章から構成される物語。
あるいはそれは合わせ鏡のようにどこまでも反復されていくパラドクスなのかもしれない。この世界の中に私が含まれ、私自身の中にこの世界が含まれている。(3青豆p476)

この仮定が正しいかどうかはわからない。
だが、ここは牛河のように、ひとつ高名な「オッカムの剃刀」の法則に従って、なるったけシンプルに仮説を積み上げてみよう。
この空気さなぎがBook3そのものなのだと仮定してみよう。
Book1,2でもその物語の中に、天吾と青豆が1Q84という物語へ導かれた理由が時間軸を無視して描かれていた。それが1Q84世界のルールであるなら、牛河についても同様にどこかに1Q84の中に入っていく契機が描写されているはずだし、そんな描写はここをおいて他にない。
さて、もしそうなった場合、この空気さなぎを作る場面はBook3の終盤の一場面でありながら、Book3が作られている場面でもある場所、つまりBook3の中でもありながら、外でもある場所ということになる。
ではこの場所から、月はどのように見えるのだろうか?
天井に近い窓から月の光が青白く差し込んでいた。しかし角度のせいで牛河には月の姿が見えない。だからその数がひとつなのか二つなのか、彼には知るべくもない。(3牛河p565)
対照的な描写が青豆の章にある。
その時刻、青豆の位置からは二つめの小さな月の姿を目にすることができない。その部分がちょうど建物の陰になっている。しかしそれがそこにいることは、青豆にはわかっている。(3青豆p404)
今のところ状況は仮定に合致している。Book3の中でも外でもあるような場所では、月の数は特定できない。逆に月の数をあえて伏せる描写は、ここが特殊な場所であることを匂わせる。

この仮定のまま、次はひとりの人物、安達クミのもとに行こう。
彼女もなかなか奇妙なことを口走る。
「私は再生したんだよ」
「だって一度死んでしまったから」
「冷たい雨が降る夜に」
多かれ少なかれいろんなかたちで再生する(3天吾p184)
「死ぬのは苦しい。天吾くんが予想しているよりずっと苦しいんだよ。そしてどこまでも孤独なんだ。こんなに人は孤独になれるのかと感心してしまうくらい孤独なんだ。それは覚えておいた方がいい。でもね天吾くん、結局のところ、いったん死なないことには再生もない」
「しかし人は生きながら死に迫ることがある」(3天吾p185)
「私が覚えているのは死んだときのことだけ。誰かが私の首を絞めていた。私の知らない見たこともない男」(3天吾p485)

さて話を進める前に、私は安達クミの勘違いをふたつほど訂正しておかなければならない。
ひとつは「冷たい雨が降る夜に」
たしかに君が死んだのは寒い夜だったし、そのとき君の衣服の一部は冷たい液体で濡れていたかもしれない。でも雨は降っていなかった。もし君が雨音を記憶しているというのであれば、それはたぶんビニール袋のこすれる音だ。
二つめは「誰かが私の首を絞めていた」
たしかに君は死ぬ直前に首を絞められていたし、死因は窒息死だったかもしれない。それはとても苦しい死に方だったと思うけど、首を絞められて死んだわけではない。

問.安達クミは、誰が再生した姿なのだろうか?

生きながら死に迫るはめになったり、天吾くんが想像しているよりもずっと苦しい上に、感心するくらい孤独な死に方をしたりしたのは誰だったか?

私のいいたい答えはわかっていると思うけど、あなたはどうも納得がいかないようなので(あるいは正常な理性が答えを拒絶しているのかもしれない)、天吾くんにダメ押しをしてもらうことにしよう。

彼女の言葉遣いの変化が天吾には少し気になった。看護婦の制服を着ているときには言葉遣いはむしろ丁寧だ。ところが私服になると、アルコールが入ったせいもあるのだろうが、急にざっくばらんな口調になる。そのくだけた口調は天吾に誰かを思い出させた。誰かが同じようなしゃべり方をしていた。比較的最近あった誰かだ。(3天吾p170)
天吾くんが比較的最近会った、くだけた口調が気になる人物とは誰だろう?
「ご休憩のところに、アポも入れずにお邪魔して、いや、まことに申し訳ありませんでした」と牛河は天吾に詫びた。言葉づかいは一応丁寧だが、口調には妙にくだけた響きがあった。天吾はその響きがもうひとつ気にいらなかった。(2天吾p42)

ついでにこれも引用しておく。
扁平でいびつな頭のまわりにしがみつくように残った太い真っ黒な縮れ毛は、必要以上に伸びすぎて、とりとめなく耳にかかっていた。その頭髪のありようはおそらく、百人のうち九十八人に陰毛を連想させたはずだ。あとの二人がいったい何を連想するのか、天吾のあずかり知るところではない。(2天吾p40)
天吾は太腿の上に彼女の陰毛を感じることができた。豊かな濃い陰毛だ。彼女の陰毛は彼女の思考の一部みたいだった。(3天吾p184)

あきらめはついただろうか?
私は、せめてこう思うことにした。
あの百人のうち九十八人に陰毛を連想させる頭髪が、ちゃんと陰毛として生まれ変われたようでよかったな、と。
ちなみに、百人のうちのあとの二人というのは、おそらく私とあなたのことで、私たちは今後牛河の頭髪から安達クミを連想するはめになる。牛河に関わると本当にろくなことがない。

牛河はタマルによって殺されて(あるいは説得されて)、その縮れ毛と魂の一部は空気さなぎ(仮定によればBook3)に編みこまれて、物語は振り出しへと戻る。
死んだ牛河は多かれ少なかれいろんな形で再生される。
多かれ、牛河そのものとして、振り出しのままに再生される。
少なかれ、安達クミとして、死の間際の記憶と正しい陰毛の持ち主として再生される。

そして、その安達クミが空気さなぎについて語っている。
「うん。私にはマザが見える。空気さなぎは中から外側をある程度見ることができるの。外側からは見えないんだけどね。そういう仕組みになっているらしいんだ。でも、マザの顔つきまではわからない。輪郭がぼんやりと見えるだけ」(3天吾p174)

仮定は補強されて生きている。
ならば、安達クミを含む空気さなぎとは、Book3のことであるはずだ。
そして、安達クミはこの空気さなぎの外側をある程度見ることができるのだと言う。そういう仕組みになっているのだと言う。

本当だろうか?
ちっと見てみよう。

入り口が施錠されているのを知って、がっかりして(あるいは腹を立てて)帰って行くものもいる。(3青豆p35)
夕方のテレビのニュースをチェックする(彼女の関心を引くニュースはひとつもない)。(3青豆p50)
牛河は彼らに名刺を差し出し(天吾に渡したのと同じ名刺だ)、――(3牛河p80)
三人の看護師婦は天吾の知らない誰かの(おそらくは同僚の看護婦の一人だろう)性的遍歴についてのうわさ話に耽っていた。(3天吾p125)
そしてまたなんらかの事情があって(どんな事情かはわからない)、彼女は両手を自由に動かすことができなかった。(3青豆p153)
そこから今にもよだれがこぼれ落ちそうに見えた(そう見えるだけで実際にこぼれ落ちたことはないのだが)。(3牛河p191)
しかし彼は間違いなく、母親が腹を痛めて産んだ子供だった(陣痛がことのほかきつかったことを母親は記憶している)。(3牛河p250)
やむを得ず出すことがあっても、なるべく目立たないように扱った(もちろんそれは無駄な試みだったが)。(3牛河p251)
ところがなぜかあるとき昏睡に陥り(その原因は不明のままだ)、――(3天吾p429)
その性格からして、おそらく今夜遠出をすることはあるまい(もしそのとき天吾を尾行していれば、彼が小松に会うために四谷のバーに向かったことを牛河は知るわけだが)。(3牛河p455)
しかしもしタマルが何らかの理由で(どんな理由だかはわからないが)、――(3青豆p473)
天吾は『空気さなぎ』のゴーストライターとして、おそらく(いや、疑いの余地なく)彼らのブラックリストに載っているはずだ。(3天吾p547)
彼は火曜日の未明に謎の男(タマルだ)からの電話を受け、――(3牛河p556)
リトル・ピープルがいくら熱心に休みなく働いたところで(彼らは実際に休まなかった)、――(3牛河p567)

etc.

