しかし第二次世界大戦の激化により観光客が減少。1944年5月10日に(旧)西武鉄道狭山線東村山―狭山公園間は不要不急の路線に指定され休止となり、線路も撤去されてしまった。山口線(初代)も不要不急の路線として同年2月28日に休止している。
終戦後の1945年9月22日に武蔵野鉄道は(旧)西武鉄道を吸収合併し、西武農業鉄道に社名を変更した。翌1946年には現在の西武鉄道に改称。これにより多摩湖線は西武鉄道の路線となった。村山線も線路を敷設し、1948年4月1日に運行を再開。その際に狭山公園駅を二代目村山貯水池駅に改称した。
「村山線」復活の狙い
同じ西武鉄道となったなか、村山線を復活させたのは観光客輸送のほかにも目的があったからだ。実は1947年に西武鉄道がこの周辺に広大な土地を購入し、総合娯楽施設「東村山文化園」を建設するための資材と人員の輸送を村山線が担うことになったのだ。
そして、1950年1月25日に東村山文化園が開園。同年5月22日には村山競輪場(現・西武園競輪場)が開設された。競輪場の開設に合わせ、西武鉄道は村山線に野口信号場を新設し、5月23日に野口信号場―西武園間が開業した。なお、このときの西武園駅は臨時駅であった。
しかし、西武鉄道は東村山文化園構想の推進と競輪場輸送を優先させる方針に転換し、1951年3月1日には野口信号場―村山貯水池駅間を廃止して、村山貯水池駅を西武園駅に統合。これにより、村山貯水池を巡る駅名が消滅した。1952年3月25日に路線名を西武園線に変更し、村山線の歴史も幕を下ろした。
これで、かつてのライバル路線は目的を分けて存続することになった。東村山文化園は1951年9月16日に西武園に改称され、村山競輪場も1954年5月に西武園競輪場に改称している。
なお、1951年9月1日には多摩湖線狭山公園前駅を多摩湖駅(初代)に改称した。また、休止していた山口線(初代)は1951年10月7日に営業運転を再開。その際に路線名を狭山線に変更し、村山駅は西所沢側に300m移設して駅名も狭山湖駅に改称した。狭山湖駅は1979年3月25日に西武球場前駅に改称されて現在に至っている。