京座は4座(江戸座、京座、駿河座、製造地不明(江戸座近傍))で2番目に作られた座である。慶長小判前期京座が作られた。
京座のトップは後藤長乗である。後藤庄三郎光次が後藤長乗に小判、一分判金の製造に関しての指示の手紙をたびたび送っている。
残っている手紙は1609年からのものであるが、おそらくこれ以前から京座小判、一分判金が製造されていたのであろう。
京都、大阪、堺は豊臣時代から金屋、銀屋が発達していたので、彼らが製造した判金に後藤光次の名代が検定極印を打ったと思われる。
※武蔵墨書小判、慶長小判試鋳江戸座、前期江戸座を見ると約1年で1回のペースでおもて面「光次」極印が変更されたと思われる。
後述するように、慶長小判前期京座タイプD-1は1607年に製造されたことを考えると、額一分金打ち直し慶長一分判金連星京座タイプC、
額一分金打ち直し慶長一分判金京座タイプC、慶長一分判金連星京座タイプC、慶長一分判金京座タイプCは1606年に製造されたと推定される。
つまり最初期の額一分金打ち直し慶長一分判金、慶長一分判金は1606年に製造されたと推定される。
同様に考えて最後の額一分金である額一分金京座タイプBは1605年に製造されたと推定される。
※前期額一分金打ち直し品慶長一分判金、前期慶長一分判金の「一」と玉はつながっていない(以後離れ星と呼ぶ)
「カ、清、九、忠、も、宗、久、天、う、六、やく、兵、平、氏、田、や、八、安、四」ほかにもあるが現在対応する漢字がないので、それらについては紹介は控えておきたい。
金屋、銀屋が発達していただけあって、小判師の数も4座の中でダントツに多い。
慶長大判には一ツ極印「田」の打たれたものがある。このころの慶長大判は京都で製造されたものであり、ここで紹介する慶長小判にも「田」の小判師が打たれた慶長小判がある。
又、中期慶長小判京座には「田、兵、九」という金座人が打たれたものがある。これらの事実はここで紹介する慶長小判が京座である傍証となる。
慶長小判前期京座タイプD-2と慶長小判前期駿河座の区別は一見難しいが、以下のポイントで行っている。
「裏面花押の上の袋の中にシークレットマークのポッチがないものは、「一両」の「両」の第五画、第七画が上に筒抜けていない。」
「裏面花押の上の袋の中にシークレットマークのポッチが1個あるものは、「一両」の「両」の第五画、第七画が上に筒抜けている。」
つまり、逆に言えばこの2種類の小判は別々の場所で作られたものであることがわかる。どちらかが前期京座でどちらかが前期駿河座である。実際このように分類すると小判師が2座でほぼ分かれている。
(2)により、シークレットマークのポッチが1個あるほうが前期京座である可能性が高い。また、確定している前期駿河座、前期江戸座以外であるので消去法的に京座になる。
・タイプA、タイプB、タイプCは全く同じ裏面花押を打たれており、BとCは全く同じ一両極印を打たれている。
よってABCもしくはBCAという順に製造されたことは明らかである。書体的にはABCという順になる。
・裏面花押が花2型でタイプB、Cと同じ
・「一両」極印がタイプB、Cは同じでAだけ違う。
・「光次」の書体からCより古いタイプである。つまりABCという順で製造された。
・裏面花押が花2型でタイプA、Cと同じ
・「一両」極印がCタイプと同じ
・額一分金はこの時期に製造中止になっている。額一分金は江戸座と京座で同時に製造中止になったと思われる。
よって額一分金が製造中止になった時期の慶長小判前期江戸座タイプEと慶長小判前期京座タイプBはほぼ同時期に作られたと思われる。