地の文章とは区別されて、いたるところに挿入されている括弧の群れ。
そこでは、ときには登場人物の知らない情報があり、ときには登場人物とは別の思考が垣間見えている。
いくつもの小さな隙間たち。

さらに大きめの穴もいくつか見える。
青豆がそのとき一瞬目にしたのは、もちろん子供なんかではなく牛河その人だった。(中略)ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。もしタマルが話をもう少し短く切り上げていたなら、もし青豆がそのあと考え事をしながらココアをつくっていなかったら、彼女は滑り台の上から空を見上げる天吾の姿を目にしたはずだ。(中略)そして牛河にしては珍しいことだが。公園を立ち去るとき、彼の頭はとりとめもなく混乱し、順序立ててものを考えることができなくなっていた。(3青豆p338)
彼らはごく当たり前の顔をしている。サイズを別にすれば、あなたや私とだいたい同じ顔をしている。(3牛河p566)

思いのほか、よく見える。たしかにそういう仕組みになっているようだ。

もうあなたにも見えているだろう。
Book3に空いた( )状の隙間から垣間見えているのは誰か。
不自然に挿入された外部視点の文章中で「我々」「私」と語りうるのは誰か。
空気さなぎつまりBook3という物語の外側にぼんやりと輪郭が見えているマザとは誰のことか。

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Re:Book3-3

どうやらRe:book1,2で、私はひとつ重大な見落としをしていたらしい。
Re:Book1,2のそもそもの始まりは、リーダーの言葉だった。
Book3の中で青豆がそのセリフを思い出している。

そして青豆は「さきがけ」のリーダーが最後に口にした言葉を覚えている。彼は言った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」
彼は何かを知っていた。とても大事なことを。そしてそれを曖昧な言葉で多義的に私に伝えようとしたのだ。(3青豆p268)

多義的。まさにその通りだ。
青豆はそれを自身への言葉として受け止め、「その試練とは私が実際に死の瀬戸際にまで自らを運ぶことだったのかもしれない(3青豆p268)」と振り返っている。
私は、それを青豆のレシヴァとしての読者に向けられた言葉ととらえてRe:Book1,2を書いたし、あなたも同じくレシヴァとしてリーダーの言葉を受け止めてRe:Book1,2を読んだだろう。

だが、もうひとり、青豆とも私たちとも違う立場でこの言葉を受けとれる人物がいることを、私は見落としていた。
もっとも多義的な立場でこの言葉を受けとった人物。
このセリフを記した本人であり、青豆のマザでもありながら、青豆のレシヴァとなってこの言葉を受けとった人物がここにいる。

Book3はマザとドウタの物語だ。そして、そのBook3の外側にはマザの輪郭がぼんやりとではあるけれど、確かに見えている。
マザとは誰か?ドウタとは誰か?
いったい誰がなにを願ったのか?

答えは最初からわかりきっていた。Book3に何か願いがこめられているというのなら、そんなことができる人間ははじめから一人しかいない。Book3をめくるまでもなく表紙にちゃんと書いてある。

村上春樹、そのひとだ。

Book3は、マザである村上春樹が、ドウタである青豆と天吾の願いをかなえるために書いた物語だ。

言葉にしてしまえばそれまでだが、その内実はそんな簡単なことではない。なんといっても、そこで試みられている解決方法はおおむね不可能なものなのだから。

「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」
私はこの言葉を自分のものとして受け取り、

「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」(2青豆p291)
天吾が生き、自分が死ぬであろう選択肢を選んだときに青豆が問うた願い、私はこの願いがかなうことを望んでRe:1Q84を書いた。

受け取った言葉は同じだが、村上春樹がかなうことを望んだ願いはさらに困難なものだった。
「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」と男は質問に答えずに言った。「しかしそれは簡単なことではない」
「簡単なことではない」と青豆は無意識に相手の言葉を繰り返した。
「残念ながら、ごく控えめに表現して、簡単なことではない。率直に言えばおおむね不可能なことだ。君たちが相手にしているのは、それをどのような名前で呼ぼうと、痛烈な力だ」(2青豆p283)
彼がBook3においてかなえようとした願いはおそらくこれだ。

もっとも歓迎すべき解決方法。

しかしそれはリーダーの言うとおり、率直に言って不可能なことのはずだ。
1Q84という物語の中で1Q84とは別の物語に行く物語?
言葉にする端から矛盾が生まれていく。

そう、Book3は、本来ありえないはずの物語なのだ。でも、私の前に、あなたの前にそれはある。
どういうことだろう?
結局Book3ではふたりの願いをかなえようとする試みがなされただけで、その願いは達成されなかったのだろうか?
Book3のラストに描かれていたものは、かりそめの達成に過ぎないのだろうか?あるいは偽りの達成にすぎないのだろうか?

いや、ちがう。

おそろしいことに、二人の願いは十全に達成されている。不可能だと言われたにも関わらず。

どうやって不可能が可能になったのか?
決まっている。そこに本物の血が流されることによって、だ。

これはひとりの作家の孤独な戦いの物語である。

自ら作り上げた1Q84という物語、そのシステム、その世界と、村上春樹自身との戦いの物語だ。
さらに風呂敷を広げるなら、これはムラカミハルキワールドと呼ばれるものと、村上春樹自身との戦いの物語だ。

その世界で二人が幸せに結ばれることなどありえない。
そんなハッピーエンドなど今までもなかったし、これからもない。
だから、青豆と天吾の願いをかなえるために、彼はこの道を選ぶしかなかった。
自らの物語を破壊する、このいばらの道を。

そこでは本物の血が流れただろう。本物の痛みがあっただろう。
今ならBook3の出版がこんなにも早かった理由がわかるような気がする。
そこにあった痛みは長い時間ひとりで耐えることができるようなものではなかったのだ。

私はこの孤独な戦いの証人になりたいと思う。
そしてあわよくば、このRe:Book3をもって、幾人かのあらたな証人がここに加わることを願いたい。

この戦いはBook3の中に描かれるものではない。Book3を書くことそれ自体が戦いであり、挑戦なのだ。Book3を読んでいる間中、ずっとそこに何かが起きそうだという予感があった。予感は当たっていたのだ。だが気づけないのも当然だろう。クライマックスはBook3の中にあるのではなく、その存在がすでにクライマックスなのだから。

さあ、あなたにお見せしよう。
村上春樹の戦いの跡を。Book3に残る鋭い爪あとを。そしてその本当の姿を。

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Re:Book3-4

戦いの跡を伝えるのに、多くの言葉はいらない。
1Q84という物語は、村上春樹自身が作り上げた緊密で暴力的で、後戻りのできないシステムであり、そこには破ることのできない物語内ロジックがすでに厳密に敷かれている。
物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていた(3天吾p372)
そのうえ、彼は天吾と青豆の願いをかなえるために1Q84の世界を突き崩さなければならないが、それと同時に、ふたりの物語を本物とするために、1Q84 Book3をひとつの物語として読者の手元に送り届けなければならない。
だから彼のとりうる手段はそう多くはない。

