新庄徳洲会病院

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掲載日付:2022.05.19

Vol.247 怒っていいとも、若者よ

 新型コロナ関連死は、高齢者が占める割合が非常に高く、70歳以上が80%以上、80歳以上が60%以上を占め、平均年齢は第4波の東京のデータでは82.2歳ですが、おそらくオミクロン株以降さらに高くなっているはずで、ほぼ日本人の平均寿命と同等と考えてよいでしょう。つまり新型コロナで亡くなった人は、「寿命が来た」と言える人が多いのです。このような言い方をすると、高齢者差別と批判されるでしょうが、高齢者から死んでいく社会のほうが健全あることは間違いありません。本来、死はすべての人に訪れる身近なものでしたが、戦後の経済成長による食糧事情の改善や医療の進歩により、遠く離れた忌み嫌うものになりました。高齢者でも、人が死ぬのは、何か間違ったことが起こっていると勘違いされることが少なくありません。死は生と対立するものではなく、生の最後の一部であり、死をもって生が完結するのです。

 今回のコロナ騒動でも、行動制限により身体機能や認知機能が低下し、それにより寝たきりになったり寿命を縮めた高齢者もいるでしょうが、一番の被害者は小さな子供を含む若者世代だと思います。コロナ騒動で自殺者は増加に転じ、2020年は前年に比べて約4.5%増加しましたが、小中高校生は31%も増えています。これは1974年の調査開始以来、最多です。半ば強制されたマスク生活が3年目になり、小児では言葉の発達や表情を読む力が遅れ、コミュニケーション能力の低下も危惧されています。小学生が、外出時にマスクを忘れたと不安になってしまうという話を友人から聞きました。今どきの従順な生徒は、マスク着用に反抗さえできないのではと心配しています。高温多湿の季節に子供たちがマスクをすることに抵抗しないほうが異常です。

 昨年の出生者数は84万人台ですが、1947−49年には年間260万人以上3年間合計で800万人以上にもなり「団塊の世代」と呼ばれています。この世代は数による影響力が強く、高度経済成長時代には資本主義の弊害を正すために暴力的な学生運動も起こしました。時代を変えると燃え上がった炎は急速に衰え社会に順応し、その後の経済成長の恩恵を十分に受け、今や後期高齢者になろうとしています。私はその一世代下で、熱の冷めた「シラケ世代」と呼ばれましたが、団塊の世代同様に経済成長の恩恵を受けています。我々以上の世代は年金も保障され、投票数が多いので政治家への影響力を持ち続けています。

 その一方、若者は豊かな時代に生まれましたが、衰退していく日本社会の中で希望を見出すことができないように見えます。おとなしく現状を受け入れる若者は、このままでは高齢者の露払いや他国の奴隷となってしまうのでと思うのは取り越し苦労でしょうか。団塊の世代のような暴力的活動は論外ですが、新しい時代を切り開くのは若者です。その意味で、成人年齢や選挙権が18歳に引き下げられたことは評価します。責任も要求されますが、社会を変える力を得やすくなります。問題は若者の人数の少なさです。若者は一人二票の権利があってもよいと思いますが、それは無理でしょう。とすると、やはり高齢者が若者のための政策を推し進める政治家に投票するしかありません。さんざん恩恵を受けてきた高齢者が、自分のためにではなく、若者のことを考える政治家に投票することが、30年後の日本をよくするのです。若者が選挙に出ることも選択肢ですが、泡沫候補の乱立を防ぐためか、日本は世界的に供託金が突出して高いのでそう簡単ではありません。二世議員や多数の国民に迎合する政策を掲げる政党の言いなりになる人しか候補者になれません。さらに、小選挙区制では投票したい候補者がいないことが常態化しています。若者はもっと怒っていいのです。「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山修司の戯曲がありますが、手始めに「マスクを捨てよ、町に出よう」と言いたい気持ちです。

掲載日付:2022.05.09

Vol.246 引き算で考えるコロナ対策

 韓国の新型コロナの陽性者数は直近で3倍以上、死者に至っては6倍以上であるにも関わらず、日本よりも厳しかった新型コロナ対策(K防疫)を大きく転換し、飲食店での規制は4月18日で撤廃、5月25日からは季節性インフルエンザ以下の扱いにする予定です。高齢化率が韓国の約2倍なので、被害は我が国のほうが大きくなると予想していました。実際に死者数は今年の3月までは上回っていましたが、その後一気に逆転しました。K防疫は過剰だと思いますが、今回の変わり身の速さは、その善し悪しは別として、日本では考えられないものです。聞く能力は高い割に決断力は高くない我々の首相は、内閣支持率が下がらないと政策が変わらないかもしれませんが、効果を冷静に評価して不要なものを止めるという発想の転換が必要だと思います。

 まず、2類感染症並みの扱いから季節性インフルエンザと同様の扱いにして、保健所による患者の管理・濃厚接触者の追跡・無症状者の検査・医療現場での過剰な感染対策は止めたほうがよいと思います。医療現場でのPCR検査は廃止し、流行の程度や変異株の調査もインフルエンザと同じやり方で十分です。感染が拡大したらどうするという声があるでしょうが、被害が大きくなれば軌道修正すればよいのです。悲惨な結果を招く危険性が少ないことは2年以上の経験でわかったはずです。正解のない問題には微調整しながら向き合っていくしかありません。

