*以下の文章は、中島かずき脚本、堀北真希主演のジャンヌ・ダルクの内容に触れています。公演自体は終了しましたが、DVD発売の予定があるようです。先入観なくDVDを見たいという方は閲覧をご遠慮ください。
いやー、よかったです!ジャンヌダルク、ほんとによかった。
堀北真希さんのかわいらしさに釣られるつもりで観にいったのですが、逆に予想外の大魚を得ることができて、嬉しいかぎりです。
じつは劇の最後で、本当に泣いてしまいました。
気持ちのいい涙でした。
でも、正直なところ、僕自身にも自分がいったい何に感動していたのかが、うまくつかめませんでした。
ジャンヌダルクの人生の最後は悲劇そのものですから、涙を誘う要素はいくつもあります。
でも、そういうマイナスの感情で涙を流したわけではないのです。
じゃあ、なんだろう?
こういうとき、僕は一生懸命考えることにしています。
なぜ自分は感動しているのか?自分は何に感動する人間なのか?
僕にとって、それはとても重要なことです。
自分が何に感動するかを知ることは、自分がどういう価値観の中に、どういう物語の中にいるかを知る助けになるからです。
相対化を拒み、僕を避けがたく捕らえる物語。それは僕自身の物語でもあるはずだ。
ですから、劇を見終わって帰りの電車に揺られながら、お風呂のぬるま湯につかりながら、仕事中に同僚と上の空で話しながら、暇さえあればそのことについて考えていました。
それをここに書きたいと思います。きっとこういうものを感想と呼ぶのでしょう。
パンフレットの中で、原案の佐藤賢一さんは「立ち現れたのは、思いもよらないジャンヌ・ダルクの真実だった。事実ではない。(中略)到達点としての舞台では、どんなジャンヌ・ダルクの真実が立ち上がるのか、それが今は楽しみでならない。」と書いています。
ジャンヌ・ダルク役の堀北真希さんは「だから本当は、自分が見たい気持ちでいっぱいなんですが(笑)、それはできないので、とにかくもう一生懸命に伝えながら、一生懸命お客様の顔を見て、自分の初舞台がどんなものなのか感じ取りたいなと思います。」と書いています。
ここに書くのは、到達点としての舞台で、僕が受け取ったもの、僕の中に結実したジャンヌ・ダルクという物語の真実です。そして、堀北真希さんが一生懸命に伝えてくれた、彼女の初舞台の(僕なりの)本当の姿です。
ジャンヌ・ダルクの舞台は20分の休憩を挟んで第一幕と第二幕にわかれていて、第一幕が「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語、第二幕が「人間ジャンヌ・ダルク」の物語に相当しています。
第一幕
舞台は、フランス国王シャルル7世にひとりの兵士が謁見しようとする場面からはじまる。兵士はジャンヌの最後を見届けた傭兵ケヴィン。彼の報告を恐れるシャルル7世の記憶の彷徨とともに物語はそのはじまり、ジャンヌ・ダルクの故郷ドムレミ村へともどる。
幼いころから神の声を聞いていたジャンヌは、19歳のときイングランド兵に村を襲われたことをきっかけに、神の声に従ってフランスのために戦うことを決意。シャルル7世に謁見し、いくつもの奇跡を重ねて、オルレアンの開放とランスでのシャルル7世の戴冠式を実現する。
「行こう!神は我らと共にある!」「これが神のご意志です!」
そう叫ぶジャンヌの声は、その美しさの上に女性らしからぬ逞しさと凛々しさをまとっています。
兵士たちは彼女の声に、彼女の言葉に鼓舞されて、奇跡の快進撃を続けていくことになる。
しかしその一方で、ジャンヌの声にはどこか平板な響きがあります。
このわずかな平板さが、二つの重要な示唆を私たちに与えてくれるのです。
二つめは後ほど書くことになりますが、ここで与えられる一つめの示唆は、観客と舞台の間にある物語の壁です。
その平板さは、ある端的な事実――私たちがキリスト教の物語の中にいないという事実――とリンクして、観客と「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語との間に一線を画すことになります。
ジャンヌの声は私たちとは異なる物語、キリスト教という強い宗教の物語の中で発せられていて、その物語の中にあってこそ強い力を持つことができるのです。
キリスト教の物語を持たない私たちには、「神の声」や「神の奇跡」といった言葉はどこか陳腐に聞こえ、それを声高に叫ぶジャンヌの純粋さもときに狂信的と映ります。