まずは猫の町、千倉の町。
「猫の町」とはBook2の中で描かれた物語内物語で、千倉の町はその猫の町と同義の場所として1Q84内に描かれていた。
では猫の町とはどういう場所なのか。再び小説「猫の町」の言葉を引こう。
ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。そこは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。(2天吾p167)
つまり千倉の町は、失われるべき場所なのだ。そして天吾のために用意された、この物語の世界ではない場所だ。では、そこでいったい何が失われたのだろう?
Re:Book1,2では、この問いかけに対する答えは「天吾の1Q84の文脈に沿った出生」だった。
この猫の町を訪れることで、天吾は1Q84の物語から独立した登場人物というきわめて特殊な立場に立つことになった。

ではBook3では、いったいそこで何が失われているのか?
天吾は窓際に立って外の風景を眺めた。芝生の庭の向こうには松の防風林が黒々と横たわり、その奥から波の音が聞こえた。太平洋の荒い波だ。多くの魂が集まって、銘々の物語を囁きあっているような、太く暗い響きがそこにはあった。その集まりは更に多くの魂の参加を求めているようだった。彼らは更に多くの語られるべき物語を求めているのだ。(3天吾p54)
答えはあなたがBook3を読みながら見てきたとおりだ。
そこで失われているのは物語それ自体だ。
猫の町では、1Q84 Book3という物語そのものが失われている。侵食され、損なわれている。
天吾が猫の町へと導かれることによって、天吾の章の多くが猫の町の物語に侵食されていく。猫の町の侵食している章は天吾の10章のうち6章だけど、そこで10月―12月のあいだのほとんど全部の時間が消費されている。天吾が純粋な1Q84世界で丸一日を過ごした日数は、ふかえりの手紙を受けとって小松と会った日、そのたった一日だけだ。


次にNHKの集金人、あるいは天吾の父親。
いったい彼はなにがしたいのだろうか?
Book3の前半では天吾の部屋と青豆の部屋を訪れ、敵意に満ちた言葉を残して去っていくから、さきがけかあるいはリトル・ピープルの刺客のようにも思えた。
だが、NHKの集金人が牛河のもとを訪ねる場面にいたって、その可能性も消え去った。
精神を病んだ人物かもしれない。でもそれにしても男の口にする言葉には不思議なリアリティがあった。(3青豆p166)
それはおそろしく病的な仮説だった。しかしほかにどのように、この奇妙な事態に説明をつければいいのだろう。牛河には検討がつかない。(3牛河p385)
青豆の視点から見ても、牛河の視点から見ても、NHKの集金人の行動に合理的な意味を見出すことはできないし、読者の視点でもそこに筋の通った理屈を見出すことは難しい。
「あなたの人生がどんなものだったか、そこにどんな喜びがありどんな悲しみがあったのか、よくは知らない。しかしもしそこに満たされないものがあったとしても、あなたは他人の家の戸口にそれを求めるべきじゃない」(3天吾p238)
天吾にもそれは単なる自己充足のようなものとしか思えない。

では、逆から考えてみよう。
彼が代価を要求する三人、青豆と天吾と牛河の共通点はなにか?
これも見たままが答えだ。
三人とも各々の章の主人公、ということだ。
青豆も天吾も牛河も、村上春樹のドウタであり、それぞれの物語を1Q84 Book3として与えられている。
そしてその三人に向かって、NHKの集金人は代価を支払うよう求めている。
そう、与えられた物語の、その代価を払えと彼は言っているのだ。

思い出してみよう。
Book3は村上春樹と彼の作り上げた物語との戦いだといった。
そして、彼に与えられた数少ない武器のひとつが「猫の町」だ。
天吾の父親、NHKの集金人はもともと猫の町の住人で、そこから1Q84の物語に侵入を果たし、物語を与えられたものたちに対して、代価を要求している。
その結果何が起きている?

親指の疼きが教えるところ
よこしまなものがこちらにやってくる
ノックがあれば誰であれ、錠前よ開け(3天吾p126)

「だからややこしいことは抜きでドアを開けてくださいな」(3青豆p96)
「高井さん、ひとつ気持ちよくこのドアを開けてくれませんか」(3青豆p275)
「ですから、ドアを開けていただけませんか」(3牛河p324)
NHKの集金人がドアをノックし、開けてくれるように要求しているそのときにはすでに、巧妙な音韻に誘われるように錠前は開かれていて、彼は1Q84の物語の中に侵入を果たしている。

「高井さん、わたくしNHKの受信料をいただきに参りました」(3青豆p96)
「こちらはみなさまのエネーチケーです。受信料をいただきにうかがいました」(3青豆p162)
「人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません」(3青豆p275)
「神津さん、わたくしはNHKのものです。月々の受信料をいただきにあがりました」(3牛河p324)
そして、彼がドアをノックすればした分だけ、演説をぶてばぶった分だけ、それは1Q84の中に描写され、それまでの文脈は断ち切られ、物語はその部分を削られ、穴を穿たれたように損なわれていく。
NHKの集金人が何かを求めているとき、彼はすでにそれを手中に収めている。
彼がドアの開錠を要求しているときにはもう彼は物語の中に入り込んでいるし、彼が代価を求めているときには、その代価を請求する行為それ自体によって、物語はすでに代価として回収され、失われてしまっている。

つまり、NHKの集金人は「猫の町」から「1Q84」に放たれた刺客として、「猫の町」の届かない青豆の章と牛河の章に赴き、そこで代価を回収する形で、文脈を損ない、物語に穴を穿っているのだ。
天吾と青豆のために。彼のいちばん上手にできる方法を用いて。

天吾の章を猫の町が深く侵食し、さらにその猫の町からの刺客としてNHKの集金人が青豆と牛河のそれぞれの章を訪れ、分断し、代価を回収し、損なわせる。
さらに村上春樹自身によっても、物語の随所に不要な括弧や外部視点の文章が挿入され、そこにいくつもの小さな穴が穿たれて、外側がある程度見えるまで物語は損なわれていく。
空気さなぎは次第にほつれていく。物語のルールが緩みはじめている。

一方で、天吾と青豆は1Q84の持つ暴力性からとてもしっかりと守られている。
天吾は猫の町で、青豆はタマルの用意したマンションの一室で、繭にくるまれる幼虫のように、あるいは子宮に収まる胎児のようにとてもしっかりと守られている。
二人はそれぞれの場所で昨日を丁寧になぞるような日々を送っていく。物語を読む私たちにとっては退屈ともいえる状況だけど、しかし時には単なる反復が少なからぬ意味を持つこともある。(3天吾p60)
反復が彼らを頑なに守っている。