 次に変えるのはお金の使い方です。2020年1年間のコロナ関連支出は約77兆円以上です。東日本大震災では10年間で33兆円程度なので、驚異的な大盤振る舞いであったことがわかります。補助金や給付金は大幅に縮小させて、新型コロナ関連の医療費自己負担分も通常通りにするほうがよいと思います。経済活動を活発にするためには、飲食店の営業や国民の移動を制限せず、減税するほうが効果があるのではないでしょうか。お金を配るよりも取る分を減らすほうが手間が省け、介在する民間業者の利権も生じません。私は経済にはド素人ですが、税金の中でも低所得者に最も利益を生むのは消費税だと思います。消費に対する罰金がなくなれば、消費は活性化するので、緊急事態にはゼロにすることはもちろんマイナスにすることも考えてよいのではないでしょうか。例えばマイナス5%であれば、100円のものを95円で買えるのです。消費税減税を口にする政治家は少なくなり、参院選後には増税もあるかもしれません。医療費に関しては、原則として月額約10万円以上の医療費は負担しなくてもよいという世界に例のない高額医療の補償制度があります。ワクチンもインフルエンザと同様に、高齢者に一部補助すれば十分です。

 お金を配るには時間とコストが掛かります。本当に必要なときには、ケチらずに速やかに届けるべきです。迅速に配るには対象を絞りやすくする制度が必要ですが、マイナンバーが銀行口座と紐付けられていない現状では困難です。これは個人情報保護を優先してきた国民にも責任があります。配る対象を絞るには膨大な手間がかかるので、民間業者に委託するため、今回も多くの利益を得た人がいます。これは医療業界にも言えることで、休床保障を始めとする給付金で医療機関は大いに潤いました。数年分の利益を短期間で得た病院もあります。国全体で年間数百億円という慢性の赤字体質だった公立病院群は、令和2年度には千億以上の黒字になりました。個人でも、ワクチンのアルバイトで通常のサラリーマンの月給を2〜3日で稼いだ医者もいるそうです。このような事実が医療への不信感を増大させ、国民を不幸にするのではと危惧します。無駄かもしれないものを止めることは、難しいことではありません。医療界が医療の本来の姿を思い出し、国民が多少の混乱と悲劇を受け入れる覚悟を持つことです。コロナウイルスを終息させることはできませんが、コロナ騒動を収束させることは難しくない段階に入りました。

掲載日付:2022.04.22

Vol.245 同調圧力という名の強制力

 快晴の休日に桜満開の霞城公園を訪れた際に、見かけた数百人中の99%以上がマスクを着用していました。「マスク着用のお願い」の看板もあるので当然かもしれませんが、山形市民は真面目すぎる気がします。今の季節には、花粉症以外の人が屋外でマクスをつける必要はほとんどないと思います。2年前には欧米の厳しい検査体制を見習えという声が大きかったのに、今はマスクなしの生活をしている欧米を真似ようという意見はほとんどありません。

 ある作家が日本人の国民性を、「動き出すのは遅いが、いったん動き出すと止まらない」と評していました。これまで自粛と人流抑制と感染の囲い込みのために多くの試みがなされてきました。少し有効なものはあったかもしれませんが、結局今回の感染症は人智の及ばないものだったような気がします。あるノーベル賞受賞者は「人類はこれまでウイルスとの戦いに勝利してきたのだから、今回も勝利できる」と発言していましたが、今回も共存するしかなかったのではないでしょうか。無症状者が90%以上の上海で、ゼロコロナを目指して信じられないような厳しいロックダウンをしている国は例外としても、ウイルスとの戦争に勝利することやゼロコロナを目指すことが無意味であることに、多くの人は同意するようになったのではないでしょうか。

 声高に叫んでいた専門家やメディアは、これまで講じてきた対策の利益と不利益を比較して、今後はどうすべきなのかを議論すべきです。利益がないものはもちろん、あったとしても不利益のほうが上回りそうなものは、とりあえず止めてみてはどうでしょうか。手始めとして最適なのは、子供や若者が感染予防のために運動中のマスクを禁止することです。ところが先日山梨県知事は記者会見で、感染拡大を防ぐために運動中もマスクを着用するように要請していました。オミクロン変異した新型コロナは、重症化率や死亡率は季節性インフルエンザと同等と考えてよいレベルになりました。しかも、若年者にとっては明らかにインフルエンザ以下の被害しか出ていません。このような状況で運動中の子供にマスクを強いるのは、正気の沙汰とは思えません。文部省でさえ運動時には酸素欠乏になる危険性があるので着用すべきでないと指導しています。次には、すべての国民に対して原則として屋外でマスクを着用する必要がないことを告知すべきです。さらには、空気感染を国も認めたのだから、換気を妨害するアクリル板やビニールカーテンも害に勝る益はないでしょう。アルコール消毒でさえ、医療従事者以外は必要性は低いと思います。

 我が国の政策はほとんど命令ではなく要請で、欧米の民主主義国と比べても法的な強制力はありません。その代わりに、同調圧力という名の武器によって、国民の行動をコントロールしてきました。本来は各自が考えて、マスクは着けるべき時につければよいのですが、同調圧力に弱い国民性が邪魔をするのであれば、首相や分科会の会長が「このようなとき以外はつけなくてもよいです」と言うしかなさそうです。ところが政治家は次の選挙が、首相は内閣支持率が一番気になるので、それを損なう可能性があることは決断できないようです。「沈没船のジョーク」にも我々の国民性は取り上げられています。沈没しかかった豪華客船で、乗客の数だけ脱出ボートがないときに、船長が各国の人に海に飛び込ませるために放った言葉で国民性を表すジョークです。それによると、アメリカ人には「飛び込めばヒーローになれますよ」、イタリア人には「海で美女が泳いでいますよ」、イギリス人には「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」、ドイツ人には「規則ですので海に飛び込んでください」、そして我らが日本人には「みんなもう飛び込みましたよ」、というものです。


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