東京五輪公式映画が間もなく封切られる河瀬直美氏。キャリアの絶頂を極めるまでには、役者を精神的に追い詰める演出や、スタッフを部品のように切り捨てる一面も。自らを卑弥呼になぞらえる映画界の女帝の足跡を辿る。
▶「人を部品のように」カンヌ受賞作主演が3時間語った
▶女性スタッフを深夜のNYに締め出し「帰ってくるな」
▶仕出しスタッフに一目惚れして主演抜擢、破局後に“追放”
▶ヒロインに“イジメ演出”「徹底的に無視」「点滴5回」
▶「黒澤明、大島渚の次の世代が私」“世界のカワセ”と豪語
「私にしか撮れない物を求めて頂いている。その役割を全うしようと思いました」
「未来永劫語り継がれるべき作品だという評価で今回、カンヌに招待されました」
5月23日、東京都内で行われた東京五輪公式記録映画の完成披露試写会。舞台挨拶に立った総監督の河瀬直美(52)は、誇らしげな表情でそう語った。
アスリートを描いた「SIDE:A」と非アスリートを描いた「SIDE:B」に分かれる同作。前者がカンヌ国際映画祭のクラシック部門に選出され、25日に上映されるのだ。
「実は告白すると、まだBができていません(笑)」
そう語った河瀬は舞台挨拶を終えたその足で、深紅のカーペットが待つカンヌへ深夜便で発った。
五輪公式映画のメガホンをとり、2025年大阪・関西万博のプロデューサーにも就任するなど、日本を代表する監督となった河瀬。それが彼女のSIDE:Aだとすると、表には出ないSIDE:Bがある。
河瀬が代表を務め、映画制作の中心を担う“河瀬組”のスタッフが所属する事務所「組画(くみえ)」。その事務所関係者が明かす。
「河瀬さんは事務所の中で、職員の男性に暴行を加えたことがあるのです。職員はそのまま辞めました」
複数の関係者の証言によると、経緯は次の通りだ。
15年10月下旬の夕刻近く、近鉄奈良駅に近い雑居ビル2階のオフィス。河瀬は神妙な面持ちで男性職員Aさんの到着を待っていた。Aさんが部屋に足を踏み入れた瞬間、河瀬は彼に向かって真っすぐ歩いてゆく。そして固く拳を握り、いきなり顔面を殴りつけたのだ。
Aさんはその場に崩れ落ちた。なおも河瀬は暴行をやめようとしない。男性はなだめながら逃げ回るが、河瀬はオフィスの中を執拗に追いかけ続けた――。
「居合わせた数人の職員は恐怖のあまり、別のフロアに逃げ出しました。しばらくして戻ると、抵抗せずに一方的に殴られたAさんの顔は腫れ上がっていたそうです」(同前)
Aさんは荷物をまとめオフィスを去ると、2度と戻ることはなかった。
なぜ暴行に及んだのか。
「Aさんが退職を申し出ていたのです。彼は英語が堪能で、通訳として海外メディアの対応や出張に同行していた。その優秀な人物が自分のもとを離れることに、所有欲を刺激されたのでは。Aさんの私的な過去まで持ち出し、怒りをぶつけたようです」(同前)
Aさんに話を聞くと、「河瀬さんに殴られたのは事実です」と認めたが、「過去のことで、公に語るような内容ではありません」と口を閉ざした。
小誌は今年4月28日発売号で「朝が来る」(20年)の撮影現場での河瀬の暴行を報じている。カメラを回していた河瀬は、後ろから撮影助手に触れられたことに激怒し、助手を蹴り上げた。その後、撮影監督がチームごと降板した。
河瀬は小誌の取材に「3年前に既に、当事者間、および河瀬組内において解決をしていることです」と回答。報道後は「防御として、アシスタントの足元に自らの足で抵抗しました」と組画の公式サイトで反論した。
河瀬はこれまで、世界的な名声を獲得する一方、役者やスタッフに対し、こうした攻撃性や冷淡さを見せることがあった。
NGの理由は「なんとなく」
河瀬は1969年生まれ。出生後すぐに養子に出され、奈良市の大伯母らのもとで育つ。奈良市立一条高校ではバスケ部に所属し、国体に出るほどの体育会系少女だった。専門学校で映画に目覚め、ドキュメンタリー作品を撮り始める。
一躍、脚光を浴びたのは97年、27歳の時。初の商業作品「萌(もえ)の朱雀(すざく)」が、カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を史上最年少で受賞したのだ。