物語の崩壊は、大地の揺れが私たちの日常を激しく脅かすのと同じように、あるいはそれ以上に青豆と天吾を脅かすことになる。
なんといってもここは猫の町だ。彼はいつか列車に乗って、もとの世界に戻らなくてはならない。(3天吾p63)
それでもシェイクスピアの踏む巧妙な音韻にはいかにも不吉な響きがあった。(3天吾p127)
何か不吉なものがこちらにやってくるのが、親指のうずきでわかる。(3天吾p188)
天吾は猫の町やそこに属するものに、不吉な予感を覚えずにはいられないし、青豆も不吉な夢として、自分の属する世界に奇妙な穴が開いていることを知る。
たとえば第8章の夢。
雷鳴の鳴っている夜に、暗い部屋の中を何かが徘徊している。青豆は怯える。その何かはドアでも窓でもないところから部屋を出て行く。明かりをつけて部屋を調べると、壁にかたちを変えて動き回る穴が開いている。(3青豆p152)
あるいはこっちのほうがわかりやすいかもしれない。
17章、「我々」という言葉を含む村上春樹視点の数段落にわたる文章が挿入された次のページで青豆は夢を見ている。
柳屋敷の温室でお腹の大きくなった青豆が厚く守られている夢だ。守られているはずなのに青豆は不安を感じて拳銃をさぐる。でも拳銃はどこにも見当たらない。そのとき誰かが温室のドアを開け、不吉な冷気を含んだ風が吹く。彼女がその人影を見ようとしたところで夢は終わる。目覚めたとき、彼女は冷たい嫌な汗をかいている。(3青豆p341)
夢がもう少し長かったなら、青豆は自分の章に勝手に侵入してくるマザの顔を見ることができたのかもしれない。

物語の破壊が試みられるその一方で、物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていく。
1Q84の物語内ロジックにしたがって、さきがけは新たなドウタとして青豆の小さなものを必死に捜し求めているし、戎野先生は天吾くんがふかえり(ドウタ)と交わることで、深田保と同様に〈声を聴くもの〉になったのではないかと考えて、天吾にさぐりを入れている。
だけど、Book2で天吾は猫の町を訪れ、さらにふかえりと交わることで物語から独立した登場人物という特殊なポジションについたのだった。そして彼はBook3でもやはり物語内に描写されることのない天吾の物語を書き続けていく。
青豆の中にあった「天吾への愛の物語」はいつのまにか小さなものに姿を変えているが、その小さなものも天吾の書く物語と同様、それが何なのか、その内容が1Q84内に描かれることはない。その小さなものは、1Q84内に描かれないことによって1Q84の物語から青豆を独立させる力を発揮する。

もともと、マザ、ドウタ、レシヴァ、パシヴァ、空気さなぎが同一平面上に描かれるという、ややこしい物語ルールに加えて、天吾と青豆は自分たちだけの物語を持つことで物語内部から外への圧力を働かせるし、物語外部からは物語をなんとか崩壊させようと様々な試みがなされている。
カオス。
これでは確かに、変数が多すぎる。元神童がさじを投げたとしても責めることはできない。

そんな中にあって、牛河はその容貌に似合わずとてもいい子にしている。
牛河の章だけはちゃんと物語らしいストーリーを持って1Q84の物語を前に進めていく。私たちも、その容貌はともかく、次第に彼に感情移入していくようになる。彼の物語はたしかに私たちをひきつける力を持っている。1Q84の言葉を使えば、私たちは牛河(ドウタ=パシヴァ)のレシヴァとなる。
小説「空気さなぎ」では緑色で豆のような形をしていた二つめの月も、1Q84では苔色でいびつな形としか描写されず、それはまるでBook3の牛河の姿を模しているかのように見える。私たちに彼のレシヴァたることを求めているのかもしれない。
自分の舌を眺めるのは久しぶりだった。そこには苔のようなものが厚く生えていた。本物の苔と同じようにそれは淡い緑色を帯びていた。(中略)このままいけば俺はそのうち苔人間になってしまうかもしれない。(3牛河p467)
牛河もやはり二つめの月の存在に気づくけど、その容貌のわりには素直な登場人物なので、まさかそこが物語の中かもしれないなどとは疑いもしない。彼は与えられた設定をできるだけそのまま受け入れようとしてくれるし、実際的であろうとしてくれる。
ところが、順調に進んでいくかに見えた牛河の章も、その容貌にふさわしくやがて行き詰まりを見せる。彼も青豆や天吾と同じように一ヶ所に引きこもるようになり、ふかえりが牛河の中に空白を作り、さらにNHKの集金人が現れて牛河の章をも損ない、そこに不穏な空気が漂いはじめる。
ようやく天吾を尾行できたものの、二つめの月に気を取られたわずかな隙をつかれて、逆に青豆に尾行を許してしまい、その結果タマルに殺されてしまう。
失われて、かわいそうな牛河。

牛河の死は私たちに強いショックを与える。その容貌はともかく、ひとりのパシヴァの消失は、まるで牛河が私たちの中から何かを持っていってしまったかのように、レシヴァの中に空白を作る。(どうせ何かを持っていかれるなら、私もふかえりに持っていってほしかったが、わがままはいえない)

そして、失われつつある物語は再びあの場面へと近づいていく。

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Re:Book3-5

このRe:Book3が最後の章へと入る前に、私のちょっとした試みに付き合ってほしい。
うまくいけば、彼らをあぶりだすことができるかもしれない。
このRe:Book3を書くためにBook3を読みなおしていて、そういう手ごたえみたいなものを感じた。
これならうまくいくかもしれない。

Book3を読みなおしていて、引っかかる文章がいくつかあった。
たとえば小説「空気さなぎ」について小松と天吾くんが見解を述べあっているところだ。
「〈声を聴くもの〉はドウタの仲介を必要としているのでしょう」と天吾は言った。「ドウタを介して彼は初めて声を聴くことができる。あるいはその声を地上の言葉に翻訳できる。声の発するメッセージに正しい形を与えるには、その両方が揃っていなくてはならない。ふかえりの言葉を借りれば、レシヴァとパシヴァです。そのためにはまず空気さなぎをこしらえる作業が必要になります。空気さなぎという装置を通してはじめてドウタを生み出せるからです。そしてドウタを作り出すには正しいマザが必要とされる」(3天吾p364)
この場面では、小松が引き出すかたちで、小説「空気さなぎ」そして彼らの属する1Q84世界についての天吾の見解がわかりやすくまとめられていく。

いや、具体的にどこかが間違っているというのではない。
ただ、きれいにまとまりすぎているのだ。そこに強い違和感がある。
これではまるで、できそこないのSF小説のとんでも設定ではないか。
私が読んだ1Q84はそんな話ではなかったはずだ。いったい何がおかしいのだろう?
きれいにまとまりすぎている。そう、そこに問題がある。
ここでは、すべてが薄っぺらい一枚の紙に描かれる関係図のように説明されていて、1Q84が有しているはずの多義性と、その多義性から生まれる重層的な構造が決定的に欠落しているのだ。
物語の中の登場人物が、その一義的な立場から言葉にしてしまうと、とたんに消えてしまうものがある。
「意味が説明できないということではない。しかし言葉で説明されたとたんに失われてしまう意味がある」(2青豆p280)
とリーダーは言う。

多義性。
その多義性があったからこそ、Re:1Q84では私やあなたがレシヴァとなって、その物語に加わることができたというのに。
その多義性があるからこそ、私たちはBook3のその繭の向こうにマザの姿を、村上春樹の輪郭を見ることができたというのに。
まるで、Re:1Q84のような読み方を不可能にするかのような、1Q84の持つその特殊な力を無力化しようとするかのような、この場面はいったいなんだ?

さらに、たとえば牛河が天涯孤独の身となった天吾のことを考えている場面。
母親は彼が二歳になる前に長野県の温泉で絞殺された。殺した男はとうとう捕まらなかった。彼女は夫を捨て、赤ん坊の天吾をつれてその若い男と逐電していた。(3牛河p462)
Book2で天吾に語ることを拒絶された母親の真相が、どういうわけだかここで語られる。牛河と読者だけが見ているこの場所で。
その結果何が起きる?
そう、天吾の発作のイメージが、まるで物語内で説明できるかのようになるのだ。
天吾の年齢も、状況もぴったりだ。
これがBook2のあの場面で牛河の口から天吾に伝わっていたなら、天吾は再び父親の呪縛にとらわれ、一般的な登場人物の立ち位置に戻っていたかもしれない。いや、たとえあのとき天吾に伝わらなかったとしても、今私たちに伝わることで、やはりRe:1Q84のような読み方は不可能になり、結局、そこにあった重層的な構造は崩れ落ちて、天吾は一般的な登場人物に戻ってしまうのではないだろうか?