「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、キリスト教の物語内でこそ本来の力を発揮できる物語ですから、「神の声」や「神の奇跡」なるものは私たちには届かないし、また届いてはいけないのです。
ストーリー上でもジャンヌ・ダルクの神秘的な側面は意図的に抑えられています。
ジャンヌがドムレミ村での敵兵の襲撃を生き延び、イギリスの支配地を抜けてシノン城にたどり着くことができたのは、あらかじめ彼女のために腕利きの傭兵が派遣されていたからでした。
オルレアンの戦闘でジャンヌが敵の一斉射撃を無傷でくぐり抜けられたのは、風の利とやはり傭兵レイモンの密かな助けによるものでした。
ジャンヌが群衆の中からシャルル7世を見分けることができた理由も、ジャンヌとシャルル7世が実は兄妹だったからであることが示唆されています。
奇跡にはトリックがあり、話のところどころでその種明かしがなされているのです。
戴冠式を直前に控えて、変化は唐突に訪れる。
ずっとジャンヌにだけ聞こえていた神の声が聞こえなくなってしまう。
光のもとにあった道が靄に覆われる。
とまどいながら神に祈るジャンヌ。しかし、声はなにも答えない。
不穏な空気のまま戴冠式は執り行われて、前半の幕がおりる。
第二幕 「人間ジャンヌ・ダルク」の物語
神の声(キリスト教の物語)に支えられていた「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、声を失って大きく揺らぐ。
フランスを救うという使命感のもと、ジャンヌはシャルル7世の反対を押し切って、国王の協力を得られぬままパリ奪回に向かうが、兵士の数の少なさに、彼女自身の動揺も重なって、フランス軍は幾たびかの敗戦を喫し、コンピエーニュの戦いでジャンヌはついに敵軍に捕らえられることなる。
神の声の消えた第二幕では、等身大のジャンヌ・ダルクが姿を現します。
彼女は神の声が聞こえないことに戸惑い、ときに怯え、ときに悩みながら、自らの信じる道を進んでいく。
「ジャンヌ、なにをしている?旗を振ってくれ!檄を飛ばしてくれ!」「お前の声で奇跡を起こしてくれ!」
仲間に請われて、ジャンヌは胸に澱む不安を押し殺して再び声高に叫びますが、そこには第一幕に見られたような芯の強さはありません。
と同時に、私たちとジャンヌの世界を隔てていたあの声の平板さも消えています。
声に現れる動揺、不安、疑念、焦燥、そしてそれらを押し込めようとする抗いの意志。
キリスト教の物語を失うことで、ジャンヌの声はかえって生き生きとした感情をおびて、私たちを強く惹きつけるのです。
あのときジャンヌは私たちと同じひとりの人間として、舞台の上に、たしかに生きていました。
正直に言うと、実際に観劇するまで、私はジャンヌ・ダルクのストーリー自体にはあまり期待をしていませんでした。
ジャンヌ・ダルクの話はあまりに有名で、大筋はすでに決まっています。
農民の少女が奇跡のもとにフランスを救うが、最後は凄惨な死をとげる、奇跡と悲劇の物語です。
そして、その奇跡性も悲劇性もキリスト教の物語の中でなければ、十分な力を発揮しないでしょう。
私たちにも理解はできるが、心にまでは響かない。
ではなぜ私は泣いたのか。
あらかた出来上がっていた一枚の織物。そこに一本の新しい白い糸が巧みに織り込まれていました。
ジャンヌにしか見えない幻影の少年。
彼は劇の始まりから何度もジャンヌの傍らに姿を現しては彼女になにかを示唆し、ときに奇跡の一助ともなっていました。
その神秘的な立ち振る舞いやジャンヌにだけ見えているという性質から、私は幻影の少年を「神の声」と同質のなにかだろうと思いながら劇を観ていました。
実際、戴冠式の前日、幻影の少年が姿を消すとともに、神の声は聞こえなくなります。
そして、劇の最後、もう一度だけジャンヌの前に幻影の少年が姿を現すのです。
ブルゴーニュの兵に捕まったジャンヌは、イングランド軍に売り渡され、異端審問にかけられる。
信仰をめぐってコーション司教と互角以上に渡り合うジャンヌだが、熱に冒され、異端のレッテルを貼られ、神の声も聞こえぬまま告解をすることも教会に入ることさえも許されず、1年もの拘束と異端審問で彼女の強固な意志も次第に弱っていく。
「神よ、声を、声を聞かせてください」