「萌の朱雀」は奈良・吉野を舞台に、過疎地での鉄道計画を巡る家族模様を描く。同作で河瀬は、地元の中学生だった尾野真千子に学校の下駄箱で出会い、スカウトして主演に抜擢した。
同作で中心的な役割を果たしたスタッフが語る。
「河瀬はまったくの新人だった。大御所の男性スタッフたちに頬を寄せて質問したかと思うと、撮影がうまくいかないとわんわん泣いて宿舎に帰った。それでも作品が成り立ったのは、周りの力が大きかったのです」
当時から演出スタイルも独特だったという。
「理屈より自分の感性が最優先。役者やスタッフに、どんな演技をどんな意図で撮影するのかなど、事細かに説明しない」(同前)
NGも連発し、理由を問われると「なんとなくじゃダメですか?」とあっけらかん。ある時は、大ベテランの撮影監督に「カメラをちょっと覗かせてください」と言って、そのまま「よーいスタート!」と勝手に撮り始めてしまった。
素人同然の役者で固めた同作で、キャリアのある俳優は國村隼だけだった。その國村に河瀬は「とにかく、ただ歩いてください」「座ってください」など大味な指示を繰り返した。さすがの國村も「あの人の言うことはさっぱりわからない」と周囲にこぼし、「制作陣は夜通し酒を飲みながらなだめたんです」(同前)。
國村に経緯を問うと、事務所担当者がこう回答した。
「監督はドキュメンタリー映画しか経験はなく、台本によって俳優と共に撮影するのは初めてでした。結果的には想像を超える混乱もあり、誰もいない時に河瀬さんに監督としてやってはいけないことがあると話をして、理解を得てから撮影することもありました。國村にとっては初主演の作品でもあり、しかもカンヌでの新人監督での受賞でしたから、何とも言えない感慨は今も残っています」
撮影後もトラブルが勃発。
「編集段階でも河瀬はスタッフの提案を『わからへん』と突っぱねるので、こっそりと制作陣が再編集したんです」(前出・スタッフ)
25分ほど短縮され、時系列も入れ替えられた完成版を初めて試写で見た河瀬は「こんなの、私の作品じゃない!」と怒った。
だがカンヌで新人監督賞を受賞すると態度が一変。
「ニュース番組に出演し、『すべて私の意図に基づく演出です』という趣旨を堂々と語っていた。大胆さに驚きました」(同前)
この受賞を機に監督としてのキャリアを本格的に歩み始めた河瀬は、07年、代表作となる「殯(もがり)の森」を発表。カンヌで最高賞に次ぐグランプリに輝いた。
介護を巡る心の交流を描いた同作は、介護士役に尾野真千子を起用。さらに奈良市内で古書店を営んでいた、演技経験のない宇多滋樹を主演に抜擢した。宇多は認知症の男性役で、その演技は高い評価を受けた。
現在、宇多は古書店をたたみ、奈良を離れて沖縄の小島に移住していた。75歳になった彼のもとを訪ね、河瀬との日々を聞いた。
出会いは01年ごろ。地元のストリップ劇場を舞台にした河瀬の映画「火垂」が公開され、宇多も感銘を受けていた。そんな折、行きつけの飲み屋で、河瀬にばったり会ったという。
「僕から声をかけたんです。当時は出版社で働きながら古書店を営み、さらに地元のミニコミ誌も作っていた。『何か手伝えることがあれば』と伝えると、後日、電話で『宣伝に力を貸してください』と。快諾してポスター貼りやチラシ配りをしたのが始まりでした」
「殯の森」への出演は当初、脇役だと思って引き受けたが、途中で「実は主役です」と明かされた。
当時、河瀬は“役積み”と呼ぶ自身の演出手法を確立しつつあった。俳優に撮影外でも役通りの生活をさせ、「即興の奇跡的な表情」をドキュメンタリーのように撮影するためだという。
「撮影はきつかったですよ。河瀬さんは役者を追い詰めて、這い上がるのを待つ。尾野さんに対しては徹底的に無視していた。彼女は撮影中、下痢をしてみるみる痩せていきました。どうしていいのかわからなくなり、河瀬さんに抱きついて泣くこともあった」(宇多)
河瀬も小誌の「阿川対談」(07年10月11日号)で、こんなやり取りをしている。
河瀬 夫との別れのシーンを撮るまでは彼女を無視してたんです。
阿川 それって、イジメ?