なぜ今これがここに描写される?

私がRe:Book1,2の最後で「羽化」と呼んだ1Q84の特殊な力。
その力がゆえに、1Q84はマザとしての村上春樹の物語内への介入すら許し、その結果Book3では1Q84の物語そのものが損なわれつつある。
なのになぜ村上春樹の願いに相反するような描写がここになされるのか?
いやこの描写には、村上春樹の願いがBook3にこめられているという発想自体が否定される危険性が含まれている。

Re:1Q84のような読み方を拒絶し、1Q84を三巻セットの風変わりな恋愛小説にとどめようとするこの作用はなんだ?

物語の中で説明すべきでない事象までを、無理やり物語の枠内で語ろうとするこの力はなんだ?
物語の崩壊を拒絶し、物語のままに維持しようとする、この力は誰のものか?

そこに見え隠れする誰かの影が、あなたにも見えているだろうか。


ほうほう。


私はそのとき彼らの影を間違いなくそこに見た。

マザとともに空気さなぎを作るもの。
彼らは物語を作り、それを守る。
誰にでも思考や行動の定型は必ずある、とタマルはいう。
そして、定型があればそこに弱点が生まれる。
ならば、物語の崩壊を阻もうとするここが彼らの弱点だ。
影の主を捕らえよ。
私はその影に手を伸ばす。
今なら彼らをとらえることができるはずだ。
指先に確かな手ごたえがある。

……。

だが、気がつけばリトル・ピープルを捕らえようと伸ばした手は、いつのまにか私自身の襟首をつかんでいた。
私が彼らを捕らえようと駆使した言葉は、まるで鏡に向かって発せられた言葉のように、いつのまにか私自身を捕らえていた。

『私はRe:1Q84をつくり、それを守る』 

『誰にでも必ず定型があり、定型があればそこに弱点が生まれる』
『ならば、Re:1Q84の崩壊を阻もうとするここが私の弱点だ』

自分の物語に固執し、それを頑なに守ろうとして弱点をさらしていたのは、私……なのか?


そこにあった人影はいったいだれの影だったのだろう?
1Q84を物語にとどめて、崩壊を避けようとしたリトル・ピープルの影か?
それともRe:1Q84に固執して、その否定を恐れた私の影か?
あるいはその両方か?
「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。
「人が知りえるのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ」(2青豆p240)

リーダーの言うとおりだった。
彼らはごく当たり前の顔をしている。サイズを別にすれば、あなたや私とだいたい同じ顔をしている。(3牛河p566)
これもなかなか的を射た表現だ。
たしかに「あなた」つまり私たちや、「私」つまり村上春樹の内にもリトル・ピープル的要素は少なからず存在する。あるいは、そここそが彼らの真の住み処なのかもしれない。

リトル・ピープルをあぶりだそうとした私の試みは失敗に終わったわけだが、その一方でこのRe:1Q84の立場から話をするのであれば、上に記した小松と天吾の会話、そして牛河の天吾の母親についての回想の描写に反Re:1Q84的な作用があるのも確かだ。
それらの描写がうまく機能すれば、このRe:1Q84のような振り返りかたはできなくなり、今から私たちが目にするであろう、Book3の結末の本当の姿も消え去ってしまう。
村上春樹が願った「もっとも歓迎すべき解決方法」も永遠に達成されることはなくなるし、いや、そもそも、Book3の向こうにぼんやりと見える村上春樹のそういう願い自体がなかったことになるだろう。
そして青豆と天吾も、1Q84という物語の中でいつわりの結末に身を置くことになるだろう。

とても危険な描写だ。
そういった危険性があることを、小松はある程度知っていたのではないだろうか?
小松と天吾が小説「空気さなぎ」について見解を述べ合うこと自体が、天吾に対して何らかの害を及ぼす危険性をはらんでいることを。
「ねえ小松さん、それはともかく、どうしてこれまで僕にその話をしなかったんですか?」
見解の提示が終わったあとの天吾くんの質問に小松はこう答えている。
「どうしてだろう? 罪悪感からかもしれないな」
「罪悪感?」と天吾は驚いて言った。そんな言葉を小松の口から聴くことになるなんて考えたこともなかった。
「俺だって罪悪感くらいあるさ」と小松は言った。
「何に対する罪悪感ですか?」
小松はそれには答えなかった。目を細め、火のついていない煙草を唇の間でしばらく転がしていた。(3天吾p370)

ところが、そういった小松の目論見に、あるいはリトル・ピープルの目論見にさらに対抗して多義性を主張するような描写が、その18章の最後になされている。
しかし物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていたし、天吾はすでにその世界に否応なく含まれてしまっている。天吾にとってそこは架空の世界でなくなっていた。それは、ナイフで皮膚を切れば本物の赤い血が流れ出す現実の世界になっていた。その空には、大小二つの月が並んで浮かんでいた。(3天吾p372)

私はBook3を、1Q84という物語と村上春樹の戦いの物語だと表現した。
もしかしたら、そこにはもうひとつの意味合いが隠れていたのかもしれない。
Book3は、村上春樹とリトル・ピープルの戦いの物語でもあるのかもしれない。
神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか?
青豆にはわからない。(3青豆p272)
もちろん私にもわからない。

そして、すべては多義性を帯びたままに、もっとも多義的な場面へといたる。

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Re:Book3-6

24章で、天吾くんの父親でありNHKの集金人であるその男は、様々な秘密と失われた物語とをかかえたまま死んでしまう。彼が物語に開けた穴はなんらかの合理的な意味を与えられる見込みを完全になくし、失われた物語は完全に失われる。
窓の外にフクロウの鳴き声が聞こえたような気がした。でももちろん耳の錯覚に決まっている(3天吾p490)
猫の町ではないはずのところにまでフクロウの鳴き声が聞こえはじめている。1Q84そのものが猫の町に飲み込まれそうになっている。
25章で牛河はタマルにずいぶん荒っぽいかたちで説得されて、
26章で物語の背景がにわかに騒がしくなる。
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルがどこかで声を上げる。
「ほうほう」と残り六人のリトル・ピープルがどこかで声を合わせる。(3青豆p524)

27章。二十年もの時を経て再び、ふたりの手が結ばれる。
「天吾くん」と青豆が耳元で囁いた。低くもなく高くもない声、彼に何かを約束する声だ。「目を開けて」
天吾は目を開ける。世界にもう一度時間が流れ始める。
「月が見える」と青豆は言った。(3天吾p552)

そして私たちはここに戻ってくる。

28章。
終わりと始まりが混在する場所。終わりと始まりをつなぐ場所。

Re:Book3を通して見てきたように、1Q84 Book3の物語は、マザである村上春樹自身によってひどく損なわれている。
1Q84はそのほとんどを猫の町に飲み込まれて、今まさに失われようとしている。
「均衡そのものが善なのだ」(2青豆p244)とリーダーはいう。
「しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ」(2青豆p276)
物語が失われようとしている今、ここに物語を作りなおそうとする力が生まれ、均衡を回復しようとする。
牛河の中の空白を通ってリトル・ピープルが姿を現して、空中から取り出した糸と牛河の縮れ毛を紡いで空気さなぎを作りあげていく。ここに1Q84 Book3それ自身を作りなおしていく。

