「全く事実と違います」。先週号の“セクハラ報道”に対し、議運の場でそう述べた細田博之議長。だが、小誌に届いたのは、三権の長に対する女性記者たちからの相次ぐ告発だった。そして、細田氏の発言を覆す物証が――。
▶女性記者たちの告発「2人きりで会いたい」「愛してる」
▶党女性職員が周囲に嘆いた「お尻を触られた」
▶最も狙われた女性記者が漏らした「文春はほぼ正しい」
▶カードゲーム仲間人妻の告白「抱きしめたいと言われ…」
〈全くの事実無根であり、強く抗議します〉
5月23日午後2時過ぎ、編集部にFAXで届いた一通の「通知書」。送り主は、細田博之衆院議長(78)の事務所である。
小誌は5月19日発売の先週号で、細田氏のセクハラ疑惑を報道。取材に「セクハラ発言みたいなのはあった」と答えたA記者とのやり取りや、深夜に細田氏から「今から来ないか?」と電話を受け、実際に自宅に行ったB記者の証言などを取り上げたのだ。
国会担当記者の解説。
「5月10日に『議長になっても毎月もらう歳費は100万円しかない』などと発言し、批判を浴びた矢先の報道でした。野党は文春の発売日、細田氏に対して事実関係の説明を要求した。山口俊一衆院議院運営委員長は翌20日の議運委理事会で、細田氏が『事実と全く違うので厳重に抗議したい』と述べたと説明しました」
その3日後、編集部に届いたのが、「事実無根」を主張する通知書だった。だが、衆院議長という国権の最高機関のトップに就く人物だけに、その言葉は極めて重い。細田氏とは一体、どんな政治家なのか。本当にセクハラ疑惑は「事実無根」なのか――。
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細田氏は1944年、島根県松江市に生まれた。運輸相などを歴任した吉蔵氏を父に持ち、筑波大学附属駒場中高に進学。東大法学部を経て、67年、旧通産省に入省したサラブレッドだ。同期入省で、元経済企画庁経済企画審議官の井出亜夫氏が語る。
「入省直後から日米貿易に携わる部署で、石油公団のワシントン事務所長も務めた。現地の情報を伝えるのが主な役割で、日米関係の核心を担う仕事でした。退官後に吉蔵氏の秘書になった時には、多くの議員が『吉蔵は早く博之に地盤を譲れ』と言っていたそうです。それほど彼は優秀でした」
約4年間、父の秘書を務めた細田氏。安倍晋三元首相の父・晋太郎氏から「その気があるならやれ」と背中を押されて出馬を決めたという。90年2月の衆院選で初当選を果たした。以降、当選11回を数える。
「選挙制度に精通し、“選挙博士”の異名を持ちます。ただ、衆院の定数『十増十減』に反対するなど“地方の味方”のように振る舞っていますが、経歴からして基本的に東京のエリートそのもの。選挙前以外、本人が島根に戻ってくることはほぼありません。旧通産省出身だけあって、原発賛成派でカジノ推進派としても知られている。大企業との関係を密にしており、政治資金収入も年1億円前後あります」(県連関係者)
私生活では、妻との間に一男一女を儲けた。細田氏とは40年来の付き合いで、外交ブレーンなどを務めた国際関係学研究所の天川由記子所長が明かす。
家賃30万円のマンションに
「初出馬以来、奥様は島根の自宅に住み続け、細田先生は赤坂の議員宿舎に住んでいました。子供たちは東京で社会人になったそうですが、政治の世界とは無縁です。ただ、英語が堪能な長女を溺愛していて、一時期は『通訳にして世界中を連れて歩きたい』と語っていました」
02年に小泉政権で沖縄北方相として初入閣し、04年に官房長官に就任。この間、細田氏は議員宿舎から港区にある高級賃貸マンションに転居した。約63平米の1LDKで、賃料は約30万円。元々は議員宿舎を建て替える際、一時転居先として国が借り上げたマンションだった。細田氏は新宿舎が07年に完成した後も、住み続けている。
「10年ほど前に、体調を崩した奥様が世田谷の一軒家に引っ越し、子供たちと一緒に暮らすようになりました。他方、細田さんは港区のマンションと世田谷の一軒家を行ったり来たりするような生活になった。官房長官時代に米政府要人と共に港区のマンションを訪ねたことがありますが、本や書類が山積みで座る場所がなかったほどです」(同前)
