駿河座は家康が駿府に移った慶長12年(1607年)以後にできた。
駿河座は4座(江戸座、京座、駿河座、製造地不明(江戸座近傍))で最も新しい座である。慶長小判前期駿河座が作られた。
日本銀行貨幣博物館所蔵の八両大判はここで紹介する慶長小判と同じ「光次」書体で裏面花押の上の袋の中にシークレットマークのポッチがない。この八両大判は後藤庄三郎光次が制作したと考えられる。
山崎庄三郎が後藤徳乗、長乗の名代として江戸に下る時、後藤徳乗、栄乗、長乗に以下のような証文を渡している。
証文には「此度従太閤様判金座・小判座次替之役儀被為仰付処、貴公様御病気付為与御名代、私義関東罷下申付、後藤家之御猶子被成下其上後藤之御仮名被下置儀、難有奉存事」とある。ここでは庄三郎が後藤徳乗、長乗の名代として江戸へ小判、一分金を製造しに行くにあたって、後藤宗家から後藤の苗字、「光次」の名を一代に限り使用許可してもらったことに対して礼を述べている。
また、「大判後藤判与書申義堅仕申間敷事」とあるように「後藤光次」の名で大判の制作をしないことを誓約している。
「右之御恩毎年黄金三枚宛私子々至迄永代無相違差上可申事」とあるように、これらの権限付与に対する礼として子々孫々毎年黄金3枚を後藤宗家に送ることを誓約し、「若相背申、御名代之役義何時成共一切御取上可被成下者也」とあるようにもしこれに背けば、全ての権限を失い、その権限で得た利益を後藤宗家に渡す旨誓約している。(参照「日本の貨幣」小葉田淳著P104~105)
このような状況で、後藤宗家の大判制作の権限を侵害する八両大判を表立って作成するとは思えない。京座は京の後藤家屋敷を使っていたので、ここで八両大判を制作していたとは考えにくい。
後藤庄三郎光次は江戸座か駿河座にしか常駐していない。よって八両大判は江戸座か駿河座で極秘裏に制作されたのであろう。
日本銀行貨幣博物館所蔵の八両大判は「光次」の書体的に江戸座ではありえないので、ここで紹介する小判、八両大判を駿河座と認定した。
元禄以前に書かれた「銀座初り之次第諸事定書」によれば慶長17年(1612年)に駿府銀座は江戸に移ったようである。駿府金座についてはわからないが、ここでは1612年になくなったとしておく。
※前期額一分金打ち直し品慶長一分判金、前期慶長一分判金の「一」と玉はつながっていない(以後離れ星と呼ぶ)
「四、□源、江、◇源、大、〇源、宇、二、突(左側にさんずい)、安」ほかにもあるが現在対応する漢字がないので、それらについては紹介は控えておきたい。
慶長小判前期京座タイプD-2と慶長小判前期駿河座の区別は一見難しいが、以下のポイントで行っている。
「裏面花押の上の袋の中にシークレットマークのポッチがないものは、「一両」の「両」の第五画、第七画が上に筒抜けていない。」
「裏面花押の上の袋の中にシークレットマークのポッチが1個あるものは、「一両」の「両」の第五画、第七画が上に筒抜けている。」
つまり、逆に言えばこの2種類の小判は別々の場所で作られたものであることがわかる。どちらかが前期京座でどちらかが前期駿河座である。実際このように分類すると小判師が2座でほぼ分かれている。
(1)により、シークレットマークのポッチが無いほうが前期駿河座である。
・裏面花押が花2型。
・「光次」の「次」が横にめいいっぱい広がっている。
・後述する八両大判と似た「光次」極印が打ってあるため、古銭界では「八両大判型」と呼ばれている。
・慶長小判前期駿河座タイプA-1は花2型から花3型に変化する境界になる小判である。
前期江戸座で言えば慶長小判前期江戸座タイプF-1がそれにあたる。よって、慶長小判前期江戸座タイプF-1は1607年ころ製造されたと思われる。
前期京座で言えば慶長小判前期京座タイプD-1がそれにあたる。よって、慶長小判前期京座タイプD-1は1607年ころ製造されたと思われる。
・裏面花押が花3型。
・「光次」の「次」が横にめいいっぱい広がっている。
・後述する八両大判と似た「光次」極印が打ってあるため、古銭界では「八両大判型」と呼ばれている。
・元禄大判を吹きなおした際の記録に「八両大判を160枚鋳潰した」とある。実際、墨書きではない極印式の大判が発見されている(日本銀行貨幣博物館所蔵)。
この大判の重量は、丁度慶長小判8枚分の重量を持つ。「光次」の極印は慶長小判前期駿河座タイプAに非常によく似たものを使用している。
又、裏面花押は花3型を使用しているので慶長小判前期駿河座タイプA-2と同じ時代、つまり1608年ころに駿河座で製造されたと思われる。
・小判師の名前が駿河座特有の「江」というもの。
・裏面花押が花3型。
・おもて面の上部の星の数が通常より多い。最初期の慶長一分判金
・連星は製造難度が高いため、5つ星に変更された。以後の前期慶長一分判金スタンダードタイプ。