だがその一方で、リトル・ピープルは「あなたや私とだいたい同じ顔をしている」、彼らは村上春樹のような顔をしている。
村上春樹はある明確な意図と目的を持ってこの場面を描写し、1Q84の中に彼のドウタとして牛河を送りこむ。
では、村上春樹がこの場面を描いた明確な目的とはなにか?
もちろん、この場面を描くことだ。
彼はこの場面を描くことによって牛河を1Q84の中に送りこむわけだが、彼が牛河を1Q84の中に送りこんだ本当の目的はこの場面を描くことにあるのだ。
この決定的な場面。多義的に作られ、作りなおされる空気さなぎ。
ここでは終わりと始まりが一周して重なりあっている。
手段と目的が一周して重なりあっている。


そして、物語は円を描いて静かに閉じる。

悼まれぬ死によって開いたひとつの穴を残して。

25章、牛河がタマルに殺され、
28章、彼の魂の一部は空気さなぎ、つまりBook3として紡ぎなおされて、物語は円を描いて振り出しへと戻る。
そして第31章、牛河の章として語られるはずの場所に、空白が生まれる。

リーダーは言う。
「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」と男は質問に答えずに言った。「しかしそれは簡単なことではない」
「簡単なことではない」と青豆は無意識に相手の言葉を繰り返した。
「残念ながら、ごく控えめに表現して、簡単なことではない。率直に言えばおおむね不可能なことだ。君たちが相手にしているのは、それをどのような名前で呼ぼうと、痛烈な力だ」(2青豆p283)

安達クミは言う。

「人が一人死ぬということは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」(3天吾p483)

天吾は声を聴く。
夜が明けたら天吾くんはここを出て行くんだよ。出口がまだふさがれないうちに。
それは安達クミの声であり、同時に夜のフクロウの声でもあった。(3天吾p546)

青豆は夢を見る。

夢を見るが、それは何もない空間のような夢だ。その空間の中で彼女はものを考える。彼女はその真っ白なノートに、目に見えないインクで文章を書いていく。(3青豆p229)

1Q84の中で描けるはずのないものを描くためには、どうしてもこの空白が必要だった。
すべてはこの31章、空白の章を生み出すために。
すべてはこのために。

青豆と天吾は29章と30章を通って、31章の空白へと向かう。
29章と30章はまだ1Q84の内側ではあるけれど、先の循環する円からは外れた特殊な通路のような場所だ。
水銀灯の光が小さな児童公園の風景を青白く照らし出している。その風景は青豆に夜の水族館の無人の通路を連想させる。目に見えない架空の魚たちが樹木のあいだを音もなく泳いでいる。彼らが無音の遊泳を中断することはない。(3青豆p51)
道路を隔てたマンションの――それは青豆が逃亡者としての日々を送っていた場所だ――いくつかの窓にともった明かりは、彼ら以外の人々もまたこの世界に生きていることを示唆している。それは二人にとってずいぶん不思議なことに思える。いや、論理的には正しくないことにさえ思える。自分たち以外の人々がまだこの世界に存在し、それぞれの暮らしを送っているということが。(3青豆p571)
それは確かに論理的には誤っている。ここは循環する円から外れた無人の通路なのだから。

ふたりはこの特殊な通路を通って空白へといたる。天吾は書きかけの物語を持って、青豆は小さなものをお腹の中にそっとかかえて。

真空があれば何かがそれを満たす。(3青豆p91)

そして、ふたりのための物語が空白を満たす。
サヤの中に収まる豆のように、ふたりの物語が空白に満ちる。
そこは1Q84の物語ではない。1984年の世界でもない。
そこはふたりのための新しい物語だ。

そこにはひとつっきりの、あの見慣れたいつもの月が浮かんでいる。
タイガーをあなたの車に、とエッソの虎は言う。彼は左側の横顔をこちらに向けている。でもどちら側でもいい。その大きな微笑みは自然で温かく、そしてまっすぐに青豆に向けられている。今はその微笑みを信じよう。それが大事なことだ。彼女は同じように微笑む。とても自然に、優しく。(3天吾と青豆p602)

1Q84によって私たちに与えられていた特殊な役割は、もうその役目を終えている。
今はただ、このできたてほかほかの新しい物語の、その文体に身をまかせていればそれでいい。
この、今はまだ小さなものの、その温かな体温に、そのやわらかく小刻みな鼓動に。

彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。二人は並んでそこに立ち、お互いをひとつに結び合わせながら、ビルのすぐ上に浮かんだ月を言葉もなく見つめている。それが昇ったばかりの新しい太陽に照らされて、夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまうまで。(3天吾と青豆p602)



こうして、ひとりの作家の孤独な戦いがひとつの終わりを迎える。
いや、彼はひとりぼっちではあったが、孤独ではなかったのかもしれない。
そこには青豆がいて、天吾がいた。
そこにはマザからドウタへの、信じがたいほどの愛が溢れていた。

1Q84 Book3はマザとドウタの物語だ。

ドウタのために、マザによって損なわれた物語だ。
だからそれは私たち読者の目には一見つまらない物語とうつる。
でも私たちは、青豆の、天吾のレシヴァとなってその愛を受けとることもできる。

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Re:Book3-7

Re:Book3を終える前に、例によって、Book3をもう一度だけ振り返ってほしい。

1章からはじまるこの物語は第28章にいたって振り出しへと戻り、ぐるりと円を描く。
1Q84 Book3という名の大きな円だ。
29章と第30章は、円周から外れてはいるけど、まだその中にある特殊な通路として緩やかなS字カーブを描き、そして第31章にいたって、物語はほんのわずかに円の外側へと芽吹く。

気がつけば、空中に完璧な「Q」が描かれていた。
それはルネッサンス期のイタリア人画家でもとても描けないような、美しい完璧な「Q」だった。

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2011年1月 5日 (水)

Re:堀北真希主演「ジャンヌ・ダルク」

*以下の文章は、中島かずき脚本、堀北真希主演のジャンヌ・ダルクの内容に触れています。公演自体は終了しましたが、DVD発売の予定があるようです。先入観なくDVDを見たいという方は閲覧をご遠慮ください。


いやー、よかったです!ジャンヌダルク、ほんとによかった。
堀北真希さんのかわいらしさに釣られるつもりで観にいったのですが、逆に予想外の大魚を得ることができて、嬉しいかぎりです。

じつは劇の最後で、本当に泣いてしまいました。
気持ちのいい涙でした。
でも、正直なところ、僕自身にも自分がいったい何に感動していたのかが、うまくつかめませんでした。

ジャンヌダルクの人生の最後は悲劇そのものですから、涙を誘う要素はいくつもあります。
でも、そういうマイナスの感情で涙を流したわけではないのです。
じゃあ、なんだろう?
こういうとき、僕は一生懸命考えることにしています。
なぜ自分は感動しているのか?自分は何に感動する人間なのか?
僕にとって、それはとても重要なことです。
自分が何に感動するかを知ることは、自分がどういう価値観の中に、どういう物語の中にいるかを知る助けになるからです。
相対化を拒み、僕を避けがたく捕らえる物語。それは僕自身の物語でもあるはずだ。

ですから、劇を見終わって帰りの電車に揺られながら、お風呂のぬるま湯につかりながら、仕事中に同僚と上の空で話しながら、暇さえあればそのことについて考えていました。

それをここに書きたいと思います。きっとこういうものを感想と呼ぶのでしょう。

パンフレットの中で、原案の佐藤賢一さんは「立ち現れたのは、思いもよらないジャンヌ・ダルクの真実だった。事実ではない。(中略)到達点としての舞台では、どんなジャンヌ・ダルクの真実が立ち上がるのか、それが今は楽しみでならない。」と書いています。