河瀬 うん、イジメ(笑)。
宇多にも容赦なかった。
「山を登るシーンを撮るために、全速力で登って下ってというのを6回も7回もやらされた。しかも『もう1回』とアゴで指示するもんだから、もう腹が立って」
最終的に、宇多は這うように山を登りながら「死んじまえ!」と叫んでいた。
森の中でのフィナーレの場面では、尾野も宇多も感極まって号泣。そこに河瀬の大声が飛んできたという。
「メソメソ泣くな! メロドラマちゃうねんで! この映画はー!」「もうフィルムないねん! 次できんかったら映画できんわ!」
ただ、作品を完成させた充実感や、カンヌで栄誉に輝いた喜びもあった宇多は、その後も裏方として熱心に河瀬を支援した。
「自宅をスタッフの拠点に使ってもらい、出版社の仕事も辞めた。周りには『うだじい』と呼ばれ、家族のような濃い関係だった」
しかし、宇多の知人は回想する。
「河瀬さんは自分より2回りも年上の宇多さんを、どこか小ばかにしていた。河瀬さんが仕切る『なら国際映画祭』で宇多さんは実行委員でしたが、世界各国から寄せられる応募作品を大量に下見させられていた」
英語の字幕もなく、言葉がわからない映画まで果てしなくチェックしなくてはならず、宇多は「大変だ」とぼやいていたという。
「加えて河瀬さんの息子の子守りまでさせられ、傍目にはこき使われているように見えました」(同前)
やがて宇多の中に、河瀬への疑問が芽生えていく。
私生活では河瀬は「萌の朱雀」のプロデューサーと97年に結婚したが、約3年で離婚。その後NHKのディレクターと再婚し、長男をもうけた後、その夫とも離婚した。宇多が続ける。
「2人目の夫は仕事場にも出入りしていましたが、河瀬さんは放り出すようにして関係を終わらせた。子どもにも会わせないようにしてね。彼は精神的に参ってしまい、仕事も手につかなくなっていた。なんでこんなことができるんだ、河瀬さんは、人に対する愛情がないのかなと感じた」
そして14年に、決定的な出来事が起きた。
「なら国際映画祭の関連で、上映イベントの司会進行を僕がすることになった。阪神・淡路大震災を題材にした2番目の夫の作品で、僕が推薦したんです」
だが、開催を控えた年末、スタッフの集まる飲み会の席で、河瀬は企画を批判。こう言い放ったという。
「あの司会を宇多さんがやるのは駄目だと思う」「宇多さんはふさわしくない」
お礼と謝罪ができない人
宇多は限界を迎えた。
「なんでみんなの前で、そんなこと言われなきゃいけないんだ。この発言は一体なんなんだろうって。僕の中で何かが弾けてしまった」
河瀬から心が離れ、手紙で別れの意志を伝えると、あっけなく了承された。10年以上尽くしたが、慰留も挨拶もなかったという。
以降、2人は絶縁状態となっている。3時間に及んだ取材の最後、宇多はこうつぶやいた。
「彼女は『ありがとう』と『すみません』が言えない。お礼と謝罪が出来ない人なんですよ……」
この宇多や尾野に限らず、河瀬は素人を抜擢するキャスティングを好む。奈良の映画関係者が明かす。
「10年ごろ、撮影現場に仕出しをしていた年下の男性スタッフに河瀬が“一目惚れ”。人目をはばからず『この子かわいいでしょ!』と頭に抱き着いていました。仕舞いには次作の主演に据えてしまったのです」
河瀬は奈良市内に男性を店主にした飲食店まで開店させ、支援していた。
「ところが男性に他の女性の影を感じ取った河瀬は激怒。男性と破局すると、店を強制的に閉めさせ、奈良から“追放”したんです。彼は俳優の道も諦めた。不憫でしたね」(同前)
この男性とは「朱花の月」(11年)で主演を務めた小水とうた(50)である。現在は都内で飲食店を営む小水に話を聞いた。
「河瀬監督とはもう交流もありません。終わったことなので」
――交際していましたか?
