志村けんと音楽の密接な関係 ハードロックからソウルフリークになったきっかけとは?

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 志村といえば、若い頃に音楽誌「JAM」 でアルバムレビューを担当していたことも有名である。中村とうよう、加藤和彦、近田春夫といった手だれらと共に執筆メンバーに名を連ねた志村。彼が主に担当していたのはブラックミュージックだ。志村が書く文章はいたって真面目で、音楽への 造詣の深さはレビューを読めば一目瞭然。彼の嗜好がハードロックからソウル系に移っていったきっかけは以下である。

「当時、新宿にディスコのはしりみたいなものがあって、行ってみたんですよ。そこでは生バンドが入っていて、黒人4人が演奏していてね。それが結構ショックだった。最初のステージは1コードでずっと演ってるんですよ。始めにドラマーが出て来てずーっとリズムを刻んでいてね、10分ぐらいすると、今度はベースが登場して……(笑)。で、ギター、キーボードの順で出てくるという……。ステージも飾りっ気がないし、自分達だけで楽しんでるんですよ(笑)。1コードで演ってるだけなのに、凄くカッコ良かったね……。一つのリズムでずっと演ってることに陶酔しちゃってね。そのとき、“ソウルって凄いな!”と。その前からオーティス・レディングなんかは知ってたけど、よく聴くようになったのはその頃からかな」(『虹色の音詞』より)

「東村山音頭」のヒットで自信を深めた志村は、77年に自ら作曲・アレンジを施した「ディスコばあちゃん」を合唱コーナーでスタートさせた。以降、「ヒゲダンス」などの音楽ネタにブラック系ソウルフリークだった志村の趣味が反映されるようになる。


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