ジャンヌ・ダルク役の堀北真希さんは「だから本当は、自分が見たい気持ちでいっぱいなんですが(笑)、それはできないので、とにかくもう一生懸命に伝えながら、一生懸命お客様の顔を見て、自分の初舞台がどんなものなのか感じ取りたいなと思います。」と書いています。

ここに書くのは、到達点としての舞台で、僕が受け取ったもの、僕の中に結実したジャンヌ・ダルクという物語の真実です。そして、堀北真希さんが一生懸命に伝えてくれた、彼女の初舞台の(僕なりの)本当の姿です。



ジャンヌ・ダルクの舞台は20分の休憩を挟んで第一幕と第二幕にわかれていて、第一幕が「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語、第二幕が「人間ジャンヌ・ダルク」の物語に相当しています。

第一幕

舞台は、フランス国王シャルル7世にひとりの兵士が謁見しようとする場面からはじまる。兵士はジャンヌの最後を見届けた傭兵ケヴィン。彼の報告を恐れるシャルル7世の記憶の彷徨とともに物語はそのはじまり、ジャンヌ・ダルクの故郷ドムレミ村へともどる。

幼いころから神の声を聞いていたジャンヌは、19歳のときイングランド兵に村を襲われたことをきっかけに、神の声に従ってフランスのために戦うことを決意。シャルル7世に謁見し、いくつもの奇跡を重ねて、オルレアンの開放とランスでのシャルル7世の戴冠式を実現する。


「行こう!神は我らと共にある!」「これが神のご意志です!」
そう叫ぶジャンヌの声は、その美しさの上に女性らしからぬ逞しさと凛々しさをまとっています。
兵士たちは彼女の声に、彼女の言葉に鼓舞されて、奇跡の快進撃を続けていくことになる。
しかしその一方で、ジャンヌの声にはどこか平板な響きがあります。
このわずかな平板さが、二つの重要な示唆を私たちに与えてくれるのです。
二つめは後ほど書くことになりますが、ここで与えられる一つめの示唆は、観客と舞台の間にある物語の壁です。
その平板さは、ある端的な事実――私たちがキリスト教の物語の中にいないという事実――とリンクして、観客と「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語との間に一線を画すことになります。
ジャンヌの声は私たちとは異なる物語、キリスト教という強い宗教の物語の中で発せられていて、その物語の中にあってこそ強い力を持つことができるのです。
キリスト教の物語を持たない私たちには、「神の声」や「神の奇跡」といった言葉はどこか陳腐に聞こえ、それを声高に叫ぶジャンヌの純粋さもときに狂信的と映ります。
「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、キリスト教の物語内でこそ本来の力を発揮できる物語ですから、「神の声」や「神の奇跡」なるものは私たちには届かないし、また届いてはいけないのです。

ストーリー上でもジャンヌ・ダルクの神秘的な側面は意図的に抑えられています。
ジャンヌがドムレミ村での敵兵の襲撃を生き延び、イギリスの支配地を抜けてシノン城にたどり着くことができたのは、あらかじめ彼女のために腕利きの傭兵が派遣されていたからでした。
オルレアンの戦闘でジャンヌが敵の一斉射撃を無傷でくぐり抜けられたのは、風の利とやはり傭兵レイモンの密かな助けによるものでした。
ジャンヌが群衆の中からシャルル7世を見分けることができた理由も、ジャンヌとシャルル7世が実は兄妹だったからであることが示唆されています。
奇跡にはトリックがあり、話のところどころでその種明かしがなされているのです。



戴冠式を直前に控えて、変化は唐突に訪れる。
ずっとジャンヌにだけ聞こえていた神の声が聞こえなくなってしまう。
光のもとにあった道が靄に覆われる。
とまどいながら神に祈るジャンヌ。しかし、声はなにも答えない。
不穏な空気のまま戴冠式は執り行われて、前半の幕がおりる。

第二幕 「人間ジャンヌ・ダルク」の物語

神の声(キリスト教の物語)に支えられていた「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、声を失って大きく揺らぐ。
フランスを救うという使命感のもと、ジャンヌはシャルル7世の反対を押し切って、国王の協力を得られぬままパリ奪回に向かうが、兵士の数の少なさに、彼女自身の動揺も重なって、フランス軍は幾たびかの敗戦を喫し、コンピエーニュの戦いでジャンヌはついに敵軍に捕らえられることなる。


神の声の消えた第二幕では、等身大のジャンヌ・ダルクが姿を現します。
彼女は神の声が聞こえないことに戸惑い、ときに怯え、ときに悩みながら、自らの信じる道を進んでいく。
「ジャンヌ、なにをしている?旗を振ってくれ!檄を飛ばしてくれ!」「お前の声で奇跡を起こしてくれ!」
仲間に請われて、ジャンヌは胸に澱む不安を押し殺して再び声高に叫びますが、そこには第一幕に見られたような芯の強さはありません。
と同時に、私たちとジャンヌの世界を隔てていたあの声の平板さも消えています。
声に現れる動揺、不安、疑念、焦燥、そしてそれらを押し込めようとする抗いの意志。
キリスト教の物語を失うことで、ジャンヌの声はかえって生き生きとした感情をおびて、私たちを強く惹きつけるのです。
あのときジャンヌは私たちと同じひとりの人間として、舞台の上に、たしかに生きていました。



正直に言うと、実際に観劇するまで、私はジャンヌ・ダルクのストーリー自体にはあまり期待をしていませんでした。
ジャンヌ・ダルクの話はあまりに有名で、大筋はすでに決まっています。
農民の少女が奇跡のもとにフランスを救うが、最後は凄惨な死をとげる、奇跡と悲劇の物語です。
そして、その奇跡性も悲劇性もキリスト教の物語の中でなければ、十分な力を発揮しないでしょう。
私たちにも理解はできるが、心にまでは響かない。

ではなぜ私は泣いたのか。
あらかた出来上がっていた一枚の織物。そこに一本の新しい白い糸が巧みに織り込まれていました。
ジャンヌにしか見えない幻影の少年。
彼は劇の始まりから何度もジャンヌの傍らに姿を現しては彼女になにかを示唆し、ときに奇跡の一助ともなっていました。
その神秘的な立ち振る舞いやジャンヌにだけ見えているという性質から、私は幻影の少年を「神の声」と同質のなにかだろうと思いながら劇を観ていました。

実際、戴冠式の前日、幻影の少年が姿を消すとともに、神の声は聞こえなくなります。

そして、劇の最後、もう一度だけジャンヌの前に幻影の少年が姿を現すのです。



ブルゴーニュの兵に捕まったジャンヌは、イングランド軍に売り渡され、異端審問にかけられる。
信仰をめぐってコーション司教と互角以上に渡り合うジャンヌだが、熱に冒され、異端のレッテルを貼られ、神の声も聞こえぬまま告解をすることも教会に入ることさえも許されず、1年もの拘束と異端審問で彼女の強固な意志も次第に弱っていく。
「神よ、声を、声を聞かせてください」
「なぜ私だったのですか?」
「なぜ私を選ばれたのですか?」
「私はただ声に従っただけ。それなのになぜそんなに責めるの・・・」
「いやだ、まだ、私は死にたくない」
熱にうなされる中、ジャンヌは心のすべてを吐露するように神に精一杯の呼びかけをするが、声はなにも答えない。
気がつけば、火刑台に縛り付けられて、火刑の中止と告解の許可との引き換えに神の声が偽物だったことを認めるよう迫られている。そして、たいまつの火が火刑台に移ろうとしたその瞬間、ついに心を折る。
「待って、待ってください」「罪を認めます・・・」