だが、このマンションこそ、細田氏が女性記者たちを「うちに来て」と呼んできた場所なのだ。先週号で証言したB記者が言う。
「細田さんは『事実無根』と言っていましたが、それは事実無根です。夜遅くに『うちに来て』と電話があり、私は港区の自宅マンションまで足を運びました。本人が寝間着姿で現れたことをよく覚えています」
港区のマンションを借りるようになってから、女性記者へのセクハラめいた言動は加速していく。当時、細田氏のアプローチを受けたC記者も訴える。
「初めて細田氏を取材した直後、知らない番号から着信があり、『細田です。今度食事に行きましょう』と誘われました。以降、深夜1時や2時でも『ご飯食べに行きましょう♥♥』『また会いたいです♥♥』『イタリアンでも食べに行きましょう』といった絵文字を多用するメールが送られてくるようになった。『他に誰か声かけましょうか?』と尋ねても、『2人きりで会いたい♥♥』と返事があって……。何度か断ると一旦メールは止むのですが、自民党本部で出くわすと、すぐメールが来る。遠くでも姿が見えたら逃げるようにしていました」
08年発足の麻生政権で幹事長に就任したが、一方で男性記者には冷淡な態度を取り続けていた。官房長官時代から長く担当を務めた男性記者が振り返る。
「懇談の場で、女性記者に『独身なの? 彼氏はいるの?』と聞くのは日常茶飯事。私の後輩は、ジーッと見つめられるのを気持ち悪がって細田氏への取材を避けていた。一方で、官僚出身で偏差値が高いのは確かですが、男性記者の前では相手を見下すような物言いが常だった。よく『マスコミはゴミ。何も生み出さない』と言っていました」
そんな細田氏が誘っていたのは、女性記者だけではない。彼の趣味はトランプのカードゲーム「コントラクトブリッジ」。この趣味を通じて知り合った人妻にも声を掛けていたのだ。
「横で添い寝するだけだから」
「細田氏は、公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟の代表理事も務めています。以前『総理になりたいですか?』と尋ねた時は、『嫌だよ、絶対。ブリッジが自由にできなくなる』と答えていたほどハマっている。今年3月にもSPを連れて、大会に出場していました」(連盟理事)
公益社団法人でトップに座る細田氏。だが彼にとって“紳士淑女のゲーム”と言われるブリッジは、出会いの場だったのか。かつて写真誌「フラッシュ」(08年11月18日号)でもペアを組む既婚女性との親密ぶりが報じられたが、ブリッジ仲間の既婚女性・D子さんが小誌に告白する。
「細田さんが官房長官だった頃です。ブリッジの会場で携帯番号を教えると、その日の夜9時頃に、電話がかかってきました。『これからうちにいらっしゃいませんか? 美味しいものを用意しました』と。もちろん断りましたが、その後も何度も誘われた。誘い文句は常に『これからいらっしゃいませんか? タクシー代は払いますから』。10回は断りましたが、一度『家で何するんですか?』と聞くと、『あなたを抱きしめたい』と言われました……。本当に気持ち悪かった。手あたり次第に声をかけていたようで、『D子さんも誘われたんですか』と連盟の理事が呆れていたほどです」
これらは、今から10年以上前の出来事だ。だが以降、セクハラ問題に対する社会の意識が高まっていく。アメリカで「#MeToo」運動が始まったのは、17年秋のこと。日本でも18年4月、当時の福田淳一財務次官が女性記者に懇談の場で「抱きしめていい?」などと発言したことが問題視され、辞任している。
しかし、そうした流れの中でも細田氏の女性への言動は変わらなかった。自民党関係者が声を潜める。
「安倍政権時代の17年11月、73歳になった細田氏は党憲法改正推進本部の本部長に就任します。同時に最大派閥・清和会の会長も務めていました。この頃、細田氏の振る舞いに辟易していたのが、党女性職員のE子さんです」
彼女は周囲にこう漏らしていた。
「挨拶代わりにお尻を触られるなんて日常茶飯事。“今日もよろしく”と言って触ってくるんです……」
E子さんの言葉通りなら、細田氏は“身体接触”にも及んでいたことになる。前出の自民党関係者が続ける。
「党の女性職員の間では、細田氏と仕事をすることは“外れクジ中の外れクジ”と言われていました」
E子さんに話を聞いた。
――セクハラを受けた?