「なぜ私だったのですか?」
「なぜ私を選ばれたのですか?」
「私はただ声に従っただけ。それなのになぜそんなに責めるの・・・」
「いやだ、まだ、私は死にたくない」
熱にうなされる中、ジャンヌは心のすべてを吐露するように神に精一杯の呼びかけをするが、声はなにも答えない。
気がつけば、火刑台に縛り付けられて、火刑の中止と告解の許可との引き換えに神の声が偽物だったことを認めるよう迫られている。そして、たいまつの火が火刑台に移ろうとしたその瞬間、ついに心を折る。
「待って、待ってください」「罪を認めます・・・」
火刑は中止されたが、教会の牢へ移して告解をさせるという約束は破られる。
さらにコーション司教が差し向けたイングランド兵に陵辱されそうになるが、間一髪のところを傭兵ケヴィンに助けられる。ケヴィンにすがりつくジャンヌ。
そのとき、ふたたび幻影の少年が現れて、ケヴィンの腰に結わえ付けられた手紙を指さす。
シャルル7世から託されたジャンヌ宛ての手紙だ。
そこには、ケヴィンとともに追っ手の届かぬ田舎に逃げて、今までのことはすべて忘れてもとの羊飼いの娘として平穏に生きてほしい、という兄から妹への想いが書かれていた。しかし、その血縁の事実を知らないジャンヌは、自分が不要になって捨てられたのだと思い、逃げることも忘れて自暴自棄になってしまう。
ジャンヌの深い絶望と、敵兵に見つかるのではという焦燥に挟まれて、ケヴィンは思わず、口外を禁じられた秘密を口にしてしまう。
「陛下があなたを見捨てるはずがない。あの方はあなたの兄上なんだから!」
その一言がジャンヌの心に沁みこむと、彼女の抱えていた謎が静かに解けはじめる。
幻影の少年、それは幼き日の兄シャルル7世の姿だった。
「そう、あのときもこうやって黙って私に花を差し出してくれた」
おそらくはまだ生まれて間もない頃に目にした、兄の記憶だ。
「これでやっとわかった。神よ、あなたの沈黙は私の内なる声を気づかせるためだったのですか」
ジャンヌの中で何かが変わる。
牢からジャンヌを逃がそうとするケヴィンに、彼女は静かに首をふる。
「助けに来てくれてありがとう。でも私は行けない」
「私の使命のために死んでいった多くのものたちを、私は忘れるわけにはいかない」
そして、ジャンヌは自らの意思で火刑台におもむく。
「神よ、もうなぜ私だったのかとは問いません。私は私の道を知った」
「願わくば、このフランスの大地に穏やかな日々を。この地に平和を。そのためにこの魂を捧げます」
ここで、第一幕で感じたわずかな声の平板さが、「私はただ声に従っただけ」というジャンヌの言葉とリンクして、再びひとつの示唆を与えてくれます。
それは、「神の使い」というポジションがキリスト教の物語によってジャンヌに与えられていたひとつの役割にすぎなかった、という示唆です。第一幕の「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、神(キリスト教)から与えられた物語だった。その物語の中で、ジャンヌはその与えられた神の使いという役割を演じていました。それは強い物語ではありますが、ジャンヌ自身の物語ではありません。
言い換えれば、このときジャンヌはみずからの生を生きていなかったのです。
そして第二幕、神の声が聞こえなくなったジャンヌは、その強い物語の失われた場所でなんとか与えられた使命を果たそうともがき苦しんで、強要されてとはいえ、一度「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を否定するところまで行きます。
そこに幻影の少年が現れて、ジャンヌは自分の内なる声に気づくのです。
幻影の少年は、幼き日のシャルル7世、ジャンヌの兄の姿であることに。
その幻影の少年こそが自分の内なる声であった、ということに。
神の声に従ってフランスを救おうとした神の使いとしての戦いは、内なる声が求めた大切な兄を救うためのジャンヌ自身の戦いでもあった、ということに。
「私はただ声に従っただけ、それなのになぜ――」
そう言って一度は捨てた「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を、彼女は「私の使命のために死んでいった多くのものたちを忘れるわけにはいかない」と再び拾い上げます。