火刑は中止されたが、教会の牢へ移して告解をさせるという約束は破られる。
さらにコーション司教が差し向けたイングランド兵に陵辱されそうになるが、間一髪のところを傭兵ケヴィンに助けられる。ケヴィンにすがりつくジャンヌ。
そのとき、ふたたび幻影の少年が現れて、ケヴィンの腰に結わえ付けられた手紙を指さす。
シャルル7世から託されたジャンヌ宛ての手紙だ。
そこには、ケヴィンとともに追っ手の届かぬ田舎に逃げて、今までのことはすべて忘れてもとの羊飼いの娘として平穏に生きてほしい、という兄から妹への想いが書かれていた。しかし、その血縁の事実を知らないジャンヌは、自分が不要になって捨てられたのだと思い、逃げることも忘れて自暴自棄になってしまう。
ジャンヌの深い絶望と、敵兵に見つかるのではという焦燥に挟まれて、ケヴィンは思わず、口外を禁じられた秘密を口にしてしまう。
「陛下があなたを見捨てるはずがない。あの方はあなたの兄上なんだから!」
その一言がジャンヌの心に沁みこむと、彼女の抱えていた謎が静かに解けはじめる。

幻影の少年、それは幼き日の兄シャルル7世の姿だった。
「そう、あのときもこうやって黙って私に花を差し出してくれた」
おそらくはまだ生まれて間もない頃に目にした、兄の記憶だ。
「これでやっとわかった。神よ、あなたの沈黙は私の内なる声を気づかせるためだったのですか」

ジャンヌの中で何かが変わる。
牢からジャンヌを逃がそうとするケヴィンに、彼女は静かに首をふる。
「助けに来てくれてありがとう。でも私は行けない」
「私の使命のために死んでいった多くのものたちを、私は忘れるわけにはいかない」

そして、ジャンヌは自らの意思で火刑台におもむく。
「神よ、もうなぜ私だったのかとは問いません。私は私の道を知った」
「願わくば、このフランスの大地に穏やかな日々を。この地に平和を。そのためにこの魂を捧げます」



ここで、第一幕で感じたわずかな声の平板さが、「私はただ声に従っただけ」というジャンヌの言葉とリンクして、再びひとつの示唆を与えてくれます。
それは、「神の使い」というポジションがキリスト教の物語によってジャンヌに与えられていたひとつの役割にすぎなかった、という示唆です。第一幕の「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、神(キリスト教)から与えられた物語だった。その物語の中で、ジャンヌはその与えられた神の使いという役割を演じていました。それは強い物語ではありますが、ジャンヌ自身の物語ではありません。
言い換えれば、このときジャンヌはみずからの生を生きていなかったのです。

そして第二幕、神の声が聞こえなくなったジャンヌは、その強い物語の失われた場所でなんとか与えられた使命を果たそうともがき苦しんで、強要されてとはいえ、一度「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を否定するところまで行きます。

そこに幻影の少年が現れて、ジャンヌは自分の内なる声に気づくのです。
幻影の少年は、幼き日のシャルル7世、ジャンヌの兄の姿であることに。
その幻影の少年こそが自分の内なる声であった、ということに。
神の声に従ってフランスを救おうとした神の使いとしての戦いは、内なる声が求めた大切な兄を救うためのジャンヌ自身の戦いでもあった、ということに。

「私はただ声に従っただけ、それなのになぜ――」
そう言って一度は捨てた「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を、彼女は「私の使命のために死んでいった多くのものたちを忘れるわけにはいかない」と再び拾い上げます。
しかし、もとのまま「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語として拾うのではありません。
神の声と同質であった幻影の少年、彼が自分の内なる声だと気づいたそのときから、「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、もうひとつ「人間ジャンヌ・ダルク」の物語という新たな側面を持ち始めていました。
そして、ジャンヌはここで、その与えられただけだった「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を、自らの意志で、重い覚悟のもとで彼女自身の「ジャンヌ・ダルク」の物語として拾いなおすのです。
ジャンヌ・ダルク、ラ・ピュセル愛しい乙女、彼女自身の物語として自ら引き受けるのです。

彼女自身の生を、彼女自身の物語を生きるために。

そして、それが彼女が死を選ぶ理由でもあります。

「私の使命のために死んでいったたくさんのものたちを忘れるわけにはいかない」
そう言って、ジャンヌ・ダルクは火刑台に向かう。
しかし、ジャンヌは自分のせいで死んでいったものたちに償うために死を選ぶのではない。
「神の使いジャンヌ・ダルク」として殉教するために死を選ぶのでもない。
火刑を受け入れるという覚悟は、すでに宗教を超えている。

「神よ、もうなぜ私だったのかとは問いません。私は私の道を知った」とジャンヌは言う。
ジャンヌは自分自身の物語を生きるために、死ぬことを選ぶのだ。
ここでは火刑で死ぬことと、彼女自身の生を生きることが重なっている。
死ぬことと生きることがピタリと重なる、そういう場所がここにある。

これが、僕が泣いた理由です。

ジャンヌが時代の荒波に翻弄されながらも、自分自身の物語を生きるに至ったその奇跡を僕は心から祝福したい、おめでとうと言ってこの胸に抱きしめたい。
でも、ラ・ピュセル愛しい乙女の凄惨な死は、深い悲しみで僕の胸を強く締め付ける。

この深い悲しみと、祝福したいという思いは、分けて語ることのできないひとつの感情として、僕の中にありました。
だから上の二文は厳密な意味では間違いです。
表現すべき言葉がないからこそ僕は泣いたのかもしれない。
表現すべき言葉がないという事実は、それが既存の物語の外側を志向している、あるいは外側にある、ということを意味します。
そして、既存の物語の外側を志向するものを、僕は文学と呼ぶ。
とても気持ちのいい涙でした。



だめだ、また涙が出そうです(笑)

舞台はもう少しだけ続きますが、僕が今語るべきはここまでのようです。
続きはDVDを観てのお楽しみということにしておきましょう。

とてもいい舞台でした。


ここからは(ここまでも?)勝手な憶測になりますが、
第一幕のジャンヌ・ダルクの声のどこか平板な感じは(それが、キリスト教世界と私たちの間に物語の境があることを、そして「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語が与えられた物語であることを教えてくれるのですが)、それ自体は彼女の演技力の未熟さによるものだったのではないかと僕は考えています(間違っていたら本当にごめんなさい、でもそこまで意図した演技だったらすごすぎませんか?)

だからおそらく、僕が上に長々と書いたジャンヌ・ダルクは今この時期の堀北真希さんだけが演じることのできたジャンヌ・ダルクなんだと思います。
もし彼女に今以上の演技力があったら、僕たちはきっとキリスト教の物語・「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語に引き込まれてしまって、同じ舞台をただの奇跡と悲劇の物語として観てしまっていたことでしょう。
逆に、彼女に今ほどの演技力がなかったなら、僕がこれほどまでにジャンヌ・ダルクの舞台に魅了され、わけもわからず涙を流してその理由に頭を抱えることもなかったでしょう。
危ないところでした。
初舞台でいきなり主役と知ったときは驚きましたが、今はそのことをなにかの奇跡のように感じています。



堀北真希さんとジャンヌ・ダルクが今この時に出会ってくれたことに感謝を。

そのジャンヌ・ダルクの舞台と僕が出会えたことに感謝を。

そして、この地に平和が、みなさんによき物語があらんことを。

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