「何もお答えすることができないので。党本部を通して下さい」
自民党本部に尋ねると、「お尻を触った」ことの事実確認には応じず、次のように回答した。
「党の職員は、個別取材は受けておりません」
女性記者へのセクハラと受け止められかねない言動も相変わらずだった。20年3月以降、日本列島を襲った新型コロナウイルスの感染拡大。それでも、細田氏は“濃厚接触”を女性記者に求めようとしていた。
例えば、感染者数が急増し、1都3県を対象に緊急事態宣言が出されていた昨年1月のこと。細田氏はF記者との懇談で以下のように迫っている。
「いつでもいいから、うちに来てね。何もしないでいいから。横で添い寝するだけだから」
清和会を担当していた男性記者が言う。
「『添い寝したら教えてあげる』というのは、細田氏の“常套句”として有名だった。他社の女性記者も言われていたようです」
そして――。
議員生活30年を超えた細田氏が衆院議長の座に上り詰めたのは、昨年11月のことだった。閣僚と同様、港区のマンション前には警察官が常駐するポリスボックスが設置されるようになる。
ある日の夜、細田氏は大手マスコミの女性、G記者と懇談の場を持っていた。時の政局について記者の質問に応じるなどしていたが、会話はそれだけに留まらない。娘以上に年の離れた彼女に対し、こう求めたのだった。
「警察が立っているし、大丈夫だから。うちに来て」
これは、決して「事実無根」の情報ではない。G記者が細田氏の言動を記録した「電子データ」に残されている発言なのだ。
「彼女も、細田氏とやり取りすることに嫌気が差しているといいます。だからこそ、被害を記録として残していたのでしょう」(G記者を知る政治部デスク)
最も狙われた記者に聞くと…
小誌に対し、続々と届く“#Me Too”の声。中でも多数の記者が「最も狙われている」と口を揃えるのが、女性のH記者だ。
「Hさんは以前から、細田氏の寵愛を受けてきました。今から5年ほど前、彼女と夜7時頃から食事をしていると、携帯に細田さんから着信が入っていた。2時間で3、4回かかってきたから、仕方なく出ると、『自宅に来いよ』と迫られていました」(永田町関係者)
H記者を知る政治部記者も、彼女がこう嘆いていたのを耳にしている。
「細田さんから『肩を揉ませてよ』『膝枕してよ』と言われたんです。夜中に電話で、『僕の部屋でプラネタリウムを見よう』と誘われることもありました……」
今年2月1日、細田氏の妻が都内の病院で亡くなった。細田氏は「声もかけられないくらい意気消沈していた」(清和会関係者)という。H記者ら女性記者に連絡を取ったのは、それから間もないことだ。
「愛してるよ」
細田氏は、彼女たちにそんな言葉をかけている。
ただ、H記者は一人の女性記者として、国会議員のセクハラ発言に強い問題意識も持っていた。
「彼女はかつて『女性記者は多かれ少なかれ経験している。被害が出た時に担当を外せば解決する問題ではない』と話していました。実際、文春が先週報じたセクハラ疑惑についても『文春はしっかり取材している。記事の内容はほぼ正しい』などと周囲に語っていた。後輩の女性記者には、同じような目に遭ってもらいたくないという想いも持っているようです」(H記者を知る別の政治部記者)
事実確認のため、H記者に電話で話を聞いた。
――セクハラはあった?
「ここで、あったか無かったかと言うとまた……」
――細田氏は「事実無根」と言っている。セクハラが事実なら問題だ。
「それについては即答できる状況にないんです。お話し頂いていることはごもっともかなと思いますが、考える時間も必要なので、またご連絡させて下さい」
翌日、H記者から電話があったが、苦しい胸中を明かすようにこう語った。
「やはり今、お答えできることはありません……」
細田事務所に事実関係について尋ねたが、期日までに回答は得られなかった。
細田氏の言動について、小誌に「セクハラ記録」を提供した一人が訴える。
「大手マスコミは、自社の女性記者が細田氏から受けたセクハラ発言を把握しているはずです。ただ、彼女たちはオフレコ取材が前提なので、同僚に迷惑がかかるのでは、とも悩んでいる。自ら名乗り出ることは容易ではありません。上層部としても“貴重な情報源”である細田氏を守りたいから、『あったこと』をなかなか報じられずにいます」
問題は、国権の最高機関で嘘が罷(まか)り通るか否か、である。細田氏からセクハラ発言を受けた女性記者たち。大手マスコミは彼女らを守ることなく、永田町の論理でそれらを無かったことにするのか。沈黙を守ったままでは、セクハラの“隠蔽”に加担することになる。
source : 週刊文春 2022年6月2日号