Vol.247 怒っていいとも、若者よ
新型コロナ関連死は、高齢者が占める割合が非常に高く、70歳以上が80%以上、80歳以上が60%以上を占め、平均年齢は第4波の東京のデータでは82.2歳ですが、おそらくオミクロン株以降さらに高くなっているはずで、ほぼ日本人の平均寿命と同等と考えてよいでしょう。つまり新型コロナで亡くなった人は、「寿命が来た」と言える人が多いのです。このような言い方をすると、高齢者差別と批判されるでしょうが、高齢者から死んでいく社会のほうが健全あることは間違いありません。本来、死はすべての人に訪れる身近なものでしたが、戦後の経済成長による食糧事情の改善や医療の進歩により、遠く離れた忌み嫌うものになりました。高齢者でも、人が死ぬのは、何か間違ったことが起こっていると勘違いされることが少なくありません。死は生と対立するものではなく、生の最後の一部であり、死をもって生が完結するのです。
今回のコロナ騒動でも、行動制限により身体機能や認知機能が低下し、それにより寝たきりになったり寿命を縮めた高齢者もいるでしょうが、一番の被害者は小さな子供を含む若者世代だと思います。コロナ騒動で自殺者は増加に転じ、2020年は前年に比べて約4.5%増加しましたが、小中高校生は31%も増えています。これは1974年の調査開始以来、最多です。半ば強制されたマスク生活が3年目になり、小児では言葉の発達や表情を読む力が遅れ、コミュニケーション能力の低下も危惧されています。小学生が、外出時にマスクを忘れたと不安になってしまうという話を友人から聞きました。今どきの従順な生徒は、マスク着用に反抗さえできないのではと心配しています。高温多湿の季節に子供たちがマスクをすることに抵抗しないほうが異常です。
昨年の出生者数は84万人台ですが、1947−49年には年間260万人以上3年間合計で800万人以上にもなり「団塊の世代」と呼ばれています。この世代は数による影響力が強く、高度経済成長時代には資本主義の弊害を正すために暴力的な学生運動も起こしました。時代を変えると燃え上がった炎は急速に衰え社会に順応し、その後の経済成長の恩恵を十分に受け、今や後期高齢者になろうとしています。私はその一世代下で、熱の冷めた「シラケ世代」と呼ばれましたが、団塊の世代同様に経済成長の恩恵を受けています。我々以上の世代は年金も保障され、投票数が多いので政治家への影響力を持ち続けています。
その一方、若者は豊かな時代に生まれましたが、衰退していく日本社会の中で希望を見出すことができないように見えます。おとなしく現状を受け入れる若者は、このままでは高齢者の露払いや他国の奴隷となってしまうのでと思うのは取り越し苦労でしょうか。団塊の世代のような暴力的活動は論外ですが、新しい時代を切り開くのは若者です。その意味で、成人年齢や選挙権が18歳に引き下げられたことは評価します。責任も要求されますが、社会を変える力を得やすくなります。問題は若者の人数の少なさです。若者は一人二票の権利があってもよいと思いますが、それは無理でしょう。とすると、やはり高齢者が若者のための政策を推し進める政治家に投票するしかありません。さんざん恩恵を受けてきた高齢者が、自分のためにではなく、若者のことを考える政治家に投票することが、30年後の日本をよくするのです。若者が選挙に出ることも選択肢ですが、泡沫候補の乱立を防ぐためか、日本は世界的に供託金が突出して高いのでそう簡単ではありません。二世議員や多数の国民に迎合する政策を掲げる政党の言いなりになる人しか候補者になれません。さらに、小選挙区制では投票したい候補者がいないことが常態化しています。若者はもっと怒っていいのです。「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山修司の戯曲がありますが、手始めに「マスクを捨てよ、町に出よう」と言いたい気持ちです。