「それはまぁ……、皆さんがお察しの通りね」
――河瀬の演出手法は。
「役者を精神的に追い込む。元々ドキュメンタリーの人だから、瞬間瞬間で大事な映像が撮れてなかったら『なにしとんねん』って怒ります。でも彼女からしたら、役者やスタッフとは上下関係じゃなくて、“共犯関係”と言ってましたね」
――河瀬自身はどんな人か。
「あの人は本物の人たらしだから(笑)。何か大きなことを立ち上げる時に、協力者を誘引する力がある」
さらにこんな見解も。
「撮影前に雨が降りそうでも、監督が『晴れる!』って言うと実際に晴れる。月を撮ろうとすれば、雲がすうーっと引く。なんか巫女さんのような存在で……」
実際、奈良の明日香村を舞台にした同作の撮影当時、河瀬は周囲に「卑弥呼になりたい」と語っていたという。11年、カンヌでの記者会見でもこう述べている。
「飛鳥地方には大昔に卑弥呼がいて、卑弥呼みたいな私がいたらいいなと思い、物語を苦労して紡いだ」
古代の女王に自身を重ねる河瀬は、尾野だけでなく、数々のヒロインを厳しく指導してきた。
〈私が選ぶポイントは、精神的に追い込まれたときに逃げない子〉(文藝春秋20年11月号)
「朱花の月」では大島葉子に毎日、自転車で山道を1時間かけて登らせ、〈ヒロインの女性をだいぶ泣かせてしまって、彼女、逃げるように現場を去っていきました(笑)〉(週刊朝日11年9月9日号)と振り返っている。大島自身も「食事が喉を通らなかったほどで、点滴を5回受けた」と後に明かした。
視覚障害者をテーマにした「光」(17年)で音声ガイド役を演じた女優・水崎綾女に対しては、最初の1週間、台本なしで演じさせた。撮影スタッフが言う。
「水崎さんにだけ度を越したリテイクを繰り返し、監督が求める演技ができないと、土下座をさせて謝罪させることもあったのです」
水崎は同作の完成披露試写会で「撮影中も割と一人ぼっちというか……孤独なことが多かった」と声を震わせた。他方、河瀬は撮影終了後、周囲に「あの子と一緒にいるだけでストレス」「あの子が行く舞台挨拶には行きたくない」と言い放ったという。
水崎の事務所に問うと、「お話は差し控えさせていただきます」と回答した。
年を経るごとに知名度や存在感を高めていく河瀬。その一方で、周囲から次々と人が離れ始める。それは“河瀬組”も例外ではない。
暴行を受けたAさんの後任として加わった新卒の20代女性Bさんにも、河瀬はたびたび「仕事が遅い」としかりつけていた。
16年の初夏、米ニューヨーク出張にBさんが同行した際のこと。河瀬はある夜、私服をBさんに渡し、こう要求したという。
「朝までにクリーニングしてくれる店を探しなさい。見つかるまで、ホテルには帰ってくるな」
Bさんは深夜の街を明け方まで駆け回り、シャッターの降りた店を一軒一軒訪ねて、ようやく対応してくれる店を見つけ出した。
「若い女性を夜のNYに一人で締め出したのです。一歩間違えば命の危険もあった」(別の事務所関係者)
「スピルバーグと喧嘩したわ」
Bさんもほどなく退職した。小誌はBさんに電話やLINEを通じて事実関係を尋ねたが、締め切りまでに返答はなかった。
相次ぐ側近たちの離反。河瀬は怒りを露わにすることもあれば、別のケースでは引き留めもせず、目もあわさずに「お疲れ」と送り出した。自分を支える人々をないがしろにしてでも、彼女が求め続けてきたものとは何だったのか。
07年6月、「殯の森」がカンヌでグランプリを受賞した後の帰国会見で、河瀬はこう語った。
「黒澤明、大島渚の次の世代が私だと確信しています。将来、私がパルム・ドール(最高賞)を受賞する可能性は十分ある」
いつしか自分で自分のことを“世界のカワセ”と豪語するようにもなっていた。スタッフにはレストランの予約から備品の購入まで、「河瀬直美の名前を出せばどうにでもなるやろ?」と求めたという。
13年にはカンヌ国際映画祭の長編コンペティション部門の審査員に就いた。
「この年の審査委員長はスティーブン・スピルバーグ監督でした。河瀬さんは『あの時はスピルバーグと喧嘩したわ』と選考を巡る論争を自慢げに語っていたそうです」(映画ライター)
河瀬に事務所を通し、暴行の事実や演出手法について詳細に質問したが、締め切りまでに回答はなかった。
今年3月、女優への性加害など、映画業界内でハラスメントが告発されていることを受け、是枝裕和や西川美和ら映画監督有志6人が声明を発表。そこではこう述べられている。
「映画監督は個々の能力や性格に関わらず、他者を演出するという性質上、そこには潜在的な暴力性を孕み、強い権力を背景にした加害を容易に可能にする立場にあることを強く自覚しなくてはなりません」
「暴力性を常に意識し、俳優やスタッフに対し最大限の配慮をし、抑制しなくてはならず、その地位を濫用し、他者を不当にコントロールすべきではありません」
この声明に河瀬の名はなかった。
前出の宇多は、ため息まじりに話す。
「有名になればなるほど、河瀬さんと仕事をしたい人は増えていくが、彼女にとって彼らは『部品』のようなもので、なんぼでも替えがあると思っているんじゃないかな。だから彼女のもとから次々と人が去る。映画ってのは、監督ひとりで作るものじゃない。きっと彼女も分かっているんだろうけど、構っていられないのかもしれませんね。彼女の映画の作り方は、その映画を『頂点』にするために、ただただ磨いていくというもの。それだけを目指しているのですから……」
日本映画界の“女帝”となった河瀬。何かを進言できる者はもういない。
(文中一部敬称略)
source : 週刊文春 2022年6月2日号