しかし、もとのまま「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語として拾うのではありません。
神の声と同質であった幻影の少年、彼が自分の内なる声だと気づいたそのときから、「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語は、もうひとつ「人間ジャンヌ・ダルク」の物語という新たな側面を持ち始めていました。
そして、ジャンヌはここで、その与えられただけだった「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語を、自らの意志で、重い覚悟のもとで彼女自身の「ジャンヌ・ダルク」の物語として拾いなおすのです。
ジャンヌ・ダルク、ラ・ピュセル愛しい乙女、彼女自身の物語として自ら引き受けるのです。
彼女自身の生を、彼女自身の物語を生きるために。
そして、それが彼女が死を選ぶ理由でもあります。
「私の使命のために死んでいったたくさんのものたちを忘れるわけにはいかない」
そう言って、ジャンヌ・ダルクは火刑台に向かう。
しかし、ジャンヌは自分のせいで死んでいったものたちに償うために死を選ぶのではない。
「神の使いジャンヌ・ダルク」として殉教するために死を選ぶのでもない。
火刑を受け入れるという覚悟は、すでに宗教を超えている。
「神よ、もうなぜ私だったのかとは問いません。私は私の道を知った」とジャンヌは言う。
ジャンヌは自分自身の物語を生きるために、死ぬことを選ぶのだ。
ここでは火刑で死ぬことと、彼女自身の生を生きることが重なっている。
死ぬことと生きることがピタリと重なる、そういう場所がここにある。
これが、僕が泣いた理由です。
ジャンヌが時代の荒波に翻弄されながらも、自分自身の物語を生きるに至ったその奇跡を僕は心から祝福したい、おめでとうと言ってこの胸に抱きしめたい。
でも、ラ・ピュセル愛しい乙女の凄惨な死は、深い悲しみで僕の胸を強く締め付ける。
この深い悲しみと、祝福したいという思いは、分けて語ることのできないひとつの感情として、僕の中にありました。
だから上の二文は厳密な意味では間違いです。
表現すべき言葉がないからこそ僕は泣いたのかもしれない。
表現すべき言葉がないという事実は、それが既存の物語の外側を志向している、あるいは外側にある、ということを意味します。
そして、既存の物語の外側を志向するものを、僕は文学と呼ぶ。
とても気持ちのいい涙でした。
だめだ、また涙が出そうです(笑)
舞台はもう少しだけ続きますが、僕が今語るべきはここまでのようです。
続きはDVDを観てのお楽しみということにしておきましょう。
とてもいい舞台でした。
ここからは(ここまでも?)勝手な憶測になりますが、
第一幕のジャンヌ・ダルクの声のどこか平板な感じは(それが、キリスト教世界と私たちの間に物語の境があることを、そして「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語が与えられた物語であることを教えてくれるのですが)、それ自体は彼女の演技力の未熟さによるものだったのではないかと僕は考えています(間違っていたら本当にごめんなさい、でもそこまで意図した演技だったらすごすぎませんか?)
だからおそらく、僕が上に長々と書いたジャンヌ・ダルクは今この時期の堀北真希さんだけが演じることのできたジャンヌ・ダルクなんだと思います。
もし彼女に今以上の演技力があったら、僕たちはきっとキリスト教の物語・「神の使いジャンヌ・ダルク」の物語に引き込まれてしまって、同じ舞台をただの奇跡と悲劇の物語として観てしまっていたことでしょう。
逆に、彼女に今ほどの演技力がなかったなら、僕がこれほどまでにジャンヌ・ダルクの舞台に魅了され、わけもわからず涙を流してその理由に頭を抱えることもなかったでしょう。
危ないところでした。
初舞台でいきなり主役と知ったときは驚きましたが、今はそのことをなにかの奇跡のように感じています。
堀北真希さんとジャンヌ・ダルクが今この時に出会ってくれたことに感謝を。
そのジャンヌ・ダルクの舞台と僕が出会えたことに感謝を。
そして、この地に平和が、みなさんによき物語があらんことを。
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